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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年03月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

四旬節第一主日の今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計116人でした。大阪では24人でした。それぞれのミサの後には灰の水曜日に受けることができなかった方々のために、灰の式を行いました。

東京での御聖体拝領の際に歌われたポリフォニーの聖歌パレストリーナの O bone Jesu や、O quam amabilis また、ハスラー/バッハの O caput cruentatum などがとても綺麗でした!

愛する兄弟姉妹の皆様、良い四旬節をお過ごしください!
天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 116, including children.

09:00 mass
M: 18 (incl. 3 children)
F: 25 (incl. 5 children)
Total: 43 (incl. 8 children)

11:00 mass
M: 22 (incl. 5 children)
F: 25 (incl. 6 children)
Total: 47 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 16 (incl. 1 child)
F: 17 (incl. 1 child)
Total: 33 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 9 children)
F: 63 (incl. 12 children)
Total: 116 (incl. 21 children)




カトリック教会だけが持つ「四つのしるし」|「使徒継承」 いま行われているシノドスを理解するために。三重の使徒継承性【後半】

2022年03月05日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年3月6日は四旬節第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

いま全世界で行われているローマ・シノドス、つまり「シノダリティ」をテーマとするシノドス(2021-2023)で教会がどうなろうとしているか?を知るために、「使徒継承性」を理解することはとても大切です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父



2022年3月2日 灰の水曜日 聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass in Tokyo

2022年03月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年3月2日、灰の水曜日、東京では午後6時半から灰の儀式とミサが行われました。東京の18:30の灰の水曜日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計56人でした。「暁の星の聖母」修道院でも朝7時15分から灰の儀式とミサが行われ、9人が与りました。天主に感謝いたします。

良い四旬節をお過ごしください!

来る主日(3月6日)東京と大阪で、それぞれのミサの後で、まだ灰を受けることができなかったご希望の方々に、ミサの後の祈りの後に灰の儀式を行う予定です。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Ash Wednesday evening mass in Tokyo today.

The total number of attendees at the 18:30 Ash Wednesday mass in Tokyo today was 56, including children.

M: 26 (incl. 4 children)
F: 30 (incl. 4 children)
Total: 56 (incl. 8 children)





祝別されたオリーブ油と、その使い方について

2022年03月03日 | お説教・霊的講話
祝別されたオリーブ油についての説教

ドモルネ神父

はじめに

先週の主日には、準秘跡についてお話ししました。準秘跡とは、この世での霊的な恩恵を得るために、教会が、その祈りを結びつける、行為や物のことです。今日は、特に準秘跡の一つである、祝別されたオリーブ油と、その使い方について、皆さんに注目していただこうと思います。

オリーブ油の祝別

この準秘跡を通して、教会は、病人の癒やしと、悪魔に打ち勝つための力という、二つのことを願い求めます。まず、司祭が、次のように唱えて、油に悪魔払いをします。「敵の力、悪魔の軍団、そしてサタンのすべての攻撃と策略が、この油という被造物から払いのけられ、遠くへ追い払われますように。この油が、それを使うすべての人に、心身の健康をもたらしますように」。そして、司祭は、次のように唱えて、この油を祝別します。「私たちが天主の御名によって祝別するこの油を使う者が、汚れた霊によるあらゆる攻撃から守られ、また、あらゆる苦しみ、あらゆる病苦、そして、敵のあらゆる策略から解放されますように。御子の尊き御血によって贖われた人間が、二度といにしえの蛇の刺に苦しむことのないよう、この油が、あらゆる困難を避ける道具となりますように」。

教会は、この準秘跡のために、オリーブ油を使います。なぜでしょうか? オリーブ油は、教会が求める恩寵を、象徴しているからです。実際、この油は、体の傷を癒やすのに使われます。ですから、この油は、教会が求める、身体的な癒やしや、霊的な癒やしの恩寵を、象徴しているのです。この油は、体の筋肉を柔らかくし、また強くします。ですから、この油は、教会が求める、悪魔との霊的な戦いにおける力の恩寵を、象徴しているのです。

この準秘跡の使い方

この準秘跡は、どのように使えばよいでしょうか? 自分の必要に応じた祈りを唱えながら、額や、体の病んだ部分に、この油を塗ります。たとえば、教会の祈りを使って、こう唱えます。「イエズスの御名によって、あらゆる憂いや病気から、また、悪魔のあらゆる罠や攻撃から、解放されますように。アーメン」。

教会の祈りは効果的で、私たちに、癒やしと力の恩寵を取り成します。しかし、これらの恩寵を受けるには、私たちの側で、それを受けるための心構えが整っていなければなりません。私たちが持つべき、正しい心構えとは、どのようなものでしょうか? 聖霊が、集会の書第38章で言っておられることを、聞いてください。「子よ、病気になっても焦るな、むしろ、主に祈れ、そうすれば癒やしてくださる。罪を避けよ、手を清く保ち、心をあらゆる罪から清めよ。甘い香りと、精製小麦粉を、記念の供え物として捧げ、豊かな供え物をせよ。それから医者にまかせよ、彼も、主につくられたのだから。彼を遠ざけるな、あなたには彼がいる」(集会書38章9節)。

聖霊のこれらの言葉が何を意味しているのか、もう少し詳しく見てみましょう。

癒やしのために祈ること

「子よ、病気になっても焦るな、むしろ、主に祈れ、そうすれば癒やしてくださる」。まず、私たちは天主に祈らなければなりません。なぜでしょうか? なぜなら、天主は、生と死の主でいらっしゃるからです。私たちが、謙虚で、誠実で、熱心な心をもって、天主にお願いすれば、そして、もしそれが、私たちの永遠の救いに役立つならば、天主は、その恩寵を私たちに与えてくださるでしょう。ですから、聖書では、天主は、エゼキヤ王を癒やされ、さらに15年の寿命を与えられたのです(イザヤ38章5節参照)。時には、私たちが、私たちの病気を通して、より高い徳を実践し、それによって、天国でのより大きな栄光を得るようにさせるために、天主が、私たちに癒やしの恩寵を与えられないことがあります。しかし、その場合、天主は、私たちが勇気をもってその病気に耐えるための恩寵を、私たちに与えてくださるのです。

私たちの罪の痛悔

次に、聖霊は、「罪を避けよ、手を清く保ち、心をあらゆる罪から清めよ」と言われます。病気の最初の原因は、私たち自身や他の人々の罪です。原罪の前は、アダムとエワは病気になることはなく、苦しみもありませんでした。福音の中で、イエズスは体の麻痺した人を癒やされ、そして彼に、こう言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。聖パウロは、大罪の状態でご聖体を受ける人について、次のように言っています。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである。そのため、あなたたちの中には、弱い者、病気の者が多く、また、死んだ者も少なくない」(コリント前書11章29-30節)。聖バジリオは、こう言いました。「病気は罪の罰であり、それについては、自分の生活を改める以外に、できることはない」。ですから私たちは、病気になったとき、医者のところへ行く前に、自分の霊魂を清めなければなりません。つまり、自分の良心を調べ、あらゆる罪を心から反省し、二度と罪を犯さないように固く決心し、他人に対して犯した不正を正し、最後に、悔悛の秘跡を受けるのです。

罪の償い

その後、聖霊は、「甘い香りと、精製小麦粉を、記念の供え物として捧げ、豊かな供え物をせよ」と言われます。この言葉の意味するのは、私たちの罪によってお怒りになった天主に対して、償いを捧げなければならないということです。それはどんな償いでしょうか? 私たちは、祈りと犠牲と善い行いによって、そしてとりわけ、ミサのいけにえを捧げることによって、自分の罪を償うのです。このいけにえこそが、あらゆる罪を完全に償い、あらゆる恩寵を得ることのできる唯一のいけにえなのです。

医者または司祭のところへ行くこと

最後に、聖霊は、「それから医者にまかせよ、彼も、主につくられたのだから。彼を遠ざけるな、あなたには彼がいる」と言われます。天主は、奇跡によって、病人を即座に癒やすことが、おできになります。しかし、通常、そうはなさいません。天主は、人が兄弟愛をもって、互いに助け合うことを望まれます。ですから、天主は、ある人々には身体を癒やす医者になるように、ある男性たちには霊魂を癒やす司祭になるように、望まれるのです。

結論

そこで、まとめると、教会は、祝別された油を通して、私たちが自分の罪を後悔して、自分の罪の償いをするだけ、私たちに、力と癒やしの恩寵を取り成してくださるのです。1858年のルルドのご出現の物語の中に、この現実がよく示されています。ルルドには、清らかな水の泉があり、聖母が、この水によって、多くの奇跡的な癒やしを与えてこられたことは、皆さんご存じでしょう。しかし、最初に起きたことを思い出してください。当初、この泉は、少しばかりの濁った水でしかありませんでした。2月24日の水曜日、聖母は、痛悔と償いを呼びかけられました。「償い! 償い! 償い! 罪人のために、天主に祈りなさい!」。そして翌日以降、聖母は、聖ベルナデッタに、償いのわざを求められました。それは、この気持ちの悪い泥水を飲み、雑草を食べ、地面に接吻し、ひざまずいたまま移動することでした。泥水は、やがて少しずつ、清らかな水の出る豊富な水源となりました。そして、翌週の月曜日に、最初の病人が、この水によって、奇跡的に癒やされたのです。それと同じように、病人は、癒やしの恩寵を得る前に、痛悔と償いによって、自分の霊魂を清めなければならないのです。

病人の快復なる聖母が、私たちに、霊魂と体の健康を与えてくださいますように。




準秘跡についての説教 教会は、準秘跡を通して、私たちに、どのような恩寵を取り成すのでしょうか?

2022年03月03日 | お説教・霊的講話
準秘跡についての説教

ドモルネ神父

はじめに

この前の木曜日は、聖ブラジオの祝日でした。この祝日に、教会は、信者がのどの痛みや他の病気から解放されるように、特別の祝別を与えます。私は、このミサの後、その祝別を行うつもりです。この説教では、この祝別について、またさらに、準秘跡一般について、お話しします。

聖ブラジオと癒やしの賜物

聖ブラジオは、元々は医者でした。彼は、その後、アルメニアのセバステという町の司教になりました。天主は彼に、病気を癒やす賜物を授けられました。野生の動物さえもが、病気を治してもらうために、彼のもとにやってきました。後に、ローマ皇帝リキニウスのもとで、キリスト教徒に対する新たな迫害が始まりました。聖ブラジオは捕らえられ、牢獄に入れられました。しかし、人々は、聖ブラジオのもとに病人たちを連れてくることができたため、聖ブラジオはその病人たちを癒やしました。ある日、魚の骨を飲み込んでしまった幼い子どもが、彼のところに連れて来られました。この子どもは、息ができなくなり、今にも死にそうでした。聖ブラジオが、この子どものために私たちの主に祈ると、その子どもは、すぐに癒やされました。それからしばらくして、聖ブラジオは殉教し、死刑に処せられました。316年のことでした。聖ブラジオの死後、のどの痛みに苦しむ人々は、彼に祈り、その痛みから癒やされたのです。

のどの祝別

天主は、宇宙の主でいらっしゃいますが、ご自分だけで、宇宙を支配されるのではありません。世界の統治において、善い天使たちや、聖人たちと一緒に、統治なさいます。ですから、天主は、ある特定の恩寵については、特定の聖人たちの取り次ぎによってのみ、それを私たちに与えることになさいました。それはなぜでしょうか? 聖人たちは、天主の友人であるため、天主は、私たちが聖人たちに頼ることで、聖人たちを敬うことを望んでおられるからです。ですから、たとえば、天主は、特別な癒やしの恩寵を、特に、のどの痛みのための恩寵を配るよう、聖ブラジオを選ばれたのです。このことは、聖ブラジオが行った、数多くの奇跡的な癒やしから、明らかです。

教皇たちは、このことを理解していました。そこで、教皇たちは、聖ブラジオの取り次ぎによって、信者ののどの痛みや、その他の病気を癒やしてくださるよう、天主に求める特別な祝別を制定したのです。祝別とは、天主が、人、あるいは物に、恩恵を与えてくださるように求める、教会の祈りです。

のどの祝別では、司祭は2本のろうそくを取り、それを十字架の形に持ち、聖ブラジオの取り次ぎを祈り、十字架のしるしをしながら、それを人々ののどに当てます。ろうそくは、世の光である私たちの主を意味します。十字架の形をしたろうそくは、イエズスが、十字架上のいけにえによって、あらゆる恩寵を得られたことを意味します。同じ理由から、司祭は、祝別の言葉を発しながら、その人に、十字架のしるしをします。ろうそくを、人々ののどに当てるのは、特にのどの病気の癒やしを、求めるためです。

準秘跡一般

こののどの祝別は、準秘跡です。準秘跡とは、カトリック教会が恩恵、特に霊的な恩恵を得るために用いる、物や行為のことです。これらの物には、例えば、水、塩、オリーブオイル、ろうそく、ロザリオ、メダイ、スカプラリオなどがあります。これらの行為には、例えば、祝別、悪魔祓い、奉献などがあります。

教会は、これらの物や行為を用いて、教会の祈りの内容と、教会が求める恩寵を、外的に示すのです。実際、私たちは人間ですから、霊的で目に見えない現実をより良く理解するために、外的で、目に見えるしるしを必要とします。例えば、洗礼の秘跡について、私たちの主がなさったことを見てください。主は、頭の上に水を注ぐという行為によって、霊魂の浄めを、外的に示すことにされたのです。水が頭の上を流れるのを見ることによって、私たちは、霊魂が原罪の汚れから洗われることを、理解するのです。

教皇たちは、イエズスが示された例に倣います。教皇たちは、教会の祈りの内容と、教会がどのような恩寵を求めているかを、外的に示すために、目に見える物や行為を用います。これらの物や行為は、七つの秘跡と少し似て、霊的な現実を示すものであることから、「準秘跡」と呼ばれます。

準秘跡によって得られる恩寵

教会は、準秘跡を通して、私たちに、どのような恩寵を取り成すのでしょうか?

・教会は、私たちが良きキリスト的生活を送るための、助力の恩寵を取り成します。例えば、結婚式のミサで行われる、婚姻の祝別を通して、教会は、夫婦がキリスト的な結婚生活を送ることができるための恩寵を求めます。不思議のメダイを通して、教会は、それを身につける人々を守ってくださるよう、聖母に求めます。

・教会は、私たちのために、小罪の赦しの恩寵を取り成します。例えば、灰の水曜日の灰を通して、教会は、私たちが心から自分の罪を悔い改め、赦しを得るための恩寵を求めます。

・教会は、私たちのために、悪魔とその攻撃から私たちを守るための恩寵を取り成します。例えば、聖水、聖別された塩、聖ベネディクトのメダイ、悪魔祓いなどを通して、教会は、悪魔を追い払います。

・教会は、私たちのために、天主の栄光と、私たちの霊魂の救いに役立つ限り、私たちのこの世での生活に、健康と、保護と、繁栄の恩寵を取り成します。ですから、教会は、家、車、畑、食べ物などを、祝別するのです。

結論

準秘跡には、教会の祈りが込められています。しかし、教会の祈りは強力です。ですから、準秘跡を、信心深く、受け、使うことによって、私たちは、今述べたような多くの恩寵を、本当に得ることができるのです。ですから、準秘跡を、とるに足りないもの、あるいは、無知な人々のためだけのものなどとして、軽んじてはいけません。それは大きな間違いです。この説教の最後にあたって、教会が、カトリック教徒でない人たちにも、ほとんどの準秘跡を受けることを認めていることを、述べておきます。教会は、カトリック教徒でない人たちが、準秘跡を通して、「唯一のまことの天主と、その方が遣わされたイエズス・キリストを知る」(ヨハネ17章3節)ために、特別の恩寵を取り成すのです。




自分の死を思い起こすことで、私たちは、永遠の観点から、物事の真の価値を認識することができます

2022年03月02日 | お説教・霊的講話
灰の水曜日についての説教

ドモルネ神父

はじめに

次の水曜日は、四旬節の初日である、「灰の水曜日」です。この日、ミサの前に、司祭は灰を祝別し、信者の額に灰をつけ、こう言います。「人よ、おぼえよ、あなたはちりであって、また、ちりに帰るであろう」。この儀式は、準秘跡です。教会は、あるものを表して、この灰を受ける人たちのために、特別な恩寵を天主に求めます。

灰の意味

灰は、どういう意味をもっているのでしょうか? 灰は、何かを燃やしたときに出るちりです。したがって、灰は、破壊と火を表します。教会は、私たちが、自分の罪のためにこうむることとなった、肉体的な死と、霊的な死を表すために、灰を使うのです。

灰は、私たちの肉体的な死を表します。私たちの体は、時とともに消耗し、ついには機能しなくなるのですから、私たちが死ぬのは、当然のことです。金持ちでも貧乏人でも、容姿が良くても悪くても、知的でも狭量でも、学者でも無知な人でも、みな、いつかは死ななければなりません。そして、死んだ後、私たちの体のうちで残るものは、ほんの少しのちりに過ぎません。天主は、私たちを創造されたとき、私たちに不死をお与えになりました。私たちは、死なずに、永遠の命に入るはずだったのです。しかし、アダムは原罪を犯し、その罰として、私たちは、不死という賜物を失いました。ですから、私たちの肉体的な死と腐敗は、私たち自身の罪の罰なのです。

灰はまた、私たちの霊的な死、すなわち、私たちが地獄の火の中で永遠に焼かれることを表します。聖ヨハネは、黙示録の中で、こう言っています。「これは第二の死である。命の書に記されていなかった者は、みな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20章14-15節)。地獄の火は、反逆の天使たちを罰するために作られました。福音書の中で、イエズスは、「呪われた者よ、私を離れて、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)と言っておられます。しかし、私たちは、原罪と、私たち個人の罪によって天主の法に背くことで、悪魔の手本に従うことを選んだのです。ですから、私たちは、地獄で悪魔の罰を受けるべきことをしたのです。

教会は、私たちの頭に灰をつけることによって、私たちが罪人であることと、自分の罪によって私たちが受けるべき罰を、私たちに思い起こさせるのです。そして、私たちの側では、額に灰を受けることによって、この教会の忠告を、公に受け入れるのです。私たちは、天主の御前で、そして人の前で、自分が罪人であることを認めます。これは美しい謙遜の行為です。ですから、私がお勧めするのは、ミサが終わってもすぐに額から灰を落とさず、外の人に見てもらうことです。

灰に関わる教会の祈り

灰に関わる教会の祈りは、どんなものでしょうか? 教会は、二つのことを天主にお願いします。それは、私たちの罪の赦しと、私たちが、自分の罪を心から反省することのできる恩寵です。天主は正しいお方です。ですから、天主は、罪による侮辱や、無秩序を受け入れることは、おできになりません。しかし、天主はまた、善きお方にして、慈悲深いお方です。私たち人間の弱さをご存じです。それゆえ、天主は、いつでも私たちを赦す用意をしておられます。天主は、預言者エゼキエルを通して、こう言われました。「私が悪人の死を喜ぶだろうか―と主なる天主は、仰せられる―。むしろ、彼が、その生き方を変えて生きることをこそ望む」(エゼキエル18章23節)。しかし、天主の赦しには、条件があります。「悪人が、反省して、犯した悪を退けるなら、彼は生き延びて、再び死ぬことはない」(エゼキエル18章28節)。ここで、「反省する」とは、自分の罪を自覚し、天主の御前で、謙虚に自分の悪い行いを認めることです。「犯した悪を退ける」とは、自分の犯したすべての罪を心から悔い、生き方を改めることです。マグダラの聖マリアは、大いなる罪人でした。しかし、自分の罪の悪を理解する恩寵を受け、この恩寵の助けによって、自分の生き方を完全に改めたのです。そして、偉大な聖人の一人となりました。聖パウロは、キリスト教徒を激しく迫害していましたが、ダマスコへの道で、自分の行っている悪を理解する恩寵を受け、この恩寵の助けによって、自分の生き方を完全に改めたのです。そして、使徒たちと等しい者となりました。教会が、私たちに灰をつけることによって天主にお願いするのは、これと同じような恩寵なのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、この私たちのための教会の祈りが効果をもつためには、私たちに、十分な心構えができていなければなりません。では、どうしたら、そのような心構えができるでしょうか。それは、灰の儀式を通して、教会が私たちに与える指示に従うことです。自分の死を思い起こしましょう。死は、日々近づいているのですから。自分の死を思い起こすことで、私たちは、永遠の観点から、物事の真の価値を認識することができます。地獄が存在し、私たちは自分の罪によって、地獄に落ちるべきことをしたこと、また、今も地獄に落ちる危険の中にいることを、思い起こしましょう。地獄を思い起こすことは、私たちが誘惑を拒絶する助けになります。天主は、罪を心から痛悔し、キリストの教えに従って、生き方を改める人にのみ、罪を赦してくださることを、思い起こしましょう。ですから、私たちは、教会が法で命じるものだけを行うことは、しないようにしましょう。教会は、灰の水曜日と聖金曜日には大斎を守り、金曜日には肉を食べないように命じています。しかし、これらは、たいしたことではありません。私たちは、それに加えて、自分の罪を償い、また、私たちが自分自身よりも天主を愛していることを、天主にお見せするために、何らかの個人的な償いも、するべきです。私たちは、自分が最も頻繁に犯してしまう罪がどんなものであるかを自ら確認し、自分を改めるために、その罪にに対して、真剣に取り組まなければならないのです。

マグダラの聖マリアが、この四旬節の間、天において私たちを導き、取り成してくださいますように。







2022年5月1日(日)~5日(木)まで、聖ピオ十世会日本は恒例の秋田の聖母への巡礼を計画しております。愛する兄弟姉妹の皆様をご招待申し上げます。

2022年03月01日 | 秋田巡礼_Akita Pilgrimage

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2022年5月1日(日)~5日(木)まで、聖ピオ十世会日本は恒例の秋田への巡礼を計画しております。今年も愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にご招待申し上げます。

今年も森林に囲まれた巡礼に極めてふさわしい宿泊施設を使うことになりました。
お部屋は全てバス,トイレ付きで、シングル,ツイン,和室があります。

私たちの毎年の巡礼が多くの実りを持って実施されるためにも、祈りと犠牲との精神と、愛徳と従順の精神で、多くの愛する兄弟姉妹の皆様が参加されることをお待ちしております。

詳しくはhttps://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimageをご覧ください。

2022年5月1日(日)~5月5日(木)

今年のおおよそのプログラムは次の通りです。往復のチケットの手配のご参考としてください。

2022年5月1日(日)
午後3時からホテルクリプトンにチェックイン可能
午後6:00頃 聖伝のミサ
午後7:00頃 夕食
(ご到着の都合で夕食に間に合わない場合は、不要とすることもできます。要不要を必ずご連絡ください)

2022年5月2日(月)~5月4日(水)
6:30 聖伝の歌ミサ
霊的講話・聖体奉仕会訪問・御聖体行列・聖母行列など
※新型コロナ禍の感染拡大防止のために聖体奉仕会訪問禁止となっている場合は、巡礼団は聖体奉仕会の訪問ができない可能性があります。

2022年5月5日(木)
6:30 聖伝の歌ミサ
インマクラータの騎士となる誓約式・霊的講話など
お昼ごろ 解散予定

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


経口中絶薬は危険な薬です。胎児のいのちを奪い、女性の身心をむしばむ薬です。

2022年03月01日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
胎児の生きる権利を奪う、中絶経口薬が承認されようとしています。反対の署名にご協力お願いいたします。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=4987717734642499&id=868363889911258

経口中絶薬は危険な薬です。胎児のいのちを奪い、女性の身心をむしばむ薬です。

経口中絶薬の承認に反対します

1、経口中絶薬は、危険な薬です。

母体に対する深刻な影響があります。服用後2週間近くの間、強い腹痛と嘔気を伴うケースが多く、膣からの出血が長期間続くこともあります。時に止血手術を要する大量出血や感染症も引き起こします。また胎児や胎盤の排出が不完全で、手術が必要になるケースが数%発生しています。このため、中絶手術よりも、長期間厳重な医療監視下に置かれる必要があり、個人の自己管理下での使用ではさらに危険性が増します。また、投与前には子宮外妊娠、子宮内避妊具使用、副腎障害、ステロイド薬使用、抗凝血剤使用の有無等を、超音波検査も含めて厳重にチェックする必要があり、怠ると死を招く危険すらあります。

2、胎児の生きる権利を奪う薬です。

いのちは”授かりもの”であり、お腹の赤ちゃんも大切な市民です。かけがえのない個性と役割を持つワン&オンリーの存在です。その小さな命の生きる権利を奪ってはなりません。

3、今必要なのは、すぐに中絶にアクセスすることではなく、妊婦への相談と支援です。

経口中絶薬は、女性の身心を蝕む薬です。「妊娠SOS相談窓口」の充実と周知、また出産困難な事情の解消と経済的支援を含む援助の提供など、妊娠に悩む女性への相談と支援が優先されるべきです。

4、いのちの始まりを大切にする社会づくりが求められます。

増加する乳幼児虐待の背景には、いのちの始まりを大切にしてこなかった風潮があると指摘されています。その風土で育つ子供たちには、十代中絶の低年齢化等様々な社会問題が起きています。お腹の赤ちゃんと妊婦さんを温かく迎える社会づくりが求められます。


三月は聖ヨゼフの月です。明日、2022年3月2日は、灰の水曜日ですが、3月の初水曜日(月の初めての水曜日)でもあります。

2022年03月01日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

三月になりました。三月は聖ヨゼフの月です。明日、2022年3月2日は、灰の水曜日ですが、3月の初水曜日(月の初めての水曜日)でもあります。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、よい四旬節を過ごす恵みをこい求めましょう。

明日は初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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