Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

ネットワーク

2024-12-08 | 映画(な行)


◼️「ネットワーク/Network」(1976年・アメリカ)

監督=シドニー・ルメット
主演=ウィリアム・ホールデン フェイ・ダナウェイ ピーター・フィンチ ロバート・デュバル

シドニー・ルメット監督と脚本のパディ・チャイエフスキーが、テレビ業界のドス黒い裏側を描いた作品。観ようによってはブラックコメディなんだろうが、救いのなさに全く笑えない。むしろ怖い。多くの感想で述べられているように、現在の世相に通じる予見的な怖さがある。メディアに溺れる人々と業界を皮肉った内容だが、ここで描かれていることは紛れもなく今なのだ。

解雇を言い渡されてヤケクソになったニュースキャスター、ハワード・ビールが「番組内で自殺する」と宣言したことから始まる大騒動。彼を預言者に祭り上げ、視聴率稼ぎに利用するテレビ局の人々の醜さ。大衆にウケるネタが欲しいだけ。

そして社会に対する怒りをぶちまけるハワードは大人気に。「私は怒っている!と政府に声をあげよう」との呼びかけに、次々と視聴者が窓を開けてハワードの言葉を叫ぶ場面はゾッとした。テレビで流れていることこそ真実だと信じてしまう人々。それはネットで流れてきた情報を鵜呑みにして拡散する現代人の姿だ。僕らだって情報を吟味する冷静さを失えば似たようなものかもしれない。テレビは視聴率を、ネット社会は反響の数を競う。映画で描かれたよりも、もっと数字がものを言う時代だ。テレビ局に苦情が殺到するのも、今で言う炎上で注目を集めているようなものだ。

人間タガが外れると何も見えなくなる。数字に狂信的になっている人々は、視聴率の割合が利益に換算され、ベッドでも数字を上げる策を口にし続ける。ハワードの友人でもある報道局のマックスは、新鋭プロデューサーのグロリアに言い寄られて関係を持ってしまう。いざ妻と向き合う場面でも歯切れの悪いことしか言えない。そんな彼がグロリアの元を去るクライマックス。自分にはまだ人の心があると告げる台詞が印象深い。

フェイ・ダナウェイが自信満々の表情で上司ロバート・デュバルにアイディアを説く姿は、確かにカッコいい。でもそれがだんだん狂気の渦となって周囲を巻き込んでいくのに怖くなる。「中年男と恋をする、と占い師に言われたの♡」とウィリアム・ホールデンに迫る場面。そんなこと言われたら中高年男は揺さぶられるよな。

ともあれ、シドニー・ルメットらしい社会派テイストと業界を皮肉った作風が絡んで面白い映画だった。ジャンル分けしづらい作品だが、それは他の作品では味わえない独自の魅力がある証でもある。




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なまいきシャルロット

2024-11-19 | 映画(な行)


◼️「なまいきシャルロット/L'Effrontée」(1985年・フランス)

監督=クロード・ミレール
主演=シャルロット・ゲンスブール ジャン・クロード・ブリアリ ベルナデット・ラフォン

少女の揺れる心情と憧れ、夢と現実を優しいタッチでフィルムに焼きつけた青春映画の秀作。日本で公開されたのは1989年。同じミレール監督の「小さな泥棒」が公開される時期で、この2作で主演となるシャルロット・ゲンスブールが日本では大きくクローズアップされた。僕はちょうどその頃にセルジュ・ゲンスブールにどハマりしていた時期。娘シャルロットのファンになるには時間がかからなかった。この頃出版された写真集も持っている。端正な顔立ちとあどけなさの中に、ドキッとするオンナの顔が垣間見える。フランス女優(フレンチロリータに?)ほんと弱いな、オレ。

主人公は心のブスな13歳。周りの大人や家庭が面白くなくて仕方ない。八つ当たりをしては、いつかこんな町出て行ってやると考えている。そんな矢先。彼女と同い年の少女ピアニスト、クララが公演で町にやって来る。彼女と彼女の生活に憧れたシャルロットは、「付き人が欲しい」というクララの言葉を信じきって町を出て行こうと企む。

若い男性に自分の年齢を偽って色目を使ったり、隣の家の幼い娘に「あんたとなんか付き合えない」と見下したり、大人ぶってみるものの、やっぱり13歳の弱い自分に戻るしかない。クララが町を去った後、彼女は自分を見つめ直す、ほんの少しの成長物語。思春期の苛立ちと置き場のない気持ちと反抗心は、誰にでもある。「小さな泥棒」もロマーヌ・ボーランジェの「伴奏者」も、クロード・ミレール監督は少女の表情で心情を無言で伝えるのが巧いから、大人になった鑑賞者にも納得させる力がある。あとは「死への逃避行」しか観たことがないので、他の監督作が観てみたい。

映像ソフトのジャケットにも使われている、フレンチボーダーのシャツ姿のシャルロット。ポスター貼って眺めていたいきゃわゆさ。


そしてこの映画で気に入ったもう一つは主題歌。イタリアンポップスのリッキー・エ・ポーヴェリが歌うSarà perché ti amoの軽快なリズムと爽やかな歌声が流れるオープニングで、ガッチリ心が掴まれた。音楽配信サービスを使い始めた頃、真っ先に検索。見つけた時は嬉しかったな。



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ナイル殺人事件

2024-08-15 | 映画(な行)


◼️「ナイル殺人事件/Death On The Nile」(1978年・イギリス)

監督=ジョン・ギラーミン
主演=ピーター・ユスチノフ デビッド・ニーブン ベティ・デイビス ミア・ファロー マギー・スミス

アガサ・クリスティ原作の「ねじれた家」を映画館で観た後で、他のクリスティ映画を無性に観たくなった2020年。久々に観たいなぁー、と10代の頃以来となる「ナイル殺人事件」をレンタルした。

♪みすてりーなぁーーいる

…と公開当時を知る世代にしかわからない曲(※)を口ずさみながらディスク📀を入れる。ところがそのディスクは劣化が激しく、うちのプレイヤーは途中で何度も読み込まなくなる。止まったところから少し進めたら、なんとか観られそう。
😳ピーター・ユスチノフやっぱりデカい
🥰オリビア・ハッセーきゃわゆい♡
🥰ジェーン・バーキン綺麗♡
…とあれこれ楽しみながら、もうすぐ謎解き!と思った瞬間だった。

🥸ポアロ「共犯はあなたですね!」
📀ガガガガガガッ…ブツッ
(完全停止、以下再生不能)
😱うぎゃーーっ!

レンタル店のおねいさんに話したら、
👩🏻「犯人を教えて差し上げることはできませんが、これなら♡」
無料券を1枚くれたw

地上波の放送で初めて観た時は、純粋に犯人探しのミステリーとして楽しんだ。それぞれのキャラクターが人相から想像できそうなオールスターキャストを揃えているのもいい。この頃のデビッド・ニーブンは冷静でズカズカと物事に介入しない紳士的なイメージが強くって、推理の最前線に立たない軍人役はピッタリ。当時ボンドガールも演じた被害者ロイス・チャイルズはまさに美貌を全面に出した憎まれ役。被害者の叔父ジョージ・ケネディはいかにもなんか企んでそうだし、ジェーン・バーキンはいかにも悩みを抱えてそうだし。

ミス・マープルを演ずる前のアンジェラ・ラズベリーはすでに変なおばさんだし、歌手をかくまう修道院長を演ずる前のマギー・スミスは堅いこと言いそうなイメージ通り。さらにベティ・デイビスの凄みとストーカーまがいのミア・ファローが怖いったらありゃしない。だからオリビア・ハッセーが出てくると画面が和むのです☺️。きゃわゆい。

だけど、初めて観てからウン十年経って、2024年の今観ると、どこか物足りなさを感じた。謎解きは文句ないし、キャストも素晴らしい、エジプトロケも見事に映像に収めている。ヒットしたのも理解できる。でも人間模様の味わいがどこか薄味に感じるのだ。

原作やデビッド・スーシェ版では、ポワロが自分の過去について「私の人生には愛し方が足りなかった」とか語る姿が描かれる。演出から鼻ひげまでとにかく仰々しかったケネス・ブラナー版でもポワロの過去に触れている。「ナイルに死す」はフーダニット、ホワイダニットというミステリーの本筋に加えて、人間ドラマが味わい深いビターな物語。ジョン・ギラーミン監督版は、大舞台の謎解きエンターテイメントに傾いた作風。まぁ、好みの問題。辛気臭い人間ドラマを好まない方もいれば、ただの謎解きじゃつまらないという人もいることだし。

※70年代後半から日本公開版のエンディングや宣伝でのみ使われるイメージソングなるものが流行った時期がある。「ナイル殺人事件」では、サンディー・オニールが歌う「ミステリーナイル」が使われヒットした。




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ナポレオン

2023-12-11 | 映画(な行)

◼️「ナポレオン/Napoleon」(2023年・アメリカ)

監督=リドリー・スコット
主演=ホアキン・フェニックス ヴァネッサ・カービー タハール・ラヒム ルパート・エヴァレット

世界史の授業でナポレオンについて先生が話す時、サラッと出来事だけを話す方もいれば、偉人として業績の話を並べる人もいれば、独裁者としての一面を語る人もいる。フランス革命の後、政治体制が混沌としていたフランスをまとめあげた人物ではある。一方で王政からの解放と称して各国に攻め入った侵略者でもあり、最後は皇帝(王の中の王)を名乗った独裁者でもある。ナポレオンを語る上ではいろんな側面があるだけに、単純に話すのは難しい。たった一人のフランス人がヨーロッパ全土を引っ掻き回した数年間が年表に刻まれている。それはすごいことだし、恐ろしいことでもある。世界史の先生のひと言が生徒に歴史観を植え付けることにもなる。歴史ものの映画も同じだ。

それでは、我らがリドリー・スコット先生は、僕らにナポレオンをどう語ってくれるんだろう。これまでも十字軍、出エジプト、古代ローマ帝国、コロンブスなどなど、スコット先生は歴史ものを手掛けてきた。ナポレオンは語るべきエピソードが多いだけにたいへん難しい題材。頭角を現す若い頃や、特定の戦いに絞った映画化はこれまでもあった。スコット先生はジョセフィーヌとの出会いから失脚まで、かなり長い期間を160分弱に収めた。

ジョセフィーヌとのつながりが彼の精神的な面での支えになっていたことが描かれる。子供を授からないことから夫婦関係を解消した後も、ジョセフィーヌに手紙を書き、彼女の元を訪れることを欠かさない。戦術に長けた優れた軍師としての一面や、その圧倒的な戦果をバックにした強気の外交が描かれる一方で、決してタフではない面にも踏み込み、人間くさいナポレオン像に仕上げている。

ホアキン・フェニックスは、何かに取り憑かれたり、染まっていく変化ある役柄を演じさせたら確かに上手い。(大嫌いな)「ジョーカー」はもちろん、権威に執着するローマ皇帝(「グラディエーター」)、完全犯罪でアタマがいっぱいの大学教授(「教授のおかしな妄想殺人」)、精神を病んでいく聖職者(「クイルズ」)など名演が思い出される。本作でも権力を手中にして変わっていく姿が印象的だ。

しかしながら、語るべき多くのエピソードを尺に収めるために、描ききれない部分も多々ある。ナポレオンの何がフランスの民衆に支持されたのか。ナポレオン戦争はヨーロッパをどう変えたのか。また、前半ジョセフィーヌを絡めてナポレオンの人柄にあれだけ迫っていたのに、後半は手紙ににじむ孤独感こそあれ、急に客観的な目線になっているようにも思えた。いずれにせよ、スコット先生の語るナポレオンは、偉業たる光よりは年表に載らない影に、興味が向けられている。

それでも、これだけの大人数を使った合戦シーンを生々しく撮れるのは、監督の手腕あってこそ。砲弾が近くで炸裂して兵士が倒れる映画はこれまでもたくさんあったが、人だけでなく軍馬にも銃弾が当たる血生臭い戦場を映像化しているのはなかなか観られない。アウステルリッツの戦いでは凍った池に砲弾が撃ち込まれ、落ちた人々で水が血の色に染まる。その様子を水中からのアングルで捉える。悲惨なのにどこか美学さえ感じる印象的な場面だった。光と影、グロと美は、スコット監督の巧さ。

エンドクレジット前に、戦死者の数が示される。たった一人のフランス軍人がヨーロッパを引っ掻きまわした結果だ。それは功なのか罪なのか。フランスにもたらした光なのか、影なのか。日本でのキャッチコピーは「英雄か、悪魔か」。冒頭に述べたナポレオンの様々な側面あっての言葉選びなのだろうが、この映画で"悪魔"とは受け取れなかったのだが。




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ノートルダムの鐘

2023-12-09 | 映画(な行)

◼️「ノートルダムの鐘/The Hunchback Of Notre Dame」(1996年・アメリカ)

監督=ゲイリー・トルースデール カーク・ワイス
声の出演=トム・ハルス デミ・ムーア トニー・ジェイ ケビン・クライン

ディズニー映画をいちばん観ていたのは1990年代。「リトル・マーメイド」から始まる、いわゆる"ディズニー・ルネサンス"と呼ばれる時代だ。配偶者がディズニー好きでレーザーディスク(笑)で映像ソフトを集めてた。僕は「アラジン」のA Whole New Worldのピーボ・ブライスンのパートを練習してカラオケでも十八番だ。90年代ディズニー作品で観ていなかった作品の一つが「ノートルダムの鐘」。当時の僕は最初の転職をする頃だから、ディズニーどころじゃなかったんだろう。

冒頭から、語り部となる道化の歌と怒涛のミュージカルシーン。その華やかさの一方で、語られる物語は暗く重たい。ジプシー狩りをする判事フロローが女性を殺害し、彼女が抱いていた醜い赤ん坊を井戸に捨てようとする。ノートルダム寺院の司祭に咎められ、その子を育てることを約束させられる。カジモドと名付けられた子供は成長し、ノートルダム寺院の鐘撞きになった。しかしフロローによって、外に出ることを禁じられていた。祭りの日に言いつけに背いて街に出たカジモドは騒ぎに巻き込まれてしまう。

この頃のディズニー作品は大人向けな題材が多いが、本作にはディズニーお得意の魔法は出てこない。喋る石像たちが出てくるが、彼らにしてもカジモドのイマジナリーフレンドのような存在だ。また、冒頭の殺人から始まって、醜い人を見世物にする祭りの一幕、一転して異形の者を忌み嫌う世間の視線、カジモドに向けられる仕打ち、偏見に満ちたジプシーへの弾圧など、人間の汚い面が描かれる。

しかし、ジプシー娘のエスメラルダ、護衛隊のフィーバス隊長との出会いで、カジモドの未来が大きく動き出す重厚な物語は目を離せなくなる。聖地だから手を出せないはずの大聖堂に兵隊が迫るクライマックスを経て、カジモドが外の世界に受け入れられるラストは感動的だ。本作も「美女と野獣」などと同じく、舞台のミュージカル作品として語り継がれている。この時代のディズニー作品のクオリティの高さを改めて感じた。



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担え銃

2023-07-24 | 映画(な行)

◼️「担え銃/Shoulder Arms」(1918年・アメリカ)

監督=チャールズ・チャップリン
主演=チャールズ・チャップリン シドニー・チャップリン エドナ・パーヴィアンス

戦争を笑い飛ばした映画と言われたら、何を思いつくだろうか。ブラックコメディの「M★A★S★H」、ミュージカル仕立ての「素晴らしき戦争」。それらは様々な手法で戦争を笑いのオブラートに包む。でもそこには少なからず反戦への思いが込められているので、笑わせるだけでなくしんみりする何かが必ず用意されている。

しかし。喜劇王チャールズ・チャップリンが第一次世界大戦終結前の1918年に発表した「担え銃」は違う。ちゃんと笑わせてくれるのだ。

訓練風景から映画は始まる。われらがチャーリーは回れ右がうまくできない。指導されてもなかなかこなせない姿は、ドタバタで面白い。今の目線だと、この場面のような笑いは、運動オンチな人を笑いの対照にしているから不快だと言う人も出てきそう。でも、ここでこの映画を投げ出すのはもったいないぞ。

戦場に舞台を移してからは、塹壕で過ごす日々の辛さが描かれる。雨で水浸しの中で就寝する場面やチャーリーにだけ手紙が来ない場面はコメディ描写だが、自然とその映像に込められた辛さや寂しさがしみてくる。生活道具を何もかも持ってくるから身動きとれなくなり、ネズミ取りで指を挟むギャグなんて細かいけれどクスクス笑ってしまう。

チャーリーが投げたチーズが敵将校の顔に当たるギャグ。戦場で飛び交うものなんて銃弾じゃなくたっていいじゃない。さらに立木に化けたチャーリーが戦友と大活躍する後半の面白さ。この映画、爆発はあっても銃弾で相手を傷つける場面はない。それでいて戦場を表現している面白さ。そして常連エドナ・パービアンス演ずるフランス娘とのコミュニケーションも、パントマイムで演ずるサイレントだからこそ形にできるいい場面。軍服を取り替えて敵を欺くクライマックスを笑いながら、僕らはふと気付かされる。中身はおんなじ人間じゃないかって。

戦争終結前に戦争を笑い飛ばす映画を撮るという度胸に感激する。観る人を喜ばせたい一心なんだ。そしてこのスピリットが後の傑作「独裁者」につながっていく。やっぱりチャップリンは偉大だ。

それにしても配信の字幕がなんともひどい。Two of A Kindの字幕に日本語訳は「2種類」。はぁ?何言ってんの?😨。戦友の二人が並ぶ場面じゃん。「似た者同士」でしょ💢



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肉体の悪魔

2023-06-27 | 映画(な行)

◼️「肉体の悪魔/Diavolo In Corpo」(1986年・イタリア=フランス)

監督=マルコ・ベロッキオ
主演=マルシューカ・デートメルス フェデリコ・ピッツァリス アニータ・ラウレンツィ

この映画を20歳の頃に映画館で観ている。ソフィー・マルソーの「狂気の愛」と二本立てだった。ソフィー初ヌードの話題作とインパクトのある本作。映画館を出る僕は眼が血走ってたんではなかろうか(恥)。正直、こっちの方が「狂気の愛」より面白かったので、また観たいなと思ってたところ、近所のTSUTAYAに置いてると近頃気づいた。2023年6月にDVDで再鑑賞。

1920年代に書かれたレディゲの原作は未読。夫が出征中の人妻に恋した少年のお話だが、本作は現代に舞台を変えて拘留中の婚約者がいる女性ジュリアに高校生アンドレアが恋するお話。70年代に政治的に不安定な時期があったイタリア。製作当時の80年代はその後だけに拘留中とした設定は現実的だし、ヒロインのパートナーを目に見える存在として登場させることも緊張感を高めて、ヒロインの葛藤をより深くする改変だ。ベロッキオ監督は後に政治的な内容を含む作風になった人と聞く。なるほど。

さらにジュリアは精神科医(アンドレアの父)の元患者という設定、ジュリアに監視の目を注ぐ婚約者の母親も大きなハードルとなる。イカれた女と付き合うなとの忠告に従わないアンドレア。時に不安定になるジュリアの言動に振り回されるところだが、恋にまっしぐらなイタリア男子は周囲の心配など関係なく、勢いは止まらない。

初めて観た時も長回しが多い映画だと思ったが、今回観なおしてこんなに長かったっけと改めて思う。特にベッドで抱き合う場面のカットがとにかく長い。相米慎二監督の「魚影の群れ」のベッドシーン程ではないにせよ、いつまで見せつけるのさ?。しかもアンドレア君の下腹部をジュリアがまさぐる場面は、えー?演技とはいえ、ここまでさせるの!?と驚愕😳。こんな場面はあったっけ?。初めて観た公開当時は、おそらくボカシが今よりも広かったから何だか分からなかったんだろうなw。

年上女性が恋の暴走にブレーキをかけるところが、奔放な彼女も二人の世界に夢中になっていく。男と女が惹かれあった時の、どうしようもない止められない気持ち。法廷で檻に入れられた被告人たちのうち、ひと組の男女がもぞもぞと抱き合い始める場面も印象的だった。止めようとする廷吏に向かって、ジュリアは「最後までやらせてあげて!」と叫ぶ。アンドレアとの出会いにもつながるこの場面は、ヒロインのキャラクターを短い時間に掴ませる。エロ描写たっぷりの映画だけど、観終わった時にしっかりアート作品を観た満足感がある。ラストのヒロインの涙の意味、その後の二人の関係を考えてしまう。

マルシューカ・デートメルスはこれしか観たことがない。デビュー作のゴダール監督作をずーっと敬遠してきたけれど、そろそろ挑んでみたい。




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逃げきれた夢

2023-06-17 | 映画(な行)

◼️「逃げきれた夢」(2023年・日本)

監督=二ノ宮隆太郎
主演=光石研 吉本実憂 工藤遥 松重豊

この映画のラストシーン。スクリーンの向こうから次の言葉が発せられるのを注目しながら待つ、無言の時間がある。劇伴なし、流れるのは日常音だけ。画面には主演の二人に向けられたカメラが真っ直ぐに表情を捉える。気の短い観客なら「なんか言わんかい」と口にしたくなる長さ。でも言葉を発する前のふっと変わる表情一つ一つにも気持ちが込もってる。このシーンを演技の"間"だと言うのならそうだろう。実生活でも口ごもる相手を前にして気まずくなる瞬間ってたまにあるけれど、それをスクリーンを通して感じるなんて。こんな緊張を味わう映画、他に何かあっただろうか。

現実からしばし逃避しようと映画館に行ったのに、この映画には自分と地続きの現実がたくさん散りばめられている。ちっとも逃避できなかった。それはロケ地の風景を見慣れているのはもちろんだ(背景が気になって時々映画に集中できなくなるw)が、それだけではなかった。光石研演ずる主人公を、俺とは違うと思いながら観ていたはずなのに、どうも"自分"がチラついてしまうのだ。主人公の様に忘れてしまう病気でも今のところないし、家族ともそれなりの関係は維持してる。だけど、この冴えない主人公のダサさに共感できる何かがある。

妻と子供に「ご苦労様くらい言えんか?」と悪態をつく場面。ダッセェなぁ、んなこと言わなきゃいいのに…と思う。けれども、その後すぐに卑屈になるのを見て、結局誰かに自分を認めて欲しいんだろうな、なんかわかるな…とおっさんの悲哀を感じてしまう。松重豊演ずる幼馴染と呑む場面でも、なかなか本当に言いたいことが言えない。カッコつける必要もないのに…と思いながらも、自分が抱えている不安な気持ちを打ち明けられない。それを見透かされて自分勝手と言われてムキになる。ダサい。でも、なんかわかるのだ。

"自分"がチラつくのは、僕がセンセイと名がつくお仕事やってた時期があるのも理由。主人公末永の職業は定時制高校の教頭。学校で日々接していた生徒たちの方が、家族よりも自分を理解してくれるのでは、という淡い思いがあるのだろう。それなりに生徒思いでいい事も言う。吉本実憂演ずる卒業生の平賀からも
「"そのままでいい"って、あの時言ってくれて、救われました。」
って言われるんだもの。でも生徒が自分の理解者かというとそれは別な問題で、本当に淡い期待でしかない。映画のクライマックスではキツい言い方もされる始末。例えが悪いかもしれないけど、「バトル・ロワイヤル」のラスト、北野武先生が抱いていた偏った気持ちにどっか通じる気がする。寂しいけど、それは現実。

主人公がこれまで自分がまとってきたいろんなものから、少しずつ自由になっていくんだろう。職業柄、相手を励ます言葉を口にしてきただろうけど、一方で相手を肯定する言い方しかできず、本音を口にすることはできなかったのかもしれない。「海外で暮らしたい」と言う平賀の言葉をきっちり否定するラストシーン。不器用な先生が口にできた精一杯かも。でもそそれまでの自分からは発し得なかったひと言なのではなかろうか。

気にしちゃいけないんだけど、見慣れた背景がある映画は地理情報がどうしても気になって仕方ない(笑)。
黒崎を歩く→
戸畑のお店でコーヒー→
喫茶店を出たら若松!😆
でもいい場所を選んでるからいい雰囲気なのだ。この映画のロケ地選び、北九州のランドマークを外して、様々な日常的風景をにしているところも面白い。松重豊とのコテコテの会話。「病院跡地のホールが…」「しゃーしぃー」こんなローカルな会話の映画がカンヌ映画祭で上映されたのかと思うと、ちょっと面白い🤣。





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ネバーセイ・ネバーアゲイン

2023-04-09 | 映画(な行)

◼️「ネバーセイ・ネバーアゲイン/Never Say Never Again」(1983年・アメリカ)

監督=アービン・カーシュナー
主演=ショーン・コネリー キム・ベイシンガー バーバラ・カレラ クラウス・マリア・ブランダウアー

ジェームズ・ボンドこそ男子の理想めいた刷り込みをされて育ったtak少年。「ユア・アイズ・オンリー」の頃には、007シリーズは家族で楽しむものと化していた(変な一家ですみません😅)。
👨🏻「でもやっぱりショーン・コネリーがいいのお」
贔屓目に見て(頭髪の具合が)ショーン・コネリー似の親父殿が言う。妹たちも同意。刷り込みって怖いよな。そんな1983年の暮れ。正月映画として封切られたのが、ショーン・コネリーが再びボンドを演ずる「ネバーセイ・ネバーアゲイン」だ。地元映画館での同時上映は残酷な場面満載のドキュメンタリー映画「グレートハンティング’84」。ビビる妹たちを尻目に、自称ハリソン・フォード似の僕は提案した。
😏「今回は男二人で行こうよ」
👨🏻「お前、3学期始まったらすぐ試験ち言いよったじゃねえか」
😜「平気平気、余裕だよ。ジェームズ・ボンド並みに余裕」
👨🏻「なにバカ言っちょんのか」

ご存知かと思うが、本作はイオン・プロダクションの正統派シリーズとは違う。コネリー復帰を望む声に、別の製作会社が名乗りを上げて、イアン・フレミングの原作の中でイオンプロが映画化権を取得していない「サンダーボール作戦」をリメイクしたもの。ケビン・マクローリー氏が映画化権を持っており、正統派シリーズの第4作「サンダーボール作戦」にも製作に名を連ねている。それ故にガンバレルで映画は始まらないし、お馴染みのテーマ曲も流れない。

貫禄のついたショーン・コネリーがテロリストのアジトに潜入するオープニング。相変わらずカッコいい!。と思ったら、いかにも官僚出身の新任"M"(なんと「ジャッカルの日」のジェームズ・フォックス!🤩)に、「身体の毒を抜け」と施設での健康管理を言い渡される。闇で動いていた悪の結社スペクター。核弾頭を手に入れてNATOを揺する声明を発表する。白猫を抱いた首領はもちろんブロフェルド(なんと名優マックス・フォン・シドー!🤩)。

悪役ラルゴはビッグビジネスで成功を収めた実業家で、ボンドとはカードで勝負せずコンピューターゲームと当世風にアレンジ。派手な見せ場も多いし、娯楽映画としてゴージャス。ミサイル飛行シーンの特撮にしても、潜水艦からミサイル状で打ち上げられる飛行ガジェットにしても、オートバイを使ったカーチェイスも派手で楽しい。初めて観た時は、そうしたアクションやキム・ベイシンガーのいい女っぷりが楽しかった(レオタードの透け具合のせいなのか、Amazon PrimeはPG-12)。ウン十年ぶりに改めて観ると丁寧に撮って、正統派と違う魅力を出そうとしているのがよくわかる。

監督のアービン・カーシュナーは「スターウォーズ/帝国の逆襲」を撮る際に、「画面を人々の顔で満たしたい。これにまさる娯楽はない」と述べている(Wiki)が、その演出編集の手法は本作でも冴えていて、ボンドが出てくる場面がやたらスタイリッシュで、映るだけで観客を納得させる。当時予告編やCMでも使われていた白い壁の向こうから黒いタキシード姿のショーン・コネリーが現れる場面。胸元から銃を出すワンカットだけで、誰もがジェームズ・ボンド映画だと思えてしまう。また、療養施設で怪しげな患者をボンドが覗き見る場面。暗視スコープでショーン・コネリーの顔が浮かび上がるだけで、ボンドとスコープで見ている悪女ファティマの緊張が伝わる。他にも表情のアップやバストショットなど人物に絞った映像は多用されている。悪役ラルゴのキレやすさ、恐れと不安に震えるドミノ、神経質なM。キャラクターが際立っている。

あと、力説したいのは悪女ファティマを演ずるバーバラ・カレラのカッコよさ。「サンダーボール」のファティマもエロくて自意識の強いキャラクターだったが、「ネバーセイ…」のファティマはさらに殺し屋を楽しむ気質やド派手なファッションが素晴らしい。ボンドに銃口を向けて、「私が一番だ。最高の快楽を与えてくれたのは私だったと書き残せ。」と迫る。スペクターの順列であろうNo.12と呼ばれてイラっとする表情など、細かいけど人柄がよく出ている。ミシェル・ルグランの音楽もジャズぽい劇伴もあって大人の魅力。主題歌のトランペットソロ🎺とプロデュースは、ハーブ・アルパートじゃねえか!🤩

水上スキーをしていたファティマとボンドが初めて交わす会話がオシャレ。
👩🏼‍🦰「ごめんなさい。服を濡らしちゃったわね」
😏「大丈夫。私のマティーニはまだ"dry"だ」
酒の辛口=dry、と乾いている=dryをかけたカッコよさ。映画雑誌に英語の台詞を解説するコーナーがあって、この台詞を取り上げていた。
😉「こんなこと言える大人って、カッコいいよな」
と試験勉強の英語そっちのけ。映画で使われたスラングの方が頭に入るのはなんでだろ。そういえば、関係代名詞のwhoの使い方は「私を愛したスパイ(The spy who loved me)」、付帯状況withの使い方は「黄金銃を持つ男(The man with the golden gun)」で覚えたぞ。何が悪い。

そして3学期が始まり定期試験。
…惨敗😱
返却された答案は、ボンド映画に倣って「読後消去すべし」(For your eyes only)と勝手に解釈しました😝。





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ニキータ

2023-02-06 | 映画(な行)

◼️「ニキータ/Nikita」(1990年・フランス)

監督=リュック・ベッソン
主演=アンヌ・パリロー チェッキー・カリョ ジャンヌ・モロー ジャン・ユーグ・アングラード

リュック・ベッソンが日本で知られるようになった頃は、フランス映画の新しい波"ヌーヴェルヌーヴェルヴァーグ"と呼ばれた映画作家たち、レオス・カラックスやジャン・ジャック・べネックスらとひとくくりで紹介されていた。型破りな「サブウェイ」もあったけど、「グレート・ブルー」の映像美と作家性で語られることが多かった時期だったし。

90年にベッソンが放った大ヒットが「ニキータ」だ。フランス映画には珍しい激しいアクション、スタイリッシュな映像に世間が沸いた。そしてアクションが話題の映画なのに女性客が多いと、当時伝えられていたのを覚えている。

ハリウッド映画で見られる天下無敵なレベルの戦うヒロイン像とは違って、もっと個人的なレベルで成長するヒロイン像が示される。そもそも主人公は麻薬中毒のストリートギャングの一人。警官殺しに関わったことがきっかけで国家組織の下で働く暗殺者となる。その大きな転身には、暗殺者としての教育、訓練が科される。指導するのは「狂気の愛」のチェッキー・カリョ。

それだけでなく女性としての魅力を高める術をも学ぶ。その指導役として現れるのがジャンヌ・モローというキャスティングが素晴らしい。女性の生き方や恋愛観について数々の名言を残してきた人だけに、そのパブリックイメージが役柄に説得力を与えてくれる。リメイク版の「アサシン」でアン・バンクロフトがキャスティングされたのも見事な人選だ。そうした指導の下でジャンキーの小娘は華麗な仕事人として開花する。女性客の変身願望をくすぐらずにはおかない。

そして映画後半、ニキータと名乗ることになったヒロインは恋愛と仕事の間で苦悩することになる。それはスクリーンのこっち側の僕らの共感にもつながる。個人レベルの成長と葛藤がある。この映画のキャッチコピー。
「泣き虫の殺し屋、ニキータ」
「凶暴な純愛映画」
女殺し屋をこんなに身近に感じさせる宣伝文句が他にあるだろか。そして本編はヒロインが戦うだけじゃない。血の通った一人の人間のエンターテイメントに仕上がっている。






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