映画と本の『たんぽぽ館』

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「真田太平記(八)紀州九度山」 池波正太郎

2010年11月26日 | 真田太平記
無為の日々

真田太平記 (八) 紀州九度山(新潮文庫)
池波 正太郎
新潮社


            * * * * * * * *
 
さて、関ヶ原の戦いで敗れた西軍に組みした真田父子の運命やいかに・・・、というところでしたね。
石田三成や小西行長に対する残忍な扱いをみれば、
真田昌幸・幸村も死罪は免れ得ないところが・・・と思えたのですが。
でも兄、信幸とその岳父(妻、小松殿の実父)本田忠勝の必死の助命嘆願のおかげで、
死罪は免れ、紀州の九度山と言うところに蟄居ということになった。
蟄居というのは?
武士に科した刑罰のひとつで、自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの・・ということだね。
牢に押し込められているわけではなく、家来も何人か就いてはいるけれども、
監視されていて自由に出歩くことは出来ない、と、そんな感じ。
真田父子としては2年か3年・・・5年後くらいには、
家康の怒りも解けて許されるだろうと思ったんだ。
それとこの時に、信幸さんは「信之」と名前の漢字を変えるんだね。
謀反人の昌幸と同じ字を使うのはまずい・・・ということなんだろうね。
とにかく、昌幸・幸村は上田城を出て、紀州九度山で失意の日々を迎えることになる。
ここで向井佐平次は信之の沼田城に残り、
息子佐助が九度山にお供をすることになったんだね。
そう、佐助は草の者だから、連絡要員でもあったんだね。


関ヶ原の戦い後の状況は・・・?
家康は、徳川将軍の地位を秀忠に譲ったけれど、依然実権は握っている。
本拠地は江戸にあるけれど、秀忠を将軍につけたときに、京都に来ているね。
行列の先頭が京都へ到着したとき、最後尾の将兵は江戸を発したばかり・・・
とかいう、ものすごい大行列だったそうな・・・。
今や、大阪城にいる豊臣秀頼は、他の武将と並ぶ一大名にしか過ぎない
・・・というような家康の認識なんだ。
それで、京都伏見城から大阪の秀頼に「挨拶に来い」と催促をする。
秀頼の母、淀の方は
「豊臣家の臣下であるはずの徳川家へ、なんで頭を下げねばならぬ」と、断固拒否。
結局この時は、拒み通したわけだ。
回りはみんなハラハラだね・・・。


京都には真田家の屋敷もあって、
時折佐助や、なんと大胆にも幸村が様子を探りに姿を現していたという・・・。
まあ、監視されていたといっても、かなり緩んでは来ていたんだね。
家康と秀頼の緊張関係・・・、まだ何かありそうだという感じ。
世間は固唾を呑んで見守っているし、
それぞれがそれぞれの思惑で、動向を見定めようと情報活動に余念がない。
真田家の草の者たちも、このままでは終わるまいと信じて様子を探り続けている。
・・・そうこうするうちに、真田父子の九度山生活も10年以上になってしまうんだね。
頼みの綱の本田忠勝も亡くなってしまい・・・、
許されるのはかなり望み薄になってきた。
そんなこともあるのだろうけれど正幸は、病の床に就いてしまう。
65歳ですからねえ・・・。無理もないですね。
そして幸村は45ですよ。
無為の日々はさすがにつらかったでしょうね。
さてこの年、また家康が上洛するわけです。1611年。
この期に乗じて、家康の暗殺を計画する真田家の草の者、お江と奥村弥五兵衛。
そして今度こそ秀頼は、家康のご機嫌伺いに行くのか???
というところで「つづく」です・・・。
この巻はちょっと幕間的なんだけど・・・、しかし、その間10年以上か。
平和といえば平和。
でもその平和を良しとしない、戦国武将の性を感じますねえ。真田父子。
では、次巻を待ちましょう。