山岳ガイド 眞さんの山がいど日記

山岳ガイドが出あった自然、感動、日々の様子など綴ってみました。このブログで、のんびり"ねまらっしゃい"!

ロジスティックな日々

2011年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

4月25日~26日
志津川病院医療スタッフ息抜きプランを5月30日まで延長をしていただけるようにと西川町商工産業課や月山志津温泉を訪ね回っていました。
お陰様で、皆様のご好意によりこのプロジェクトが5月末まで延長となりました。
新たに、このプロジェクトのコーディネーター団体として月山朝日ガイド協会が仲立ちしていただくことになり、わたくしの負担が減っただけでなく、医療スタッフ受け入れプランが充実することになりました。
ありがとうございます。
ガレキに残っていた空のダンボールに書かれていた、

メッセージ!

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街は、少しずつ未来へ向かっていますヨッ!

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丸さんを送る会

2011年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

4月22日
国立登山研修所の仲間から届いた案内、覚悟はしていましたが・・・。
でもいまだに信じられません。

☆「丸山政寿君を送る会」 開催のご案内
富山県警山岳警備隊分隊長 故・丸山政寿君におかれましては、去る2月28日剱岳池ノ谷で発生した雪崩によって、遠く山の彼方へと旅立たれました。ここに生前ご親交の深かった皆様と丸山君を偲びたく、送る会を開催致します。

日時   4月22日(金)  午後7時から

場所   黒部市三日市20  黒部市国際文化センター・コラーレ カーターホール

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「丸山政寿君を送る会」に参列の為、富山県黒部市へ出かけてきました。600名超の参列者、70名のスタッフによる運営、
丸さんの人柄が偲ばれる会でした。
午後7時から開演、終わったのは9時半を過ぎていました。たくさん泣きました。
惜しい方を亡くしました、本当に悔しいです。

いただいた、カラーの花大切に飾らせていただきます。
安らかに、お眠りください。

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栗駒山も大丈夫!!

2011年04月24日 | スキー登山

4月16日
天気が良いので、栗駒山へスキー登山に出かてきました。
イワカガミ平までの除雪は、例年通り4月28日にまでには終わり、開通の予定です。
この度は、“いこいの村”からシール付けて頂上を目指してみました。

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栗駒山も、例年にない大雪、そして3月の大雪とで快適なスキー登山が楽しめました。

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いつもなら、口を明けている沢筋もしっかりと雪がつまり快適に滑り込むことができました。

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頂上からは、

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春霞のなか凛とした鳥海山の姿、

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にぎやかな焼石連峰、いつもと変わらぬ景色と南三陸町の姿が重なり、夢なら早く覚めて欲しいと思わずにはいられませんでした。

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頂上まで、のんびり3時間、滑降はアッという間の50分の滑りでいこいの村へ到着です。

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山麓のブナの森もようやく芽が膨らみ、鳥のドラミングの音が木霊していました、春です!!

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みなさん、
ぜひ、東北の山スキーを楽しみにきてください!!

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月山は大丈夫!! 頼もしい応援ありがとう!

2011年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

5月15日
登山研修所を通じて知り合った、山の先輩方が月山へ。

風評被害で閑散としている月山にとって、明るいニュース。

例年より、燃料事情により遅れている
除雪や月山スキー場開きにも関わらずわざわざ
尋ねていただきました。
*なお、月山スキー場は
  4月23日にオープンいたしました!

月山頂上を往復、いつもと変わらぬ
月山が5人を迎えてくれました。

この日は、頂上までシールで登高が可能でした。
ところどころ、豪雪のせいでしょうか
クリープ現象から小さな亀裂が入っています、
コースを慎重に取れば問題ありません。

ぜひ、月山へお出でください!!

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支援活動エピソード 医療スタッフ息抜きプロジェクト

2011年04月24日 | 公益社団法人 日本山岳ガイド協会
支援活動10日目の4月1日
山菜汁の炊き出しテントがベイサイドアリーナ前の広場に現れました。

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テントの中を覗いてみると、顔見知りの志津温泉のみなさんがいました。
山形県西川町副町長・商工観光課、同町の宿泊業組合・飲食業組合の有志や月山朝日ガイド協会会長の奥山悌二氏の姿も見えました。
(わたくしを含め、社)日本山岳ガイド協会9名の会員が西川町の皆様には日頃から月山や朝日連峰でのガイド活動に理解をいただき、心地よく活動をさせていただいてきました。)

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思い切って、
西川町役場の方に
「震災で休むべき自宅も津波で失い、不眠不休で働きづめの南三陸町志津川病院の医療スタッフとその家族を志津温泉で息抜きに受け入れをお願いできませんか!!」と相談、直ぐに快諾いただきました。

今度は、南三陸町佐藤町長を招いて、
西川町高橋副町長・商工観光課工藤氏でお話し合いをしていただき、スタッフとその家族も含めた家族の受け入れいただけることになりました。
医療スタッフ息抜きプロジェクトの成立です。
 
宿泊受け入れを月山志津温泉で
南三陸町までの送迎を西川町が負担
宿泊費などを災害人道医療支援会(Hu MA)がそれぞ、担っていただくことなりました。

『医療スタッフ息抜きプロジェクト』と位置づけていただき
3泊4日のローテーションで受け入れがはじまりました。
 
実は、

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3月11日の震災以来
志津川病院スタッフは文字通り不眠不休の中
医療活動を続けてました。
医療対策本部のあるベイサイドアリーナ救護所では、
災害医療チーム、薬剤師チームと志津川病院スタッフの
3チームが混在医療活動と休養を同じスペースで
行っていました。
少ない休養スペースを分け合って生活していました。

ONとOFFの無い志津川病院スタッフの活動
医療災害チームは7~10日交代、薬剤師チームは3泊4日交代で次々と新しいメンバーが送り込まれてきます。
でも、
医療対策本部で活動されている看護師は、他の避難所の看護師と一緒にローテーションを繰り返し(病院スタッフ40名)、
休養も同じフロアーの5畳ほどのスペースで仮眠、食事、スタッフミーティングをこなしている姿、ずっとみてきました。

私達が良かれと思いレイアウトを変更したために看護師の休養スペースがわずかな隙に無くなるということがありました。
そのときはじめてある看護師から、
看護師も被災者、帰る家が無いスタッフもいることを教えていただきました。

早速、HuMAスタッフと外のエアーテントの区割りをして
看護師の休養スペースをつくりましたが、まだ、朝晩の冷え込みが厳しく慣れぬテント生活は無理な様子でした。

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このような話がありました。ある災害医療チームの報告
「志津川中学校で活動している志津川病院スタッフに私達災害医療チームが応援に来ましたからどうぞ、休養をとってくださいと伝えましたが、その場を去った看護師は休養をとらずに隣の避難所で働いていいました。事情を伺うと帰る家が無かったのです。」等。

山口県医師会ドクターとの会話
「看護師さんに休養をとるように伝えてください、
短い期間ですけど私達がいますから・・・!」
スタッフ
「看護師さん帰る家が無いんです、ここが
 家なんです!。」
とそのような姿を2週間いつも見てきました。

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その第一陣が、
4月11日からはじまりました。

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西川町のみなさま、ありがとうございます!
 

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災害人道支援会(HuMA)支援活動報告 その2

2011年04月24日 | 公益社団法人 日本山岳ガイド協会

久しぶりに、ブログをUPします。

あらためて、

この度の東北大震災により、被害を受けられた皆様に、

心よりお見舞い申し上げます。

震災から40日以上が経過しました、被災地は、遅々ではありますが少しずつ未来へ向かって進んでいます。

3月19日~26日、3月31日~4月4日、4月6日、11日、13日と社)日本山岳ガイド協会の支援活動として、個人慰問と南三陸町へ通っていました。

そのときの様子を紹介させていただきます。

この度は、災害人道支援会・HuMA(ヒューマ)という、
団体の支援活動を社)日本山岳ガイド協会がサポートするということからはじまりました。

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HuMA中心メンバーに、社)日本山岳ガイド協会のファーストエイド講習会、国立登山研修所などで日頃より、お世話になっている金田ドクターとの縁がありこのような支援活動が実現いたしました。

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わたくしは、東北在住の会員ということから、3月19日からHuMAの先遣隊と合流、医療活動の拠点探しのお手伝いからはじまり、そのまま南三陸町志津川エリアにある医療対策本部で、災害医療活動のアドバイス、救護所全般管理(受診室、薬局含む。スタッフ休憩所の管理等)のLOGISTICS活動をHuMAスタッフとともにお手伝いさせていただくことになりました。簡単に書きますと、救護所の整理整頓、ミーティング資料作成、医療チームの受付などをHuMAのスタッフと一緒に2週間近くお手伝いをしてきました。

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医療対策本部のある、ベイサイドアリーナは町内45箇所にある避難所の中で一番大きな避難所です。被災された方1500名、スタッフ200名が常駐する避難所で、上空には絶え間なくヘリが飛来しています。

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この避難所は、救護所だけでなく、町の災害対策本部、自衛隊駐留、

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支援物資の集積地、

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安否確認と様々な受付、

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そして被災され亡くなられた方々の遺体安置所も兼ねています。

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3月20日ころの医療対策本部のある救護所内の様子です

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停電のため電源車からの電力で、日中は非常用ライトだけ灯るなか、診療に見える方、薬を処方に来る方、全国から駆けつける災害医療チームの受付、被災された方、診療中の方、ドクター、看護師、介護士、薬剤師、それぞれのスタッフ休憩スペース、そして介護用トイレと本当に混沌としていました。

3月20日頃の受付前周辺、待合スペースの様子

入口向かって左手にダンボールで囲われたポータブルトイレがありました。

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3月20日ころの受付の様子

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その後、救護所内のレイアウトの変更や事務作業のシステム化などを進めてきました。

3月25日ころの受付の様子です。このころから、山梨大学医学部、国士舘大学医学部のロジスティックチームが交代で応援に入っていただけるようになり、効率よく事務作業が行われるようになりました。

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当初二人でこなしていた事務作業も、さらにJA長野厚生連の方々も定期的に加わっていただけるようになり、今ではPC6台が稼動するまでになりました。

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診療受付も救護所の外で行えるようになりました。介護用トイレも救護所から外に出して、衛生的になりました。

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当初、2ブースしかなかった診療ブースを6ブースに増設、

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介護用トイレを救護所の外に出し、待合スペースを

拡充することができました。ようやく、立って診察を待つこともなくなりました。

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3月20日ころの薬局の様子

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4月11日ころの薬局の様子

4月6日、次男と一緒にカラーボックスを持参、ダンボールを積み上げていた薬品スペースもようやくすっきりしました。

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日付が前後しますが、3月22日
新燃岳で使用していたYKKでつくっていただいた、

JICAのエアーテントが届きました。

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本来は医療行為のためのテントということでつくられましたが、毎朝7時30分から行われる医療チームのミーティングテントと医療スタッフの休憩室として利用することに落ち着きました。

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毎朝のミーティング資料作成、配布、ミーティングスペースの管理、テントのエアー管理と仕事が増えてしまいましたが、効率よい医療活動へと繋がったようです。

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今では、この業務もみなさんで分担して、さらに手際よく、効率よく行われるようになりました。

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上の画像の皆様は、向かって左から医療物資管理担当のJA長野厚生連、サーベイランス担当の国士舘大学、本部事務全般担当の山梨大学の各ロジスティックチームのみなさまです。毎朝、宿から1時間近くクルマで移動、7時に集まりミーティング資料の作成配布を行っていただきました。

皆様のお陰で、事務作業を大きく3部門に分けることができました。今まで以上に効率よく医療事務が機能するようになり、医療スタッフの負担が減り、その分被災されている皆様への診療活動に専念できるようになりました。

ありがとうございました。

わたしたちもお陰様で、元気を取り戻した南三陸町の佐藤町長とも時折お話できる余裕も。震災当時、5階建ての志津川病院が4階まで浸水し、5階で救助を待ちながら最後まで諦めずに医療活動をされていた菅野先生もジャージ姿から白衣で活動できるようになりました。震災から3週間を過ぎて、ほんの少しホッとする時間が持てるようになった一コマです。

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また、同じころ町内の幹線道路沿いには、電柱が立ち並び始めました。

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震災前は、電柱のない風景、すっきりとした景観を望んでいましたが。今はこの電柱が頼もしくも、心強く感じられます。

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電力関係者の懸命の復旧作業のお陰でしょう、震災から40日を過ぎた4月15日、ベイサイドアリーナにようやく電気が通じるようになりました。

以前として、水道やガス、仮説住宅供給の目途もたっていません。

毎日宿舎からこの町へ通うなか、南三陸町志津川エリアを流れる八幡川の清き水の流れと川底に沈むガレキを見るたびに心が痛み、涙が溢れる思いになるのはわたくしだけではないいようです。

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自分達の自立、ガイド業の復活を進めながら、しばらくはこの南三陸町へは通うことになりそうです。

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すっかり顔なじみになってしまった、

佐藤仁町長と約束した”一杯飲むべネッ!”を希望に!




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