映画と本の『たんぽぽ館』

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藤田嗣治「異邦人の生涯」 近藤史人

2008年08月14日 | 本(解説)

藤田嗣治「異邦人の生涯」  近藤史人  講談社文庫

今、札幌の道立近代美術館で、レオナール・フジタ展を開催しています。
実はすでに、見てきて、そのあとにこの本を読んだのですが、
記事は先にこちらをUPすることにします。
彼の人生の話なしには、フジタを語ることはできないので・・・。

手っ取り早く、本の裏表紙の言葉を引用します。

「ピカソ、モディリアニ、マチス・・・世界中の画家が集まる1920年代のパリ。
その中心には日本人・藤田嗣治の姿があった。
作品は喝采を浴び、時代の寵児となるフジタ。
だが、日本での評価は異なっていた。
世界と日本の間で、歴史の荒波の中で苦悩する巨匠の真実。」

・・・ということで、この本自体、第34回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。

1920年代パリというと、第1次世界大戦が終り、
1929年の世界恐慌まで、狂乱の時代といわれ、文化の爛熟と頽廃に包まれた時期なんですね。
同時代にパリで活躍した画家を総称してエコール・ド・パリといいますが、
モディリアニ、ピカソ・・・、もちろん誰でも名前は知っていますね。
同様に、パリで時代の寵児となってもてはやされていたフジタの名前は、しかし日本人にはあまり知られていない・・・。
どうも、当時日本の画壇にねたまれ、徹底して無視されたようなのです。
日本ではヨーロッパ帰りの画家が、ヨーロッパの油彩を模倣した絵を描いており、
それ以外は認められない風潮があった。
フジタの絵というのは日本画と西洋の油彩を融合させた、
まさに、フジタ独特、彼だけの技法による絵画なのです。
日本画でもない、油彩でもない、
しかも、パリで奇妙な髪型で人気を得ているお調子者・・・、
そんな風に受け取られていたようです。

さてしかし、世界恐慌ですっかり景気が悪くなったパリでは、絵もそう簡単には売れなくなってしまった。
そこで、フジタは日本に帰国。それが1932年。
1939年にもう一度パリにわたるのですが、
1940年にドイツ軍の侵攻、パリ陥落寸前にまた帰国。
・・・まさに、歴史の渦中で生きていますね。

帰国した日本は戦争一色。
そこで彼は、戦争画を手がけるのです。
つまり、戦意高揚を目的とした絵なんですね。
それを描いたのは何もフジタだけではありません。
多くの画家が、当時の時代の流れに呑まれるままに、そのような絵を描いたのです。
そうすると、なんと、今まで冷淡だった日本画壇が手のひらを返すように、彼を賞賛し始めた。
皮肉なことに、彼が日本に受け入れられたのはこの一時期だけであったのです。
この本に、ほんの一部フジタの戦争画が紹介されていますが、戦意高揚というよりは、むしろ、戦争の悲惨さを訴えているようにも思えるのですが・・・。

さて、終戦。
日本は、一斉に戦争責任の押し付け合いを始めました。
その矛先は、戦争画を描いた画壇にも向き、
フジタがその筆頭となって、世間からの非難を浴びることになってしまったのです。
そのような集中非難に疲れ果て、1949年、日本を出てアメリカへ。
1950年にはやはりまたパリに向かい、1955年、フランス国籍取得。
彼は日本を捨てたのです。・・・いえ、心情としては「日本に捨てられた」、だったのでしょうか・・・。
婦人を伴っていたことがまだ救いですが、その後彼は日本の土を踏んでいない。

晩年はパリ郊外のヴィリエ・ル・パルクという小さな村にアトリエを建てて住み、
1963年81歳で生涯を閉じました。
今年は没後40周年に当たります。
異郷の地で彼は日本に向けてどんな感慨をもったのだろうか・・・と思うと、
なにやら切なさがこみ上げます。

絵の評価と画家の生涯は別物かも知れませんが、
それでも、このようなことを知らずにフジタを語ってはいけない、と思えるのです。
そして日本人なら、フジタを誇りを持って「日本を代表する画家です」と、言いたい・・・。
特に、今までフジタを知らなかった人には、ぜひ美術館にも足を運んでもらいたいと思います。

満足度★★★★

「レオナール・フジタ展」についてはまた明日・・・!