アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ヴィガノ大司教の書いた「セオドア・マカリックに関する国務省の報告書」に関するコメント Archbishop Viganò Analyzes the Fraudulent McCarrick Report(ヴィガノ大司教、詐欺的なマカリック報告書を分析する)の日本語訳を、あくまでも参考資料としてご紹介いたします。
何故、ヴィガノ大司教はこのような告発をするのでしょうか? ヴィガノ大司教の訴える目的は何なのでしょうか?
ヴィガノ大司教の最近の記事を見ると、キリストの花嫁である教会の浄化のために、自分にできる全ての手段は果たし尽くした、しかし、通常のありとあらゆる手段ではもはや事態は修正することができなかった、このような告発をするしかなくなってしまった、ということを示しているように思えます。
誰が好きで自分の身内を告発するでしょうか?誰が好んで教会の恥をさらそうとするでしょうか?これは元教皇大使が仕方なく取った最後の手段であるとしか思えません。
癌を直すためには飲み薬やその他の通常の治療は果たし尽くした、しかし今となってはもう他に仕方がなく手術をするしかない、という態度がヴィガノ大司教の記事から読み取れます。つまりヴィガノ大司教は、命がけで、カトリック教会を守ろうとして立ち上がっているのです。これはヴィガノ大司教の心の叫び(cri de coeur)です。
ヴィガノ大司教の告発は、それ自体では目を疑いたくなるような、ありえないような内容です。しかしヴィガノ大司教は、ナイーヴでいられないほど、元教皇大使として現実を知ってしまった人です。以前は、何とか言い訳をつけて否定しようとしたり、言い訳をしてみようとしたり、それほど悪いはずがない、まさかそれほどの悪が浸透してしまっているはずがない、と素朴な期待を抱いたことでしょう。しかし、ここ数年の間で急激に、同性愛者の「結婚」、女性の司祭叙階、聖職者の独身制の廃止、死刑の廃止、など過去2000年にわたって断固として拒否されてきたことが、「この世からの拍手で肯定されている」ことをヴィガノ大司教は見てきました。つまり、もう素朴ではありえなくなってしまったのです。
ヴィガノ大司教の体験に基づくと、教会の教えや道徳に反するスキャンダルを糾弾し、正義と真実を求める人々は、有罪であるとみなされ、教えに背いた人やスキャンダルを起こした本人は、非難されてあたかも被害者であるかのように思われています。あたかも、教会の今まで信じていたことや行っていたことをそのままやり続ける人は、悪を行っているかのようにみなされるのです。
しかし、同時に、ヴィガノ大司教は教会に対する深い信仰を持っています。ヴィガノ大司教の訴える最も大切な点がここだと思います。
まず、スキャンダルを起こす人々は教会の一部に過ぎないということです。癌のような「道徳的、教義的に逸脱した教会の一部分」が犯したことであって、癌は教会全体にまで広がっていないということです。たとえ、それが、天の星のように光って人類を導くはずの高位聖職者たちの三分の一であったとしても、全部ではない、ということです。黙示録にもこうあります。「七つの頭と十の角をもち、頭に七つの冠のある赤い竜がいるのが見えた。それは尾で、天の星の三分の一をはきよせて地上に投げた。」
次に大切なことは、カトリック教会の頭は主イエズス・キリストだということです。キリストが弟子たちから裏切られて十字架につけられたとしても、約束した通り三日目に復活したように、キリスト教会であるカトリック教会も、たとえ裏切られたとしても、キリストの力によって教会は復活するということです。その超自然の希望を私たちに持ち続けるように励ましています。
カトリック教会に対する信仰と愛は、罪の償いへと私たちを導いています。キリシタン時代、フェレイラが背教したとき、多くのイエズス会士たちが罪の償いの祈りや犠牲を捧げました。聖母は十字架を担うイエズス・キリストを離れず、祈りのうちにとどまりました。ロザリオの祈りをもって、私たちも償いの業をおささげ致しましょう。
Archbishop Viganò Analyzes the Fraudulent McCarrick Report - Catholic Family News
Mons. Viganò Risponde al Rapporto McCarrick della Segreteria di Stato.
Archbishop Viganò Analyzes the Fraudulent McCarrick Report
ヴィガノ大司教、詐欺的なマカリック報告書を分析
2020年11月24日
セオドア・マカリックに関する国務省の報告書の行間を読む
ローマ教皇庁国務省が2020年11月10日に発表したマカリック報告書は、多くのコメントの対象となっています。その欠点を指摘する者もいれば、ベルゴリオの透明性の証明として、また私の告発が根拠のないものだとして称賛する者もいます。私としては、さらに探求するに値するいくつかの面に焦点を当ててみたいと思いますが、それは私個人には関係ありません。ですから、ここでの考察の目的は、私に対して提起された議論が虚偽であることについてさらに証拠を提示することではなく、むしろ、報告書の矛盾や、裁く者と裁かれる者の間に存在する利害の対立を強調することであり、それらは、私の考えでは、この調査、裁判、判決を無効にしてしまうようなものなのです。
司法機関の公平さ
まず最初に述べなければならないのは、通常の民事裁判や刑事裁判とは対照的に、教会の調査においては、聖職者によってなされた証言に信憑性があるという暗黙の権利のようなものがあるということです。このことが、マカリックに関して自らが共犯の立場にあったことに気づくことのできた高位聖職者たちの証言さえも、証拠として【価値があるように】考慮されるように許可したように思われるのです。真実を明らかにすることが自らと自らのイメージを傷つけることになるがゆえに、彼らがそうすることに利益がなかったであろうにもかかわらず、です。要するに、カルロ・コッローディ【ピノキオの作者】のイメージを借りると、ネコ(ケヴィン・ファレル)が信憑性を持ってキツネ(セオドア・マカリック)の潔白を証明することができるとは想像しにくいのです。【ピノキオに出てくる詐欺師のキツネとその子分のネコのこと。マカリックはファレル(現カメルレンゴ)を司教聖別し、ニューヨーク大司教とその補佐司教の関係にあった。後にファレルはフランシスコ教皇によって枢機卿となった。】しかし、このようなことが起こっているのです。ちょうど、枢機卿ワシントン大司教としてマカリックを任命することに妥当性があるとヨハネ・パウロ二世を欺くことが可能であったように、あるいはその枢機卿に重くのしかかった告発の重大さについてベネディクト十六世を欺くことが可能であったように。
かのアルゼンチン人【フランシスコ教皇】に関しては信憑性の権利にすぎないものが教義のレベルにまで高められていると理解されます。これは「あわれみの教会」では疑われることのあり得ないおそらく唯一の教義です。現実のもう一つの解釈 -- 死すべき者【人間】はこれを散文的に「嘘」と呼ぶ -- が、彼によって定式化されている場合には、特にそうです。
私たちはまた、マカリックを擁護するモンシニョール・ファレルの証言が強調をもって報告されているという事実にも困惑しています。この司教は「閣下」(Most Excellent 最も優れた)という称号で言及されています。しかし同時に、【マカリックの被害者である】ジェームズ・グレインの証言が完全に省略されていることにも困惑しています。また、彼の友人と同居人を擁護するファレルの言葉が有効で信憑性があると考えられているのに対し、私が大司教であり教皇大使であるにもかかわらず、私の言葉はそうではないというのは、どのような理由からなのかも明らかではありません。私が特定できる唯一の理由は、ファレルの言葉がベルゴリオのテーゼを裏付けているのに対し、私の言葉はそれを反駁し、嘘をついていたのは当時のダラスの司教【ファレル】だけではないこと【教皇もうそをついていること】を示しているからです。
また、マカリックの後継者としてワシントン大司教の座に着いていたワール枢機卿が、兄弟である司教の堕落した行為を認識していたことを繰り返し否定した後、世論からの圧力を受けて2018年10月12日に辞任したことも忘れてはなりません。それでも2004年にワールは、メトチェン教区の元司祭であるロバート・シオレクがマカリックに対して行った告発を、当時の教皇大使モンシニョール・ガブリエル・モンタルボに送って処理しなければなりませんでした。2009年には、贖い主の母神学校(Redemptoris Mater Seminary)からワシントンの使徒聖トマス小教区へのマカリックの転任を命じたのはワールであり、2010年には、ワール自身と司教協議会会長であるフランシス・ジョージ枢機卿が、マカリックの80歳の誕生日にお祝いのメッセージを送るのに反対することを国務省に進言しました。報告書はまた、マカリック個人を取り巻くスキャンダルの危険性に関するサンビ大使とワールとの間のやり取りを引用していますが、同じことが、ワールが「マカリックが神学校に住んでいないときでも、常に彼を支持していた」ことを裏付けている、司教省長官のレ枢機卿のやり取りにも言えます。したがって、報告書に十分に文書化されていて、[大使としての]私の任命の前にこの枢機卿に重くのしかかった重大な疑惑が、私がもう一度国務省にその疑惑について通知したにもかかわらず、ワシントン大司教として辞任した後でも司教の任命で発言力を維持した司教省を含むローマの部署で自分の地位を維持していたワールに対してではなく、私に対する問責の理由とみなされていることは非常に奇妙なことです。
報告書の起草者たちが、ベルゴリオの前任者が「目立たないように」と要請していたテッド伯父さん【マカリック】に関する書類が山積みになっていたにもかかわらず、マカリックを擁護する自分の秘書の言葉に信頼を置いたからといって、ヨハネ・パウロ二世を軽々しく批判しているのはなぜなのか、明確ではありません。被告人に関する司法機関の立場、より正しくは(rectius)「この司法機関」の立場を、すべて最終的に明確にする時が来たと私は思います。
法によれば、裁判官は公平でなければならず、そうあるためには、裁かれる側と利害関係を持っていてはなりません。現実には、この公平性は、被告人に対して申し立てられたスキャンダルや犯罪が、被告人が枢機卿の地位をはく奪され、平信徒の状態に格下げされるのに値するほどの重大性を持っているという、教会の歴史の中で最もセンセーショナルな教会法上のプロセスの一つである場合には、うまくいきません。
まことの断罪の不在
犯罪者に科された刑罰が極端に軽いことを強調する必要があります。実際、その刑罰は存在しないと言うことさえできるでしょう。なぜなら、被告人は、教理省の裁判所からの事務的な手続きをもって聖職者の状態をはく奪され、ベルゴリオによって既判力(res iudicata)【最終判決】として裁可されたからです。しかし、2018年に児童ポルノの所持および頒布によりバチカンで懲役5年の実刑を宣告されたワシントンの大使館の顧問に対して行われたように、被告人に実刑判決を出すことは、まだ可能だったのです。
実際には、聖職者の状態からの解任は、聖職者の状態が罰則的制裁を科すための前提であるべきである一方、平信徒の状態をそれ自体でほとんど一つの刑罰とみなすという、その「聖職者主義」の本質を明らかにしています。言葉にすれば非常に遺憾なことです。とりわけ、投獄あるいは少なくとも自宅軟禁がないということは、マカリックに移動や行動の完全な自由を与え、彼の状況を変化させないことを許しています。したがって、彼は新たな罪を犯すことができる立場にあり、教会の分野および政治の分野の両方で犯罪活動を続けていくことができるのです。
最後に、教会法上の手続きは、米国の裁判所で導入されたこの元枢機卿に対する刑事事件を排除するものではないことを覚えておくべきで、これらの事件は、不思議なことに極秘のままであり、バチカンだけでなく米国においても、マカリックの政治力とメディアの影響力をさらに証明しています。
利害の対立と省略
被告人とその共犯者に対して自分が恩義を感じる立場にあるかもしれないという事実、つまり、明らかな利害の対立を抱えているという事実を考慮せずに、この事件の「裁判官」を見ることは困難です。
もし、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの選出が、マカリックと長く続く強固な関係にある超進歩的な枢機卿たちを含む、いわゆるザンクト・ガレン・マフィアの陰謀に負うところがあるとすれば、もし、ベルゴリオ候補へのマカリックの推薦が、コンクラーベの有権者や、例えば、この米国人枢機卿が2013年のヴィラノヴァ大学での会議で言及した有名な「イタリア人の紳士」のようなバチカンの説得力を持つ人々の間で耳に入っていたとすれば、もし、ベネディクト十六世の辞任が、何らかの形で「ディープ・チャーチ」と「ディープ・ステート」からの干渉によって挑発されるか支持されるかだったのであれば、以下のように仮定するのが論理的です。すなわち、ベルゴリオと彼の協力者たちは、マカリックの共犯者の名前を報告書に記載して漏らしたり、あるいは彼を支持した教会の「エリートコース」(cursus honorum)にいる人々の名前を漏らしたり、あるいはとりわけ、有罪判決の可能性に直面して、たとえば、ベルゴリオ自身ではなくとも、ローマ教皇庁の著名な人物の関与を明らかにすることで、何らかの形で復讐することのできた人々の名前を漏らす、といった意図はなかったのだ、と。
報告書は、透明性があると主張する見せかけに露骨に反して、行政プロセスの行為を明らかにしないように細心の注意を払っています。したがって、被害者が「裁判官」に異議を唱えて公正な賠償を求めることができないようにしながらも、実際にはこのような重大な罪を犯した犯罪者を完全に自由の身にしたままにしておくという、ばかばかしいほど小さな判決と引き換えに、マカリックの弁護側は、依頼人の判決言い渡しが行われることに同意したのではないかと問うことが可能です。確かに、この異常さは、法律の専門家でない人々にも明らかです。
ディープ・チャーチとディープ・ステートの共通の利害
このような共謀と恐喝のネットワークにおいては、「裁判官」と被告人の双方の政治との結びつきを強調することもできます。特に米国民主党、中国共産党、そしてより一般的には世界統一主義の運動や政党との結びつきがあります。2004年、当時ワシントン大司教だったマカリックが、妊娠中絶を支持する政治家への聖体授与禁止について、当時の教理省長官のラッツィンガー枢機卿が米国の司教に宛てた書簡の頒布を阻止するために努めた事実があります。それが意味することは、ジョン・ケリーに始まってジョー・バイデンに至るまで、マカリックが自称カトリック教徒の民主党の政治家たちを支援してきたことを示しているということです。ジョー・バイデンは、妊娠中絶の確信的な支持者であり、位階階級のほぼ全会一致の支持を得て、そうでなければトランプを支持することになっていたであろう有権者の票をあてにすることができました。正直言って奇妙な偶然の一致です。一方では、「ディープ・ステート」が「ディープ・チャーチ」の代理人をローマ教皇に選出するという意図で教会とベネディクト十六世を攻撃し、他方では、「ディープ・チャーチ」が「ディープ・ステート」の代理人を大統領に選出する意図で国家とトランプを攻撃しました。陰謀家たちの計画が意図した目的を達成したかどうかは、読者であるあなたに判断していただきましょう。
この世界的な左翼との共謀は、教会の中心部にまで浸透した解散の第五列【スパイ】が、単一の「指示」のもとに単一の「台本」に従って、「ディープ・ステート」と積極的に協力している、さらに大きなプロジェクトの必然的な帰結なのです。この「芝居」の中の俳優たちはさまざまな役回りを持っていますが、同じ「舞台」で同じ「筋書き」に従っているのです。
パンデミックと不正選挙の類比
さらによく調べてみると、米国のパンデミックと不正選挙のどちらにも、マカリック事件と教会で起こっていることとの憂慮すべき類似性があります。全人口を自宅に閉じ込めるか、あるいはワクチン接種を義務付けるかを決定しなければならない人々は、信頼性の低い検出手段を利用しています。なぜなら、これらの手段によって、彼らは主流メディアの共謀と相まってデータを偽ることに成功したからです。ウイルスによる死亡率が季節性インフルエンザと同じようなものであるかどうか、あるいは死者の数が例年と同じようなものであるかどうかは、ほとんど問題ではありません。単にパンデミックが発生して、「グレート・リセット」の前提を作るために世界経済を破壊しなければならない、と誰かが決めたのです。合理的な議論も、科学的な評価も、患者のケアに携わる真面目な科学者の経験も、俳優たちに課せられた台本の前では何の価値もありません。同じことが米国の選挙についても当てはまります。不正行為の証拠に直面し、犯罪者の心(criminal minds)によって実行された本物のまさに「クーデター」の輪郭を得つつある中ですが、メディアはジョー・バイデンを勝利者として強い調子で提示し、聖座を含む世界の指導者たちは、急いで彼の勝利を認め、共和党側の敵対者たちの信用を落とし、トランプを家族や大統領夫人からさえも見捨てられようとしている孤独ないじめっ子として提示しているのです。インターネット上には、投票の集計中に行われた不正行為を示す動画が何十本も何十本もあることや、何百もの不正行為の証言があることは、ほとんど問題ではありません。民主党、メディア、演技者全員が、バイデンが大統領当選者であり、トランプは身を引くべきだと繰り返します。なぜなら、嘘の国では、【台本の】語られる物語(narrative)に現実が一致していないのなら、修正され非難されなければならないのは現実の方であるからです。したがって、都市封鎖に抗議するために、あるいは選挙の不正行為に抗議するために街頭に出た何百万人もの人々は、主流メディアがテレビでそれを見せず、またインターネット上で検閲するという単純な事実のために単に存在しないのであって、メディアがフェイクニュースとして糾弾するものは何であれ、無批判にそのようなものとみなされなければならないのです。
位階階級の一部の隷属化
したがって、米国カトリック司教協議会が(そのあと「バチカン・ニュース」サイトおよびベルゴリオからバイデンへの愛情あふれる電話が時計仕掛けのように続くのですが)、このシステムに忠実であることを証明するために急いでいたことは驚くべきことではありません。これらの聖職者たちは元から関与しており、彼らに与えられている役回りを細心の注意を払ってやり遂げならないのです。彼らは世界レベルでも同じことをしました。つまり、教会の閉鎖を伴う新型コロナウイルス感染症による規制を支持し、ミサの挙行の停止を命じ、さらには行政当局に従うように信者を誘導したのです。ワシントン大司教は、聖ヨハネ・パウロ二世聖堂への大統領夫妻の公式訪問を批判することをあえて行い、他の司教や聖職者と共にBLM(Black Lives Matter)を支持することを表明しました。このような大義のための自己犠牲は、まさにこの数日間に枢機卿の赤い帽子を受けるに値するものでした。また、世界統一主義の行動計画(アジェンダ)への固執が、スーピッチ、トービン、ワール、マッケルロイ、ストウを筆頭とする、完全に妥協してLGBTQ運動を支持している人々から来ているのは偶然ではありません。もうすぐ配布されるワクチンには、妊娠中絶による人間の胎児の細胞が含まれているのですが、この倫理的な問題に直面している中で聖座と世界の司教たちが沈黙していることは、非常に重要なことです。中国とバチカンとの間の協定ですでに起こっているように、パンデミックに関する製薬会社の思惑も、ディープ・チャーチを寛大な「献金」の受領者と見ているということはありませんように。
悪徳と腐敗は、「ディープ・チャーチ」と「ディープ・ステート」が、不快な犯罪の掃き溜めの中で一体となっていることを示しています。その犯罪では、妊娠中絶、ジェンダー・イデオロギー、性転換を含む未成年者の性的自由を押し進める登場人物たちが、無防備な子どもたちを搾取、暴力、嫌がらせの犠牲者としているのです。
不法移民もまた、国家を不安定化させ、アイデンティティーを消し去るために支持されていますが、未成年者の人身売買、犯罪の増加、社会構造の破壊に直結しているという事実にもかかわらず、左翼とベルゴリオの教会の両方から支持を得ています。実際、米国の選挙での政治的危機、パンデミックの犯罪的操作による経済危機、そして欧州全体の教会へのイスラムによる攻撃や冒涜行為を通じた宗教戦争をけしかけたいという願望があるのと同じように、この理由で不法移民が支持されているのです。
全体を見渡すことの必要性
また、これも非常に心配なことですが、この完全に首尾一貫した枠組みの中で、多くの高位聖職者たちが、ほとんど全員ではないとしても、カトリック教会に影響を与える出来事だけを分析していることです。出来事が、ほとんど教会の領域でのみ存在していたかのように、世界レベルで展開されている政治的、社会的なイベントとの関係を持っていなかったかのように、分析することにとどめていることです。シビル・ユニオン【同性愛者の「結婚」】の合法化を支持するベルゴリオの言葉や、マカリック報告書に出てくる矛盾や捏造に対して、臆病な態度をとる司教もいますが、たとえ善意に駆られていたとしても、事実の証拠、すなわち、位階階級の逸脱した部分、正確には「ディープ・チャーチ」と、金融と情報の世界に属する国家の逸脱した部分との間にある邪悪な合意(pactum sceleris)の存在を、あえて糾弾しないのです。しかし、この事実はあまりにも明白であるため、多くの、ほとんどが世俗の知識人によって分析の対象とされてきました。
信憑性の欠如
この点は、大きく糾弾されなければなりません。国務省が作成した報告書は、新世界秩序(New World Order)に仕える変質者や堕落した男たちの一団に信憑性のようなものを与えようとする、いかがわしくて不器用な試みです。超現実的(シュール)なことは、この不謹慎なごまかしの作戦が、被告人によってではなく、被告人を裁くべき人々によって実行されたことです。しかも、被告人と一緒に、彼らは逆説的に、自分たちを裁かねばならず、自分たちの兄弟、友人、そして自分たちの無罪や昇進、キャリアを保証した人々を裁かねばならないということです。
この報告書の執筆者たちの信憑性【のなさ】は、ベルゴリオ自身が中国の共産主義独裁政権と【ローマと】の間で聖座の窓口として派遣し、同時に米国務省に代わって公務を遂行し、クリントン政権、オバマ政権、予定されるバイデン政権、民主党に頻繁に出入りしていて、体制に有機的に関与していた高位聖職者【マカリック】を軽めに非難していることから証明されるかもしれません。この信憑性【のなさ】は、堕落した同性愛者であり、若い男性や子どもへの性的変質者であり、聖職者たちや神学生たちを堕落させた者が、司祭が犯しうる最も憎むべき罪の一つである告白において「sollicitatio ad turpia」【肉の罪を求める】という罪を含む、自らを汚した不法行為のために、実刑判決を受けることなく、また破門されることなく、単に枢機卿と聖職者状態の尊厳をはく奪されただけだという事実によっても裏付けられるかもしれません。この「プロセス」においては、【報告書に】省略されていた要約文と同じように、有罪の霊的な次元が完全に欠如していました。この罪を犯した者は、永遠の救いのために命じられた非常に効果ある制裁である破門を受けることもなく、悔い改めをし、公に改心と償いをするように命じられることもありませんでした。
独立委員会
第二次世界大戦後、ナチズムの犯罪に対するニュルンベルク裁判が行われたとき、法廷はロシア人裁判官が裁判長を務めていましたが、その裁判官は、私たちが知っているように、ドイツがまさにロシアとともに行ったポーランド侵攻を裁くことを任されていました。マカリック事件の責任をヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世、そしてこの文書の署名者【ヴィガノ大司教】に押し付けようとしている今日の状況と、これとの間に大きな違いはないように私には思えます。国務省の語る物語の中で、触れることができない唯一の人物は、いかなる疑惑にも、いかなる非難にも -- それがたとえ間接的であっても、あるいはいかなる隠蔽工作の影であっても -- それは明らかにかのアルゼンチン人【フランシスコ教皇】でなければならないのです。
独立委員会が作られることが適切であるように思われます。これは、2018年11月に米国司教協議会がすでに希望していたものでしたが、その後ベルゴリオの命令で司教省によってしっかりと阻止されました。この委員会があれば、外部からの影響を受けず、決定的な証拠を隠すことなく、この事件を調査することでしょう。しかし、私は、米国司教協議会のこの実現しそうにない希望が聞き届けられることはないと思っています。なぜなら、次回の枢機卿会で枢機卿に昇進する人々の中には、【教皇の】最も忠実なしもべであるスーピッチとトービンの仲間入りをするサンタ・マルタ館【教皇の住居】の命令の執行者であるワシントン大司教がいますから。
もし事件の全容が本当に明らかにされるならば、この数年間に構築されたカードづくりの家全体が崩壊し、最高レベルの位階階級のメンバーの共謀とともに、米民主党や世界的な左翼との結びつきも明らかになることでしょう。つまり、多くの人々がまだあえて認めようとしないこと、すなわち、ヨハネ二十三世の選出以来、教会が新世界秩序のしもべとなり、教皇を反キリストの偽預言者に置き換えることを可能にするような神学的な前提条件と教会的な環境を作り出すことで、「ディープ・チャーチ」が果たした役割が裏付けられることになるでしょう。もしこれがまだ完全には起こっていないのであれば、私たちはただ御摂理に感謝するしかありません。
知的な誠実さ
穏健派は、不正選挙やマカリック報告書という茶番劇を非難するのを沈黙するのと同じように、今日も新型コロナウイルス感染症に直面して沈黙していますが、第二バチカン公会議に疑問を呈するという話を聞いただけでぞっとしているのではないでしょうか。民主党もまた、そのおかげで米国が有権者の意志が覆されたのを見るようになった法律への批判を聞いて、ぞっとしています。自称健康の専門家たちは、科学的真理や疫学的証拠とは対照的な自分たちの主張が争われているのを見て、ぞっとしています。不法移民の受け入れの支持者は、それらの同じ不法移民によって犯された殺人、レイプ、暴力、強盗の割合を見せられたときに、ぞっとしています。同性愛ロビーの支持者たちは、聖職者が犯した捕食的な性質の犯罪が、非常に高い割合の同性愛者が関与していることが示されたときに、ぞっとしています。このような一般的な「衣服の引き裂き」【悲しみのとき】において、苦しくても証拠を直視するだけの少しの知的正直さと少しの批判的判断力があれば十分であることを、私は思い起こしてみたいと思います。
異端と同性愛のつながり
教理的逸脱と道徳的逸脱の間にあるこの本質的なつながりは、マカリック事件を隠蔽した人々との正面衝突の際にはっきりと浮かび上がってきました。関係者はほとんど常に同じであり、信仰と道徳に反する同じ悪徳を持っています。彼らは、立法者の活動や、政府あるいは他の行政機関の決定に自分たちの利益のために影響を与えることができる力を持つグループとして理解される、真の意味で正しい「ロビー」の一部であるため、お互いに擁護し合い、かばい合い、助け合っているのです。
教会という戦場では、このロビーは、同性愛に対する道徳的非難をなくそうと活動していますが、まず自分たちの利益のためにそうしています。それはこのロビーが主に同性愛者で構成されているためです。このロビーは、やはり悪徳に身を染めている政治家たちによって推進されているLGBTQ運動の要求を正当化する政治的な行動計画(アジェンダ)に順応しています。そして、ここ数十年の間にカトリック教会が --- もっと正確な言い方をするならば、道徳的、教義的に逸脱した教会の一部分が --- 同性愛に関する「オヴァートンの窓」(Overton window)【多くの人に受け入れられる思想は窓のように一定の範囲の中に限定されているが、その窓は大きくなったり動いたり変動するという考え】を大きく開くことで、教会が常に非難してきた自然に反する罪【という主張】が、ますます明るみに出ている不祥事という証拠により、或る意味で否定されたという意味で、果たした役割もまた明らかです。
40年前には一人の司祭が小さな少年にいかがわしい行為をしたことを知ることが恐ろしいことだったのですが、今では、この数年の間に、聖職者たちが麻薬つきで売春婦と一緒にパーティーを開いていた聖邪検省の宮殿にあるコッコパルメイロ枢機卿の秘書のアパートにバチカン憲兵隊が突入したことがニュースで報じられているのです。【ここまできてしまうと】ここからはごく小さな一歩で、特定の政治家たちが望むように小児性愛を合法化するようになってしまうでしょう。未成年者のいわゆる「性的権利」の理論化によって作られた前提、国連の勧告による小学校での性教育の義務化、同意年齢を引き下げるための法律を議会で通過させようとする試みなどは、すべて同じ方向に向かっています。
素朴な人ならば、-- まだ素朴であると語ることが可能であると仮定して -- 「途切れることのないカトリックの教導職に矛盾するので、教会が子どもの堕落を支持すると言うことは決してできないでしょう」と言うでしょう。私は、いわゆる同性愛者の「結婚」について、あるいは女性の叙階、聖職者の独身制の廃止について、または死刑の廃止について、わずか数年前に言われたことを、思い出すことにとどめたいと思います。しかし、その逆のことが、今日ではとがめもなく、この世からの拍手で肯定されているのです。
マカリックの「ライン」
報告書で注目すべきなのは、報告書に含まれていることよりも、報告書が書いていないこと、そしてそれがどれほど恐ろしいものであっても、山のような文書や証言の下に隠されていることです。多くのジャーナリストや多くの聖職者は、この「赤い帽子をかぶった男」【マカリック】のスキャンダラスな人生を知っていました。
それにもかかわらず、彼は、「ディープ・ステート」の表現としての民主党や「ディープ・チャーチ」の表現としての進歩的カトリックの利害のために、マキャヴェリ主義的【権謀術数的】に役立つとみなされていたのです。月刊誌「ワシントニアン」が2004年に、「大統領選で物議を醸しているカトリック教徒[ジョン・ケリー]と共に、この枢機卿はワシントンにいるバチカンの男として多くの人に思われている、そして彼は次のローマ教皇の選択に大きな役割を果たすかもしれない」(ここ)と書いています。
マカリックが2013年10月11日にヴィラノヴァ大学で行った演説で誇らしげに主張した役割は、今日では、聖なるローマ教会のカメルレンゴ【枢機卿たちのトップで教皇選出の時には指揮をとる責務がある】にベルゴリオが任命したおかげで昇進したファレル枢機卿によって、再び実現する可能性があります。「ラベンダー・マフィア」のメンバーの間で強化されている忠誠関係を考えれば、マカリックが、友人や共犯者のネットワークのおかげで -- その内の何人かは枢機卿で教皇選出選挙権の有権者である -- というだけではなく、コンクラーベの手続きやその準備に積極的な役割を果たすことによって、教皇選挙に対して介入できると考えるのは、少なくとも理にかなったことです。
米大統領選挙での不正選挙に気が付いた後に、もしも「誰か」が教皇の選挙を操作しようとするとしたら、私たちは驚くことになるでしょうか。すでに何人かの関係者に指摘されているように、前回の【フランシコ教皇選出のための】コンクラーベの2日目の4回目の投票で、投票用紙のカウントに不正が発生し、新たな投票によって修正されたのですが、その修正は1996年にヨハネ・パウロ二世によって公布された使徒的憲章「ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス」(Universi Dominici Gregis)の規定を逸脱していたことを忘れてはならないでしょう。
しかし、一方では、マカリックは今ではその地位から追放され、秘密の場所に住んでいますが(そこでは素人を装って匿名で「ディープ・ステート」や「ディープ・チャーチ」のための「パラディプロマティック」(paradiplomatic)【正式な外交関係以外の疑似的な外交関係】活動を邪魔されずに続けることができます)、他方では、マカリックのおかげで教会のキャリアを積んできた人たちは皆、まだ自分たちの地位にいて、昇進さえしているということは重要です。彼らは全て、共通の生活様式と共通の意向のためにマカリックが待遇した人々であり、皆が自分の地位のおかげで知ることになった秘密のせいで恐喝されやすかったり恐喝したりする人々であり、彼らは皆、もし誰かが仲間に手を出そうとするなら、名前と状況と日付を引き出す準備ができている人々です。マカリック氏が、今もはや教会のプリンス【枢機卿】ではないとしても、もしマカリックが、彼らを脅迫することができ、彼らに自由に使える巨額の金で賄賂を贈ったりすることができれば、まだ彼に従わざるを得ない人々もいることでしょう。
この枢機卿が始めた「ライン(系統)」【ライン(line)は通常、司教聖別の系統を表すが、ここではマカリックの同性愛関係の系統を示す】は、私たちが見ているように、今日、教会と社会の生活に干渉し、働きかけることが可能であり、「ラベンダー・マフィア」全体の罪を都合の良いスケープゴート【マカリック】の上におしかぶせたという利点を生かして、あたかも虐待の疑惑を知らない人であるかのように表に出てくることができるのです。
しかし、ポルタ・アンジェリカの門【バチカンとサンタンジェロ城を取り囲む中世のレオの壁に開いた門】をくぐるだけで、表には出てこない複数の人物に出くわすことができ、その中には、海外で彼らに対して係争中となっている捜査から彼らを救うためにバチカンに呼ばれた者もいれば、サンタ・マルタ館の常連であったり、そこで管理する職を務めていたりする者もいて、君主【教皇】の甘い目の下で共謀と共犯のネットワークを固めています。一方で、ベルゴリオの道徳的な役割を強調しても、それは高いレオの壁の向こう側では、とりわけペーニャ・パラ【大司教】やザンチェッタ【司教】が保護を享受していて、何も変わっていないという厳しい現実にぶち当たるだけです。
同性愛を非難しないこと
コメンテーターの中には、正しくも、失望させるような事実を強調した人もいます。マカリックが裁判に召喚された犯罪は未成年者への虐待にのみ関係しているのに対し、同意を得た大人との不自然な関係については、まるで一人の聖職者の不道徳で冒涜的な行為が非難されるべきではなく、その関係を私的な秘密の状態しておく方法を知らなかったという彼の不謹慎さだけが非難されるべきであるかのように、静かに受け入れられ、容認されているのです。これもまた、責任を負う人々に説明を求めなければならないでしょう。とりわけ弛緩した司牧的アプローチ -- 回勅「アモーリス・レティチア」でのテスト済みの方法に従って、同性愛についての道徳的非難をせずに -- を適用しようとするベルゴリオの意志がますます明確になっていることをすべて考慮しながら。
スキャンダルの有罪とされる者と被害者
この聖職者のスキャンダルから浮かび上がってくる逆説的なことは、ベルゴリオのマジック・サークル(魔法陣)にとって最後の関心事が、正義だということです。つまり被害者に補償をすることによって被害者に正義を与えるだけでなく(これは、さらに言えば、加害者が行うのではなく、信徒から寄付された物品を使って教区が行います)、模範的な方法で責任者を罰することによっても、正義を科すことは、最後に最後に払う関心事なのです。
国の法律で刑法上の犯罪と認められた罪だけでなく、成人が聖職者によって重大な罪に導かれてしまった道徳的な罪にも罰を与えなければなりません。神学生や司祭も含めて、多くの若者たちの心の傷、純潔の汚れを誰が癒やすというのでしょうか。それとは対照的に、発見されて公開処刑にさらされた人々は、自分たちのほうが真の被害者であると考えているように見えます。彼らは自分たちの利益や不正な取引、陰謀を邪魔されていると感じています。一方、兄弟のうちの一人の倒錯を勇気をもって自分の司教に知らせたために、転任させられたり、精神的ケアを奪われたりしている司祭たちをはじめとする、スキャンダルを糾弾し、正義と真実を求める人々は、有罪であるとみなされているのです。
聖なる教会が役務者たちの罪の犠牲者
しかし、これらの不祥事による全く無実の犠牲者がもう一人います。聖なる教会です。これらの罪を犯した人々は、彼らが身につけている身なりに置かれた信頼を悪用し、霊魂を陥れ堕落させるために司祭や高位聖職者としての自分の役割を利用して行動したため、キリストの花嫁【である教会】のイメージは汚され、屈辱を受け、信用を失墜させられました。教会の信用を失墜させた責任者には、バチカン、教区、修道院、カトリック学校、修道団体、私が思うには例えばボーイスカウトなどの人々も含まれています。彼らは、芽を摘むことなく隠蔽してまでも否定したのです。この同性愛者と変質者の侵入が計画され、意図されたものであることは、今になって明らかになっています。それは、管理を怠ったためだけに起こった偶然の出来事ではなく、教会を内側から破壊するために組織的に教会に浸透させようとする綿密な計画でした。そして、主がご自分の花嫁の統治を託し給うた人々は、このことについて主に答えなければならなくなるでしょう。
しかし、これらすべてのことにおいて、私たちの敵対者は、教会が、盲目的に傭い人に従う顔のない人々の顔のない集まりではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストという天主なるかしらを持つ生ける体であることを忘れています。浄配【なるキリスト】が介入しなくてもキリストの花嫁【である教会】を殺すことができると考えるのは、サタンだけが信じることができる妄想です。実際、サタンは、まさに2000年前に救い主が十字架につけられたのと同じように、教会を十字架につけ、教会を唾と鞭で覆うことにより、自分自身の決定的な敗北に署名していることに気づくことになるでしょう。O mors, ero mors tua: morsus tuus ero, inferne[死よ、私はおまえの死となるだろう。地獄よ、私はおまえの激痛となるだろう](オゼア13章14節)。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年11月21日
至聖なる童貞マリアの奉献