Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

 ティシエ・ド・マルレ司教様のインタビューについて

2006年05月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!

 ティシエ・ド・マルレ司教様のインタビューについて
一言メモ。

http://www.remnantnewspaper.com/Archives/archive-2006-0430-tissier.htm


 ティシエ・ド・マルレ司教様がアメリカのコルトンというところで堅振を授けるために来られた時(今年の4月か5月)、45分ほどインタビューがあった。インタビューアーはスティーブン・ハイナーだ。


 スティーブン・ハイナーはまず、ゼニットによるフランス司教評議会の報道発表(プレス・リリース)と、その他ネット上の情報(AngelQueen.org)でのリファン司教の発言などを指摘し、コメントを求めた。


 すると、ティシエ・ド・マルレ司教様は「この文書について知らない。私はあまりそのようなことに興味がないので、そのようなニュースを追いかけていない。ここでの問題はそのようなことではない。問題は「交わり」ではない。それは第二バチカン公会議以後のこれら司教たちがもっている愚かな考えに過ぎない。「交わり」の問題があるのではない。信仰宣言の問題があるに過ぎない。「交わり」とは何でもない。これは第二バチカン公会議の発明だ。本質的なことは、司教たちがカトリック信仰を持っていないということだ。「交わり」ということは私に何も意味しない。これは新しい教会のスローガンに過ぎない。新しい教会の定義は「交わり」だ。しかしこれは、カトリック教会の定義では全くなかった。私は聖伝によって理解されてきた教会の定義だけをあなたに伝えることが出来る。」


「教会は、洗礼を受け、カトリック信仰を宣言し、ローマ教皇に従う人々の、目に見える社会だ。これらの3つの要素こそが、本質的で必要なものだ。これだけが私にとって重要なことだ。「交わり」とは私には意味をなさない。もし私があなたに伝えなければならない重要な何かがあるとしたら、これら司教たちが信仰を失ってしまったということだ。特に贖いの玄義と教義に対する信仰だ。何故なら、第二バチカン公会議は贖いについて一度も語ったことがないからだ。典礼改革も、そうだ、贖いの玄義を完全に歪曲化した。」・・・


「私は彼(ラッツィンガー枢機卿)をネゴシエーターとして知った。彼は私たちを和解させ、私を公会議の教会に再導入させようと望んだ。私にとって彼は、知的で、「再編」のプロジェクトに興味を持つ男として見えた。私たちは彼のイニシアティブを避けた。しかし今や彼が教皇様だ。彼は特別の聖寵を持っている。しかしこれらの聖寵を使っていない。彼は教会のために何もしていない。教皇となり1年が経つが何もしていない。」・・・


「例えば、司教団体制(collegiality)がある。教皇(ベネディクト十六世)は教会を司教や枢機卿たちと一緒に統治したいと思っている。そのため彼は教会を統治できなくなっている。それが原因で教皇となって一年が経つが彼は何もしていない。これが原因であるのは明らかだ。司教団体制が彼を麻痺させている。まさに司教団体制が教皇を麻痺させている。」・・・


「ベネディクト十六世は、この3つの誤り(自由・平等・博愛)に献身的である。信教の自由に関しては、彼はほとんどヨハネ・パウロ二世と同じだ。両者ともいかなる政府もカトリック国家では有り得ない、いかなる政府もイエズス・キリストを真の天主であると認めることが出来ない、と確信している。勿論これは、カトリックの教えに反している。特にピオ11世のクァス・プリマスに反している。(ピオ9世の)シラブスにも反している。シラブスは一八六〇年代のもの、クァス・プリマスは一九二五年のものだ。それほど昔のものではない。時代遅れのものではない。」・・・


(インタビューは、いろいろな話題に飛ぶ。しかしインタビューを終わりにしようとするスティーブン・ハイナーに、ティシエ・ド・マルレ司教様は「あなたの質問に感謝するけれども、本質的なことには触れなかった」と指摘する。質問者は何のことかよく分からない。そこで、ティシエ・ド・マルレ司教様は、カトリック教会にはびこる異端について指摘しようとする。例えば、と言って、ベネディクト十六世が司祭時代に書いた本の問題について言及する。)



 このインタビューを読んで、ティシエ・ド・マルレ司教様にとって、もっとも感心があったのはカトリック信仰だと思った。カトリック信仰、そして救霊だ。


 ティシエ・ド・マルレ司教様にとって、バチカン内部のポリティック、マスメディア、聖ピオ十世会内部の人事(誰が次期の総長になるか)、その他諸々は全く副次的であり、本質的なことではない、ということだ。ティシエ・ド・マルレ司教様はカトリック教会に、そしてローマ教皇様に、カトリック信仰を求めている。そしてそれをこそ求めている。教会は、そして教皇様は、正しいカトリック信仰を与える義務がある。


 私たちにはそれを求める権利がある。ティシエ・ド・マルレ司教様が訴えていたのはそれだった。司教様の、飾り気のない、ぶっきらぼうにも思える応答において見え隠れさせていたのがその信仰の要求だっと思う。


 ティシエ・ド・マルレ司教様にとって、ベネディクト十六世がカトリック信仰を守るために勇敢に戦ってくれるか否か、それだけが問題なのだ。ベネディクト十六世が純粋な正統信仰を宣言し、異端を排斥するか、それがもっとも大切なことだ。


 だから「教会は、洗礼を受け、カトリック信仰を宣言し、ローマ教皇に従う人々の、目に見える社会だ。これらの3つの要素こそが、本質的で必要なものだ。これだけが私にとって重要なことだ」と言った。


 だから、カトリック信仰と関係のない「交わり」ならば、それはティシエ・ド・マルレ司教様には意味をなさない。



 教皇様といえども、私たちをしてこの信仰を棄てさせるように要求できない。教皇様といえども、私たちがこの信仰を棄てないから、といって教会の外に放り出すこともできないし、追い出すことも出来ない。私たちがこの信仰を棄てないかぎり、教会を「出て行く」こともあり得ない。カトリック信仰を棄てる人こそが、教会から出て行くことになるのだから。



 ティシエ・ド・マルレ司教様は、信仰の真理を問題としている。政治的な「数」の問題ではない。信仰はポリティックの問題ではない。教皇様は、カトリック信仰の擁護者であり、絶対君主。信仰のために教皇制度が存在する。カトリック教会は、信仰で動くもの。「数」で動くのではない。



 ティシエ・ド・マルレ司教様が言いたいのは、その点なのだと思う。



 私たちの祖先は、この信仰の真理のために殉教していった。イエズス・キリストが真の天主であるというこの真理のために命を失っていった。イエズス・キリストが、真の天主であるがゆえに、個人と同様に、政府も為政者も、キリストに対して公の誉れと服従を示さねばならない、という真理のために。


 私たちの祖先のカトリック信者は、これらの真理を黙想し、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを持っていた。


 私達の主キリストには、天と地の全ての権能が授けられている。
 全人類は例外なく、天主なるキリストの権威のもとに置かれている。
 私たちの主イエズス・キリストの権能はキリスト者のみならず、全ての人類を含んでいる。人類は真理に従う義務がある。人類は、真理を拒む自由も権利もない。人類は、その本当の福利のために、真理に従わなければならない。人類は真の天主のいない、天主から独立した「独立自律空間」をもつ自由はない。



 カトリック教会は、この真理を全人類に伝える使命を持っている。私たちは、ティシエ・ド・マルレ司教様と共に、教皇様がこの真理を伝えてくれることを期待している。



 もちろん、カトリック教会も人間から構成される団体だ。政治的な要素も、パワー・ポリティックスも、カネの力も、人間的な弱さもあるだろう。だからいざというときには、最終的手段として政治力に訴えることも出来る。教会が政治に関わることも許される。ただし、すべては信仰のためであるはずだ。政治のために信仰があるのではない。



  私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を」
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を」



 私たちが、教会にこの信仰を求めているとしたら、あまりにも多くを要求しすぎているのだろうか??

 



【クリックで応援して下さいね↓】
http://blog.with2.net/link.php?269452


 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】