Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

クリスマス・ツリー

2024-11-07 | 映画(か行)


◼️「クリスマス・ツリー/L'Arbre deNoël」(1968年・フランス)

監督=テレンス・ヤング
主演=ウィリアム・ホールデン ブルック・フラー ヴィルナ・リージ

少年と父親が海で遊んでいるところに突然起きた飛行機事故。核兵器を積んでいたことから少年が被爆、白血病で余命半年と診断された。父親は残された日々を一緒に過ごすために、自分の静養だと言って田舎のシャトーで暮らし始める。

日本では昔からこうした難病ものがウケる。古くは吉永小百合の「愛と死を見つめて」。テレビでも「赤い疑惑」の白血病、昼ドラ「わが子よ」の骨肉腫、「神様、もう少しだけ」のHIVと挙げたらきりがない。イタリア映画の難病もの秀作「ラスト・コンサート」も日本資本で製作されているし。

本作は王道の難病もの映画だが、病気の子供が苦しむ姿はほぼ出てこず、せいぜい悪寒を感じて横になる程度。心境が深く描かれるのは周りの大人たちで、少年は病気を知ってからも「まぁ楽しくやろうよ」と言う。それは強がりなんだろうが、大人たちに陰も見せずに接する。映画前半は金持ちボンボンらしくわがままを言い放題で、大人たちがそこまで叶えてやらんでもと思える。しかし、映画後半、父親のベッドにもぐり込むあたりで、直接表現されない少年の気持ちが、観ているこっちにジワジワとしみてくる。

心情を吐露するのが大人だけという潔い演出は、子役に過剰に演技の負担をかけず、一方で観客に子供の心情を想像させて感情をかき立てる。監督は「007」シリーズで知られるテレンス・ヤング。台詞に頼らないラストシーンは狼の遠吠えだけが悲しく響く。変に回想シーンを挟んでお涙頂戴にしない。ただ抱きかかえて部屋を出るだけ。余韻が残るラストシーンはお見事。

狼を飼いたいと言い出す息子のために、動物園に忍び込むのはいかがなものかと思うが、その後の狼と少年の姿を見るとちょっと救われる。映画「禁じられた遊び」で有名な楽曲「愛のロマンス」が美しく使われている。



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コードネームはファルコン

2024-09-22 | 映画(か行)


◼️「コードネームはファルコン/The Falcon And The Snowman」(1985年・アメリカ)

監督=ジョン・シュレシンジャー
主演=ティモシー・ハットン ショーン・ペン リチャード・ダイサート デビッド・スーシェ

神学校を退学した主人公クリスは、元FBIの父親から軍需産業関連の会社を紹介された。やがて国家機密に関わる通信部に配属された彼は、他国に働きかけるアメリカという大国のエゴを日々目にして疑問を抱くようになる。彼は麻薬密売に手を染めたことのある幼なじみドールトンを経由して、ソビエトに情報を売ることを思いつく。

スパイサスペンスと紹介されるが、主人公2人は別にCIAみたいな組織の人間ではない。弱い国いじめのような状況を憂えての気持ちから、極秘情報の横流しを思いついただけの者。それが「金をとればプロだよ」とソビエト大使館員から凄まれてしまう。東西冷戦時代の対立の怖さ。

この映画が面白いのは、情報をめぐるかけ引きだけでなく、日常の人間関係が崩壊していく様子が丁寧に描かれていることだ。それだけにラストで母親が回想するわずかなシーンがグッとくる。実話に基づく話ではあるし、それを知らずとも最後にはバレて2人が窮地に立たされる結末は想像がつく。金持ちのお坊っちゃまなドールトンが見ていて危なっかしくて仕方ない。次第に家族の信頼を失っていくのが痛々しい。80年代のショーン・ペンはこういうチャラけた役がイメージ通り。一方クリスは情報を売ることで結局何を成し遂げたいのか、観ていて彼の気持ちが掴みきれない。父親への反抗心、アメリカ裏政治への怒りが背景にあるのだろうが踏み込めていない。秘密厳守を貫けないのならば、告解で秘密を打ち明けられる神父なんてそもそも無理だったのかもしれないな、と思った。

ティモシー・ハットンのファッションが気になった。企業で働き始めた場面のブラックデニムにカジュアルシャツ、細めのタイと黒ベストのコーデ。次の面接シーンではカーキ色のパンツに落ち着いた色のジャケットと赤い派手めのネクタイの合わせ。あーこれ好き。真似したい😏

ソビエト大使館員はヒゲのないデビッド・スーシェが演じる。ポワロとは違ったずる賢さを見せて貫禄の演技。「フットルース」のロリー・シンガーがティモシーの相手役。特に目立つ場面もなくストーリー上でも添え物なのが残念。

音楽担当はギタリストのパット・メセニー。主題歌This Is Not Americaを歌うのはデビッド・ボウイ。通信部でのゆるーい仕事場面では、アヴェレージ・ホワイトバンドのPick Up The Piecesが流れる。オフィスのシュレッダーでカクテル🍸を混ぜ合わせるのはびっくり🫢





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華麗なるアリバイ

2024-09-20 | 映画(か行)


◼️「華麗なるアリバイ/Le Grand Alibi」(2007年・フランス)

監督=パスカル・ボニゼール
主演=ミュウミュウ ランバール・ウィルソン ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ アンヌ・コンシニ

アガサ・クリスティの「ホロー荘の殺人」の映画化で、ジャック・リヴェット作品などで知られる脚本家パスカル・ボニゼールが監督を務めた作品。原作は名探偵ポワロシリーズの一つで、週末を過ごしにある屋敷に集まった人々の間で起こった殺人事件と、その裏にある愛憎劇を描く。

クリスティはこのストーリーにポワロは合わなかったと後に語っていたそうだ(Wiki参照)。そのせいなのか本作ではポワロは登場しない。さらに殺されたピエールに登場人物の誰もが何らかの恨みや因縁がある設定となっており、「オリエント急行」や「ナイルに死す」同様に観客の疑いの矛先が定まらない改変がなされ、物語の幕切れも原作とは異なる。本作については、確かに名探偵に観客をリードしてもらうよりも、登場人物それぞれのアリバイに観客が惑わされ、そうだったのか!と騙される方がスッキリするように思えた。

されど、邦題のような華麗なアリバイとは思えなかったのだが。

キャストはヨーロッパ映画で活躍するメンバーだが、他のクリスティ有名作の映画化と比べるとどうしても地味。被害者ピエールを演じたランベール・ウィルソンはほんっと口先だけの男で、「9人の翻訳家」同様の憎まれ役。屋敷の奥様ミュウミュウは事件に怯えている割にどこか軽さがあってちょっと物足りなかった。ピエールの愛人でもある芸術家エステルは、フランソワ・オゾン映画でもちょくちょく見かけるヴァレリア・ブルーニ・テデスキ。事件を引っかきまわすお色気ムンムンのイタリア女優には、「007/カジノロワイアル」にも出演していたカテリーナ・ムリーノ。女たちの間でフラフラしながら事件の核心にたどり着く冴えない作家が「カンフー・マスター!」の少年だったマチュー・ドミ。

クリスティ作品のバリエーションとして楽しむにはよろしいかと。「名探偵ポワロ」シリーズの「ホロー荘の殺人」でポワロが加わるものと比べるのもよき。




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きみの色

2024-09-13 | 映画(か行)


◼️「きみの色」(2024年・日本)

監督=山田尚子
声の出演=鈴川紗由 髙石あかり 木戸大聖 やす子 悠木碧 寿美菜子 戸田恵子 新垣結衣

監督山田尚子×脚本吉田玲子のアニメーションは「けいおん!」以来お気に入りだ。そのコンビの新作は、青春と音楽の物語。

人がそれぞれの色で見えるトツ子。ミッション系の女子校に通う彼女は、ある日の体育の授業中、きみちゃんの放つ青い色に魅せられる。ところがきみちゃんは予告もなしに退学。商店街近くの古書店で働くきみちゃんに声をかけたトツ子は、その店に来ていたメガネ男子のルイとともに勢いでバンドを結成することに。練習場所は離島にある教会跡地。3人はそれぞれが抱える悩みや秘密を共有するようになる。

全体的なほんわかとしたムードと優しい世界の上映時間100分は、慌ただしい日常をしばし忘れさせてくれる。結果として周囲の大人に対して嘘や隠し事をしてしまう3人だが、自作曲を持ち寄ることでだんだんと自分の心に素直になっていく。頑なだった心を解きほぐしてくれたのは音楽の力。

この監督脚本コンビである秀作「聲の形」や「リズと青い鳥」の、感情が心の器から溢れ出すような強い感情表現とは違う。それぞれの不器用さからうまく言葉にできないながらも、ジワジワと高まっていく3人の気持ちが観ていて心地よい。でもそれは周囲の大人たちの気持ちを描くことをスパッと切り捨てたからに他ならない。きみちゃんのお婆ちゃんが彼女に期待する気持ちは裏切られたし、ルイの母親にも言い分はあっただろう。クライマックスの学園祭ライブで、そんな不器用な子供たちを認めるひと言も出てこない。

でも、そこを期待した僕は、大人の目線でこの映画をちょっと冷ややかに観ていたのだろう。描かれるべきは世代間の関係修復ではなくて、3人がそれぞれの個性や自分自身を肯定する気持ちになっていく様子。それこそが"きみの色"なんだ。だから僕ら世代には、この映画はちょっと気恥ずかしくて、こそばゆい感覚がある。

ほんっと青いなお前ら。
でもそんな気持ちあったよ。
そんな感じ。

変則スリーピースバンド。ルイはプログラミングとキーボード。トツ子が弾くキーボードは、RolandのGO:PIANO88とはナイス👍。両手指一本で弾く場面がダサいめいた感想を見かけるけど、あれはシンセベースを弾いてる場面だから、アリだと思います。きみちゃんのギターがリッケンバッカーって、絵が映えるいいセレクト👍。さらにルイがソロ楽器としてテルミンを操るのが、電子楽器好きの僕には嬉しい誤算🤩。やるやん!しかもトツ子がバレエで踊りたかったという楽曲ジゼルをテルミンで演奏する場面は感激してしまった。

大昔に聴いていたラジオ番組で、個性を出せ、自分を出すことをためらうな、とリスナーを励ます言葉にをかけてくれたミュージシャンがいる。彼は言った。
「自分のプラカードは、自分の色で染めなきゃ!」
それからウン十年経ったけど、僕はいったいどんな色なんだろう。"青いなお前ら"と色で若い子を括ってしまった自分。色をなくしているのではないよな、と自分に問いかけた。




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幸福な結婚記念日

2024-07-24 | 映画(か行)


◾️「幸福な結婚記念日/Heureux anniversaire」(1962年・フランス)

監督=ピエール・エテックス ジャン・クロード・カリエール
主演=ピエール・エテックス ジョルジュ・ロリオット

ピエール・エテックスの短編第2作。前作「破局」のコントのような一人芸とは違って、映画として映える仕掛けがいっぱい。

結婚記念日を夫婦で祝うために帰路につく夫。ところが大渋滞で車は一寸ずり(方言ですみません💧)、さらに路上駐車のトラブルに巻き込まれ、なかなか家に帰りつかない。待ちくたびれた妻は料理をつまみ食い。果たして二人は無事に記念日を祝うことができるのか?

わずか13分の短尺。次に何が起こるかワクワクさせるエピソードが詰め込まれて、楽しい楽しい。前作同様にエテックス自身は台詞も少なめで、誰にも伝わるギャグや描写を織り込んでくる。

渋滞場面ではいかにクルマが動かないのかを、車中の仕事や洗車、路上の吸い殻で表現。ジャック・タチとのつながりを念頭に観てしまう映画ファンには、「トラフィック(ぼくの伯父さんの交通大戦争)」とイメージが重なってくる。モータリゼーションの皮肉な笑い。

そして脇役まで笑わせてくれる。路上駐車から端を発して散々な目に遭う床屋の客がとにかくかわいそう🤣。そして物を言わぬラストシーン。散々な記念日ではあるのだけれど、なぜかほっこりした気持ちになる。子供に見せても、この面白さは伝わるだろな。

長編にも挑んでみよう。楽しみっ。





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キングダム 大将軍の帰還

2024-07-21 | 映画(か行)


◾️「キングダム 大将軍の帰還」(2024年・日本)

監督=佐藤信介
主演=山﨑賢人 大沢たかお 吉沢亮 清野菜名 小栗旬

第1作を観た時、妙に居心地が悪かった山﨑賢人の今どきヤンキーな口調。礼儀知らず世間知らずなのに、さすがに4作目にもなるとこれが頼もしく聞こえてくるから不思議。本作のラストでは、兵士たちに語りかけ、大将に代わって号令まで。出しゃばりにも程がある。でもその図々しさも許せてしまう頼もしさ。将軍の馬からの景色を覚えておきなさい、と言われる場面の、これまでにない真顔とまっすぐな視線。信の成長物語はまだまだ止まらない。やっぱり面白いな、このシリーズ。

「キングダム」は人の上に立つ者はどうあるべきか、というリーダー論を、主人公信と一緒に様々な登場人物から考える物語でもある。人の痛みを知るからこそ戦のない世のために中華統一を目指す秦王、第2作に登場する麃公(トヨエツ)の大局を見る戦運び、先頭に立って突っ走る縛虎申、それぞれの立場で発揮されるそれぞれのリーダーシップ。そして人柄も実力も兼ね備えた天下の大将軍王騎(大沢たかお)。それらは百人大将となった信の行動にも大きな影響を与えていく。

第4作となる「大将軍の帰還」は、事実上王騎将軍が主役だ。ここにきて王騎をめぐる過去の出来事が明らかになる。これが実にドラマティック。キングダムの映画化は、過去の出来事を描く回想シーンが異様に長い。囚われの身だった時代の秦王を描く第3作前半は、かなりの尺を費やしていた。秦王の信念を描く上では重要なエピソードで、僕もやたら感動したのだけれど、戦いの行方だけに大きな期待をした観客には多少焦ったいのかもしれない。第4作でも、秦国武将の一人摎をめぐる過去のパートが登場する。ホウ煖との因縁を語る上でも重要な部分だが、これが映画全体の話を途切れさせることもなく、むしろ王騎の人柄を印象づけることにも成功して、クライマックスに向かう観客に見届ける覚悟をさせるようにも感じられた。映画自体は確かに長尺になったけれども、無駄には感じられなかった。戦闘シーンとそれ以外のシーンのバランスがいい印象。

羌瘣が尾到の死を悼む言葉から彼女に芽生えた仲間意識が感じられる場面、王騎にかけられたひと言に摎がキュンキュンする場面、草刈正雄の昭王の言葉、王騎が馬上で語りかけるラストまで、挙げたら止まらないくらいにいい場面がある。もちろん原作の良さがあってのものだが、佐藤信介監督はどんどん登場人物が増える群像劇をうまく演出していると感じた。本作は短い場面でも心に残るのはそのせいだろう。

この先まだまだ話は続くのだが、映画化はどうなるんだろう。

小栗旬演ずる李牧のキャラがなーんか嫌い。喋りに加えて、あの南蛮渡来みたいな装束は何だよ、戦場だぞ。第4作では側近のカイネも台詞が増えてきて、二人が並ぶ場面では急に映画の重厚感が薄れる気がしてならなかった(個人の感想です)。昨年第3作を観た後、
😒「李牧でしたっけ?小栗旬が出てくると途端に空気が軽くなるから、個人的に嫌いなんですよねー」
と原作未読の僕は職場で発言した。すると上司からひと言。
😼「何言ってるんですか。李牧はこの後の超重要キャラクターなんですよ。」
ありゃ🙄そうなのか。ってことは、小栗旬のチャラさにこれから耐えなきゃいけないのか。大丈夫かオレ。でも「片腕必殺剣」みたいな要潤の華麗な剣さばきが、きっとこんな僕をこれから救ってくれるはずw

王騎ロスになりそうです。ンフフフ。





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傷だらけの栄光

2024-07-10 | 映画(か行)


◾️「傷だらけの栄光/Somebody Up There Likes Me」(1956年・アメリカ)

監督=ロバート・ワイズ
主演=ポール・ニューマン ピア・アンジェリ サル・ミネオ アイリーン・ヘッカート

実在のボクサー、ロッキー・グラジアノが世界チャンピオンになるまでの半生を描いた伝記映画。ジェームズ・ディーン主演で企画されていたが、急逝でポール・ニューマンが主役を演ずることになったとのこと。勝手な想像だが、ジミーだったら"実は繊細なツッパリ"というイメージが既にある。自制ができず、すぐに拳を振りかざす不良少年役には、優しすぎたかも。一方でポール・ニューマンは粗暴で拳以外に頼れないどうしようもなさがうまい。後に演ずるブッチ・キャシディや「暴力脱獄」のイメージで勝手にそう思ってしまうのかも。

映画が始まって間もなく、主人公がニューヨークの下町を逃げ回る場面から、映像に惹かれてしまった。勝手にロバート・ワイズ監督作「ウエストサイド物語」の空撮オープニングとシャープな映像を重ねてしまう映画ファン。とにかく主人公ロッキーが自分を抑えられない性分なのが、観ていて辛い。盗みと暴力しか周りにない環境が彼をこんな行動に導いてしまうんだろう。徒党を組んでる仲間には「理由なき反抗」のサル・ミネオか…と思ったら、仲間の一人にデビュー作となるスティーブ・マックイーンが!😳

服役、出所を繰り返す前半。唯一の味方である母親からも「限界だ」と言い放たれて、社会的にも追い詰められていく様子が観ていて辛い。ダメ男が頑張る映画は好きだけど、この主人公はとにかく頑張らない。だからますます観ていて辛くなる。リングの中で拳を振るい、その実力を認めてくれる存在が出来てからの後半は小気味いいサクセスストーリーになるかと思いきや、過去との因縁や社会性のなさから失敗を繰り返す。

その様子は、エンターテイメントとして提示される分かりやすいアメリカンドリームに慣れた観客には、焦ったくて仕方ないのではなかろうか。3歩進んで2歩下がる、って歌の文句じゃないけれど、まさにそんな人生。決して気持ちのいいサクセスストーリーではない。しかし、こうした紆余曲折や葛藤のドラマが誰の人生にもついて回るもの。

クラシック映画を観ると、いつの時代にも通じる教訓のような何かが目の前に示されるような気持ちになる。「傷だらけの栄光」もそんな映画だ。強烈な右の拳以外はダメなところだらけの男だが、"天にいる誰かがオレを好いてくれている"と言う。それは少しは謙虚になった彼の変化を示す言葉なんだろう。ラストシーンはこの台詞に続いて、"地上にいる誰かもね"と愛妻のひと言が添えられる。素敵な幕切れだ。

映画冒頭、子供相手を殴る父親にイラッ💢とするが、彼も故あってグローブを置いた元ボクサーであることが分かる。母親、恋人、カフェのマスターなど、ダメ男な主人公を取り巻く人々のドラマも見応えがある。クライマックスの世界選手権戦の緊張感。カットバックを用いた編集が見事で、多くの人がその試合に様々な思いがあることが伝わってくる。「ウエストサイド物語」のクインテットの場面を思い出す。単なる殴り合いに終わらないのだ。観てよかった。




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クラス・オブ・1999

2024-06-23 | 映画(か行)


◾️「クラス・オブ・1999/Class Of 1999」(1990年・アメリカ)

監督=マーク・L・レスター
主演=ブラッドリー・グレッグ トレイシー・リン マルコム・マクダウェル ステイシー・キーチ

「処刑教室」(1984)のSF版?とも言える特撮バトルムービー。「処刑教室」は教師の気持ちも見えたけれど、もはや本作は戦場でしかない。

無法地帯と化した学校に送り込まれたのは、3人のアンドロイド教師。やがてプログラムを逸脱した行動をとるようになった彼らは、ただの戦闘ロボットと化す。彼らに立ち向かうべく、不良グループの面々が立ち上がる。

近未来の設定や独自の未来観はまあ面白い。アンドロイドを導入した校長が、「時計じかけのオレンジ」で未来の不良を演じたマルコム・マクダウェルという、気が利いたキャスティング。パム・グリア先生が怖い😨。

優れた機械を送り込んだからって、「ロボコップ」のようにはいかんのよ。




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靴みがき

2024-06-03 | 映画(か行)

◾️「靴みがき/Sciucia」(1946年・イタリア)

監督=ビットリオ・デ・シーカ
主演=リナルド・スモルドーニ フランコ・インテルレンギ アニエロ・メレ

ネオリアリズモと呼ばれたイタリア映画では、戦後のイタリア庶民が直面する厳しい状況が描かれた。ビットリオ・デ・シーカ監督は「自転車泥棒」も同時期の名作として名高いが、本作は少年たちの辛い物語を軸にしているだけに、公開当時は多くの観客が涙をにじませたに違いない。この監督が後に艶笑コメディ撮るなんて、この悲しい物語しか知らなければ想像もできないかも。

アメリカ軍が駐留する戦後のイタリア。靴みがきをして家計を助け、生計を立てている少年、パスクァーレとジュゼッペは、兄から米軍の払下品を売る仕事を頼まれる。それが盗品だったことから警察に逮捕され、二人は少年院に送られる。主犯について黙っていた二人。しかし取調官がジュゼッペに乱暴しているように見せかけたことから、パスクァーレは自白してしまう。二人の関係は崩れ始める。

観てる間ずっと、「みんなビンボが悪いんじゃ!」って高橋留美子のコミックに出てくる台詞が頭をよぎる。貧困を描いたイタリア映画と日本映画には敵わない、めいた評論を目にしたことがあるが、「靴みがき」を観ていると、それは確かにそうかもと思わされる。

子役が可哀想な役柄を演じて観客を泣かせるだけの映画なら、この世にいくらでもある。けれど「靴みがき」には大人たちの汚さやズルさ、生きていく厳しさもきちんと描かれていて、単に子供が可哀想なだけの話に終わっていない。少年たちのトラブルの責任を取らさせられる中間管理職的なおじさんの悲痛な表情。権威を誇るだけのその上司。ジュゼッペの親に依頼された弁護士は、親がいないパスクァーレに全ての罪をなすりつけようとする。

悪い仲間に唆されて脱走を謀るジュゼッペ。行方を追うのに協力を申し出るパスクァーレ。二人が対峙するラストはあまりの悲劇に言葉を失った。予備知識を入れなかったので、単に貧しい暮らしが描かれるだけの映画だと思っていた。しかし少年院での人間模様の巧みさには引き込まれた。院内で映画鑑賞会が催される夜、パスクァーレが「寝起きができて食事もできて、たまには娯楽まである。外にいるよりマシだ」と呟く。刑務所を行き来している大人が言うのではなく、子供の口からこの言葉がでるのは、なんとも切ない。みんなビンボが悪いんや。





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関心領域

2024-06-01 | 映画(か行)


◾️「関心領域/The Zone Of Interest」(2023年・イギリス=ポーランド=アメリカ)

監督=ジョナサン・グレイザー
主演=クリスティアン・フリーデル ザンドラ・ヒュラー ラルフ・ハーフォース

環境音に人はいつしか慣れてしまう。緊急自動車のサイレンがひっきりなしに聞こえるから物騒なところと感じることも、線路沿いの騒音や振動も、人はいつしか慣れてしまい、疑問に感じなくなってしまう。本作はアウシュビッツ収容所に隣接する家の日常が上映時間の大部分を占める。目の前を映像として通り過ぎるのは、家族が食事をし、子供が庭で遊び、妻はメイドに支持を出し、夫は仕事から帰宅する、そんな風景。しかし、そのバックには異なる音が重なってくる。塀向こうから聞こえてくる罵声と悲鳴、銃声、低く唸り続けるボイラーの音。とんでもないことが塀の向こうで起こっているのに。

二つの音声を同時に聴きながら、映像とは別の出来事が起こっていることを感じ取る。確かに、聴覚で視覚とは違う情報を感じ取る映画なんてこれまでなかった。それが塀を隔てて、映像に映る何気ない日常と、映像に映らない地獄絵図が共存する。僕らが目にできるのは、塀の向こうに見える煙突から立ち上る不気味な煙だけ。ビジュアル表現に頼りがちな映画製作の場でこれまでなかった試みだと思う。

アカデミー賞に媚びる気はないけれど、見世物シアターの大音響で鑑賞することを前提とした「オッペンハイマー」ではなく、本作が音響賞を受賞したのは、テクノロジーや臨場感よりも映画表現としての効果を評価したということなのではなかろうか。普通は観ている映像を飾るのが音響なのに、映像で見えないものを間接的に表現しているのだから。

クライマックスでカメラが収容所の中に入って、観客が見せられたのはそこで命をおとした人々が身につけていたものが積み上げられた山。その尋常でない光景に愕然とする。子供の頃、社会科の資料集で積み上げられたメガネの写真を見て衝撃を受けたのを思い出した。ホロコーストものはやはり観ていて辛いけれど、語り継ぐことも映画の大切な役割。

一家の感覚が麻痺していることは、言葉の端々に現れる。「落下の解剖学」も素晴らしかったザンドラ・ヒュラーが演ずる妻は、気に入らないメイドに「あんたなんか灰にしてそこらに撒いてやる」と言い放つ。また所長である夫は、軍のお偉いさんが集まったパーティの光景を見て、ガス室を思い浮かべてしまう。「天井が高いから殺せないな」のひと言にゾッとした。じんわりとしみてくる、うすら寒い怖さ。一点透視図法や左右対称を強調した構図も冷たい印象でした。

エンドクレジットで流れる、悲鳴をサンプリングしたような不気味な音楽。この映画で感じた気持ちを忘れさせまいと記憶と身体に刻み込んでくるような威圧感がある。二度観ることはないだろうが、この感覚はきっと肌身が忘れない。

されど、観客に分かりやすいストーリーが示されない映画なので、受け入れにくい作品でもある。そうした方には、似たシチュエーションの「縞模様のパジャマの少年」を是非観て欲しい。物言わぬラストシーンが強烈な悲しみと怖さを残してくれるはずだ。



◇こちらも是非ご覧を。


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