自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エミール大師が教える神の本質

2013年11月25日 | 健康と直結する”一元論”について

神とは・大魔王とは?  平成25年11月28日

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著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを、実証されるのを実際に

見るために、大師がたの生活の中に親しく、入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容をそのまま受け入れるか、

否認するかは、読者の自由である。

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ヒマラヤの聖者は語る。

”地獄とか悪魔とかいう、特定の地域や存在はない。

それは、ただ、悟りを開いていない人の 想念の中にあるだけだ。

もし、善なる天国がすべてであり、すべてを取り囲んでいるのであれば、

地獄や悪魔などというものが 幽界や霊界に存在する筈があるだろうか?

 物質科学を例にとってみよう。熱や光 その他の多くの自然力は、

実は地球自身の中にあると言い伝えられてきている。

太陽にしても、それ自体としては熱も光もないのであって、熱と光とを、

地球から引き出す潜勢力があるだけである。

 

太陽が地球から熱と光を引き出すと、熱線は、エーテルの中に 泛んでいる

大気層によって、地球に跳ね返されてくるのである。

光線も大体、同様な方法で、地球から引き出されてエーテルによって、地球

に跳ね返ってくる。

 

空気は、比較的低くしか広がらないから、地球表面を離れ、大気層の外側

の限界に上昇するにつれて、熱線の効果は違ってくる。

空気は次第に希薄になるから、反射も次第に減ってくる。

その結果、上昇すればするほど、熱は少なくなり、寒冷が増してくる。

熱線は地球から引き出されて反射する毎に、地球に落ちて還元され、再生される。

空気の限界まで到達したときには、実は、同時に熱の限界にも 到達している

のである。

 

光線の場合も同様で、地球から引き出されて、エーテルによって、反射される。

このエーテルは地球からは、空気よりも高いところで拡がっているから、

光線は遠く 高く 拡がってから全部反射する。

エーテルの限界はそのまま光線の限界である。

熱と光の限界に達すると、非常な寒冷に逢着する。

この寒冷はいわば、鋼鉄よりも強固であって、

エーテルと大気層とをほとんど抵抗のできない力で圧迫して、結合している。

ところが地獄は熱いことになっており、閻魔大王は寒さが嫌いだという。

それでは、地球や悪魔の住処(すみか)などありえないということになる。*1”

 

この聖者の説が 現代物理科学的の理にかなっているかどうかの論証は脇に

おかせていただく。

聖者は、宇宙へと上昇して話しを進めたが、今度は、地下へ掘り下げて話しを

続ける。

調査団の中には、地球の内奥には魔王の支配する国があると、信じている人も

いたからだ:

 

”地球は表層から少し掘り下げたところでは、説けた塊になっていて、熱く、

どんなものでも溶けてしまうと、地獄をあると思う人は考える。

 この真ん中にある 溶岩の塊は、外側の地層よりも遅い速度で回転していて、

この二つの合いあうベルト地帯が自然力の発生する場所だとされている。

したがって、ここにもまた、神の御手が一切を統べ給うておられる。

してみれば、ここにも、魔王の住む場所はない。

というのは、一番暑いところか、寒いところに住みつこうとしたところで、

暑さも寒さも同様に体力を消耗するのだから、ひどく住み心地の悪いことを

思い知るに違いない。

 

つまり、魔王は実は人間のいる場所にいるのであり、その力も 人間が

与えたものであるのだ。”

と、聖者は述べる。

 

悪魔も魔王も、特別な悪の存在として実在するのではなく、その存在も

彼らの支配権も人間が与えたというのだ。

神が与えたのではないから絶対的なものではないというのが、聖者の意見だった。

すると、調査隊員の一人がこう質問した。

それでは、神とはいったい、誰のことですか?”

聖者が答える:

”今日の世界を悩まし、かき乱している、多くの矛盾する思想や考え方は

神が造ったものではない

神とは現に存在するすべてのものの背後にある原理と思えばよい。

 それは、人間の言葉で言い表すのなら、全知、全能、偏在であり、愛である。

といっても、神は非人格的な原理法則でもある

神といえば、王座に座り、死後の人々をさばき、天国と呼ばれる場所に

おられる 人格的な姿を思い浮かべるだろうが、決してそうではない。

謙虚な祈りに対して、個人には、やさしい母となり、頼もしい父のような

応えをするが、それ以外は 人間的に喩えることはできない。

神は生命そのもの、生命は決して死なず、愛そのものだ。”


神を髭の生えた、温厚な好々爺のようなイメージでとらえては お角違い

だという。

神は生命の法則であり、それを聖者は存在する事象の裏にある、大きな原理

(理の根源)と呼ぶ。

さらに話は続く: 

”神の愛は山からほとばしる清浄な泉に似ている。

湿原では清浄であるのに、流れに行くうちに曇り、汚れ、海に流れいる

ころには始めとは似ても似つかぬものとなり、やがて、海底に泥や汚れ

を落とし、海面に上がり 蒸発して、再び雨となり 泉を補給する。

貴方たちは自分の父母や兄弟友人に対すると同じように、いつでも神を見たり、

語り合ったりできるのだ。

本当のところ、神は誰よりも身近におられる。

神はどんな友より、はるかに慕わしく、また、忠実である。

神は決して興奮もせず、意気消沈することもない。

決してその子ら 生き物や被造物を一つとして破壊することなく、傷つける

ことなく、妨げることもない。

もし、そのようなことでもすれば、もはや彼は神ではない。

それは、人間の無智な考え方が創りあげたものに相違ない。”                                                           

そして、人は神の持ち給うすべてを持って、兼ね備えているということだ~と

大師は言う。

総ての人がそれを思いだし、知れさえすれば、その特権を使用して、その

恩恵に浴することができると大師はいう

 

私たち一人ひとりが、”真実一路”の道を向上することが 他の兄弟(友人)

たちに その道を踏みやすいよう整えることに通じるとも大師はいう。

だから、自分に 本来の信念を持つ必要がでてくる。

自分の実相に対してである。

自分の内なる神の資質、善、愛、希望、喜び、智慧、調和、といった、徳は、

すでに私たち自身の中に埋もれているということ。

その埋もれている資質こそ、私たちが持っている、本当の変わることのない姿

であるということ。

これを 生命の実相、あるいは、アートマと読んでいる。 

私たちがほとんど忘れてしまっている本当の姿に対して、(特定の思想や

教義や限定された神というシンボルではなく)信仰と信念を持つことが

必要だと大師は説くのだ。

 

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

 S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

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