自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

父の最期と、自然治癒力セラピー協会を立ち上げるまでの経緯(2)

2018年03月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 自然治癒力の体験を 生と死の境で試す

******************************************2018・3・1

 

ヒマラヤ山脈の間でひっそりと 生命を謳歌する 高山植物

 

(前回からの続き~)

デリー大学大学院の文学修士、哲学修士、博士課程を終えると

インド人の信頼筋から紹介された 日本との合弁会社で働いた。

それはIT関係の会社だった。

それまで、パソコンなど操ったことのない私が、操作の”てにをは” 

から会社のエンジニアに教えてもらい、自動車部品の金型の

専門用語や3Dの設計図などと奮闘するようになったのだ

人生、想像していないことが起こるという意味では、面白い。


この三年間弱、インド人スタッフたちと日本の幹部の間で 

会社組織の人間関係やら、運営業務などに、日夜奮闘しながら

こなしていくことは その後の私の人生に大きな好影響を

与えてくれたことは間違いない。


この体験がなければ、NPOの法人組織を立ち上げることすら、

考えることは不可能だったろう。

 

このようなインドでの社会人としての日々、が2~3年続いたあと、

日本で、父が他界した。


父亡き後の残された母は、彼女の人生の支柱を失った虚無感に

さいなまれ、自殺願望にまで高まり、どこで死んだら、人目

つかないか、今、考えているのよ’ などと、始終 口にするように

なった。


そのため、父の死後から一ヵ月後には、インド16年間にわたり、

確立した生活基盤を捨てて、日本に戻る決意を固めた。

こうして帰国して、実家で母と同居生活が始まった。 

 

話は前後するが、父が逝去する数年前にも、命の危険性と

考えられる時期があった。

父の主治医は、’次に血尿が出たら、即、入院ですよ” と父に

告げていたが、血尿が、とうとう出てしまった。

明らかに、腎不全が悪化したと思われた。


その血尿が出て、父が入院準備を始めていたときに、たまたま、

当時、アメリカで勉学していた息子に会いにいくため、トランジット

で、日本に立ち寄った。

が、父の要入院の事態を父から聞かされ、私は、腰をすえて、

父の看病と施術にあたりたいと、父に申し出た。

当然、息子と会う切符は、そのまま、キャンセルになった。

 

父は私に全幅の信頼を寄せてくれた。 

それは、入院日として 主治医にすでに指定された日の朝だった。

突然の娘の意向に戸惑うことなく、心配そうに見守る母を後目に、

自ら電話の受話器を取り、主治医に電話を入れ、こう言った。


”娘がインドから帰ってきました。 

娘のセラピーに自分を託したいので、本日の入院ベッドの

予約は、キャンセルさせてください。” 

 

父は、こうして、強い意思と信頼を私に向けてくれた分、私は、

への施術を 毎日 午前午後 数時間ずつ、試みた。

トイレに行く度に、父の尿の量を測って表に書き込み、

食事のメニュー、食べた量、血尿の状況、などを書き込み

ながら、真剣にセラピーに取り組んだ。 


黄疸にかかったときは、皮膚は、文字通り黄色がかった、
褐色(かっしょく)になり、この時はすがに、私もひるんだ。

が、2日間の処置(アートマセラピー)でその症状も、
改善の方向に向かった。

 

血尿は当初の赤黒い色から、鉄褐色色、そして、だんだん薄まって、

ついに、一月後 正常な尿に戻った。 


こうして、父の症状は一段落した。

血尿も熱も、食欲も、排泄も問題が、ほぼなくなった。

その時、私は父に、改めて病院の検査入院を薦めた。

病院のかかりつけのお医者様に、健康体に戻ったことを

証明してもらい、父の健康回復の確信を持ってほしかった。


数日間の検査入院だったが、予測通り、”何も悪いところはない” 

という、結果が出て、健康数値は太鼓判を押された。


この結果は主治医の山田先生を驚かせた。

父は、’インドのセラピーはすごいですね!’と 私の施術の

皆目(かいもく)想像できなかったであろう主治医の素直な

感想が、父を通じて、私に伝わった。

 

そのような状況を、近所の人たちは 母からの話や、実際の

父の話などを通して知り、次第に、私の周囲には、父に施した

ヒーリング(当時はアートマセラピーという名前はなかった)

を求める体の悪い方たちが集まってきた。

 

 

ヒマラヤの高山植物

 

父が他界してからは、1人残され、精神的に非常に不安定に

なった母にセラピーを施術した。 

 

当時から血圧が180以上と異様に高かったが、セラピーを通して、

140ほどに抑えられた。

母の施術と同時に、その頃から、放射線治療中のガン患者、

テスト用紙も洗わなければ気が済まないパニック障害者、

死を宣告された、重度の喘息患者、といった方たちが、

私の元に通い始めて施術を求められた。


数か月から数年、こうした方たちとセラピーを通して

向き合う日々が続いた。 


ほとんどの方たちは、数か月から2年ほどで、状況は改善され、

中には、医師を驚かせる奇跡的な回復結果の人達もいて、

クライアントたちの賛同と協力を得て、2012年、内閣府公認法人

”自然治癒力セラピー協会”をたちあげた。

 

話が前後するが、父が亡くなる半年前、私は、日本に帰国した。

食欲が低下して、何も食べられないという、父のセラピーを

再度試みたが、この時は 私自身のセラピーでは治せない 

ということを直観した。

それは、余命を伸ばすことはできても、根本処置が難しい
ということだった。

運命という言葉はたぶんあるのだろう。


死にゆく運命の時の症状は、それが、天命の理にかなっている

以上、施術ですら、消えかかっている生命の炎を燃やすことは

不可能のような気がした。

”お父さん、申し訳ないけど、今回は、ちょっと自信がない”

とその時の感想を父に話し、父は、ただ食欲が低下してきた

ことと、体力が落ちたこと以外には、それまで通りの生活を

続けていたので、特に、深刻に体の悪化を考えていなかった

ようだった。

 

しかし、5か月後、父は自ら、入院を選択した。 

私の言葉を覚えていたのだろうか?

今回は、”先生にお任せします”と入院した初日に、

素直に主治医に挨拶をした。

 

父の最期は しかし、自宅にひきとり、とても安らかだった。 

亡くなる2か月前、インドから駆け付けた足でそのまま、病院

に見舞いに行った私を見て、

”家に帰りたい、畳の上で死にたい” と絞るような声で私に

訴えた。

そのころには、すでに、会話もできなくなっていたという
話だった。

そして、確かに、それが、私が聞いた、最後の父の声だった
かもしれない。

それは、父が、自ら、選択した、入院後わずか、1か月後

のことだった。

父を実家に帰宅させるために、私は、インドに帰ることなく、

奮闘した。


これまで介護保険を使っていなかった父には、ケアマネと呼ばれる

担当者は、いなかった。

まず、そこから手続きを始めた。

さらに、訪問医療看護や訪問医師の手続き、自宅で看取るための

万全の対策を整えて、父の自宅介護に踏み切った。


そして、それから数週間後、父の枕元で、私と母が、つい

うたたねをしてしまった、明け方5時に 父は、気づかないほど、

安らかに、息を引き取っていた。

 

遺体は真夏だというのに、数日間、そのままの状態で、自宅え

安置された。

葬儀場の都合がつかなかったためだ。

が、死体臭は全くなく、私は、父の顔を覆っていた白い布を

とったままで傍らで数日間、添い寝をして 数夜を越した。


汚物も 液体も、何も、体から出なかった。 

施術をして清められた身心の有様のような気がした。



 

続く~

 

 

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