■「スター・ウォーズ/フォースの覚醒/Star Wars:The Force Awakens」(2015年・アメリカ)
監督=J・J・エイブラムス
主演=デイジー・リドリー ハリソン・フォード キャリー・フィッシャー アダム・ドライバー ジョン・ボイエガ
新三部作の幕開けたる第7作がついに公開された。僕は第1作を小学生の頃に観て、シリーズが進むととも映画ファンとなっていった世代。「スターウォーズ」がなかったら、ここまでの映画好きにはなっていなかった。映画自体の面白さ、製作者が込めた思い、そして時代と共に受け継がれる映画愛とリスペクト。映画の裏側にあるそれらをすべて知り尽くしたい!というのが、僕の映画に向かう原動力だった。
「ジェダイの復讐」と「ファントムメナス」もあるはずだが。
そしてディズニー傘下で製作されることとなったエピソード7。クレーターがミッキーの形になってやしないか。スティッチがヨーダを扮装で出てきやしないか。C3POの足の裏に"アンディ"って書いてたりしないよな。そんなつまらない心配もあったけど、シリーズに敬意を表し、オープニングにディズニーのシンデレラ城は登場しないという配慮ぶり。
オールドファンをがっかりさせず、しかも新たなファンに愛されるバランスが求められた、ある意味製作陣には難しい課題。キャストにもスタッフにも、あの「スターウォーズ」を再び撮る!という喜びと大きなプレッシャーがあったことだろう。そして「スターウォーズ」を観ることは、僕ら映画ファンには大イベント。それを楽しまなくてなんとする。過去の作品とのつながりを示すために説明くさくなってるとか、オールドファンにしかわからない筋書きとか、世間では言われているようだ。まぁ、気持ちはわからんでもないけれど、新たな物語として復活したことを喜べないはずはないだろう。初めてスターウォーズを観る世代には、旧作に関係する伏線が理解しづらいところは確かにあるかもしれない。でもそれを深く理解したければ、旧作に挑めばいいだけの話だ。オールドファンがニヤリとできる小ネタが随所に散りばめられている。僕ら世代はそれを楽しめばいいし、初めて世代はその世界観を楽しむが勝ちだ。
J・J・エイブラムス監督作品の持ち味は、映像も物語の展開もスピーディなこと。そこで何が起こっているかをじっくり見せるのではなく、登場人物に何が起こっているのかを細かいカットとクローズアップをつなぎ合わせて見せる。決してすべてを見せる演出ではないのだ。それだけに観客は主人公の目線に近づけるので臨場感があるし、感情移入できるのだ。クライマックスのタイファイターとXウイングのドッグファイトは、まさに真骨頂とも言えるだろう。しかしその一方で、スターウォーズの世界観を示すために、これまでにないロングショットを多用している印象も受ける。例えば予告編にも登場した巨大戦艦スターデストロイヤーの残骸。これまでの帝国との戦いがいかに激しかったのか、そして年月が経っていることを無言で、しかも雄弁に示してくれる。
エイブラムス監督は僕と同い年なので、まさしくこのシリーズを観て育った映画人。映画に対する愛情がこの人の作品には見え隠れする。エピソード4~6と同時期に映画が製作された「スタートレック」シリーズのリメイク版を監督し、映画少年の活躍を描いた愛すべき自作「スーパーエイト」は憧れのスピルバーグがプロデュース。そしてルーカスの「スターウォーズ」を引き継ぐなんて、同年代の映画好きから観たらこんな幸福なキャリアはあるまい。しかも日本通のヲタというから面白い人だ。そういえば脚本を手掛けた「アルマゲドン」は、往年の東宝SF映画みたいだもんね。ジョージ・ルーカスはエピソード1~3では"民主主義の崩壊"を描きたかったとも述べていた。しかし政治的な話よりも1~3で心に残るのは、アナキン・スカイウォーカーを中心とした悲劇的な運命の物語。ルーカスは、もはやエピソード4を撮った頃の映画少年ではなかったし、映画監督としてのキャリアが欲しいという気持ちもあっただけに、今観ると詰め込んでるよな、と感じるところもある。対してエイブラムス監督の手によるエピソード7は、新三部作の幕開けにふさわしい華やかさと瑞々しさがある。「フォースの覚醒」にエイブラムス監督が注ぎ込んだのは、シリーズに対する少年のような愛情と憧れに他ならない。