新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした
追想「中山道を歩く」
その3 第2日目・「蕨宿~浦和宿~大宮宿~上尾宿」
第1日目 「日本橋」からJR埼京線戸田公園駅まで歩いてから ほぼ1年後の2004年の春になってから、好天の休日、ふっと「中山道歩き」の続きをする気になり、前回の終点、JR戸田公園駅に向かった。。
午前 9時頃 JR埼京線戸田公園駅を出発→「蕨宿」・本町一丁目交差点→(国道17号線)→警察署入口交差点→(旧中山道)→蕨本陣跡・歴史民俗資料館~錦町三丁目交差点~辻二丁目交差点・一里塚跡~六辻・六辻水辺公園~焼米坂~調神社(ツキジンジャ)~「浦和宿」・玉蔵院~慈恵稲荷~(北浦和市街地)~北浦和駅東口交差点~(針ケ谷)~大原陸橋東交差点~与野駅東口入口交差点~「大宮宿」・さいたま新都心駅~大宮氷川神社入り口~(参道・古中山道)~大宮氷川神社~保険センター入り口交差点~大宮警察署~北区役所前交差点~加茂神社~「上尾宿」・宮前駅前交差点~南方神社~氷川鍬神社~JR上尾駅
「蕨宿」
江戸から2番目の宿場、「板橋宿」から2里十町。
江戸時代、幕府は 江戸を護るため、戸田川(現荒川)に
橋を架けず、渡船(戸田の渡し)だった。
「蕨宿」は 渡船調整に必要な宿場だったようだ。
国道17号から右へ。旧中山道に入ると
「蕨宿」は 天保14年(1843年)には
人口2223人、家数430軒、本陣2,脇本陣1,旅籠23軒の
宿場だったという。
旧中山道沿いは、歩道や建物等 時代を感じさせる街並み造りがされている。
「辻の一里塚跡」
「予期せぬ出会いと旅は道連れ」
辻の一里塚跡で写真を撮っていた時 後方から近づいてきた女性有り。
なんと 仕事関係で旧知のKEさん。
同じコースを 同じ方向に しかも同じ時間に 中山道を歩いていて
奇跡的に出会ったもので お互い 信じられず びっくり仰天。
思い掛けない道連れが出来て 上尾宿まで一緒に歩くこととなった。
「焼米坂(ヤキゴメザカ)」
兎の狛犬で有名な「調神社(ツキジンジャ)」
「浦和宿」
江戸から3番目の宿場、蕨宿から一里十四町。
天保14年(1843年)では、
人口1230人、家数273軒、本陣1,脇本陣3、旅籠15軒の
宿場だったという。
ケヤキの大木有り、六国見と呼ばれていた区域。
「大宮宿」
江戸から4番目の宿場、浦和宿から一里十町。
「大宮宿」は 天保14年(1843年)では
人口1508人、家数319軒、本陣1,脇本陣9,旅籠25軒、
脇本陣の数が多い宿場だったという。
「大宮氷川神社」
旧中山道が通っていた、欅並木の参道がなんと2km、
武蔵国一宮、広大な神域、朱塗りの神門社殿、
高鼻町住宅街を抜けて 国道に戻る。
「上尾宿」
江戸から5番目の宿場、大宮宿から二里。
「上尾宿」は天保14年(1843年)には
人口793人、家数182軒、本陣1,脇本陣3,旅籠41,
宿場女郎(飯盛り女)数多で大変賑わっていた宿場だったという。
「氷川鍬神社(お鍬さま)」
宿場の鎮守だった神社。今はビルの合間に有る。
午後4時頃、JR上尾駅に到着、
「中山道を歩く」2日目は 約19キロ歩いたようだ。
(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)