日本人と弓道、「弓と禅」と、言えばドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルは有名だ。
この本は世界中に翻訳されているのだそうだ。
この本を海外で有名にしたのは、アップルのスティーブ・ジョブスだったのかもしれない。禅に興味を持ち「弓と禅」の愛読者であったという。
日本でも、弓道関係以外の方も読んでいるだろうが、日本人が禅を読んでいても騒がれない。と、いうか日本の有名な方が、これを読んでいますというのはあまり取り上げられないのかも。弓道仲間が読んでいると、あ、わたしも読んだよ・・と、いうくらいで、これが外国人で有名な人だと「へぇーー」と、なるのだろう。それは、さておき。
宗教と武道がくっつくのは日本だけなのではないか。人を殺す訓練から人を生かす訓練に代わるのが武道が宗教と絡みつく所以。
人を殺す剣や弓は、人を生かす禅と結びつく。
先日、たまたまTVをつけたら、ゴディバの社長と村上龍が対談していた。
フランス人のジェローム・シュシャンは、あの有名な高級チョコレートの老舗ゴディバの社長である。
興味深いのは、日本の禅に興味を持ち29歳で弓道を始めて、現在は錬士五段であるという。
「わたしは30回錬士の審査に落ちました。人生で30回失敗することはあまりないです。失敗することによって、10年前の自分より成長していることがわかります。」
失敗の中から成長を知るという、審査に「ぼやっーと落ちているんじゃねーよ。」なのである。
また、的との距離を意識下で消滅させるらしい。それは、客と心をひとつにすることに繋がる極意といえる。
同じ弓を習い、禅を学んでいるはずなのに、この差は何だろう。
わたしは自分が「浅いなあ」と思う。長く続けて来たのに、何も得ようとしていない。
いや、そこから何かを得ようとすることが間違いのようだ。
自分の持っているものを残すなという阿波研造師匠。また、すべて中たれば曲芸に過ぎないという。外れるから武道であるという。だからって、いつも外れているのも違うだろう。「正射必中」で、正しい射は中る。
弓を引くのに快と不快を分けてはなりません。悪い射に腹を立ててはなりません。良い射に喜んではなりません。中てようとしてはなりません。離そうとしてはなりません。
もともと弓道は、引いて離すだけの動作。そこに深い意味を見つけるごとに、弓が難しくなる。的に穴をあけて、その矢を抜いてしまえば何事もなかったことになる。
時々思うのは、図星のあたりに矢が集中して中ったとして、それをスマホで撮ったとして、それが何の意味もないのだと思うことがある。そこに集中して中てることが弓道の目標ではないというところである。
何も残らないことをせっせとやっている。
[ かくて狙うものと狙われるもの、射あてるものと射あてられるものとがひとつになるということに在るからである。 ]について、 数学の基になる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【 ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めと、
『 かくて数えるものと数えられるもの、カオスなものとコスモスなものとがひとつになるということに在るからである。 』 で[数の言葉の量化]と[言葉の量化]を『数(数学)と禅』で眺めタイ・・・
西の「数学的なヴィジョン」(クレー) 東の『数のヴィジョン』 に・・・
岡潔数学体験館で、自然数のキュレーション的な催しがあるといいなぁ~
過去に書いたことをすっかり忘れていました。コメントありがとうございます。
今、まさにこの事が大切だということを改めて思いました。
思い出させてくださいまして感謝します。
きっと、神様が十牛図様を使わして思い出させてくださったのかも。