ヨガとサイババ師の教え 2018年1月29日
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私が、このブログで、ヨガのことを話して、ヨガとは、”結ぶ” と
いう原語の意味があり、だから、絶対者あるいはアートマと直結することを
目的としている、と何度も書いているが、もしかしたら、唐突な結論に思える
読者も結構いらっしゃるのかもしれないと思った。
ヨガ の語源は サンスクリット語のyuji である。
この言葉の音訳が漢字にあてはめて中国を経て日本に来た時、瑜伽(ゆが)という
言葉で現代まで残っている。
真言密教が ヨガの教えに影響を受けていることは、この宗派が別名、瑜伽派(ゆが
は)とか、瑜伽宗(ゆがしゅう)などと呼ばれていることからもうかがえる。
それでは、yuji のヨガの語源の意味は何であったのだろうか?
‘馬に馬具を付ける’、‘調整する’、‘合一する’、‘結ぶ’という意味合いがヴェーダの
ウパニシャッド(カタハ・ウパニシャッド)に出ている。
ここで馬に馬具をつける~というのは、単なる、文字通り、動物のウマに道具を
付けるという意味だけではない。
私の師、サティアサイババ師からこのように私は聞いている。
“人の心はウマのようである。馬は常に体のどこかが動いている。同様、人の心は
常に感情で揺れ動いている。”
つまり、ウマというのは、ここでは人の心をさしていて、馬具というのは
その心を制御する、アンターカラナ(内面の道具)をさしている。
その前に心というのはどういう要素で成り立っているかを、サイババ師は
ヴェーダの教えに基づき、次のような簡単な言葉で表現した。
“心は4つの側面からなっている。
①マナス~感情的に同様する思考過程の中における心、
②ブッディ(理知)~探求と正邪の分別過程に携わっている心、
③チッタ~記憶の倉庫の中で識別をしているときの心、
④アハムカーラ(自我)~活動の行為者として自己を意識している心。”
“英語のマンという人間を現す言葉の語源は マナス(感情に揺れる心)を
所有するものという本来の意味から来ている。”
先に述べたように、サイババ師は "カトカウパニシャッドには、身体は
ウマが引く馬車、諸感覚は馬、マナスは手綱に、理性(ブッディ)は
御者に喩えられる。
この意味は、心(マナス)が感覚と理知の中間にあるということだ。
マナス、通常の私たちの感覚によって動かされている心が、理知の命令に
従えば、馬(諸感覚)は統御され、馬車は難なく進んでいく。
反対に、マナス~手綱が、馬(諸感覚)の気まぐれに翻弄されると、
馬車の進むべき道は無視され阻害される。“
さらに、
“諸感覚に対して手綱をゆるめることを、ブラヴリッティ・マルガ(外側の道)
と呼び、諸感覚を統制することをニヴリッティ・マルガ(内側の道)と呼ぶ”
と教えた。
こうして考えると、“‘馬に馬具を付ける’、‘調整する’、‘合一する’、‘結ぶ’と
いう一連の意味合いが見えてきて、ヨガの意味合いが明確になってくるように
思う。
肉体の諸感覚に対して、統制をすることで、身心の調整をして、内側にある
ブッディ(理知。叡智)と結ばれる という意味合いになり、これがヨガの
意味ということになる。
叡智とは前回で書いたように、真理を知っている自分自身に帰結するための、
智慧をさすとしたら、それは、与えられたアートマ、神の資質を認識すると
いうことでもある。
だから、私が本編でたびたび使う、ヨガとは神の合一 という意味合いも、
感覚を制御するという所から始まり、それは、誰もがもつ、心の智慧、内面の叡智
にふりむくことから出発するのだろう。
ヨガの行 とは、その目的を果たすための手段といえそうだ。
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