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追想「中山道を歩く」その3(再)

2021年01月17日 06時18分55秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした


追想「中山道を歩く」
その3 第2日目・「蕨宿~浦和宿~大宮宿~上尾宿」

第1日目 「日本橋」からJR埼京線戸田公園駅まで歩いてから ほぼ1年後の2004年の春になってから、好天の休日、ふっと「中山道歩き」の続きをする気になり、前回の終点、JR戸田公園駅に向かった。。

午前 9時頃 JR埼京線戸田公園駅を出発→「蕨宿」・本町一丁目交差点→(国道17号線)→警察署入口交差点→(旧中山道)→蕨本陣跡・歴史民俗資料館~錦町三丁目交差点~辻二丁目交差点・一里塚跡~六辻・六辻水辺公園~焼米坂~調神社(ツキジンジャ)~「浦和宿」・玉蔵院~慈恵稲荷~(北浦和市街地)~北浦和駅東口交差点~(針ケ谷)~大原陸橋東交差点~与野駅東口入口交差点~「大宮宿」・さいたま新都心駅~大宮氷川神社入り口~(参道・古中山道)~大宮氷川神社~保険センター入り口交差点~大宮警察署~北区役所前交差点~加茂神社~「上尾宿」・宮前駅前交差点~南方神社~氷川鍬神社~JR上尾駅


「蕨宿」
江戸から2番目の宿場、「板橋宿」から2里十町。
江戸時代、幕府は 江戸を護るため、戸田川(現荒川)に
橋を架けず、渡船(戸田の渡し)だった。
 
「蕨宿」は 渡船調整に必要な宿場だったようだ。

 

国道17号から右へ。旧中山道に入ると 
「蕨宿」は 天保14年(1843年)には 
人口2223人、家数430軒、本陣2,脇本陣1,旅籠23軒の
宿場だったという。
旧中山道沿いは、歩道や建物等 時代を感じさせる街並み造りがされている。

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「辻の一里塚跡」

「予期せぬ出会いと旅は道連れ」
辻の一里塚跡で写真を撮っていた時 後方から近づいてきた女性有り。
なんと 仕事関係で旧知のKEさん。
同じコースを 同じ方向に しかも同じ時間に 中山道を歩いていて 
奇跡的に出会ったもので お互い 信じられず びっくり仰天。
思い掛けない道連れが出来て 上尾宿まで一緒に歩くこととなった。

「焼米坂(ヤキゴメザカ)」

兎の狛犬で有名な「調神社(ツキジンジャ)」


「浦和宿」
江戸から3番目の宿場、蕨宿から一里十四町。
天保14年(1843年)では、
人口1230人、家数273軒、本陣1,脇本陣3、旅籠15軒の
宿場だったという。

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ケヤキの大木有り、六国見と呼ばれていた区域。

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「大宮宿」
江戸から4番目の宿場、浦和宿から一里十町。
「大宮宿」は 天保14年(1843年)では
人口1508人、家数319軒、本陣1,脇本陣9,旅籠25軒、
脇本陣の数が多い宿場だったという。

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「大宮氷川神社」
旧中山道が通っていた、欅並木の参道がなんと2km、

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武蔵国一宮、広大な神域、朱塗りの神門社殿、

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高鼻町住宅街を抜けて 国道に戻る。


「上尾宿」
江戸から5番目の宿場、大宮宿から二里。
「上尾宿」は天保14年(1843年)には 
人口793人、家数182軒、本陣1,脇本陣3,旅籠41,
宿場女郎(飯盛り女)数多で大変賑わっていた宿場だったという。

「氷川鍬神社(お鍬さま)」
宿場の鎮守だった神社。今はビルの合間に有る。


午後4時頃、JR上尾駅に到着、
「中山道を歩く」2日目は 約19キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)


 

 


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