Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

何故無限の偉大な天主が、か弱い赤ちゃんとなってお生まれになるのか

2020年12月29日 | お説教・霊的講話
2020年12月20日(主日)待降節第4主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父様御説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、お知らせがあります。

来たる12月24日は、クリスマスの前日で、聖伝によれば昔からこの日には、主の御降誕を準備する為に、大小斎を行なってきました。今では残念ながらこれは義務ではないのですけれども、もしもできる方は、一緒に大小斎を捧げる事を提案致します。

なぜかというと、特に今年のクリスマスは、全世界で、バチカンでさえも、クリスマスを祝う事が集まる事ができないにもかかわらず、多くのヨーロッパやアメリカの国々でそれが難しくなっているのにもかかわらず、私たちには、この日本では、それがまだできているという事を、その特別な御恵みを感謝したいと思うからです。

私たちの元にお生まれになる方は、単なる王様ではありません。天皇陛下でも、皇太子でもありません。この全宇宙も、その方と比較すれば、ほんの塵に過ぎないような何でもない、創造主、宇宙の創造主が、私たちを愛する天主が、人となって来られるからです。

何でこんなに小さくなって、無限の偉大な天主がなぜ、こんなにか弱い赤ちゃんとなって、私たちの為にお生まれになるのでしょうか?

その理由はたった一つしかありません。

天主が、私たちを愛したが為に、その愛のあまり、この御自分の地位も、御自分の御稜威も、全て忘れてしまったかのように、「私たちの元に留まりたい」と思われたからです。

「私たちに、御自分の持っているものを全て与えたい」と思われたからです。「天主の命を与えたい」と思ったからです。

そのとてつもないクリスマスのプレゼントを、私たちが今、受けようとしています。

ですから私たちも、その前日に、良い準備を致しましょう。洗者聖ヨハネがその一生をかけてそれを、私たちに模範を示して下さいました。私たちはその一生のところを1日、24日に捧げたいと思っています。

そして25日のクリスマスには、主の愛のプレゼントを受ける為に、集う事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





何故ユダヤの知識人、上流階層は、イエズス様を受け入れる事ができなかったのか?洗者聖ヨハネの言葉に、証言に従う事ができなかったのか?

2020年12月29日 | お説教・霊的講話
2020年12月13日(主日)待降節第3主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖パウロは言います、「常に喜んでいなさい。主は近いから。」

洗者聖ヨハネの元に、司祭やレビ人たちが送られました。なぜかというと、「時は既に近くて、救い主が来られる時はもう来ている。もしかしたら有名なあのヨハネが、メシアなのかもしれない」と人々は思っていました。

なぜかというと、お父さんはエルサレムの有名な司祭、聖なる司祭、そしてお母さんは聖エリザベト、立派な婦人で、しかもそのヨハネが生まれた時には、奇跡的な誕生の話が有名だった、啞が話せるようになった、ビジョンを見た、有名な人。

そしてヨハネも、エルサレムで首都で勉強した、聖書を学び、学識があり、そして全てを捨てて、あのアーロンの家系の、大司祭の家系の、有名な名門の家の優等生、その子が、聖人のような神童のヨハネが、今や全てを捨てて、砂漠で祈りと苦行の生活をしている。そして数千人の弟子たちが彼の前に集まっている。

「やはり、これだ。あなたがメシアに違いありません。あなたがそうなら、私たちはあなたの元に付いて行きます。私たちはあなたの弟子になります。あなたは特別な方で、私たちはちょっと遠くにいますけれども、でもそれでもあなたに付いて行きましょう。さぁ教えて下さい。あなたはメシアですか?」

ヨハネは答えます、「違う、そうではない。絶対違う。」

「エリアですか?」
「そうでもない。」

「預言者ですか?」
「違う。」

「あなたは一体何なのですか?」
「ただの声だ。砂漠で叫ぶ、メシアの準備をするただの声だ。私の後に来られる方は、本当の救い主は、私より前におられる方で、私はその前に屈んでその草履を温める為に懐に入れる価値もない。履物の紐を解く、触る価値もない、なんでもない者だ。」

これほどの証言があったにも関わらず、何故ユダヤの知識人たちは、金持ちたちは、上流階層たちは、イエズス様を受け入れる事ができなかったのでしょうか?洗者聖ヨハネの言葉に、証言に従う事ができなかったのでしょうか?

イエズス様がもしかしたらあまりにも御謙遜で、ナザレの田舎の寒村の貧しい生まれで、生まれた場所はベトレヘムかもしれませんが、馬小屋で、お父さんは大工で、お母さんは普通の名も知れない、そして貧しい、学校にも行っていない、天主であるにも関わらず、これほど御謙遜になったその謙遜のその極み、その私たちへの愛の極みを見て、ユダヤ人たちは、その天主のやり方に理解ができなかったのかもしれません。

上層階級はそれを、その主の御謙遜のやり方に、あまりにも御謙遜であるので、それが本当の天主なのだろうか、という事がもしかしたら理解できなかったのかもしれません。

しかし、事実はそうでした。真の天主、真の天主よりの真の天主、真の光よりの真の光、天主聖父のその御一人子は、こうやって私たちのすぐ近くに来て、私たちと同じような生活をされて、私たちのすぐ傍に来られようとします。

この主の御謙遜と愛の中に、深く入る事に致しましょう。いつも喜んでいて下さい。主はこんなに近くにおられます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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