自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エミール大師が語る、’我が国は物質の世に非ず”とは?

2013年11月11日 | 健康と直結する”一元論”について

 オシリス・仏陀・イエスの共通性  …  平成25年11月11日

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 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた

11人の調査団の一員であった。3年半にわたる極東滞在中、

ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを

実証されるのを実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、”極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容を

そのまま受け入れるか、否認するかは、読者の自由である。

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イエスがインドに来て修行した背景を大師は語った。

その続きとして、次のように述べる:

”印度で イエスは相当純粋に保たれていた

仏教の教えを学び、いろいろな種類の儀式や

独断的教義が人間によって、押し付けられているが、

宗教の根源は唯一つであることを知りました。                   

それは、イエスが我が父、すべてのものの父と呼んだ

内なる神であることをついに知ったのです。

 

そこでイエスは一切の形式を吹き流し、

直接神に至り、この愛深き父なる神の心に

直接参じたのです。

                                

そこまで至った彼の悟りの境地はまことに驚嘆

すべきものであります。

かくの如き悟りには、何も数々のドグマ(独断的教義)

や、儀式、信条、形式、イニシエーションなどを

トボトボと長い年月も遍歴する必要がないことも

わかりました。

これらのドグマそのほかは 僧侶階級が一般人

を無智にとどめ、したがって隷従の境地におくために

掲げたものだったのです

自分の求めているものは、実は他ならぬ、我が内

にあることを悟ったのです。                              

キリストになるために、自分自身が本来

キリストであることを宣言しなければならないこと、

又、それを自分の肉体に現わすためには、純粋な

動機、行動、想い、言葉で自分の求める

生き方を生き抜いていかなければならないことが

わかりました。

 

このことを徹見したとき、イエスは社会に乗りだし

この悟りを世界に宣言する勇気を得たのでした。

 

イエスが悟りを誰から、どこから得たかは問題

ではない。

大事なことはそのやったことであって、彼ご自身が

何を為したかということです。

                             

イエスが一念発起したのは、庶民民衆のためでした。

その庶民は彼の説くことを喜んで耳を傾けました。

イエスはその教えを、インドやペルシャ、エジプトから

借りたものではない。

それらの国々の教えは外形的なものに過ぎず、

結局それがイエスをして、彼自身の神性、

その表れとしてのキリストを知り、それが 

各人の心の内に内在すること、

少数の人々だけにではなく総ての人の心に

内在することを悟らしめたのでした。

オシリスは3万5千年以上も前の

アトランティス(*1)に生まれ

数々の驚嘆すべきことを成し遂げたので、

当時の年代記作者達は彼を神と称した。

 

彼は ’人間の母国’にその考え方を明確に

とどめている、高遠な思想を盛った人々の

直系子孫でした

今日、我々に伝えられてきている神話的な人物は

すべて大部分がそうです。

その業績や性格は繰り返して話され、翻訳されている

内に、曲げられてきたものです。

 

時間をかけて より深い意味をさぐる労をあえて

惜しまなければそのような業績や性格は 

すべての人の実相に置いて当然であり、

神来であることが解る。

一方、そうしない人々は その業績や悟業を

何か 超自然的のものだと思い込んでしまうのです。

年代記作者たちはオシリスを加味に祭り上げてしまう

と今度はその像を造り始めた。

この像ははじめの中はオシリスの業績や性格を

象徴するだけであったが、次第の像の方が

心の中に固定化してしまって、記念の方は忘れ去られ

ついに虚しい、偶像と成り果ててしまった。

 

ブッダもまた、その死後遙か後代に、年代記作者たち

によって、神様扱いされた別の一例です。

今まで作られた数多くのブッダの像を観てごらんなさい。

ブッダの記念ではなく、ただその像が崇拝される

結果になり終わっているではありませんか。

ここにもまた、

新しい偶像があるのみです。

のほかのいろいろの印も 象徴も 然り。

 

ブッダの受けた教えもオシリスの教えも道は

一つであるが、受け方が違っていました。

ブッダの触れた教えは母国から直接ビルマに

ナアカルたちがもたらした物ですが、

オシリスの場合は、先祖が ’母国’ 

住んでいたため 青年時代にそこへ留学したので、

直接その教えを受けたのです。

 

留学が終わると、故郷へ戻り、アトランティス人

の指導者となり、、周囲の暗黒人種たちの影響

を受けて次第に 暗黒思想に戻りつつあった

人々を 内在の神 を崇拝するようにと

引き戻したのでした。

モーゼも後世の崇拝者や年代記作者が神様

にしてしまった、指導者の独りです。

彼はイスラエル人だったため、バビロニア人

の記録に触れて、それから教えを受けたものです

この記録が貴方がたの聖書の一部になっている

わけです。[須田注:旧約聖書を指す]

 

モーゼはこの記録で見たり、聞いたり、学んだり

したことを、正確な言葉と形で書いています。

ところが彼が書き残した事実を、のちの翻訳者

達が歪曲してしまったのです。

そういう例は、思い出そうとおもえば、まだ

いくらでもあります。

 

イエスはこれらの 教えに全部触れて、いかにも

彼らしいやり方で、これらの教えの核心に

参入したのでした。

しかもそのうえ、さらに 深く、進めて自分の肉体

を十字架にかけるというところまで突き進み、

後に勝利の復活として、その肉体を

光栄化したのでした。

            

オシリス、仏陀、イエスの教えを学んでみると

多くの共通点があることが解ります

事実 時には同じ言葉の使われていることに気が付きます。

これはいったい、三名の誰かが、ほかの物を写し取ったのでしょうか?

もろもろの教えは彼らに外から内へ至る道を示したのでした。

その時ただ単に、教える事、写すことを一切やめ、進一歩した

はずなのです。

三名の内、誰にせよ、もし、自分が見たり

教えられたりしたものを 只 写し学ぶだけで

すべては実に内在の神より発するものである

ことが悟れなかったら 彼らは依然として学ぶだけにとどまり、

その言行が後世にまで、記録されて残ることはなかったでしょう

 

 

これら三人の崇拝者たちは彼らを

いずれは消えゆく王国の王に着けようとしました

が、三人とも、耳をかそうとせず、いずれも

’我が国は物質の世に非ず 霊の国なり’

と同じ考え方をほとんど 同じ言葉で

表した点において、同じ経験を経てきています。

にも関わらず、オシリスの場合、後世の年代記作者

達はとうとう彼を極端にもエジプト王にしてしまう(*1)

という、愚を演じてしまったのでした。”

                                           オシリスとイシス

(*1) 現在では、エジプト神話の神として扱われている。

 大地神ゲブと天空神ヌートの子とされる。

 イシスの夫で、ホルスの父。

 弟セトに殺害されたが、イシスの秘術で復活し、冥府の神となったとされ、

 大師の語る、オシリスからだいぶ離れたイメージになっている。

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 仲里誠吉訳 霞が関書房

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