■「教授のおかしな妄想殺人/Irrational Man」(2015年・アメリカ)
監督=ウディ・アレン
主演=ホアキン・フェニックス エマ・ストーン パーカー・ポージー ジェイミー・ブラックリー
昨年下半期から映画館になかなか行けず、鑑賞本数も減少の一途で、映画の神様に不義理をしているな、とわが身を振り返る(泣)。DVDやBSでまったく観てない訳でもないのだけれど、どうもレビューが進まず、このブログも更新が滞っているが、これまで通りでなくとも、新作でなくとも感想など記していけたらと思っておりまする。ご容赦を。さて、ウディ・アレン監督の最新作にありつけた。
「おかしな」という邦題がついていると、昔の外国映画を知る世代には"粋なコメディ映画"の先入観がある。古くはウォルター・マッソーやジャック・レモンの映画、70年代の小粋なアクションコメディ。中には「おかしな」と題されたことで、イメージ先行の"粋"な映画になってしまった作品もあるとは思う。そんな「おかしな」という邦題に騙されて、本作をお気楽なコメディだろうと思うと、完全に肩透かしを喰らうことになる。だって、傑作「マッチポイント」のようなシリアス路線ではないにせよ、前作「ブルー・ジャスミン」同様、偏った思いを抱えた人が陥る悲喜劇が描かれるブラックコメディなのだから。主人公は、現実を悲観して人生に意味を見いだせずにいる哲学教授。ある日、彼は彼を慕う教え子とカフェで、ある判事の悪行ぶりを耳にする。"世の中の為の殺人"を完全犯罪として成し遂げることを考え始めた教授は、それが日々のモチベーションになっていく。仕事はもちろん、それまで冴えなかった同僚女性との関係までも絶好調に。そして彼は計画を実行に移す。その末路とは・・・。
殺人を肯定することを自分の中で理屈立て、正当化していく過程で、どんどん生き生きしていく主人公。銀幕のこっち側の僕らも、仕事が絶好調な時ほど、他のことも自然とうまくいった経験が少なからずある。ここはとても納得できる場面だ。そして、"世の中の為の殺人"を着実に計画立てていく。僕はヒッチコック監督の名作「ロープ」で、ジェームズ・スチュワートが演じた教授を重ねた。「ロープ」に出てくる教授は、"選ばれし者に許された殺人"が主張で、それを美学のように説いていた。その極論に陶酔した若者が映画の冒頭で殺人を犯す。教授の美学を実践しようとして、実際に殺しをやってしまうお話だ。しかし、ジェームズ・スチュワート教授自身は説いただけで殺人という行為は肯定しなかった。
今回のホアキン・フェニックス演ずる教授は、自らその考えを実践しようとしてしまう。映画はその辺りから次第に笑えなくなってくる。事件を知った教え子は、着実に真実に近づいていき、手口にすら考えを及ばせていき、教授の完全犯罪は彼の周りからどんどん崩れていく。ウディ作品では、これまでもハイソな人々(と思っている人々含む)の思い上がりを強烈に皮肉ってきた。本作もそのバリエーションと言えるのだろうが、秀作「ウディ・アレンの重罪と軽罪」のように深くテーマを掘り下げたように感じられない。この変化はなんだろう。
全編を彩るのは、これまでのウディ映画で使われてきた往年のスウィングジャズではなく、小粋なジャズピアノ。たまたま部屋で流していたこの曲を使って映画を撮るならば・・・という発想で脚本が作られたのではないかと思うくらいに、最後の最後まで繰り返し流される。それはそれでカッコいいし、映像とのマッチングも見事だ。されど、それは音楽の力を借りた"粋"に感じられてならない。回想で綺麗にまとめられる結末のせいもあって、映画のテーマに距離を感じてしまう。いや、それでも全体的には、冒頭お話した「おかしな」邦題の映画に僕らが期待するライト感覚で"粋"な映画には仕上がっている。楽しめる映画だけど、本編には登場する「罪と罰」についてあれこれ哲学しちゃう映画ではないってことかな。
ホアキン・フェニックスのダブついたお腹に何より驚いた。リバーと違って悪党面だから、最初から何かやらかす…と観客に期待させてしまうキャスティング。エマ・ストーン嬢は、ウディ作品のヒロインは2作目だが、今回はどうも彼女でないと!という役柄には思えない。学生役だし、同じエマちゃんならワトソン嬢もあり?ウディ先生の好みとは違うのかなw