自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自然治癒力ってなんでしょうか?

2015年06月16日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 自然治癒力ってなんでしょうか?  2015・6・16

**********************************

 

当たり前のように使っているこの言葉、いろいろな定義があるにせよ、

一口にいえば、生命力の力 ともいいかえることができるでしょう。

生命力はどこから来るのでしょうか?


この体の物質的組織からでしょうか?

だとすれば、死体には生命力の働きがないのは何故でしょう?

肉体が死んだということは生命力がそこには無いと言うこと

であるのなら、生命力があっての肉体 といえないでしょうか?

やや理屈っぽい言い方をしています。

 

生命力というのは実は遍在している力の一端、生かそう生かそうとする

本来の愛の働きの現れでもあるわけです。


キリスト教でも偉大なスピリチュアル大師たちは、この働きを

持つ最も大きな存在を神 と呼びます。

 ここに命題があります。

初めに神が存在するのなら 

”なぜこの世の中には不幸と悲しみに満ちている”のかと

いう疑問です。


神が愛であり、生命力であるのなら、なぜ、”病と格闘しなければ

ならない”かということです。


神 とは 全き善、愛、智慧、歓び、供給源、全知全能の

存在であると大師は教え、しかし、現実は、ほぼ正反対の状況

に遭遇する毎日だからです。


初めに神が存在する~

つまり、初め完全円満大調和の世界を神は御つくりに

なったということ。


次に自分の似姿である 人間 を創造されたといいます。

人間 は 親の遺伝子、つまり、神の遺伝子を以て誕生

しているわけです。


人間の親が神ならば、本来の親(大生命)から受け継いだ 

資質、それを神性というのです。

 

人は誰にでも仏性、神性がある。

神性なる存在として、人は 神の資質を反映しているにも

かかわらず、不幸の存在は矛盾しているようで、実は矛盾

していないのでもあります。


こう考えたらそういう結論にいたります:


”不幸とは実は その人が自分の意思で引き起こしているもの、

あるいは、自由に創造性を駆使して、身のまわりに顕して

いるもの”と考えられるからです。


だれでも、好き好んで不幸になりたい人はいないのに、

馬鹿げていると言う前にちょっと考えてみてください。


貴方は 自分に与えられている、神性なる資質を十分理解し、

そして、今与えられているもの、状況に関し、心から感謝を

感じながら”今” を生きていますか?


感謝を感じるということは、”有り難い”と思うことですが、

その想いを心底感じることができるのは、実は人が不幸を

味わって身に染みるというものです。


今一刻一刻を、感謝の心に満たされている人には、

その意味では、不幸は訪れない。


活かされている 生かされているということを、身をもって

知るには人は多くの道を経なければ、なかなか実感するまで

にはいたらないのかもしれません。


自分が一番世の中で不幸でみじめだ~と思う人は多いのですが 

身のまわりの ほとんど100%の他者は 不幸(

病気や、家庭問題、経済問題や職場での問題など)

に向き合いながら それでも笑顔を造ってあなたに

接しています。


本当のその人が耐え忍んでいる、”忍耐の胸の内”までは

なかなか他者は、想像できないものなのでしょう。


もう一つの不幸の存在する理由、あるいは、意義があります。

それは自分自身の創造したものがあるということに

気がつくためです。


自分自身の創造というのは、”自分の想念が形作られて

身のまわりに現れる人や物 あるいは 置かれた環境” 

になっているということです。


或る人はとても社交的でいつも多くの人に囲まれて

楽しんでいるし、ひっそり、田舎暮らしをしながら大自然と

対話して田畑を耕すことが至福であると感じる人もいる。


自分が今置かれている環境は、ある意味、自分のこうしたい

という長年の想念の現れであるともいえるわけです。


そうした中、不幸が来るというのは、自分の想念に対する

シグナルでしょう。


何か独善的、ひとりよがり、エゴ、自分勝手な想いが

先行していなかったか?

それを反省する機会なのかもしれません。


なぜなら、どの問題にしても、結局は自分の心に端を発していると

いっても過言でないわけですから。


災害や事故に巻き込まれたとしても、それも、因縁の世界

に生きている限り、何かの因、つまり原因があり それに

巻き込まれた以上自分も、その原因を造っていたと考えられます。


自分は正しいと思って行動していても、もしかしたら、

それは自分の”価値観の過信になっていたり、相手に良かれと思った

ことが、思いがけない悲しみを与えていたり、そういう 

因がつもりつもって、縁(きっかけ)となって、何か事が

起きる法則は成就してしまう。


それが心の法則でもあるのです。

良いこともそうですし、悪いこともそうですが、ここでは何故

不幸があるかと考えているのであえて事件(事故)を

取り上げました。

神は完全であるから、すでにこの世の中の実相も

完全に造られている~のです。

それが現れるかどうかは、自分の心がいかに自分自身に

遺伝子としてもっている神性を発現していくかどうか、

どれだけ、行動に移せたかどうかにかかわってくる

のでしょう。


その分、身のまわりは本来の光の輝きを増して平安に

整ってくるのだと思うのです。


健康もそうです。

本来 私たちは健康とか病とかいう、二元的価値観を

知らなかったはずです。

生き通しの生命力があるのですから、その人の生きている

意義があるうちは健康(当たり前な姿、自然の姿)で生きられる。

私たちの本来の姿を知ること、それが、本来の生命力の復元に

大きな力を持つのだと思います。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする