聖伝の聖母の騎士設立20周年
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、
私たちの聖伝の聖母の騎士のささやかな20周年を祝う年が終わりに近づいています。ここ数年を振り返ってみると、まず初めに、世界の五大陸の62ヶ国に、この小さな聖母の軍隊を広げることができたことを天主に感謝しないといけません。が、インマクラータなる聖母は、砂の上に建設することをお望みにならないので、今年は特に十字架と試練という方法によって、私たちに祝福を送って下さいました。つまり世界的な行動制限は(リーフレットやメダイなどの配布といった)外的使徒職を、不可能とまではいえなくても、非常に困難にさせました。私たちは皆、あまりに多くの問題に直面し、吸い込まれてしまっているので、騎士会の具体的側面、つまり霊魂の回心のためにインマクラータの道具となるということが、なんとなくぼやけてしまっています。
事実、私たちの多くは、ミサと秘跡の欠如という恐るべき孤独をいやというほど味わっています。一体誰が、今年の初めに、このような変化、このような惨事について考えたことでしょうか? さらには、教会とキリスト教道徳に反対する憎しみが、全世界でこれまで以上に野蛮な様相を呈しつつあります。そして、ローマからは、食べるように与えられるのは石であり、嘆かわしいいとわしいもの【偶像崇拝】だけを受け取っています……。この非常な悲しみのただ中で、喜びの機会となるべき20周年を祝うことは適切でしょうか? 今日、喜びはどこにあるのでしょうか?
ですから、M.I.(無原罪の聖母の騎士会)の創立者に、彼が私たちの立場にいたならしたであろうことを尋ねてみましょう。マキシミリアノ・コルベ神父も、私たちが今日経験しているよりもはるかに多くの困難を、その生涯の間で経験したことを思い出すなら、答えは難しくはありません。コルベ神父の全生涯は長く辛い試練であったことは事実です。結核を患ったことで、彼は医者たちから余命三ヶ月だと宣告されたいつでも死にかけていた人でした。M.I. の創立から最初の五年間、同僚たちからさんざんに嘲りを受け、誰からも理解されず、受け入れられない霊的孤独に陥りました。日本で過ごした六年間も同じでした──部下の修道士たちから背を向けられ、裏切られ、司祭仲間からは信用されず、敵意を抱かれ、資金は不足し、生活に必要なものさえもこと欠くありさまでした。
にもかかわらず、騎士会は発展して行く一方でした。1939年6月には13名の司祭、762名の修道士、100名以上の小神学生たちを数えることができ、彼らが世界に類を見ない良い出版物の使徒職のために互いに協力し合っていたのは、なんという素晴らしい成功でしょうか。その後、戦争が勃発しました。無原罪聖母の町はドイツ軍に没収され、修道士たちはほぼ全員動員され、最後の42人は投獄され、強制収容所に送還されました。なんという辛い経験。コルベ神父のすべての事業は終わりつつあると言えたかもしれません。
強制された牢獄そのものの空気の中で、絶望しきった囚人たち、ほとんどが軽蔑と残酷な憎悪のかたまりの、法律など無視した犯罪者や監視兵たちに取り囲まれながら、コルベ神父様とともに過ごした修道士たちは、どう反応し、行動したでしょうか? 今日の危機的混乱の中で、私たちはこの修道士たちの恐れ、悲しみ、苦しみをいくばくか想像できます。そして私たちの聖なる創立者は彼らに、そして私たちに対しても、何について思い起こさせるでしょうか?
マリア様に私たちをお捧げし、この完全なお捧げから生まれる実りです。「私たちは彼女に自らを与えました。私たちは彼女のためにすべての霊魂を勝ち得たいのです。ですから聖母は、私たちをご自分の持ち物として使用します。私たちはそのことに感謝すべきです。私たちはニエポカラノフではなく、今ここで必要とされています。聖母はなんと偉大であることでしょうか! なぜなら、彼ら[ドイツ軍]は私たちをただで連れてきてくれました。ここには兵舎があり、食べ物もあります。これは、多くの人々にとって、彼らの状況を天主に秩序づけるための唯一の好機、あるいはこの苦しみを平和のうちに耐え忍ぶ強さを見つけるために、宗教の中によりいっそうの関心を彼らの中に目覚めさせる唯一の好機となるかもしれないからです。兄弟たちに怒り、呪うことに時間を費やしていた他の人々は、今や良い方に変わりつつあります。」
試練を克服するためには、試練とはインマクラータのご意思の表れであると理解することが必要です。「勇気を挫かれる理由はありません。困難と苦しみは常にあるでしょう。インマクラータへの愛のゆえに、私たちがミサやご聖体拝領にあずかれないという悲しみを忍ばなければならないならば、彼女によって多くの霊魂が救われることは可能です。それらの霊魂たちが、創造主なるおん父や、全ての恩寵の仲介者である天のおん母のみ名さえも知らない異教徒であろうと、異端者や宗教に無関心な人々であってもそうです。インマクラータがお望みなら、私たちは(ニエポカラノフへ)戻るでしょうし、戦争前にしていたように働くでしょうし、他の国々にも行くでしょう。でも私たちは彼女の望みを阻止したくはありません。それがインマクラータのご意思ならば、たとえ他の人々が解放されたとしても、私たちはここで死ぬことさえも望みます。」
暗い未来への恐れに直面して、私たちは絶対の信頼をみ摂理に置かなければなりません。「何が起きるだろうか、起きないだろうか、どうやって働こうか、どこにいることになるだろうか、と将来について思い煩うことは私たちの領分ではありません。このすべてのことは、ごく些細なことに到るまでみ摂理によって導かれているからです。インマクラータは間違いなくすべてをご存知です。そして天主の許しなくして何事も起こり得ないという考えは、私たちを間違いなく落ち着かせてくれます。インマクラータはその目的を達成するでしょうし、何も、誰も、彼女の意向の実現を妨げることはできません。全世界と全悪魔は天主の許可なくして何もできません。インマクラータに私たちを導いていただきましょう! この道は私たちのためであると彼女がお選びになるなら、それは私たちにとってより大いなる善のために他なりません。そうして、すべての兄弟たちの心は、きらめく火花のように、新たな炎を周囲に点火させるでしょう。こうしてインマクラータの軍隊の理想、霊魂たちを無原罪のマリアのもとへとますます近づけて聖化させるという理想が達成されるでしょう。
コルベ神父は、私たちが苦しみと辱めから引き出せる超自然的利益についても私たちに教えています。「霊魂たちの回心のためにする私たちの努力を促進させるためには、天主はさまざまな十字架をお許しになります。それらが他の人々の意思に依存していようといまいと、善意から来るものであろうとなかろうと。それは注がれる恩寵の広大な畑です。これらの中でも最も有益な財産は、他人に悩ませられることからくる苦しみです。なぜなら、その後、私たちの望徳はいや増すからです。こうして私たちは「天にまします」のこの一節「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え」(マテオ6:12)をより大いなる喜びをもって唱えることができます。もし何も赦しを乞うべきものがないなら何という不幸、一日のうち赦すべき多くの侮辱があるならばなんという幸福でしょう。もちろん、自然本性は苦しみと辱めに直面して身震いします。でも、信仰の目で見るなら、私たちの霊魂を清めるためにはどれほど必要なことであり、なんと甘美なことでしょう。天主との親密さをより深める、さらに効果的な祈りと行動へとどれほど貢献してくれるでしょう。」
これこそまさに、私たちの創立者が、今日、私たちに向けて言っていることです。
マキシミリアノ・コルベにとって、最大の試練はまた、最大の恩寵が注がれる時であるということは明白でした。幼きイエズスの聖テレジアは、世の終わりの日々に生きたいという望みを表していました。彼女は最大の試練のさなかで、イエズスへの彼女の愛をお見せしたかったからであり、また、彼女はその忠実さによってどれほど多くの霊魂が救われるか知っていたからです。事実、私たちはすでに悪からより大きな善をもたらすインマクラータの慈悲深いみわざを理解しています。つまり、回心は増えていき、多くのカトリック信者は目覚め、今まで以上に聖伝への立ち戻りがある、ということです。
私たちには、歴史上、今までにない特別な瞬間を生きる機会が与えられています。ですから「ボートに乗り遅れないように(機会を逃さないように)」しましょう! 今まで以上にロザリオを握りしめて、熱心に唱えましょう。「誰も私たちからロザリオを取り上げることはできません。」ですからミサの自由化と召命のための十字軍に、心を込めて参加しましょう。そして何よりもまず、毎月の五回の初土曜日の信心によって、汚れなき御心に信心することを要求なさったファチマの聖母の祝福と約束のしるしを忘れないようにしましょう。そうすれば、私たちは失望しないばかりか、頭を高く上げて、忠実な騎士として、将来降りかかって来るいかなることにも立ち向かえるでしょう。
最後に、アウシュヴィッツの強制収容所で死にゆく聖マキシミリアノ・コルベに目を向けましょう。彼は喜んで、仲間の囚人の身代わりとなり、残りの人々を回心させて死の準備をさせました。エタノール注射をしようと誰かが近づいてくると、彼はこの世のものからではない微笑みを浮かべて迎えました。このようにしてインマクラータはご自分に捧げた一生に報いてくださるのです。
この困難な時代において、私たちにとって素晴らしい合言葉となるべき、闇を照らす光のようなコルベ神父のアドバイスで締めくくりとします。「自分に依存することをよく行いなさい、そして自分に依存しないことを耐え忍びなさい──これこそが完徳であり、この世におけるまことの幸福の源です。」
2020年12月8日、無原罪のおん宿りの祝日、ワルシャワにて。
カール・シュテーリン神父