自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

若返りの極意

2021年01月08日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方
 

新しい年に向かって~年はとりたくない人に                  1月8日 2021

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久遠の今”という言葉は”くおんのいま”と読みます。 

では、久遠というのは、永遠のこと? 

いえ、少しニュアンスがちがいます。

永遠は、限りない時の流れ、それは、”時間の推移”

です。一方、”久遠”は、”永久の久(きゅう)”の

字を使っていますが、時間の流れを飛び越えた、

”とき”を意味しています。

 

今日のテーマである若返りの極意、つまり、

老いない方法を理解していただくためには、

この言葉がキーワード になるはずです。

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誰でもできるなら、いつまでも若くありたいと

願っているだろう。若くいるということは健康で

あり、生き生きして元気のない老人にはならない

ということ。

 

元気のない老人にならないというのは、肉体的

にも健全であるとともに、精神的に年を取らない

ということ。精神的に年をとらなければ、心と体

は一体だから、自然老化は多少、そのスピード

を押さえることができるかもしれない。

では、”心が年を取らない”ということはどういう

ことだろう?

 

周りにも、溌剌としたエネルギーに満ちている

70代・80代の方たちがいらっしゃるが、それなり

に秘訣があるのだと思う。

私は、16年のインド生活の中で、ヒマラヤの聖者

たち、ヨギからそれを間接的に教わった。

そのお話しを今日はさせていただきたい。

 

まず、伝授された”年を取らない秘訣”の答えを

お教えしたい。それは、”久遠の今”に生きること、

だった。

その”久遠の今”というのは、どこにあるのだろう? 

わたし達の意識の中にあるのだ。

 

それでは、どのように意識を持って行けば良いのか?

といえば、丸い円を想像していただきたい。

 

まず、円を描くには、精巧なコンパスと紙が、

ここにある。 コンパスを置くと、そこが円の中心

となる。円の中心点は、スピリチュアルな意識の中

では、”空(くう)点”という。

 

空点を、ハワイのポオポノポノでは、"ゼロ・

リミッツ"という言葉を使う。

空は何もないemptyと異なり、voidという訳が

適切だろう。実は、そこが、すべての現象や、物質、

意識の”本髄”であり”実質”だからだ。

 

さて、円の中心から半径を決めて一回りコンパスを

動かすと、コンパスを調整すれば、最小から、無限大

の円まであらゆるサイズの円がほぼ無限に書ける。

この半径が”時間”と仮定されるものだ。

長い時間がかかるものは、半径がとても長いものと

いえるだろう。

瞬時の意識レベルの円では、ミクロの半径の長さで

コンパスを一回りさせれば、微細な円も描ける。

 

このように、半径(時間)はいくらでも延ばしたり

縮めたりできるが、コンパスの足が刺さっている、

だが、円の中心は微動だにさせてはいけない。 

わずかでも、コンパスの軸がずれれば、円の中心

が動くので、書いている円自体が、歪(いびつ)

になったり、ぶれてしまったりする。

 

それは意識の世界では、どういうことかといえば、

中途半端な体験となったり、納得がいかない

理不尽な体験となったりするだろう。

 

記憶に留まっている経験(意識体験)というのは、

潜在意識に積み重なり、こうして、ぶれない中心軸

に置かれたコンパスが、人生に多多無数の円を

創造していくように、作られていったものだ。

そういう意味では、人生の中で起きた事柄は、

’円を描く’という自分の心が創り出した円の形かも

しれない。

 

時間というのは、中心(空)点から発生している

から、その点自体は、時間を創りだすが、時間に

左右を受けない場所である。

それこそが、”久遠の今”、と言える場所だ。 

 

さて、コンパスの足の長さをいろいろ調整されて

できた、円の領域を”空間”と仮定する。

”空間”も”時間”と、私たちの意識が、作り出して

いるものであるから、私たちの意識が”久遠の今”

にしっかりと固定されていれば、意識自体が、

いくらでも 半径の長さを意図的に調整して、

円自体を、拡大・拡小させられる。

 

だから、人は、時として意識が宇宙の無限に

飛び出していけたり、ミクロの量子物理学の理論

を生み出すような場も容易に意識できるのだろう。

こうしてできた無数の意識の場や空間の場は、

言い換えれば、その人自身の選択で、その人が

創りだしているものにほかならない。

 

さて、話がややこしくなってしまって恐縮だ。

私自身が、この概念を、きちんとしたロジカルな

言葉の羅列でお伝えできないのは、まだ未熟さ

があるためだ。

この記事は、分りずらい内容だと、ここまでに、

何人もの読者から、感想を頂戴しているので、

その未熟さをお許しいただきたい。

 

ここで、質問を最初に戻し、”年を取らない”こと

と、”コンパスで円を書いたときの中心点=久遠の今”

とどういう関係にあるのかに話題を転じたい。

私たちの意識を、この円形の”中心点”にもし、

常時、瞬時瞬時に、ぶれることなく中心ピンを

留めることができれば、何がおこるのだろう?

 

すると、時間や空間に、左右されないその中心点

では、時間・空間の、三次元的限界を感じること

なく、時空に、影響されないポイントであること

を、自意識が認識するだろう。

そして、意識をその点に、留まらせようという

意志があれば、その人は、三次元的周囲の

要素を超越したところに留まることが可能だろう。

 

それこそが、本来の自分自身の姿であり、

”あるがままの自分”、感情や、空気や時間に制限を

受けない、自分への自覚が可能になるのだと思う。

 

それをインドの聖者は、”超越意識が到達する、

完全調和の点を求めよ”と教えた。

 

久遠の点に心の重心が留まることができれば、

”時間”にも”空間”にも影響されない自分を発見する

と同時に、時間の長さも、空間の広さも、自分の

観念の中で自由自在に規定できる。

例を考えてみたい。

 

たとえば、久遠の点に意識を置いた、時間や

空間に左右されない体験は、”時間を忘れる体験”

と言い変えられる。

狭いところにいても、その狭さも窮屈に感じ

ないほど、心が豊かに広がる体験をお持ちの方

もいるだろう。たとえば、

茶道を嗜む方にとっては、狭い4畳半の茶室に

数名の客が、座していても、そこに、広大な

宇宙の空間の広がりを感じたり、そこで戴く

お作法に則ったお茶のお点前の所作に、優雅な

時間の流れを感じることだろう。

 

懐かしい友人や、恋人や家族との、親睦の

楽しい時間が、あっという間に過ぎた経験や、日常

と離れた旅先で、数日間の体験が、数年をかけた

体験と匹敵できるほど、中身の濃いものとなったり

することもある。

 

そうした体験の裏には、私たちの意識が、特別な

時を忘れるほどの体験、という円(場)の中心

にいたからだと思うのだ。

言い換えれば、通常の意識の置き場と異なる、

時空を超えた点に、意識が置かれていたからこそ、

そうした、特別な感覚を得ることができたのだと思う。

 

その点が、”久遠の今”の場所だ。ぶれやすいが、

ぶれなければ完全円が描ける、特別な中心点的な存在点だ。

そして、若さの秘訣があるとしたら、そこに居る時間が

長い人ほど、年を取るという現象が、反比例して見られ

ないらしい。

 

私たちは瞑想をする。

日常生活の、無意識に過ぎ去っていく”今”を

しっかり、みつめるために、無心になって、

空のこの中心点に焦点をあてるためだ。

絶えず、落ち着きのない蟻やハエのように、

動き回って止まることをしらない、私たちの

”想い・意識”を、真の自分の心の一番深い

ところに潜む、その中心点に、止めるためだ。

 

無心になるとは、この、”空の一点”、”真空の点”

に意識を集中することなのだ。

般若心経でいうところの、”般若バンニャー

(サンスクリット語]意味は、(悟りにいたる

大いなる叡智)” ということ。

 

悟りに至る大いなる叡智を知るとは、空(kuu)

を観じることで、意識が、久遠の今につながり、

そこから湧きい出てくる智慧波動に、心が満たされた

ときだろう。

 

その智慧波動により、本当の、ぶれない自分を

ヒトは知る。本質の自己の存在。

その”本質の自分”こそ、生命力という創造の源の

資質を受け継いだ、本当の我そのものであり、

生き通しの魂の別名でもある。

 

だから、その点に留まることが、肉体年齢を

超越し、年を取らない秘訣となる。

生きとおしの自分の顕現・・壮大な人生の目的

であるとともに、物質世界を凌駕した大きな

ロマンを感じる。

 

 

補足)

空の中に入りきる意識というのは自我がない、

無執着の意識でもある。 

”老いる”という言葉は、"時"というベルト

コンベアーに乗っかって,大衆意識や常識観念、

マスコミの創った世の中の風潮に逆らわず、

生きて与えられる、言葉のような気がす。

 

たとえば、40代からは、少しずつ、筋肉が衰えて

いくこと、同時に、頭脳の細胞が収縮して アルツ

ハイマーに向けて、脳内の海馬が縮むだろうと

いう常識、60代以降は、血圧問題や血糖値の問題が

当たり前、腰痛や関節痛があるのは日常で、その

理由は、関節などの軟骨が年と共にすり減るから、

背骨も同様で次第に曲がってきて、80代90代では

認知症になる・・

 

云々というように、世間一般で言われる常識が、

年齢というベルトコンベアに乗った人には、その

通りに、その人に型押しされていく。

 

そして、その型押し通りに、その人の意識は、

自分の身体に老いを受け入れていく。 

意識が受け入れたことは、ほぼ、実現するから、

人は期待通りに、老けて行くわけだ。

 

一方、久遠の今、を求める人には、そう簡単に

は、”老い”のマイナスエネルギーはやってこない。

それは、そうしたベルトコンベアの上に乗る

代わりに、本質の神性なる自己の中心点を凝視

する時間を人生に設けてきたからだ。

 

自分の本質が、物質の法則とは次元が異なる

波動で 包まれていることを理解しているから

だろう。

余談だが、人間以外の生き物たちは、ヒトと違い、

過去を思わず、今のみを生きているという。

だから、人間のように、計画を立てながら生きる才能

はない。

 

私の身近なペットたち、猫や、犬や、鳥・金魚にも、

”過去も未来の観念は無い”ようだ。

彼らには、”今の意識しかない”から、ある意味、”久遠

の今” しか知らないといえる。

その証拠に彼らは、人間のように老け顔になったり、

皺だらけになったり、年寄り然とした風貌とは、

無関係で生きている。

 

 

 

 

 

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