久しぶりに、ブログをUPします。
あらためて、
この度の東北大震災により、被害を受けられた皆様に、
心よりお見舞い申し上げます。
震災から40日以上が経過しました、被災地は、遅々ではありますが少しずつ未来へ向かって進んでいます。
3月19日~26日、3月31日~4月4日、4月6日、11日、13日と社)日本山岳ガイド協会の支援活動として、個人慰問と南三陸町へ通っていました。
そのときの様子を紹介させていただきます。
この度は、災害人道支援会・HuMA(ヒューマ)という、
団体の支援活動を社)日本山岳ガイド協会がサポートするということからはじまりました。
HuMA中心メンバーに、社)日本山岳ガイド協会のファーストエイド講習会、国立登山研修所などで日頃より、お世話になっている金田ドクターとの縁がありこのような支援活動が実現いたしました。
わたくしは、東北在住の会員ということから、3月19日からHuMAの先遣隊と合流、医療活動の拠点探しのお手伝いからはじまり、そのまま南三陸町志津川エリアにある医療対策本部で、災害医療活動のアドバイス、救護所全般管理(受診室、薬局含む。スタッフ休憩所の管理等)のLOGISTICS活動をHuMAスタッフとともにお手伝いさせていただくことになりました。簡単に書きますと、救護所の整理整頓、ミーティング資料作成、医療チームの受付などをHuMAのスタッフと一緒に2週間近くお手伝いをしてきました。
医療対策本部のある、ベイサイドアリーナは町内45箇所にある避難所の中で一番大きな避難所です。被災された方1500名、スタッフ200名が常駐する避難所で、上空には絶え間なくヘリが飛来しています。
この避難所は、救護所だけでなく、町の災害対策本部、自衛隊駐留、
支援物資の集積地、
安否確認と様々な受付、
そして被災され亡くなられた方々の遺体安置所も兼ねています。![Dc042445 Dc042445](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/19/7be631a68a8c3d015287288caf61a588.jpg)
3月20日ころの医療対策本部のある救護所内の様子です
停電のため電源車からの電力で、日中は非常用ライトだけ灯るなか、診療に見える方、薬を処方に来る方、全国から駆けつける災害医療チームの受付、被災された方、診療中の方、ドクター、看護師、介護士、薬剤師、それぞれのスタッフ休憩スペース、そして介護用トイレと本当に混沌としていました。
3月20日頃の受付前周辺、待合スペースの様子
入口向かって左手にダンボールで囲われたポータブルトイレがありました。
3月20日ころの受付の様子
その後、救護所内のレイアウトの変更や事務作業のシステム化などを進めてきました。
3月25日ころの受付の様子です。このころから、山梨大学医学部、国士舘大学医学部のロジスティックチームが交代で応援に入っていただけるようになり、効率よく事務作業が行われるようになりました。
当初二人でこなしていた事務作業も、さらにJA長野厚生連の方々も定期的に加わっていただけるようになり、今ではPC6台が稼動するまでになりました。
診療受付も救護所の外で行えるようになりました。介護用トイレも救護所から外に出して、衛生的になりました。
当初、2ブースしかなかった診療ブースを6ブースに増設、
介護用トイレを救護所の外に出し、待合スペースを
拡充することができました。ようやく、立って診察を待つこともなくなりました。
3月20日ころの薬局の様子
![Dc042452 Dc042452](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/ef/13220ecbc0807b684cd6693c04de9b21.jpg)
4月11日ころの薬局の様子
4月6日、次男と一緒にカラーボックスを持参、ダンボールを積み上げていた薬品スペースもようやくすっきりしました。
日付が前後しますが、3月22日
新燃岳で使用していたYKKでつくっていただいた、
JICAのエアーテントが届きました。
本来は医療行為のためのテントということでつくられましたが、毎朝7時30分から行われる医療チームのミーティングテントと医療スタッフの休憩室として利用することに落ち着きました。
毎朝のミーティング資料作成、配布、ミーティングスペースの管理、テントのエアー管理と仕事が増えてしまいましたが、効率よい医療活動へと繋がったようです。
今では、この業務もみなさんで分担して、さらに手際よく、効率よく行われるようになりました。
上の画像の皆様は、向かって左から医療物資管理担当のJA長野厚生連、サーベイランス担当の国士舘大学、本部事務全般担当の山梨大学の各ロジスティックチームのみなさまです。毎朝、宿から1時間近くクルマで移動、7時に集まりミーティング資料の作成配布を行っていただきました。
皆様のお陰で、事務作業を大きく3部門に分けることができました。今まで以上に効率よく医療事務が機能するようになり、医療スタッフの負担が減り、その分被災されている皆様への診療活動に専念できるようになりました。
ありがとうございました。
わたしたちもお陰様で、元気を取り戻した南三陸町の佐藤町長とも時折お話できる余裕も。震災当時、5階建ての志津川病院が4階まで浸水し、5階で救助を待ちながら最後まで諦めずに医療活動をされていた菅野先生もジャージ姿から白衣で活動できるようになりました。震災から3週間を過ぎて、ほんの少しホッとする時間が持てるようになった一コマです。
また、同じころ町内の幹線道路沿いには、電柱が立ち並び始めました。
震災前は、電柱のない風景、すっきりとした景観を望んでいましたが。今はこの電柱が頼もしくも、心強く感じられます。
電力関係者の懸命の復旧作業のお陰でしょう、震災から40日を過ぎた4月15日、ベイサイドアリーナにようやく電気が通じるようになりました。
以前として、水道やガス、仮説住宅供給の目途もたっていません。
毎日宿舎からこの町へ通うなか、南三陸町志津川エリアを流れる八幡川の清き水の流れと川底に沈むガレキを見るたびに心が痛み、涙が溢れる思いになるのはわたくしだけではないいようです。
自分達の自立、ガイド業の復活を進めながら、しばらくはこの南三陸町へは通うことになりそうです。
![Dc042475 Dc042475](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/d9/d581587b7f2c0ef4071f144883a094e7.jpg)
すっかり顔なじみになってしまった、
佐藤仁町長と約束した”一杯飲むべネッ!”を希望に!