六根清浄を唱えながら決めたい、”立ち位置”
2023年10月3日
お遍路さんは、四国の弘法大師ゆかりの寺をめぐる巡礼者です
が、その時、かぶる菅笠(すげがさ)に書かれている言葉を
ご存じですか?
それは、
迷故三界(*1)城(*2)悟故十方空(*3)
本来無東西(*4) 何処有南北(*5) です。
この意味は、読んで字のごとしです。
始めに出てくる、”故”は”ゆえに”と読みますと、意味が
鮮明になります。
”迷うゆえに、三界(*1)は城(*2)なり、悟るが故に、
十方は空なり’*3)、本来、東、西の方角は無い(*4)、
どこに南北があるのだろう(*5)?”
現象界=欲界、色界、 無色界のことです。
(*2)城
万里の長城の外壁のように、境界として、敵の侵入を防ぐため
にめぐらされた城壁です。
’城塞’を意味訳すると、それがあることは、限界(境界線)が
存在するという意味にもとれます。
言葉を変えれば、’制限’とはなんでしょう?
制限があるゆえに、自由が奪われて、結果、’縛られている’と
いうことでしょう。
では、具体的に、’縛られる’ということはどういうことでしょう?
自由が無いということは、法律や常識などの、決まり事があり、
良い悪い、正しい過ちといった、判断基準がそこにはあるから
その規則に、則って行動するということです。
本来、城壁というのは、敵/味方という、相対する存在がなけれ
ば、存在理由はないはずです。
敵が攻め込んでくるのを防ぐために、造られました。
これは、戦国時代だけのお話では、ありません。
現代の私たちにも、目に見えない心の’城塞’があります。
つまり、悪いもの[敵]から守る、外敵を防ごうとする城塞
そこで、守るべきものは 国≔我が家、国民=自分や家族
友人や、国の尊厳=個人的プライド・名誉などでしょう。
(*3)”悟 故 十 方 空”について
ところが、’悟る’と、どうなるか?
’十方’、すなわち、自分の周囲すべてが、”空”(くう)だと
わかる~とここで言っています。
”空”は 一元の世界にあるものです。(ブログ般若心経の空の項参照)
つまり、ここでは、’敵も味方’も存在しないわけです。
誰も、何も、自分を傷つける人や物はいないし、’善悪’という
二つの価値観もないから、”悪い”という言葉すら無いわけです。
だから、お遍路さんの目指す’六根清浄の世界’は、城で囲まれた、
二元性の現象世界にはありません。
現象世界でありながら、空間を超越した、”空の次元”に
あるわけです。
(4)”本来 無 東西”だというわけです。
この中心点(空)に心を置いたとき、そこが、宇宙の中心だから
東も西もないという意味になります。
そうなると、私たち、一人ひとりが宇宙の中心ということです。
皆様一人ひとりが空の点(久遠の今)に 今現在、生きている
ということです。
それが信じられるか否か、は、ただ一つ、こ自覚するかしないか、
だけの問題です
では、どうしたら自覚できるのでしょう?
そのためには、今、つけている色眼鏡をはずす、だけです。
色眼鏡とは、さまざまな思い込みや偏見、社会意識などを
さしています
現に、サングラス(色眼鏡)をかけていれば、純白な雪も白色
には見えません。
真っ白な雪(六根清浄の一元の世界)をみるためには、裸眼
(空の眼)でみることです。
いいかえれば、’裸眼で見る’とは、完全に、偏見や差別を取り払い
元来、’智慧の眼’は、人に仏性があるから、誰にでも備わってます。
浴衣一枚身につけて、放浪しながら、多くの人の心を揺さぶる
純真な絵を残しています。
画伯は現実世界では、機能障害があっても、実は、本物の眼を
もっていたのでしょう。
こだわりのない、幼児のごとく、本物の眼を通してみる風景は、
驚きと新鮮さにあふれた色と形で満載だったのでしょう。
心の眼が変われば、見るものも 変わる。
私たちの”独断と偏見と常識”というメガネをはずすと物事の
本質にある、”美と調和と真理”が見えてくるのでしょう。
(*5)本来 無 東西 何処 有 南北について・・
さて、私の父は方位学を勉強して、’方変’えと称して、自宅を
中心にして、方角の良い方向に1か月以上、アパートを借りて
寝泊りしながら、毎日往復していたことがありました。
そこから私たち家族も、寝泊まりして、学校や仕事場に、通い
ました。
今にして思えば、父は、五黄殺(ごおうさつ)とか暗剣殺(あんけんさつ)
という現象界の方角にとらわれていたのです。
もし、その時、自分が ’空の点’ にたっているという自信があれば、
そこが、宇宙の中心ですので、どちらが東か北か南か西かということ
には煩わされなかったはずです。