少し前、新聞に紹介されていた「死ぬのが怖い」とはどういうことか-という本1500円を、ネットで500円で手に入れた。
生物学的に死を語る。生きていくことは監獄で死を待つ事と同じではないかと作者は疑問を投げかけるところから始まる。脳科学的、進化生物学などから考える。「死ぬこと」は「進化」のための必然であるということ。死後の世界を科学的に説明できるか。宗教と哲学と科学的見地から死を考えるのだ。
この本に出会ってから気持ちが少し楽になり、殿が最後の入院の時、わたしも付き添わなくてはならい時に、かばんに入れて行った。殿が静かに眠っているときに、少しずつ読み進めていった。
終末期患者の気持ち。衝撃と否認、怒り、取引、抑鬱、受容という段階を経る。殿は最後まで家にいた。そして、最後まで怒らず、騒がず、希望すら持っていた。でも、いよいよの時を知るに違いない時、わたしはどうすればいいのか最善を尽くしたいと思った。
気持ちを楽にさせてあげたい。残された者の悲しみを知らせず、とにかく「ずっとそばにいるから」「後の心配はしないように」と、思った。最後まで笑わせてあげよう。1秒たりとも離れずにいると言うと、にっこり笑う。最後まで意識があるようだった。もちろん、意識は波のようにぼんやりとしたり、少しはっきりしたりする感じではあった。
殿と暮らして死を遠ざけてきた。目先の幸せに焦点を当てて、死の問題を考えないようにしていた。しかし、ここで避けられないことをやっと悟った。
本書の中で「今自分が生きていると思っているこの自分の心は実は幻想だ」というところがあった。殿に、語った。不思議だが気持ちが落ち着いてきて、「不思議やね。脳の錯覚やって。怖いことないみたいよ。」分かるか、分からないか、うすぼんやりしている殿に話しかけていたが、本当は自分に納得させていたような気もする。
反応がない殿に構わず、独り言のように「人生はあぶく銭やって。生まれる前は何もなかった・・」その後、宇宙と生命の歴史のくだりを見て、笑えてきた。そして、笑いながら泣けてきた。
殿は寝ていたので、話をやめてぼっとしていたら、殿が急に「わかりました!」と、大きい声で答えたのでびっくりした。おかしい・・笑えるぅ。わたしは、最後に殿の言葉をひとつ残らず書き留めていた。大切な何かを言い残してはいないだろうかと。
今考えると、大切な言葉などないんだと思う。日常は、なんでもない会話がつながって日常だ。大きな秘密を抱えていない限り、臨終近くに言い残すことなどない。いつも、ありがとうと言ってくれて、すまんなあと言ってくれていた。今更、何の言葉もいらない。黙っていても、そばにいるだけでいいのに。
心の拠り所である何かは宗教でも科学でもいい、とにかく、今ここの、この時間しか生きられないのだから、今ここで泣くか笑うか。最後まで読み終わらない間に殿は逝った。