まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

連休の予定

2015-05-03 | 暮らし

連休の予定なし。とはいえ、弟家族が帰ってきたので、実家へ顔を出し、ついでに夕食をご馳走になった。

姪っ子と手巻きずしの材料を調達しに行き、普段は父と母だけの小さなテーブルに、最大4人掛けに無理やり6人座って、手巻きの材料や寿司飯は、てんやわんや状態で、海苔は何かの上に乗り、スライスチーズは立ち上がり、誰の好みか大量の甘海老があり、鯛の吸い物は、どれが誰のか分からない。蕗の煮物や、わらびの酢の物が届かない。

筍の刺身は遠過ぎる。楽しすぎる。家族が多いのはいいことだ。母と姪2名と弟夫婦に、混ぜてもらって、わたしは母や父のもの真似を披露する。

ぎゃははは・・と、フリーを呑んでいるのに酔ったようになっていた。こういうのってまるで朝ドラの、のりだよね。朝ドラは石川弁満載や。と、名古屋勢に説明する。おまけに、日曜の夜は「天皇の料理番」が、あって福井弁やぞぉ。と、真似する。

何でもない会話が楽しい。何でもない会話で生きている気がする。


吾唯足知

2015-05-03 | 暮らし

2355の番組で紹介された歌の中で、京都の龍安寺のつくばいの口を中心に、時計回りで「吾唯足知」と、いうのがあった。

殿は、常々その石を欲しがっていた。それを欲しがることは、その言葉に反するのではないかと少し突っ込みたかったが、確かに「吾、ただ足るを知る」は、うまく出来ているなあと思えた。その、意味するところも、ないものを数えず、あるものを喜びなさいというのは、ほんの少し前までそうだなあと、満たされているときは受け入れることができた。

しかし、上記の意味では、今のわたしには喜びを見いだせない。最愛の伴侶を亡くした喪失感は、どんな物も目に入らない。大きな穴からすべてが落ちてしまった気がする。あるものも見えなくて、わたしには何もないという喪失感だ。この顛末に納得のいく答えなどないと思う。

ところが、「弓道」5月号が届いたので4月号を全く見ていないことに気付いて開くと、閑話弓題に「残された物を最大限に生かせ」と、広島県の会長が書かれた文章があって、日本パラリンピアンズ会長の講演の中での言葉が紹介されていた。「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ。」意味は似ているが違う。

ここで、少し目が覚めた。少しずつ残されたものに目を向け、それを受け入れる力をつけなくては。わたしの周りの物を生き返らせなくては。

まず、腹ごしらえから。吾ただ喰を知る。ちょい違うか。