自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

肉体感覚の矛盾性

2014年05月14日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

 自分の体?を知っていますか   2014・5・14

*******************

 

先日 NHKで右腕を失った大正12年生まれの男性が

桜の油絵を生涯の楽しみとして描き続けていることを

知りました。


その方は右腕をすでに失っているのに、時々、右腕が

痛いという激痛が走り、お嫁さんが

ないのに不思議なのですがほんとうに痛いそうです”と

漏らしていました。


このように、自分と自分の体といっても、失った組織

の一部が痛みを覚えると言うのは、どういうこと

なのでしょう?


自分の意識と肉体の関係はどうでしょう? 

これは “これは自分の体です。” と私たちは言います。

無くなった部分が痛いというのならわかるけれど、

無い部分が痛むと感じるのは”心と感覚の問題”でも

あるのでしょう。


このように自分と感じる意識も、実はあいまいなものだ

と言います。


たとえば、

”自分はこの肉体の中にある“

心臓も、太陽神経チャクラも、脳も、肉体の中にあるから 

肉体が自分だ” 

 と 心 で ”自分の定義” をそう、思い込ませている

のでしょう。

無いはずの腕も、頭ではわかっていても、心はまだ”ある”

としているから、痛みを感じるわけでもあります。

 

同様にこの世界で見えること、聞こえること、触れたりして

感じて心に印象を与えるその”おおもと”には、その物質を

心で認知して、感覚が脳に伝えられます。


ところが、ほんとうに私たちは 正しい現象を

観たり・聞いたり、感じたり”

しているかといえば だいぶ 疑わしいといわざる得ません。

 

たとえば、私たちは 震度3 程度 の地震を体で感じる

ことはできるけれど、

地球が 時速何千マイルの勢いで移動 していることを

感じられません。 


私たちの目の前にある、見えている物は すべて原子

でできていること。

頭では知っていますが、感じることはできません。 

さらに、原子は素粒子でできていると言われても、

全く無関係の世界の出来事のようにしか感じません。


現代物理学ではすでに素粒子は巨大な空のスペースを

ぐるぐる回っていることが当たり前のことになって

いますが、私たちの感覚では、

そのような実態も、感覚もまったく、つかめません

 

そんな、ぎこちない、能力 しか 私たちの五感は

持ち合わせていないのに、感覚で得た情報が、

すべて真実だと、どうして、信じることができるので

ょう?

 

哲学者が言う ”社会的規約の催眠状態” とは

このことをいうようです。 


私たちは、通常の日常生活では感覚器官で 

身の回りのエネルギー体を 

物質的構造、色、音などに変換して 理解しています。

 

変換して理解しているということは、

現象に見える実体は デフォルメされた

り、錯覚的にあるようにそれがそのままそう

あるように見えているだけで

真の実体の姿とは言えるかどうか疑問です。

 

私たちはまだまだ認知症ではないし、妄想世界

に住んでいるなんて思いたくないのですが、

こうして考えてみると、案外、自分たちの生活に都合の

良いように、共通妄想の現実を創り上げている

のかもしれません。 

 

物理学で証明されていることは、最近の

ニュースでも話題になっている

ように、データを貼り付けたり、

改善されたりしてでっち上げられたものでは

なく、私たちの五感の感覚を遥かに

超えた実験とその確証データの

領域の中で繰り広げられている 

”モノの実体”を示しているのです。


物質を構成している素粒子の間の 

空間の廣さ” はすでに

証明されているところですが、

ほとんど空間だらけの原子でできた

物質は “固体で 凍結した状態”だと 

感じられることも不思議でなりません。


感じる事が即信じられることの、

日常生活では誰も、このことを

疑っている人はいない。


それもまた、不思議な事であります。

このことを筆者は、あえて、”共通性妄想の世界”、

”幻想に近い錯覚世界”であると 呼びたいと

思います。

 

同様に、こうして、私たちは、 真の自分

(アートマ)の智慧で 

物事を見るのを忘れていますので、現象で

繰り広げられている事象こそ、現実真実の

世界だと思い込んでいます。

そういう意味では、アートマ世界から見ると、私たちは

催眠状態の中で生きているのかもしれません。


宗教詩人、カピールなら、

”無智という暗黒の眠りから覚めない、夢の中を彷徨う

人達” 

などと 表現するかもしれません。

 

般若心経でいうところの ”知恵” と ”智慧”の違い、

インド古代ベーダ哲学でいうところの、

マーヤの知恵” と ”アートマの智慧”の違いはまさに、

この感覚世界の夢のような世界と 生命力の充ちている

愛にあふれた本質的世界の隔たりに一致しています。


この智慧 と 知恵 の言葉づかいは、

その中間にたって、右と左の対照的な世界の物差しを

言い当てた言葉だと思います。

 

知恵は、五感の感覚を信頼するがために、

肉体の眼で見えないもの・聞こえないもの・

臭いのないもの・味わえないもの・触れる事が

できないものは、存在として認めないことを

基盤に成り立ちます。


だから 普通いわれる”知恵在る人”とは、

その範囲の常識を創り上げて、

その常識を超えない範囲の知識の情報量を

多く持っている人、(記憶力や解析力を含めて)

呼ばれる人でありましょう。


別の言い方をすれば、その非存在性を 合理化して、

存在するように組み立てる 常識の中の知恵を

”現世の知恵” と呼びます。 

 

他方、バンニャー(般若)の 

真理を観る智慧” や、アートマの智慧とは

基準が全く、異なるものです。

 

存在するものを構成している波長や波動は 

五感の感覚でとらえられません。 

たとえば、私たちが関知できる、色ですら、

光の波長の断片に過ぎません。


同様、肉体も固体と感じているけれど、

実態は、細胞、細胞の分子、

分子の中の素粒子、素粒子の中の巨大な空間、

そして、

その空間に存在する、生命力、アートマエネルギー

から成り立っているわけです。


そこからくる智慧は、人を神性に復帰させるための、

直観的真理であるわけです。

同じ発音の ちえ でも こうした大きな

違いがあること、

アートマセラピーは、後者の智慧に体と

心の波長を合わせることが主眼です。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空~多即一~一即多

2014年05月11日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

 アートマセラピーは”自分が施術者” 2014・5・11

*******************************************

 

 

宇宙の"一なる原点"から 多種多様な方法で宇宙に浸透

した、多種多様の生き物や生き様、が存在する。


"多即一、一即多" である。

 

Warren博士も この仕様を以下の言葉で表現している。


It must be understood that all things in 

the universe maintain this principle of 

wholeness  ecause Elohim Himself in One or Unity."

須田訳)

宇宙の全体性を保持している意思により、物事が存在

していることを私たちは理解しなければならない。


なぜなら、Elohim(スダ注:キリスト教で説くところの

唯一の神の名前)が、ご自身がすでに、すべてのすべてを

統括している力そのものだからだ。

 

私は一つの宗派の信徒として意見を掲げるものではない。


どんな宗教も 哲学も、あるいは、先人の教えも

”多即一”の理(ことわり)のごとくに、一つの真理を

含んでいると信じるから。

 

だからあえて、Warren博士のここでいう Elohimを言葉を

次の言葉に、変えて定義したい。

つまり、”宇宙の中にある生かす源のエネルギー”と

位置づけしたい。

 

人によっては、特定の神の名前を当てはめた方がしっくり

いくだろうし、その逆の場合もあるだろう。

そしてなお、言葉を先にすすめるのならば、

この大きな根本的源を、無限に縮小させていったとしたら

最後に残る一点をあえて、空点と定義したい。


空点においては、すでに時間も空間も超越した

エネルギーの源点だ。

 

それをカプラー博士は”実在の点”と量子力学上

名付けたことを以前ご紹介した。

                                    

名著「タオ自然学」の言葉の中に見られる、以下の内容。


”現代の原子物理学は、東洋の神秘家が「実在」について

抱いた直観的見方と、非常によく似た 「実在」の見方 

へと私たちを導いている。


量子物理学から生まれてきた「実在」の像は、

相互に関連し合った宇宙的な蜘蛛の網のようなもので

あって、そこでは、観察者である人間は、常に現象の

参与者である。


素粒子レベルの世界像は、非常に東洋的で、

また神秘的なものになっている。時間と空間は

連続体となり、物質とエネルギーは相互に変化し、

観察者と観察されるものは、互いに作用し合って 

しまうのだ ”

これを、Warren博士のspontaneous healingの原点と

関わってみていくと、どうなるだろう?


まず、”東洋の神秘家”の実在に対する考えとは、

"物質は空(くう)であり、現象に現れているものは、

実在の影にすぎないという 


これは、般若心経に書かれている”空”という概念

にも似ている。


空のみ実在、そのほかのものは、皆無 である。

ある意味、’一元論思想’をさしていると考える。

それは ’多即一’ であり、’一即多’の世界でもある。 

こうした、東洋的な、一見、神秘学者の見解に見える

観方こそ、現代の物理学の最新の観方になりつつあると 

カプラー博士はいう

 

相互に関連し合った宇宙的な蜘蛛の網 といい、

観察者である人間は常に現象の参与者である。


つまり、量子力学の ”実在 と呼べる 実質 ”は、

宇宙規模で、相互に関連して、クモの糸のように、

密接な関連性 をもっているということ。 


そして、その実在にかかわる現象が、人間の想念と

深い関連性をもっている というように、受け取る。

 

今までのの物理学は、人間は、外からの、”観察者” 

に過ぎなかった。

物理学における実験を観察し、そのデータから真実を

つかみ出すという、真実の発見への 第三者的な関与者

だった。  


では、人間が 感覚で見えている現象に ”もっとも

かかわっている”ということはどういうことだろうか? 


極端に聞こえるが、或ると思えば、或る、無いと思えば

無いということだろう


ゆえに、般若心経では ”空の中には実質は無い 

と喝破しているわけである。

エネルギーが展開した、現象世界は、そういうものだと
確かに思う。

変らない実態は、”空(くう)、そのもの”、つまり、

実在の実質を作り出すエネルギーこそ、物理学でいう

ところの、実在”、仏教でいうところの”空”である。


博士は続ける。

下線部 物質とエネルギーは相互に変化 し、

 観察者と観察されるものは、互いに作用し合って

しまうのだ

と。


エネルギーとはこの場合 波動であらわされるだろう

エネルギーの種類が 異なる波動をつくり、波動で

造られているとする物質とともに、変化する


波動によって、病になり、波動によって、病は癒される。 

 

Warren博士の先に述べた文章の中で、

精神や心理的波動によって、人の健康が左右されると

いう下りがこれに相当する。


Warren博士の提唱するspontaneous healing とは、

まさに、人が自分の中にある ”一なる存在” に

目覚めることで可能になる。


そこに繋がるということで、空のエネルギーに

帰する。

言い換えれば、それはアートマセラピーの提唱する

アートマに帰結することでもある。


こうして、”完全実相の顕現”につながるということに

なる。


”spontaneous healing” とは、言い換えれば、

宇宙にある宇宙全体を統括しているその意志力(生命力)

に帰結することだ。


そして、それが私たちの提唱するところの

”自然治癒力の自覚に目覚める”ことであり、

各自が、その自覚に目覚めてこそ、higher self

(より高い大我)~(空点)に限りなく近づき

心身健康が達成される。


その過程においては、自分以外の力にしか、頼れない。

自らの中の力に頼ることでしか達成できない。


その過程を、アートマに目覚めていく(自己)セラピー

という意味合いで この協会では、

アートマセラピーと呼んでいる。

 

 

 

注)

 

フリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra, 1939年2月1日 -)は、

オーストリア出身のアメリカの 物理学者である。

現代物理学と東洋思想との相同性、相補 ... ウィーン生まれ。

1966年、 ウィーン大学で理論物理学の博士号を取得

Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須田さんのセラピーの主眼は?

2014年05月09日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

宇宙の軸に自分を合わせることって?             2014・5・9

**********************************************

 

 

ブログでさまざまな観点で皆様に生命力や治癒力について

話題を投じてきているが、”アートマセラピーと他のセラピー

と比べて何か大きな特徴は何か?”

とたまに、尋ねられることがある。


今日はそのお話しをさせていただきたい。

 

”多即一、一即多”という言葉を聞きなれない読者も

いると思う。

表現や言い回しが多々あっても、言いたいことは一つ、


言いたいことが一つでも 状況に合わせて表現方法は

多々あると同様、多様性の中には共通したものが

みつけられる。


例えば、星は無数でも宇宙は一つ、人間は場面場面で

多様な役割とその顔を持つがその人の本質は一つ、

波は無数に海面に湧きたつが海自体は一つである~

というように。

 

私たちの体でいえば、ここが痛い、悪い と症状が

いろいろ顕れるのだが 症状を抑えることが、

治ったことと思う人も多いようだ。


本当の原因”があるとすれば、それをきちんと

対処しない限り、症状を抑えても、異なる症状と

なって再び、体に出てくるだろう。


原因は一つでも顕れ方は多種多様のようだ。

風邪ひとつとっても、それぞれ、体の歪みなどに

よって、咳の出る人や発熱する人しない人など異なる。

 

多即一 とは、このように、

多様性の顕れ方をする表面的症状の奥にも、一つの

共通原因があったり

あるいは、

世の中多くの宗教があっても結局 真理は一つで

あるように、真実の(実存)存在 の側面が 

いろいろな形で表れていることをいう。

 

私たちの”生命力”とは何だろう?

 

日本人祖先は 万物に神が宿るとし、自然に畏敬を感じ、

多神教ともいえる神道を保持してきた。


石にも木にも神は宿る~とする。

奈良の三輪大明神に参拝した。

その御本体は 祠(ほこら)の中ではなく 裏に続く

道なりにそって、登っていく聖なる山であった。


そして その頂上には聖域としてしめ縄で区別された

場所があり大小の岩が積み重なられていた。

こうして、森羅万象、大自然の中に私たちは神を

見出してきた。


しかし、本来の神とは それら多くの事物にバラバラな

様相で存在しているのもほんとうなら、そこに流れる

大生命言い換えれば、宇宙の生かす力のうねりでも

あるように思える。

 

話しが飛躍するが、近代物理学で面白い実験結果が

生まれている。

たとえば、

もともと結合していた原子細胞を分離させて離れた

空間においても即座にお互いの反応を感じ取れるという 

最近の量子学の研究は何を意味しているのか?


それは ”もともと”ひとつの”一体化”している”全体”を

どんなに 切り離しても、それぞれがお互い、、

多大な影響を与え合って存在しているということだろう。

 

多様性に富んでいるこの世界の生物や事象も

実は、バラバラに作動している5本指が

根本では、掌(てのひら)にくっついているように、

その生命の大元では繋がっているということかもしれない。

 

病気になれば、人は病院へ行く。

薬などの物質を使って治療を施す。


これを 癒しの ”ハードな側面”とするのなら、

生命力などの、目に見えないエネルギーの存在は、

”ソフトな側面と呼ぶことができるかもしれない。

 

つまり、心と体の関係を考えていくことは

ソフトな側面” へのアプローチ。

こうしたソフト的側面を無視せず、生体として患者の

尊厳を意識しながら、病気の身体を扱う医師たちも

多いと思うが、先回ご紹介した、、Warren博士は 

次のような医師の意見があることを紹介している。


”We need to recognize that patience, grace, prayer,

meditation, hope, forgiveness and fellowship are as

important in many of our health initiatives as medication,

hospitalization, incanceration, or surgery."

須田訳)

忍耐、美質、祈り、瞑想、希望、赦し、友情は

医術、入院治療、癌予防 外科手術などの健康志向型行為

と同様大切なものであることを認識する必要があります。

[須田注:原文では、medetation ~medication,

hope~hospitalizationなどのように、二つのグループ前者と

後者のそれぞれの英単語のごろ合わせで正反対な

要素を述べている。]

 

さらに、Warren博士は、

Let’s look at the wholeness in the 

universe and see how it is related to the definition of the 

word 'healing'" と結ぶ。

 

宇宙の全体性を把握して、それが ヒーリングと

どう結びついているか考えてみよう というのだ。

 

逆に言えば、宇宙の全体像を把握することで、

メタフィジカルなヒーリングが達成できると 

博士は考える。


宇宙という無限大に秘められた中に、個人も宇宙も 

多”様性の中にある全体の一部ととらえるのなら、

人間個人を生かしている”生命力と共通意思” が

見つけられるというのだ。

 

冒頭に述べた処の、宇宙の中の多様性の中に潜む

生かす力の原理 をさすのだろう。

それを見つける事がヒーリングの第一義の条件だと

博士はいう。

 

宇宙を構成している惑星同志が

それぞれぶつからないで調和を図っているように、

人間の体はなんと精巧に調和を保ちながら

生体機能が無意識に休むことなく営まれているのだろう。


私たちの体の細胞一つ一つが 均整とれた調和の中で

エネルギーを交換しながら、刺激し合い、新陳代謝を

行い、免疫性、血液の浄性が 完全に保たれている。

 

それこそ、宇宙の一なる方針、あるいは共通軸でない

としたらそれをほかに 何と、表現できるだろう?

 

私たちの体には、”宇宙の意思と生かす原理”の

表現である生命力が満ちているとしか言いようが

ないだろう。


spontaneous healing とは、そのことを

心から納得したときに、自然に、もたらされる

癒しだ。

なぜなら、宇宙の原点 と繋がるから。

宇宙を生かしている力と同様の力がこの体に

みなぎっていることがわかるのだから。

 

アートマセラピーの特性は ここにあるようだ。

万物すべてを生かそうとするこの本来の生命力に

連なっている波動を心身に流すことによって

アートマの波動を その人の心奥に呼び覚ますこと。


それによって、自動的に、癒しが可能になると

いうことでもある。

施術者も施術される人もこうした共通認識に

たってこそ、後戻りしない心身になることが

できるのだ。


アートマセラピーはだから、本来、他者やハード面には

頼らない。

自分自身が行うセラピーでもあるという所以はここにある。


多くのクライアントの方達が 私を頼らずに、健康体を

保つためにアートマセラピー(Atma Therapy)を個人的に

続行されているようだ。

 

その特徴は、一旦、あるレベルに達すると、体も心も

後戻りしないということにある。


つまり、”また、元の状態に戻ってしまいました”という

ことはよっぽどの理由がない限り、聞いたことはない。

なぜなら、自分の中にあるバッテリー(大生命)と

繋がったのだから・・・・


そこに、一度繋がれば、いつでも、どこでも、

”自分自身でできる施術”が可能になり、他の助けはほぼ

いらなくなる

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須田さん、スポンテニアス・ヒーリングって何?(改訂版2021・6.25)

2014年05月06日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

誰もが持つ”生命力の本源からの癒し”のことです。 2014・5・3

******************************

’アートマセラピー協会’と当初、法人名を行政に
提出したら、内閣府のNPO識別担当者から
コメントがきた。

’アートマ’の意味が不明だという。

2024年の現在なら、パソコン検索すれば、
この言葉はいくつか事例とともに、意味付けが
でてくるはずだ。

が、10年以上前は、アートマという言葉は、検索にも
引っかからず、一般的でないという理由で、却下された。

活動内容を彷彿とさせる言葉に変えてほしいと
言われた。

自然治癒力セラピー協会の正式名は、
”Spontaneous healing therapy Japan”という。

この、"スポンテニアスセラピー"という言葉はさらに、
漠然とした言葉であるのかもしれない。

 
アートマというのは 人間の持つ大生命の力、
あるいは、仏教でいうところの仏性のことで、
純粋で、円満完全な人間の本来の資質をさしている。


そして、この本質的自分(アートマ)に立ち返った
とき、心身は”自然治癒力”が最大限に発揮されて、
病的症状は、健康体として、復帰するという
臨床的実例から”アートマセラピー”と協会の施術を
名付けている。

さて、後者の言葉、拙協会の名前にもなる、
spontaneous healing  という言葉に出会ったのは、
1997年に書かれたDr. Lee E. Warren博士のレポート
だった。


Spontaneous healing という言葉を善意なる目的で、
引用・公用することはかまわないという博士の好意に
甘えて,協会の正式名称に,使用させていただいた。
 
ところが、英語の長い名前では、協会が、どのような
活動内容かわからないという当局の反応があり、
日本語の便宜的訳を同時につけることにした。

それが、”自然治癒力セラピー協会”という和訳だった。
 
レポート(*1)の中で博士は次のように述べている。

The cause for spontaneous healing has to lie on a 
psychological and spiritual level."

須田訳] spontaneous healing (自然治癒)がなされる
根本は、心理的またスピリチュアル的なレヴェルに
あるべきといえる。”
 

私は、治癒するためには、”スピリチュアル的なレヴェル”
必要だとする、博士の意見に、心から共感した。 

現代医学では、どのように病を扱っているのか?といえば、
博士はこういう。

There are two errors or flaws with modern 
medicine's line of thinking.
The first is that modern science treats the physical 
body like a mechanicaldevice;a plane or car.”

須田訳) 
現代医学の考え方の流れには二つの過ちがある。
まず、人間の体を車や飛行機のように、機械的なもの
として扱っていること。

さらに、
”Now man is more than the sum of the pars of 
the physical body.
He has both a psychological and spiritual 
component.

Thus, the second error is not taking these 
components into consideration because the 
scientific model cannot measure them."

須田訳] 
人は、肉体的なパーツの寄せ集め以上のものだ。
サイコロジカル、かつスピリチュアル的な存在として
生まれた。

だから、西洋医学の2番目の過ちは、これらの側面を
熟慮しないことにある。

なぜなら、科学的にこれらの原因を真に挿し図ることは
不可能だからだ。”


博士だけでなく、現代の量子力学でも 現代の医学に
疑問をなげかける。

たとえば、Bell Theorem の論文(*2)には以下の
ような一説がある。
 
There is something non-physical that connects or
communicates with two atomic particles once joined.

When they are separated by great distance any change
in one of the particles is instantaneously reflected in 
the other particle."

須田訳)
非物理学的結合、あるいは、相互伝達が、結合した原子
細胞においてみられる。

一つの細胞が、かなりの距離をおいてそれぞれ分断された
としても、一つの細胞が何等かの変化を示すと、他方の細胞
に即座に影響を与えるのだ。
 

このBell Theoremの語った箇所を 違う言葉で表現すると
すると上記にも引用した、Warren博士の言葉になる;

This (The Bell Theorem) shows  that there is 
some non-local, non-material force,not bound
by space and time,that instantaneously unites 
the entire universe in its totality, as tha psychological 
and spiritual component unites man 
with his physical body.”

須田訳)
この細胞の伝達の話には、非物質的で空間や時間に
左右されない何らかの力の作用によると考えられる。

それによって、今の今、総合的にすべての宇宙が
統括されている所以でもある。

我々の肉体を構成している心理的精神的要素が、
同様に関連しあって体を維持していることも
かくあるかのようだ。
 

私たちの体でいえば、ある、症状のある個所に対して
医学的措置をとるのが当たり前だが細胞は体全体の
細胞と繋がっていて、有機的なつながりから、
それぞれの伝達意思を行っている。

これを博士は、”今の今、総合的にすべての宇宙が
統括されている”力と同様の力が身体に働いていると
表現している。

ここで言われている細胞の伝達、結びつき、身体の統合、
ひいては、宇宙の統括、の、大きなエネルギーとは、
何か??

どうしたら、その力を引き出せるか?

引き出して、実践生活に応用できるか??

そのために、世界最古の哲学書、
インドの”ヴェーダ書”の語彙から、この力の本源は、
”パラムアートマ(神)”であり、

親の遺伝子が子供に流れるように、その本源の力が
私たちに与えられ、生命力となっていることから、
私は”アートマエネルギー”と名付けた。

そのエネルギーを引き出すことが、自然治癒力の
原点である。

それによって、薬に全く頼ることなく、様々な
闘病生活から回帰したことで、ノウハウを皆様に
ご紹介しようと、このブログを始めた次第だ。
 


 

  2014年1月 町田市、街カフェのブースにて・・・

 

 

 (*1) PLIM Report,1997,Vol.6,No.5

 (*2)"Has Science Found God in Non Local Reality" 

p.16 in the September/October 1996 issue of the "PLIM REPORT"

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常識に逆らって真実を生きる人

2014年05月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

医者は病人を、数学は悲しむものを、神学は罪人を作る。  

2014・5・1

******************************

 

冒頭の言葉は宗教改革者 マルティン・ルターの言葉。(*1)

 

医者が病人をつくるというのは、先回に上げた

近藤誠医師の意見に通じるようだが、数学がなぜ、

悲しむものをつくるのかわからない。


さらに、”神学(Theology)は罪人を造る” 

というのは 逆説的で真実でもある。


人間は生まれながらに罪深い。

(原罪) という罪をしょって生まれる。

そういう説を幼い時から教会で教えられていれば

人は自分を罪人であるという意識から離れられなく

なるだろう。

そして心のどこかにそれを咎める気持ちと贖罪への祈り

が人を教会へと導いていったのだろう。

 

ルターは、カトリック教 最高権威者、ローマ法王に対して

死をかけて、異見を唱え、現聖職者でありながら、自分の

信仰と信念を貫き、時代の潮流とまったく逆行した生き方

貫徹した人だった。

 

たとえば次のルターの言葉はいかがだろうか?

He who loves not wine, women and song remains 

a fool his whole life long.


須田訳)

ワインと女性、歌を愛せないものは、一生無知でとどまる。


或いは、

"Ich sitze hier und trinke mein gutes Wittenbergisch Bier 

und das ReichGotteskommt von ganz alleine."

訳)

私がここに座って、うまいヴィッテンベルクのビールを飲む、

するとひとりでに神の国がやってくる。

 

聖職者についている人の言葉だと誰が考えるだろう?


酔っぱらって漏らす戯言(たわごと)に聞こえるかもしれない。

ビールを飲んで”神の国に入れる”とはどういうことだろう?


ここで当時のカトリック教の教えの背景を考えないと

このルターの言葉が伝わらないと思う。

 

当時のキリスト教、ローマカトリック教では、

”人は罪人であるのは生まれつきだから、どんなに善い

行いをしても、結局は、罪人でしかない” という教えが

一般的だったという。


そこでルターはいう。

ワインと女性と歌、を愛せよ~と。

これらは日常生活の 感覚的な楽しみだ。


牧師さん、あなたの言うように、これはダメ、あれも駄目、

世俗的では救われない、否、どんなことしても私たちは

罪深いもの、と教えて、だからこそ、キリスト教の神学に

沿った行き方で贖罪していかなければならないというのなら・・・・

 

その説教を 今まで頭(こうべ)を垂れて、恭しく聞き

入れてきた私だけど、私は一つの境地に達した。


神の義に我々が程遠い存在で、救われることもなない、

ということがあってたまるか!


~と


ルターは ビールを飲んで、歌を歌う当たり前の

人生の中にでも救いがあることを知らないのは 

”愚の骨頂(fool)”だとn上の二つの言葉を通して、訴える。

 

ルター自身、カタリナ・フォン・ボラという元修道女

と結婚して4子を儲けている。


当時すでに教職者だったルターだが、この結婚により、

後のプロテスタント教会牧師が結婚を認可される

という伝統をつくった

 

さて、実際のルターの信仰生活はどうだったのだろうか?


実はこの名言とは対照的な深い信仰生活を送り、

苦悩の淵をくぐりぬいていた。


彼の生い立ちを少し見てみると・・・

エアフルト大学時代、1505年、大学へ行く途中の

シュトッテルの草原で命の危険を感じたという。


落雷に襲われたのだ。

思わず、ルターは ”助けてください。助けてくれれば、

修道士になります!”

と叫んだという。


そして、大学を辞めて、エアフルトの聖アウグスチノ修道会

に入ってしまう。

 

そこでパウロの ”ローマの使徒への手紙” の中に

書かれている、神の義” の思想に動かされると同時に、

大きな課題を背負う。


神の義に対して、人は義をどのように求めていけば

よいのだろう?


’義と救い’を求めながらも 人は常に罪人であり続ける

ということへのカトリックの教えを学び、葛藤に

打ちのめされる。


禁欲的な修道生活を送るルター、どんなに、善行を

行ない、一生修行を重ねても、結局は自分は罪を

拭いえないとしたら?

 

こうした修道院生活を送ったルターが 上記のような

一見矛盾する言葉を発するには それに到達するまでの、

重圧的な信仰生活があったと推測する。

 

ある日を境に、ルターの信仰に光が射した。

考え方の転機であり、カトリックに対するプロテスタント

の誕生の布石ともいえる日が来たのだ。


1517年10月3日 (宗教改革記念日と後世に

記録される歴史的な日となる)


このとき、ルターはこうした疑問を解決するかのように、

一つの提議をローマ法王を軸とした、カトリックキリスト

教会に投げかける。


それは、

”自らの努力で救いに到達するのには限界があり、

神の愛と恵みの中に人間が救われ 義に達するのではないか”

という命題だった。

 

人間は善行ではなく、信仰によって義とされ、

その義に達するためにはすべてが神の恵みによるもの

でしかない~


という事を、果敢に、当時のローマ・カトリック教会に

提議したのだ。


それは、カトリック教会に福音信仰に立ち返ることを

求めたことでもあった。


かくして、この提言は、不敬罪として、

翌年、1920年、教皇庁から破門を言い渡される

ことになる。


さらに翌年、1921年には 帝国追放刑

(事実上の死刑)を宣告された。

 

しかし幸い、ザクセン選帝候の保護のもとで ルターは、

ワルトブルク城にかくまわれ、1522年 11週間

と言う短期間で新約聖書をドイツ語に翻訳した。


このことにより、ラテン語の解らない一般の大衆に聖書を

読む機会を与えられたばかりでなく、 結果的に、各地の

方言に分かれていたドイツ語の統一に関して、貢献をしたと

高く評価されることになる。

 

ルターは親しみやすい、讃美歌を数多くつくり、

物心両面でイエス・キリストの福音を人々に分かりやすく、

また身近なものとした。

 

そうした背景を知って、この二つのルターの言葉を 再度

先に挙げた、不遜にも聞こえる、彼の言葉を、読んで

いただきたい。


意味合いも少しニュアンスが違ってくるだろう。

 死をかけた提言は、ルター自身の信仰を本質的な

ものにしたと思う。


それは、小自我(エゴ)で人は”義を果たす”、のではなく、

そうして、罪から救われる人間になるのではなく、

すべては”神様の恵みと愛の中に、ある”のみだという

安堵の確信と深い信仰でもある。

 

神の愛と恵み(恩寵)に自分をさらけ出す。

すると、すでに、義を果たし救われているのが自分だ。


パウロの神の義について深く思い悩んだ

信仰は、心安らかな神の福音への信頼へのそれへと

変わっていったのだ。

 

だからこそ、次の名言が生まれている:

Here I stand; I can do no otherwise. God help me. 

Amen!”


須田訳)

今、私はここに立ちあがる; ほかに何も為しようがない。

神が我を助けてくれる、アーメン”

 

今、ここに生きている。

でも神の守護と愛を信じる限り、それで良し。

他に何を じたばたする必要があるだろう。


一種の他力本願的な信仰ともいえよう。

自力ではなく他力(神の恩寵)を信じて安寧(あんねい)に

日々を過ごす。

小さな自我意識のあがきより、神への信頼のみが

未来に通じる。

という、ルターの信仰心が伝わってくる。

 

”私のキリストが生き、支配すると、私は彼とともに生き、

支配するようになる。”(*2)


ルターの他力本願は決して、自分への自信が揺らいだ

からではない。

むしろ、キリスト意識(真理)、大愛、慈悲、赦し、が

自分自身の中にあると気が付いたからこそ 

”私の”と”キリスト”の前に言葉を添えている。


力強い信念の言葉だろう。

その表現がこの上記の明言にあらわれている。

 

”私の中のキリスト意識”が自分を支配することで、

その大愛とともに自分の人生はあり、

弱い自分(小我)をも支配して、勇気をもって、

為すべきことに立ち向かう”

 

という自分の信仰のままに生きとおして

プロテスタントの基礎を作ったルターの 

新しく踏み出した人生宣言、信仰宣言でもあるのだろう。

 

 

 

(*1)

"Die Arznei macht kranke, die Mathematik traurige 

und die Theologie sündhafte Leute."

(*2)

"Mein Christus lebt und herscht, 

und ich werde mit ihm leben und herrschen."

 

ルーテル教会について)

1517年にマルティン・ルターの

宗教改革によりドイツで誕生した。

ルターの「宗教改革」の流れを汲むキリスト教会として、

福音を伝えながら、ドイツから北欧に渡り

国民教会となる。


その後、アメリカにも渡り、更にアジア、

アフリカ、ラテン・アメリカなどに至って今日、

全世界で約7000万人の会員数を持つ。

日本では、今から約100年前に、

アメリカからの宣教師によって最初のルーテル教会が生まれ、

現在、日本には約270のルーテル教会が存在する。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする