来週、殿の一周忌をする。一年があっという間にすんだ気がする。死を受け入れるのに長い時間かかると思う。殿が亡くなった後に、ちょうどTVで「100分で名著」で、「荘子」を紹介していた。そのメモを見ながらもう一度おさらいしていた。
荘子は、妻の死に対し、死も生も無限の変化の一部とし、悲しみを続けないとした。四季のめぐりと同じで、受け入れて冬の暮らしをする。受け身こそ最強の主体性といい、天がそう為(な)さるので、そうするしかないということが、為合(仕合せ)という。
「不測に立ちて 無有(むう)に遊ぶ」ということの意味は、先のことを予測せずに、今を遊ぶ。未来を憂えない。予測しない。ビジョンを描かないということ。心の病は未来を憂うところからおこる。
いろいろなことに惑わされず、今を遊ぶというのが出来たらいいなあと思う。ビジョンを描かなくてはならない世の中で、この考えを貫くのは難しいだろうか。会社では「3年計画」「5年計画」というのが常にあった。営利を追求するときは、常に羽ばたき飛ぶのをやめると落ちてしまうので、企業戦士は病んでしまう。
企業戦士でもないわたしは、先の「不測に立ちて 無有に遊ぶ」ということができるような気がしたが、ところがどっこいちゃんちゃんこらやっと。
ちょい、お茶でも飲もうか。雪の残っている庭を見て。「一人遊びのできる子に」というが、「一人遊びのできる大人に」も必要。