Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による「第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか」カトリック・アイデンティティー・カンファレンス(2)

2020年12月04日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年10月24日、アメリカで行われた「カトリック・アイデンティティー講演会」で、元在米教皇大使ヴィガノ大司教(カルロ・マリア・ビガノ大司教)がビデオ動画で発表された講話(その2)の日本語訳を、参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

今回ヴィガノ大司教は、何故カトリック「保守派」が意図せずに進歩派を助けて、教会内の革命の推進を許してきたことになったか、ということを分析しています。

訳の中で、[ ] で囲まれたところは、原稿にはあったのですが、ビデオの録画ではヴィガノ大司教は読まずに飛ばしたところです。ビデオ動画にはでてきません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Catholic Identity Conference
カトリック・アイデンティティー・カンファレンス

2020年10月24日

教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による「第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか」(1) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

6.革命における穏健派カトリック教徒の道具としての役割

公会議の教父たちと、この集会を主宰した教皇たちは、第二バチカン公会議の文書を承認することが教会の将来に与える影響を理解していなかったと言う人もいるかもしれません。もしこれがその通りだったとしたら、つまり、異端のテキストや異端に近いテキストを急いで承認したことに少しでも後悔があったとしたなら、なぜ彼らが乱用を直ちにやめさせ、誤謬を訂正し、誤解や省略を明らかにすることができなかったのかを理解するのは難しいことです。

そして何よりも、なぜ教会当局が、カトリックの真理を擁護する人々に対してこれほどまでに冷酷であり、同時に、反逆者や異端者にひどく親切であったのかが理解できません。いずれにしても、公会議の危機の責任は、たとえ団体主義と司牧主義への千の【多くの】要求のある中であっても、油断なくその特権を守ってきて、その特権を一方向にのみ、すなわち、天主と教会の敵に対してではなく、pusillus grex[小さな群れ]に対して行使してきた権威の足元に置かれなければなりません。

一人の異端の神学者あるいは革命的な修道者が検邪聖省(Holy Office)によって検閲されたのが非常に稀な例外であったということは、何十年にもわたって施行されてきた規則を、悲劇的にも確認しているにすぎません。言うまでもなく、最近の時代では、彼らの多くが、自分たちの誤謬を捨てることなく復帰しており、ローマ教皇庁や教皇庁アカデミーで上位の地位に昇進してさえいるのです。

これが私の分析から浮かび上がってくる現実です。しかし、公会議の進歩派とカトリック聖伝派に加えて、司教団、聖職者、民衆の中には、両極端とみなすものから等しく距離を置こうとしている部分があることを私たちは知っています。私が話しているのは、いわゆる「保守派」のことです。つまり、教区内の中道主義的な部分は、革命派の過激さを拒否しながらも、革命派と同じ原理を共有しているため、革命派のために「水を運ぶ」【手先となる】ことになってしまうのです。

「保守派」の誤謬は、聖伝主義に否定的な意味合いを与え、聖伝を進歩主義の反対側に置くことにあります。彼らの「aurea mediocritas(黄金の平凡)」[中道 via media]は、二つの悪徳の間ではなく、聖徳と悪徳の間に恣意的に自分自身を置くことにあります。彼らは、パチャママという行き過ぎや、あるいはベルゴリオの声明の最も極端なものは批判するのですが、公会議が疑問視されるのは許容しない者たちです。公会議の癌と現在の転移との間の本質的なつながりについては言うまでもありません。政治的保守主義と宗教的保守主義の間の相関関係は、公会議の穏健な支持者たちが大切にしてきたヘーゲル主義的なアプローチに従って、「右」のテーゼと「左」のアンチテーゼの間にあるジンテーゼである「中道」を採用することにあるのです。

世俗の領域では、「ディープ・ステート」は、一見反対派にしか見えないものの実際には権力を維持するための道具となっている組織や運動を利用することによって、政治的・社会的な反対意見を管理してきました。同様に、教会の領域では、「ディープ・チャーチ」は穏健な「保守派」を利用して、信徒に自由を提供しているかのように見せかけています。

例えば、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Sumificum)自体は、特別形式のミサ挙行を認める一方で、公会議を受け入れ、改革された典礼の合法性を認めることを、「saltem impliciter」[少なくとも暗黙のうちに]要求しています。この策略は、この自発教令の恩恵を受けている人々が異議を唱えることを防ぐことであり、そうしなければ、彼らは「エクレジア・デイ」共同体【第二バチカン公会議を受け入れることを条件に教皇の承認を得て聖伝のミサを捧げる団体】の解散という危険を冒すことになります。

そしてこの策略は、教会や社会で正当性を持つためには、良いことであっても、それには悪いことや、少なくとも良さが少ないものが必ず伴っていなければならないという危険な考えを、キリスト教の民に植え付けてしまうのです。しかし、善と悪の両方に平等な権利を与えようとするのは、間違った心だけです。人がたとえ個人的には善に賛成していても、悪に賛成している人々の正当性を認めているのであれば、それは無きに等しいことです。

この意味で、民主的な政治家たちによって理論化された「選択の自由」による妊娠中絶は、今日、反教会によって頑なに擁護されている公会議によって理論化された同様に異常な「信教の自由」に対応して釣り合いを取っているのが分かります。カトリック教徒が妊娠中絶の権利を擁護する政治家を支持することが許されないなら、大罪にとどまることを「選択」することによって自分の不滅の霊魂を危険にさらすという個人の「自由」を擁護する高位聖職者を認めることは、なおさら許されないことです。これはあわれみではありません。これは、人間の支持と承認を得ようとするために、天主の前での霊的義務を怠ることです。


ヴィガノ大司教「"保守派"の誤謬は、聖伝主義に否定的な意味合いを与え、聖伝を進歩主義の反対側に置くこと、聖徳と悪徳の間に自分自身を置くことにある。」


7.「開かれた社会(オープン・ソサエティー)」と「開かれた宗教」

この分析は、教会の領域で非常によく知られた新言語(neo-language)について一言触れないなら、完全とは言えないでしょう。伝統的なカトリックの語彙は、その言葉が表す内容を変えるために、意図的に修正されています。同じことが典礼や説教で起こっています。そこでは、カトリック的な説明の明快さが、曖昧さ、あるいは教義の真理の暗黙の否定によって置き換えられています。例を挙げればきりがありません。この現象も、この世のスローガンの「カトリック」版を発展させようとした第二バチカン公会議にまでさかのぼります。それにもかかわらず、私が強調したいのは、世俗主義者の用語集から借用されたそれらの表現もまた、すべて新言語の一部であるということです。ベルゴリオが主張している「外に出ていく教会」、つまり積極的な価値としての "開かれていること openness"について考えてみましょう。前と同じように、私はいま、「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)から引用します。

「生きていてダイナミックな民、未来を持つ民は、違いを歓迎する能力を通じて、新しい統合のために常に開かれています」(フラテッリ・トゥッティ160番)。

「教会は扉の開かれた家です」(同上276番)。

「私たちは奉仕する教会でありたいと願っています。家を出て、礼拝の場から外に出て、香部屋から外に出ていく教会です。それは、生命に寄り添い、希望を支え、一致のしるしとなるため・・・橋を架け、壁を壊し、和解の種をまくためです」(同上)。

ジョージ・ソロスの世界統一主義イデオロギーが追い求める「開かれた社会(オープン・ソサエティー)」との類似性が非常に顕著であるため、それに対する「開かれた宗教」という対位法を構成していると言ってもいいほどです。

そして、この「開かれた宗教」は、世界統一主義の意向と完全に一致しています。教会の指導者たちによって祝福された「新しい人間中心主義(New Humanism)のための」政治集会から、「緑のプロパガンダ」への進歩的知識人の参加に至るまで、それらはすべて、この世を喜ばせようとする悲しくも奇怪な試みの中で、主流派の思想を追いかけているのです。「私はいま、人の賛成を求めようとするのか、それとも天主のみ旨を求めようとするのか。あるいは人に取り入ろうと努めているのか。私がいまも人に取り入ろうとしているのなら、私はキリストの奴隷ではない」(ガラツィア1章10節)。

カトリック教会は天主のまなざしの下で生きており、天主の栄光のため、また霊魂の救いのために存在しています。反教会は、この世のまなざしの下で生きており、冒涜的な人間の神格化と、霊魂の滅びに迎合しています。第二バチカン・エキュメニカル公会議の最後の総会の間、すべての教父たちの前で、パウロ六世の、次の驚くべき言葉がバチカン大聖堂に響き渡りました。

「人となった天主の宗教は、自ら自身を天主とする人間の宗教(これは宗教であるから)に出会いました。すると、何が起こったのでしょうか。衝突や戦い、非難があったのでしょうか。あり得たかもしれませんが、何もありませんでした。【良き】サマリヤ人の昔話は、公会議の霊性の手本となっています。限りない同情の感情が、公会議全体に浸透していきました。私たちの公会議の注意は、人間の必要とするものの発見に集中してきています(そして、これらの必要とするものは、地の子が自らのために主張する偉大さに比例して大きくなっていきます)。しかし、私たちは、自分たちを現代のヒューマニストと称し、最高の現実の持つ超越的な価値を放棄した人々に呼びかけます。彼らが、少なくとも【公会議の】一つの特質のために公会議を信用し、私たちの持つ新しいタイプの人間中心主義(humanism)を認識するように呼びかけます。私たちもまた、実に、他の誰にも増して、人類を崇敬しているのです」[4]。

この同情[συμπάθεια【sympatheia】の語源的意味、すなわち他者の感情を分かち合う]は、公会議の姿であり、かつ反教会の新宗教(これは宗教であるから)の姿です。反教会とは、教会とこの世との不潔な結合から、天のエルザレムと地獄のバビロンの間の不浄な結合から生まれたものです。よく注意してください。初めて教皇が「新しい人間中心主義(new humanism)」について言及したのは第二バチカン公会議の最終総会の時であり、今日では、それが公会議の革命的な「mens」[考え方、メンタリティー]の完璧で一貫性のある表現だとみなす人々によって、一つのマントラ【呪文】として繰り返されているのが私たちには分かります[5]。

新世界秩序と反教会との間にあるこの意向の一致を常に念頭に置いて、私たちは、ベルゴリオによって設計されたプロジェクトである「教育に関するグローバル・コンパクト」を忘れてはなりません。これは、「地球規模で変化を生み出すことで、教育が兄弟愛や平和、正義の創造者となるようにするのです。この時代には、パンデミックによって、さらに緊急的な必要性がしるされました」[6]。

国連と共同で推進されているこの「関係性と出会いの文化とにおける養成の過程は、すべての被造物との『共通の家』にも空間と価値を見いだします。なぜなら、人々は、共同体と連帯の論理にそって形成されているように、すでに『被造物との穏やかな調和を回復する』ために活動しており、世界を「真の兄弟的集まりの場所」(Gaudium et Spes, 37)【現代世界憲章37番】として構成しているからです」[7]。

以上のように、イデオロギー的に言及しているのは常に第二バチカン公会議のみであり、その理由は、その時から反教会が人間を天主の代わりに、被造物を創造主の代わりに置いたからです。

「新しい人間中心主義(new humanism)」には、明らかに環境的・生態学的な枠組みがありますが、その枠組みには、回勅「ラウダート・シ」(Laudato Si)と「緑の神学」(Green theology)の両方が接ぎ木されています。つまり、2019年の司教会議(シノドス)の「アマゾンの顔をした教会」のことであり、「ローマの衆議所」【ユダヤの衆議所は不法な夜の会議でキリストを断罪したがそれになぞらえてこのシノドスのことを表現している】の前で行ったパチャママ(母なる大地)の偶像崇拝を伴っています。

新型コロナウイルス感染症の期間の教会の態度は、一方では、教皇がしっかりと擁護しなければならなかった「教会の自由」(Libertas Ecclesiae)に違反して、位階階級が国家の「命令」(diktats)に服従していることを示していました。それはもう一方でまた、人類と国家の無数の罪に憤慨した天主の正義の御怒りを、環境に対する敬意の欠如に憤慨した更に不穏で破壊的な自然の怒りに置き換え、パンデミックの超自然的な意味の否定を表示しました。

私が強調したいのは、ほとんど知性と意志を付与されたかのように自然に、人格的なアイデンティティーを帰するということは、自然が神格化されるための前奏曲だということです。私たちはすでに、まさに聖ペトロ大聖堂のドームの下で、これについての冒涜的な前奏曲を見ているのです。

結論はこうです。反教会の側が現代世界の支配的イデオロギーに一致することで、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ、ビル・ゲイツ、ジェフリー・サックス、ジョン・エルカン、グンター・パウリを含む「持続可能な経済」に向けて活動している人々をはじめとする、ディープ・ステートの強力な代表者たちとの本当の協力関係が確立されるのです[8]。

[「持続可能な経済」は、農業および仕事の世界全般にも関わりがあることを覚えておくと有益となるでしょう。「ディープ・ステート」は、移民を通じて低コストの労働力を確保する必要があり、そうすることは同時に、関係する国々の宗教的、文化的、言語的アイデンティティーの抹消に寄与するのです。「ディープ・チャーチ」は、この侵略計画にイデオロギー的・擬似神学的な根拠を与えると同時に、利益を生む接客ビジネス(business of hospitality)のシェアを保証しています。ベルゴリオが「フラテッリ・トゥッティ」の中で繰り返し述べているように、「閉鎖性と自粛という異国恐怖症的なメンタリティーが広がっています」(同上39番)、「移住は世界の未来を打ち立てる要素を構成するでしょう」(同上40番)という、移民をテーマにしたベルゴリオの主張も理解できます。ベルゴリオは「打ち立てる要素」という表現を用いて、移住なしでは未来を想定することは不可能であると述べています。]

大統領選挙前夜の米国の政治状況について簡単に説明させてください。「フラテッリ・トゥッティ」は、ドナルド・トランプに明確に対抗して、民主党候補をバチカンが支持するという一形式のようです。フランシスコがローマでのマイク・ポンペオ国務長官への謁見を拒否した数日後のことです。これは、「光の子ら」がどちらの側にいるのか、そして「闇の子ら」が誰なのかを裏付けています。

8.「兄弟愛」のイデオロギー的な基盤

ベルゴリオの強迫観念である兄弟愛というテーマは、「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(Nostra Ætate)と「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)で初めて定式化されました。最新の回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)は、このフリーメーソン的ビジョンの宣言(マニフェスト)であって、天主を排除した人間同士の一致のために、自由、平等、博愛(兄弟愛)という叫びが福音に取って代わったものです。2019年2月4日にアブダビで署名された「『世界平和のための人類の兄弟愛』に関する共同宣言書」を、ベルゴリオが次の言葉で誇らしげに擁護したことに注意してください。

「カトリックの観点から見ると、文書は第二バチカン公会議から一ミリもずれていない。」
【“dal punto di vista cattolico il documento non è andato di un millimetro oltre il Concilio Vaticano II.”】

教皇庁諸宗教対話評議会議長ミゲル・アユソ・ギクソット枢機卿は、イエズス会総合雑誌「ラ・チビルタ・カットリカ」に、こうコメントを寄せています。

「[公会議とともに、堤防は徐々にひび割れ、そして破られていきました。対話の川は、教会と他宗教の信者との関係についての公会議宣言「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(Nostra Ætate)および互いに密接に結びついている信教の自由、テーマ、文書についての公会議宣言「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)で広がり、聖ヨハネ・パウロ二世が1986年10月27日にアッシジで開催した「世界平和祈祷集会」のような会議に命を与え、ベネディクト十六世が25年後に「世界の平和と正義のための考察、対話、祈りの日―真理への巡礼者、平和の巡礼者」の行事を聖フランシスコの町で私たちが行うことを可能にしているのです。したがって]平和と兄弟愛への道を開く宗教間対話へのカトリック教会の関わりは、教会の本来の使命の一部であり、公会議というイベントにそのルーツを持っています」[9]。

もう一度、第二バチカン公会議という癌は、それがベルゴリオ流「癌転移」の源にあることを裏付けています。私の兄弟アタナシウス・シュナイダー司教が最近の演説で正しく指摘したように、公会議とパチャママ・カルトを結びつけている「赤い糸(fil rouge)」[共通のテーマ]もまた、アッシジを通ってきて【アッシジの影響を受けて】いるのです[10]。

反教会といえば、フルトン・シーン司教は反キリストについて次のように述べています。「彼の宗教は天主の父性を持たない兄弟愛であり、選ばれた者さえも欺くでしょう」[11]。私たちの目の前で、この尊者である米国人大司教の予言が現実のものとなっているように思えます。

それゆえ、悪名高いスペインのグランド・ロッジが、玉座に就いたその騎士(paladin)【教皇フランシスコ】を温かく祝福した後、再びベルゴリオに次のような言葉で敬意を表したとしても、何ら不思議ではありません。

「[このイニシエーションの学派の偉大な原理は、3世紀にもわたって変わっていません。それは、人間が特定の信念やイデオロギー、肌の色、社会的出身、言語、文化、国籍を超えて、互いに兄弟と呼べるような普遍的な兄弟愛を築くことです。この博愛的な夢は、カトリック教会の場合には、19世紀にフリーメーソンの寛容さを非難する厳しいテキストにつながった宗教原理主義と衝突しました]。教皇フランシスコの最新の回勅は、現在のカトリック教会がその以前の立場からどれだけ離れているかを示しています。『フラテッリ・トゥッティ』において、教皇は現代フリーメーソンの偉大な原理である普遍的な兄弟愛を受け入れました」[12]。

イタリアのグランデ・オリエンテの反応も同様です。

「これらは、フリーメーソンが人類の高揚のために常に追求し、守ってきた原理です」[13]。

[ベルゴリオの“聖人伝作者”、オースティン・イヴェレイは、カトリック教徒なら当然のことながら少なくとも不安には思うでしょう、と満足しながらこの解釈を裏付けています[14]]。

「アルタ・ヴェンディータ」(Alta Vendita)【イタリアのカルボナリ党のロッジ】のフリーメーソン文書では、19世紀以来、教会へのフリーメーソンの潜入が計画されていたことを私は思い起こします。


「あなたは、友人らを使徒座の元に連れていくだろう。三重冠とカッパを身に着けて、十字架と旗をもって行進しながら、あなたは革命を説教するだろう。ほんのちょっとの針先でつつかれるだけで世界の四方八方に火をつけることができる革命を。」[15]

【脚注】

[4] ≪Religio, id est cultus Dei, qui homo fieri voluit, atque religio - talis enim est aestimanda - id est cultus hominis, qui fieri vult Deus, inter se congressae sunt. Quid tamen accidit? Certamen, proelium, anathema? Id sane haberi potuerat, sed plane non accidit. Vetus illa de bono Samaritano narratio excmplum fuit atque norma, ad quam Concilii nostri spiritualis ratio directa est. Etenim, immensus quidam erga homines amor Concilium penitus pervasit. Perspectae et iterum consideratae hominum necessitates, quae eo molestiores fiunt, quo magis huius terrae filius crescit, totum nostrae huius Synodi studium detinuerunt. Hanc saltem laudem Concilio tribuite, vos, nostra hac aetate cultores humanitatis, qui veritates rerum naturam transcendentes renuitis, iidemque novum nostrum humanitatis studium agnoscite: nam nos etiam, immo nos prae ceteris, hominis sumus cultores≫. Paolo VI, Allocuzione per l’ultima sessione del Concilio Ecumenico Vaticano II, 7 Dicembre 1965,

cfr. http://www.vatican.va/content/paul-vi/it/speeches/1965/documents/hf_p-vi_spe_19651207_epilogo-concilio.html

[5] https://twitter.com/i/status/1312837860442210304

[6] Cfr. www.educationglobalcompact.org

[7] Congregazione per l’Educazione Cattolica, Lettera Circolare alle scuole, universita e istituzioni educative, 10 Settembre 2020, cfr. http://www.educatio.va/content/dam/cec/Documenti/2020-09/IT-CONGREGATIO-LETTERA-COVID.pdf
【In un simile processo di formazione nella relazione e nella cultura dell’incontro trova spazio e valorizzazione anche la “casa comune” con tutte le creature, poiché le persone, proprio mentre si formano alla logica della comunione e della solidarietà, già lavorano «per recuperare la serena armonia con il creato»3, e per configurare il mondo come «spazio di una vera fraternità» (cfr Gaudium et spes, 37).】

[8] https://www.lastampa.it/cronaca/2020/10/03/news/green-blue-la-nuova-voce-dell-economia-sostenibile-via-con-il-papa-e-bill-gates-1.39375988

https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/2990-the-vatican-un-alliance-architects-of-death-and-doom

[9] Card. Miguel Angel Ayuso Guixot, Il documento sulla Fraternita umana nel solco del Concilio Vaticano II, 3 Febbraio 2020. Cfr. https://www.laciviltacattolica.it/news/il-documento-sulla-fratellanza-umana-nel-solco-del-concilio-vaticano-ii/

[10] https://www.cfnews.org.uk/bishop-schneider-pachamama-worship-in-rome-was-prepared-by-assisi-meetings/

[11] Mons. Fulton Sheen, discorso radiofonico del 26 Gennaio 1947. Cfr. https://www.tempi.it/fulton-sheen-e-linganno-del-grande-umanitario/

[12] https://www.infocatolica.com/?t=noticia&cod=38792

[13] https://twitter.com/grandeorienteit/status/1312991358886514688

[14] https://youtu.be/s8v-O_VH1xw

[15] « Vous amènerez des amis autour de la Chaire apostolique. Vous aurez prêché une révolution en tiare et en chape, marchant avec la croix et la bannière, une révolution qui n’aura besoin que d’être un tout petit peu aiguillonnée pour mettre le feu aux quatre coins du monde. » Cfr. Jacques Cretineau-Joly, L’ Eglise romaine en face de la Revolution, Parigi, Henri Plon, 1859.
https://books.google.it/books?id=Taz2Ph-ttgQC&printsec=frontcover&hl=it&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

(続く)

【参考資料】

聖ピオ十世会:司教聖別二十五周年に際しての宣言(二〇一三年六月二十七日) 日本語訳
【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・ 続き

【再掲】教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い
第二バチカン公会議の教会は人間の良心と尊厳に成り立つ世界統一を求める

【参考資料】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の現代のカトリック教会における混乱と逸脱の原因に関する考察(2020年6月8日付)
【拡散希望】ヴィガノ大司教「彼らはカトリックの正統性を擁護する人々に対しては鉄槌を浴びせ、教会法を良き人々を迫害する道具として利用し、離教者や異端者には利用しない。」

【拡散希望】ヴィガノ大司教とタウシグ司教との二つのパレーシア(臆することなく発言すること):ヴィガノ大司教のサン・ラファエル教区の神学校の閉鎖に関する手紙
野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで思ったこと:日本だけの問題か?韓国でもそうだ。一体何故?

ILS L’ONT DÉCOURONNÉ – PARTIE III : LE CATHOLICISME LIBÉRAL


2020年12月6日は、待降節第二主日(将临期第二主日 장림 제 이 주일)です。聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のテキストをラテン語・日本語・中文・韓国語でご紹介します

2020年12月04日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2020年12月6日は、待降節第二主日(将临期第二主日 장림 제 이 주일)です。聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のテキストをラテン語・日本語・中文・韓国語でご紹介します。

(指定巡礼聖堂。エルザレムにおける聖十字架の大聖堂)
イエズスがこの世に来給うたのは、人々を贖って、十字架上で御死去になるためであった。ベトレヘムは、直ちにカルワリオを思い出させる。これがために、本日の指定聖堂は、元、聖女ヘレナ皇后の宮廷があったところに建ったもので、「エルザレムにおける聖十字架」大聖堂という。ローマ典礼では、このローマの大聖堂を、エルザレムの十字架の大聖堂に模したものと見做していて、現在も、イエズスの十字架の断片が保存されている。そこで、本日のミサでは、エルザレムを度々暗示している。エルザレムを、公教会のかたどりと見、主の近き来臨を喜び祝っている。

耶路撒冷的名、解说“和平之城”或“和平的神视”。它正含有今天弥撒的奥义:因为在天的耶路撒冷,是指天上胜利的教会,也就是曾由依撒意亚所报道的和平之王国,而即我们所趋往的天父之家,即所谓基督将圆满自己信徒的一切希望之王国。
弥撒:基督信徒的希望、便是看到一般的人在和平中结合,孝爱天主一如他们的父亲,彼此相爱犹如兄弟(书信)。唯独基督能实现这个希望。在今天的福音中、我们听到祂正向犹太人证明祂降临于世、正为建立由无知所预报的王国。从人方面所发生对祂王国的阻碍,便是我们的贪念世物,以及滞留我们于这世上的恶倾向。我们该向基督呼求,祂以藉着自己的圣宠、降临于我们心中,援助我们克胜这一切的阻碍才行(集祷经)。

요안 세자가 옥중에서 그리스도의 행적을 듣고 그 문제중 둘을 보내어 예수께 이르되 '마땅히 오실자가 당신이오니까? 혹 우리가 마땅히 다른 이를 기다리오리까'(복음) 예수께서는 요안을 가리켜 '길'을 닦았던 당신의 사자라 하셨다. 요안은 자기의 제자들이 마땅히 이 '길'에서 그리스도를 따라가야 할 것을 깨달아 주기를 원했다. 오랫동안 기다렸던 구세주 예수 그리스도를 의지함으로만 영혼의 '소경'이 '보고', 인격의 '절름발이'가 '걷고', 죄로 '나창든 자'가 '조찰하여지고', '가난한자'가 새로운 복음으로 부유하게 될 것이다. 서간경은 그리스도적 생활의 내적인 면과 사회적인 면을 지적하고 있다. 즉 내적으로는 기구로써 성부이신 천주를 현양하는 것이요, 사회적으로는 우리 행위로써 형제애를 가지고 '그리스도'가 우리를 대접함 같이 '서로 대접하는 것이다' 초입경으로부터 영성체 후 축문에 이르는 전체 미사중에 성탄 전에 우리가 그리스도와 이웃을 섬겨야 할 필요성을 상기시키는 기구문이 얼마나 많이 되풀이 되고 있는가를 잘 살펴 볼 것이다. 어찌하여 이 외에 딴길을 찾고자 할 것인가?

Dominica Secunda Adventus 待降節第二主日 将临期第二主日 장림 제 이 주일
I classis 一級祝日 一等复式【紫】  (1급) 
Statio ad S. Crucem in Ierusalem. 指定巡礼聖堂。エルザレムにおける聖十字架の大聖堂 集合祈祷于耶路撒冷的十字架圣堂  
Ant. ad Introitum. Is. 30, 30. 入祭文 イザイア 30ノ30 进台经(依30:30) 초입경(이사이아30.30)
Pópulus Sion, ecce, Dóminus véniet ad salvándas gentes : et audítam fáciet Dóminus glóriam vocis suæ in lætítia cordis vestri. シオンの民、見よ、主は、民々を救うために来給うだろう。主は、御自分の声の栄光をあなたたちの心の喜びにおいて聞かせるだろう。 熙雍的人民、请看上主要降来拯救万民,上主必使人听见祂尊严的声音,叫你们内心欢乐。 시온 백성아 보라 만민을 구속하시기 위하여 주 임하시리니 너희 마음을 즐기시기 위하여 당신 영광의 소리를 듣게 하시리로다. 
Ps. 79, 2 詩篇79ノ2 咏79:2 (성영79.2) 
Qui regis Israël, inténde : qui dedúcis, velut ovem, Ioseph. イスラエルを治め給う御者よ、聞き給え。御身は、羊を[牧者が牧する]ようにヨゼフ[の民]を導き給う。 率领若瑟子孙如羊群之伊撒尔的牧者啊!求祢谛听。 이스라엘을 다시리시고 요셉을 양같이 인도하시는 자여 네 귀를 기울이소서. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와 ...
Pópulus Sion, ecce, Dóminus véniet ad salvándas gentes : et audítam fáciet Dóminus glóriam vocis suæ in lætítia cordis vestri. シオンの民、見よ、主は、民々を救うために来給うだろう。主は、御自分の声の栄光をあなたたちの心の喜びにおいて聞かせるだろう。 熙雍的人民、请看上主要降来拯救万民,上主必使人听见祂尊严的声音,叫你们内心欢乐。 시온 백성아 보라 만민을 구속하시기 위하여 주 임하시리니 너희 마음을 즐기시기 위하여 당신 영광의 소리를 듣게 하시리로다. 
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Excita, Dómine, corda nostra ad præparándas Unigéniti tui vias : ut, per eius advéntum, purificátis tibi méntibus servíre mereámur : Qui tecum. 主よ、御身の御独子の道を備えるために、われらの心を奮い立たせ給え。主の来臨によって、浄められた心で、御身に奉仕するにふさわしいものと我らがならんことを。御身と共に、天主として、(…)。 主,求祢激发我们的心,以准备祢独子的道路。这样、我们可以因祂的光临、拿净化了的心灵来事奉祢。祂和祢及圣神是惟一天主,永生永王于无穷世之世。阿门。 주여 우리 마음을 격동하시어 네 독생자의 길을 예비케 하사 저의 강생하심을 인하여 조찰하여진 마음으로 너를 섬기게 하소서. 저 너와 성신과...
Lectio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Romános. 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。 读经 서간경
Rom. 15, 4-13. ローマ 15ノ4-13 (罗15:4-13) (로마서15.4-13)
Fratres : Quæcúmque scripta sunt, ad nostram doctrínam scripta sunt : ut per patiéntiam et consolatiónem Scripturárum spem habeámus. Deus autem patiéntiæ et solácii det vobis idípsum sápere in altérutrum secúndum Iesum Christum : ut unánimes, uno ore honorificétis Deum et Patrem Dómini nostri Iesu Christi. Propter quod suscípite ínvicem, sicut et Christus suscépit vos in honórem Dei. Dico enim Christum Iesum minístrum fuísse circumcisiónis propter veritátem Dei, ad confirmándas promissiónes patrum : gentes autem super misericórdia honoráre Deum, sicut scriptum est : Proptérea confitébor tibi in géntibus, Dómine, et nómini tuo cantábo. Et íterum dicit : Lætámini, gentes, cum plebe eius. Et iterum : Laudáte, omnes gentes, Dóminum : et magnificáte eum, omnes pópuli. Et rursus Isaías ait : Erit radix Iesse, et qui exsúrget régere gentes, in eum gentes sperábunt. Deus autem spei répleat vos omni gáudio et pace in credéndo : ut abundétis in spe et virtúte Spíritus Sancti. 兄弟たちよ、前にかきしるされた全てのことは、私たちへの教訓のために書かれたものであって、聖書の教える忍耐と慰めとによって、希望をもたせるためである。忍耐と慰めの天主が、キリスト・イエズスにならうあなたたちにも、たがいに同じ心をもたせてくださるようにと祈る。それは、あなたたちが、みな一致し、一つの口をもって、私たちの主イエズス・キリストの父であり、天主である者をほめたたえるためである。つまり、キリストが天主の光栄のために、あなたたちを喜び迎えられたように、あなたたちもたがいに喜び迎えよ。キリストが割礼者に奉仕するものとなられたのは、天主の真実のため、先祖たちが受けた約束を実現するため、異邦人もあわれみによって天主をあがめるためであると、私は宣言する。「これがために、私は、異邦人の中であなたをほめたたえ、そしてあなたのみ名を歌おう」としるされてあるとおりである。また、「異邦人よ、天主の民とともによろこべ」とある。また、「すべての異邦人よ、主をほめたたえよ。諸国の民よ、主をたたえよ」とある。また、「イェッセのひこばえが出るであろう。異邦人を治める者が立ち、異邦人はかれに希望を置く」とイザヤはいう。希望の天主が、信仰における全ての喜びと平和とを、あなたたちにみたし、聖霊の力によって、希望をゆたかにしてくださるようにと祈る。 弟兄们:从前所写的一切,都是为了教训我们而写的,使我们藉着从圣经上学到的坚忍和安慰,获得希望。愿赐与坚忍和安慰的天主,赏赐你们依照耶稣基督的精神,彼此怀着同一的心意,使你们同心同口地赞扬天主、我们主耶稣基督的大父。因此你们要彼此收留,如同基督为了显扬天主收留了你们一样。我主张:耶稣基督给受割损礼的人服务,是为了实践许给我们祖先的话,而表显天主的忠实。至于外邦人,他们显扬天主,却是由于祂的仁慈,正如圣经上所记载的:“因此我要在外邦人中赞扬祢,我要歌颂祢的名字。”圣经上又说:“外邦人呀,你们和祂的民族一齐喜悦吧!”又说:“你们万民颂扬上主吧!万族都歌颂祂吧!”依撒意亚也说过:“叶塞的后裔将要出现,祂将起来治理万民:万民多希望祂。”愿赏给你们希望的天主,由于你们信祂,使你们充满喜乐与和平,使你们藉着圣神的德能、有充沛的希望。 형제들아 기록된바는 다 우리를 가르치기 위하여 기록된 것이니 우리로 하여금 인내와 성경의 위로로 인하여 희망을 얻게코저 함이로다. 인내와 위로의 천주는 너희로 하여금 예수 그리스도를 따라 서로 합심케 하사 한 마음과 한 입으로 우리 주 예수 그리스도의 성부이신 천주를 현양케 하실지어다. 이러므로 그리스도가 천주의 영광을 위하여 너희를 대접함같이 서로 대접할지어다. 대저 나 말하노니 그리스도 예수는 천주의 진실하심을 인하여 조상들에게 허락하신 바를 굳게 하시려고 할손례(를 받은자)의 일군이 되시고 외교인들은 저의 자비를 위하여 천주를 찬송할 것이로다. 대저 기록하였으되 '주여 이러므로 외인중에서 나 너를 증거하며 네 이름을 찬양하리라' 하였으며, 또 일렀으되 '외교인들아 저의 백성과 한가지로 즐거워하라' 하였도다. 또 '만민들아 주를 찬양할지며 모든 백성들아 저를 찬송할지어다' 하였으며 또 이사이아는 이르되 '옛세의 뿌리에 순이 돋아 외교인을 다시리실 자 일어나시리니 외교인들은 저에게 바라리로다' 하였도다. 원컨대 희망의 천주는 신앙으로 말미암아 모든 기쁨과 평화로 너희를 채우사 하여금 망덕과 성신의 능력이 너희게 풍성케 하실지어다.
Graduale. Ps. 49, 2-3 e.t 5. 昇階誦 詩篇 49ノ2-3, 5 台阶经(咏49:2-3,5) 층계경(성영49.23,5)
Ex Sion species decóris eius : Deus maniféste véniet シオンから、主の美しさの外観が。天主は明らかに来給うだろう。 从全美的熙雍中,我们的天主已经发光,我们的天主要来。 시온에서 저의 광채가 비치며 천주 드러나게 임하시리로다. 
V/. Congregáte illi sanctos eius, qui ordinavérunt testaméntum eius super sacrifícia. いけにえの上に主の契約を結んだ聖なる人々を、その御許に集めよ。 你们要为祂聚集那些以牺牲同祂立约的信义者。 제사로 인하여 저와 언약을 맺은 저의 성인들을 저에게 모을지어다.
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 121, 1. Lætátus sum in his, quæ dicta sunt mihi : in domum Dómini íbimus. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、 V/.詩篇121ノ1 私に言われたことにおいて私は喜んだ。「主の家に私たちは行こう」と。アレルヤ。 阿肋路亚, 阿肋路亚(咏121:1)当人对我说:“我们到上主的圣殿”时,我欢乐盈盈。阿肋路亚! 알렐루야 알렐루야.(성영121.1) 내게 말하되 우리는 주의 집에 들어 가리라 하매 나 기뻐하였도다. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。 福音 복음
Matth, 11, 2–10. マテオ  11ノ2-10 (玛11:2-10) (성마두11.2-10)
In illo tempore : Cum audísset Ioánnes in vínculis ópera Christi, mittens duos de discípulis suis, ait illi : Tu es, qui ventúrus es, an alium exspectámus ? Et respóndens Iesus, ait illis : Eúntes renuntiáte Ioánni, quæ audístis et vidístis. Cæci vident, claudi ámbulant, leprósi mundántur, surdi áudiunt, mórtui resúrgunt, páuperes evangelizántur : et beátus est, qui non fúerit scandalizátus in me. Illis autem abeúntibus, cœpit Iesus dícere ad turbas de Ioánne : Quid exístis in desértum vidére ? arúndinem vento agitátam ? Sed quid exístis videre ? hóminem móllibus vestitum ? Ecce, qui móllibus vestiúntur, in dómibus regum sunt. Sed quid exístis vidére ? Prophétam ? Etiam dico vobis, et plus quam Prophétam. Hic est enim, de quo scriptum est : Ecce, ego mitto Angelum meum ante fáciem tuam, qui præparábit viam tuam ante te. そのとき、牢獄でキリストのみわざを伝え聞いたヨハネは、自分の弟子たちをみもとにおくって、「来たるべきお方はあなたですか?それとも、ほかの人を待たねばなりませんか?」とたずねさせた。イエズスはお答えになった。「あなたたちが見聞していることを、ヨハネに伝えに行け。めくらは見え、足なえは歩き、らい病人はなおり、耳のきこえない人はきこえ、死人はよみがえり、貧しい人には福音が告げられている。私につまずかない人はしあわせである」。かれらが去ると、イエズスは、ヨハネについて人々にお話しになった。「あなたたちはなにを見ようとして荒れ地に行ったのか?風にゆらぐ葦か?では、なにを見に行ったのか?やわらかい服の人か?やわらかい服の人なら王の宮殿にいる。それなら、なにをしようとして行ったのか?預言者を見にか?そうだ、私はいう。預言者よりもすぐれた人である。"私は、あなたの前に、私のつかいをおくる。あなたの道をととのえさせるために"と書かれているのは、その人のことである。 那时候、若翰在狱中听到基督的事迹,就遣门徒去问祂说:“祢是不是要来的那一位?还是我们要等别的一位?”耶稣回答他们说:“去把你们所见所闻的,回报若翰:瞎子看见了,跛子行走了,癞病人洁净了,聋子听见了,死人复活了,穷人接到了福音。谁不因我而失足的,是有福的。”他们回去时,耶稣就给群人论若翰说:“你们到了旷野里去观看什么?是随风摇动的芦苇吗?你们究竟去看什么?是穿细软的衣服的人吗?穿细软的衣服的人、是在王宫里的。但你们究竟去看什么?是先知吗?我对你们说:是的,而且不止是先知!这就是圣经上所指着的那位:“看!我遣我的使者,在祢面前、为祢预备道路。” 유시에 요안이 옥중에서 그리스도의 행적을 듣고 그 문제중 둘을 보내어 예수께 이르되 '마땅히 오실자가 당신이오니까 혹 우리가 마땅히 다른이를 기다리오리까.' 예수 대답하여 가라사대 '너희가 들은바와 본바로써 요안에게 돌아가 고하라. 소경이 보고 앉은방이가 다니고 나창든자 조찰하여지고 귀막힌자 듣고 죽은자 다시 살고 가난한자 복음을 받으며 또 나를 괴이히 여기지 아니하는 자는 진복자니라' 하시니라. 저들이 돌아가매 예수 비로소 요안을 들어 백성에게 이르시되 '무엇을 보러 광야에 나갔더냐. 바람에 흔들리는 갈대냐. 또 무엇을 보러 나갔더냐. 부드러운 옷을 입은 사람이냐. 문득 부드러운 옷을 입은자는 왕궁에 있느니라. 마침내 무엇을 보러 나갔더냐. 선지자냐. 옳다. 나 너희게 이르노니 선지자보다도 더 초월하느니라. 대개 이 사람을 들어 기록하였으되 보라 내 천신을 네 면전에 보내매 저 네 앞에서 네 길을 닦으리라 하였나니라' 
Credo 信経 信经 (신경외움)
Ant. ad Offertorium. Ps. 84, 7-8 奉献文 詩篇 84ノ7-8 奉献经(咏84:7-8) 제헌경(성영84.7,8)
Deus, tu convérsus vivificábis nos, et plebs tua lætábitur in te : osténde nobis, Dómine, misericórdiam tuam, et salutáre tuum da nobis. 天主よ、御身はかえりみて、われらを生かし給え。御身の民は、御身において喜ぶであろう。主よ、御身の憐みを我らに示し給い、御身の救いをわれらに与え給え。 天主啊!祢要再将我们救活,使祢的子民、靠祢欢喜。上主啊!求祢使我们得见祢的仁慈,又将祢的救恩赐与我们。 천주여 너 돌이키시면 우리를 살리시리니 이에 네 백성이 네 안에 즐거워하리이다. 주여 네 자비를 우리에게 보이시며 네 구원을 우리에게 베푸소서.
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Placáre, quǽsumus, Dómine, humilitátis nostræ précibus et hóstiis : et, ubi nulla suppétunt suffrágia meritórum, tuis nobis succúrre præsídiis. Per Dóminum. 主よ、願わくは、われらの謙遜の祈りと犠牲とによって御心を和らげ給え。功徳のよりどころとして何もふさわしくないゆえに、御身の御保護により我らに助けを給え。天主として、(…)。 主,求祢因我们这些谦卑之人的祈祷和献礼、而动慈心,并念我们无功可恃而亲来施佑。因我们主……。 주여 비오니 우리 겸손한 기구와 제물로 인하여 의노를 풀으사 전달의 공을 얻지 못할 우리를 두호하심으로 도와 주시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ...
Præfatio de sanctissima Trinitate  序誦  三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属于我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Bar. 5, 5 ; 4, 36 聖体拝領誦 バルク 5ノ5, 4ノ36 领主咏(巴5:5;4:36) 영성체경(바룩5.5,4,36)
Ierúsalem, surge et sta in excélso, et vide iucunditátem, quæ véniet tibi a Deo tuo. エルザレムよ、起きよ、高き[ところ]に立て。御身の天主からおまえ[のところ]に来る喜びを見よ。 耶路撒冷!起来吧!站在高处观望吧!遥望由你的天主那里给你降来的喜乐吧! 예루살렘아 일어나 높은데 서 있어 천주께로 조차 네게로 오는 즐거움을 볼지어다. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Repléti cibo spirituális alimóniæ, súpplices te, Dómine, deprecámur : ut, huius participatióne mystérii, dóceas nos terréna despícere et amáre cæléstia. Per Dóminum nostrum. 主よ、霊的な糧の食べ物に飽かされて、御身に伏して願い奉る。この奥義に与ることによって、われらに、地上のものを軽んじ、天上のことを愛させ給え。天主として、(…)。 主,我们既已饱餐了神宴的盛馔,求祢因我们参与了祢这奥迹、教我们轻看世物,但爱天上之事。因我们主……。 주여 신령한 음식을 충만히 받은 우리가 네게 간절히 비오니 우리로 하여금 이 미사에 참여함으로 인하여 세상 사물을 경천히 여기고 천상 사물을 사랑할 줄을 알게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ...

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Measures to reduce coronavirus infection risk

2020年12月04日 | 聖伝のミサの予定
Ave Maria Immaclata!

December 2, 2020

Our requests to you when you attend our traditional masses - Measures to reduce coronavirus infection risk

To our beloved brothers and sisters,

Since Japan started to experience the coronavirus epidemic, we have taken, with your cooperation, various measures to avoid coronavirus infection risk. For that reason, we have caused you many inconveniences for an extended time. Thanks to God, we have not had anyone who got infected with coronavirus because of their attendance at our masses.

As reported by the media in the past several days, a record number of positive cases have been reported recently - last Saturday, for example, there were 561 new cases in Tokyo, 463 in Osaka, and a total of 2,684 in Japan.

Therefore, in order to keep our precious masses, we need to review our anti-infection measures one more time, strengthen them where necessary, and brace ourselves where we may have become too loose.

Though we have asked everyone to take various measures for some time, I would like to ask for your special cooperation regarding the following points:

(1) Make sure to wear a mask (or something equivalent)

Wearing of mask has been shown to be effective, not only for reducing your own infection risk, but also for preventing the risk of infecting people around you. Therefore, we ask you to wear a mask when you attend the mass, especially for the consideration of the health and lives of the brothers and sisters around us (except for those who have difficulty wearing a mask due to medical reasons and small children).

Please wear a new, or cleaned mask, though this may already be common sense. Also, take care of yourself to avoid lack of oxygen. Breezing through your nose is effective for prevention of infection as nostrils are equipped with various barriers against viruses.

In the chapel or mass center, I ask everyone except the priest to always wear a mask, including the faithful, servers and choir members (except for the time of holy communion). Also, please continue to wear a mask all the time, from entering the building to exiting the building, even when you are outside the chapel where the mass is offered, as there may be other people in the front areas, corridors, restrooms, etc.

(2) Make sure to ventilate the room

As the winter begins, the temperature is going to go down. However, ventilation is deemed very important as a measure to avoid coronavirus infection. I wish all our beloved brothers and sisters can attend masses in a warm room, but going forward, we need to continue the necessary room ventilation by keeping the windows open. Therefore I would strongly recommend that you wear very warm clothes when you come to mass.

(3) Make sure to avoid chatting before and after mass

I understand very well that you wish to talk with your friends before or after mass, but I have to request you to refrain from having unnecessary talks, especially in a chapel which houses the Holy Eucharist.

Please make sure, once again, to minimize your conversations and, even when you need to talk with someone, not to raise your voice, for the consideration of those brothers and sisters who are praying, or preparing for confession.

(4) Make sure not to voice your prayers during mass

All the responses during mass will be made by the servers and the choir, and so the faithful attending should not sing or voice their responses.

Also, during the Leonine prayers after low mass, the prayers after mass, Angelus prayers, etc., it will only be the priest or the precentor and the servers who should voice those prayers, and so the faithful attending should not voice their responses but rather pray them in their hearts.

(5) Make sure to wash (or sanitize) your hands when you enter the mass center

When you arrive at the mass center, please make sure to wash (or sanitize) your hands and fingers. We recommend washing your hands with ordinary soap, as it is deemed most effective. Gargling with ordinary water is also deemed effective for prevention of infection.

(6) Please rest assured that everything is in the hands of God. St Paul clearly states, "we know that to them that love God, all things work together unto good, to such as, according to his purpose, are called to be saints." (Romans, 8) It is also said that feeling uneasy leads to weakening of one's immune system.

Holy Mother, pray for us!
St. Joseph, pray for us!
St. Pius X, pray for us.
Holy Japanese martyrs, pray for us!

Rev. Thomas Onoda




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】