4月1日
“東北マウンテンガイドネットワーク”、初めての総会を終えることができました。形式ばった総会でなく、お互い、本音を言い合えたとてもいい時間を過ごせたと思っています。会員一人一人の力の“お陰さん”、それを見守っていただいた多くのみなさまの”お陰さん”を忘れないで、新たな会員ともども、お客様に喜んでいただける、満足いただけるガイドを一同目指して行く所存です、
これからも、ご愛顧、応援お願いいたします。
総会当日は、あいにくの雨模様でしたが、スキーガイドの自主研修を行ないました:雪崩地形の見方、危険箇所通過時の注意、シール登行のポイント、引き上げ、搬送、雪崩事故レスキューと月山周辺で
コンパクトな研修でしたが有意義な時間を過ごせました。
3月23日
文部科学省登山研修所 元所長 柳澤昭夫氏が
平成22年3月23日未明ご永眠されました、
謹んでご冥福をお祈りいたします。
柳澤氏との出会いは、30年前になる。19歳の11月、北岳バットレスで山岳部の先輩二人を失った、部はしばらく休部。再開は妙高山での山スキー合宿だった。そのために、大町市にある大学の合宿施設に寝泊りしながら、重いザックを背負い“爺ヶ岳スキー場”へ通いスキーの練習に励んでいたときが“大町山の会:柳澤昭夫、降旗 厚(お二人とも故人となってしまった)”お二人の出会いだった。
ある日、お二人が、私たちに山スキーを教えていただけるということでスキー場から一時間ほどやぶ尾根を登ることに・・・。でもあっいう間に私たちの視界から消えてしまった、トレースを必死に辿り追いつくと、
『おー!、高村滑るぞ、いいか雪から出ている親指くらいの枝はスキーのバッケン(金具)で切れ、絶対転ぶな・・・!』と言い終わると同時に二人は視界から消えてしまいスキー場を滑り切っていた。
1984年秋、ネパール・ガウリシャンカール峰
7000m峰2度めの挑戦、50日近い登山活動の末
山本一夫、斉藤安平、鈴木清彦が2ビバークの末、頂を踏みもどってくるのを上部キャンプで、一緒に見守っていたとき、
『おー!、高村コーヒーをいれろ・・・』
2006年
いろいろな縁から、地元に総合型地域スポーツクラブを設の牽引役を担うことに『マイスポーツ・ひがしね』というクラブを立ち上げたとき、
『おー!、高村いい仕事をしたな・・・!社会貢献することを仕事というんだ・・』とはじめて褒めていただいた、心身ともにボロボロなときだっただけに本当にうれしかった。
2009年9月
8月のお盆過ぎたころ偶然、ガウリシャンカール遠征の仲間と五竜岳遠見尾根で偶然行き違い、柳さんの病のことを知らされる。
9月中旬、自宅へお見舞いに
『おー、高村元気か、ガイドは大変だぞ!』といつもと変わらぬ口調。柳さんの口癖だった“登山における防御力”について1時間ほどお話し伺ったのが・・・。となった。
2010年1月 “やなさん”からいただいた、賀状にはガウリシャンカール峰が描かれていた。
登山研修所講師時代、柳澤先生と呼ぶのが気恥ずかしく、いつも“やなさん”と敬意と親しみを込めを呼ばせていただいた。
“やなさん!”教えていただいたこと大切に、山を登り続けてゆきます。
『やなさん、ありがとう!』
厚さんと一緒に安らかに、お眠りください。