Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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ベルナール・フェレー司教とのインタビュー。聖ピオ十世会、ミサ、「トラディティオーニス・クストーデス」について(第1部)

2022年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

ベルナール・フェレー司教とのインタビュー。聖ピオ十世会、ミサ、「トラディティオーニス・クストーデス」について(第1部)

Interview with Bishop Bernard Fellay on SSPX, the Mass, Traditionis Custodes - Part 1

2022年2月17日 聖ピオ十世会米国管区

このインタビューの第1部では、聖ピオ十世会の総長の職を24年間務めたベルナール・フェレー司教が、さまざまなテーマについて、ルイス・ロマン氏の質問に答えています。そのテーマは、1988年の司教聖別、離教、非常事態、危機の時代における教会法の大切さ、ミサに関する聖ピオ五世の教書、新しいミサ、ベネディクト十六世の「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)、教皇フランシスコの「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)です。

ルイス・ロマン氏は、YouTubeとすべてのポッドキャストプラットフォームで、二つの番組のプロデューサー兼ホストを務めています。彼の番組では、福音を伝え、カトリック信仰の美しさと豊かさを、時事ニュースの分析、インタビューなどを交えて掘り下げています。

この翻訳とインタビュー映像のテキストには、編集上の調整が加えられていますが、会話のスタイルは全体的に維持されています。

【ロマン氏】司教様、本日は聖ピオ十世会について、世界中の多くの人々が抱いている疑問を解消するためにお時間をいただき、感謝申し上げたいと思います。私たちの申し出をお引き受けいただき、ありがとうございます。

【フェレー司教】はい、もちろんです。喜んで。

【ロマン氏】ありがたいことです。今日、最初にお聞きしたい質問は、どのようにして司祭としての召命を発見なさったのか、ということです。どのようにして、私たちの主は、司教様にそれを見せてくださったのでしょうか?

【フェレー司教】この話には紆余曲折がありました。一瞬のことではありません。幼少期から青年期にかけて、いろいろな場面で召命が見えてきたのです。7歳のとき、13歳のとき、それははっきりしていました。その後は…完全に消えたとは言いませんけれども、最初のようにはいきませんでした。その後、17歳のとき…そのときから、とてもはっきりしたのです。

ルフェーブル大司教

【ロマン氏】マルセル・ルフェーブル大司教と交流がおありだったそうですね。大司教は司教様の人生や召命にどのような影響を与えたのでしょうか? また、どのような方だったのでしょうか?

【フェレー司教】大司教が直接、私の召命の原因になったとは思いません。しかし、私がエコンに住んでいたことは知っておいてください。今、エコンといえば、ルフェーブル大司教が1970年に開いた神学校のことをいいます。でも、私は1962年からエコンに住んでいたのです。

エコンは、聖ベルナルド修道会の所有地で、そこには大きな犬がいました。ここにはすべてがあったのです。6軒の家と、発電所がありました。私がそこに住んでいたのは、それが理由でした。その後、ルフェーブル大司教が来られた時、私の父は大司教のお手伝いをしました。すべてが自然に進んでいきました。ルフェーブル大司教とは子どもの頃に知り合いました。その後、私はそこで神学校の養成教育を受けました。

私が神学校に入学した1977年、ルフェーブル大司教は神学校の校長でした。私は神学校の1年目をルフェーブル大司教のもとで学びました。その後、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教(当時はティシエ神父)が校長になりました。ルフェーブル大司教はスイスの別の場所にある聖ピオ十世会の管理センター(本部)へ行きました。聖ピオ十世会が成長し始めたため、二つ(神学校と本部)を一緒にしておくのはよくなかったのでしょう。

その後、司祭に叙階された1982年に、私は会計長に任命されました。ルフェーブル大司教が住んでいた家(本部)に行きました。1年間、私は大司教のすぐ近くに住み、大司教を間近に見ました。大司教のことを、どう言い表しましょうか?

大司教の人生とその負っていた責任を見れば、重要な人物であることが分かるでしょう。大司教は、教皇によって全フランス語圏アフリカの教皇使節に任命されたのですから。この責任者のとき、大司教は自ら少なくとも24、おそらくは35もの教区を設立しました(確認していただけますか)。それを行ったのは大司教なのです。大司教は、教皇ピオ十二世から最も信頼されていた人物です。

教皇ヨハネ二十三世が選出されると、状況は少し変化しました。フランス司教団の影響もあって、大司教はフランスの小さな教区に任命されました。司教たちは、大司教のことが好きではなかったのです。しかし、それも6カ月間だけでした。その後、大司教は、最大の宣教修道会である聖霊修道会の総長に任命されました。

大司教が第二バチカン公会議の準備作業のすべてに参加することになったのは、大司教だったからというわけではなく、聖霊修道会の総長だったからです。大司教はその準備のすべてを間近で見たのです。その最初の準備の後、大司教は懸念されるものを見始めました。しかし、大司教は公会議に関して非常に熱心で希望を抱いていました。

しかし、その後、少しずつ、オリジナルの準備文書に代わる新しい文書が良くないもの、混乱を招くものであることが、大司教には分かり始めました。省略や曖昧さがあったのです。そのアプローチにおいても、つまずきを与えるもので、革命的でした。

公会議の冒頭で、最初の仕事の一つは、さまざまな委員会の委員の選出でした。リベラル派はこの選出に干渉し、選出を遅らせて、委員の名簿を変更させました。彼らは、2年間の準備作業、すべての準備文書、つまり草案(schema)を、簡単に拒否しました。唯一残ったのは、典礼に関するものだけでした。

ルフェーブル大司教は、そのすべてを見たのです。私たちにそのすべてを見ていく時間があるかどうか分かりませんが、おそらく後で…。

【ロマン氏】はい。もちろんです。

【フェレー司教】…教会の心を見る。そして、原理によって結果を見る。今日、例えば、大司教が、教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者(confused Catholics)のために書いた本(「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへの公開書簡」)を見てください。1970年代に大司教が書いた本です。これは、今日のために今日、読むことができる本です。とても高度な視点から、とても正確に、要点を押さえて書かれています。

【ロマン氏】もちろんです。予言的です。

【フェレー司教】素晴らしい本です。本当に素晴らしい本です。では、私たちはどうすればいいのでしょうか? 大司教は、一方では教会の人、他方では非常に謙虚な人でした。大司教は、誰もが話しかけやすい方でした。大司教は誰にでも親切でした。

神学校で休暇中に、小教区の人々がルフェーブル大司教を招待しようとしたことがありました。彼らは何度も何度も探しました。そして、ついに大司教を見つけることができたのです。お皿を洗っているところでした。

【ロマン氏】すごい。司教なのに? 素晴らしい。

【フェレー司教】大司教はとても良い方でした。大司教の周りには、愛徳のオーラが漂っていました。大司教の司教標語は「Credidimus Caritati」(私たちは天主の愛を信じた)でした。それが大司教の人生の標語でした。大司教は、みんなを助けるために、いつもそこにおられたのです。素晴らしい方でした。

【ロマン氏】そうです。私は最近、本を読んでいたのですが --- これはあらかじめ質問する予定だったリストには載っていないものです --- ルフェーブル大司教はどんな人だったのか、ということを考えながら読んでいました。大司教様は宣教師でした。今おっしゃったように、30以上の教区に福音を伝えるという賜物を天主から授かりました。教会の誰もがこれをできるわけではありません。教皇は大司教をアフリカに配置し、そこでは今日でもキリスト教が大きく発展してきています、今日に至るまで。その一因はルフェーブル大司教にあると言えると思います。

大司教は愛徳を伝える方でした。聖トマス・アクィナスは、愛徳の最大の証しは、キリストを人々に与えることである、と言っています。大司教は、その偉大な模範でした。

【フェレー司教】そうです、大司教は本当にこのような人でした。よく覚えているのは、夕食会で大司教を見た男性が、「普通、戦争に参加した人はそれを反映するものだ」と言ったことです。戦争に行った人は、最後には頑なになり、優しさはすべてなくなります。彼は、ルフェーブル大司教にはそれが全く見られないと言ったのです。大司教の柔和さは本当に明らかでした。

1988年の司教聖別

【ロマン氏】さて、少し議論を呼ぶ質問をしたいと思います。ルフェーブル大司教は、司教様と他の3人を司教に聖別しました。その結果は、大司教の「破門」と、1988年のその日に聖別された全員の「破門」でした。司教様が司教に聖別されたこと、そしてこの結果について、個人的に何か言えることはおありですか?

【フェレー司教】私自身のことはお話しいたしません。私は一番若いので逃げようとしました。【破門という】そのような嘘があることをよく知っていたのです。司教聖別は、みんなのためにしなければならなかったし、他人のために自分を犠牲にしなければならなかったのです。

大司教の行動は、ねたみによるものではないことを理解してください。「私は自分だけのことをするつもりです」と言う行動ではないのです。違います。それは、ただひたすら、教会のためでした。どうしてそう言えるのでしょうか? 大司教は、出来事とその元になった原理について、非常に、非常に純化された理解を持っていました。

大司教が理解していたのは、私たちが、教会にとって非常に困難な時代に生きているということです。それはなぜでしょうか? 公会議のせいで外部の誤謬が入り込んだ上に、改革でさらにそれが進んだからです。カトリック的でない原理が教会に入り込んだのです。

大司教は、決して自分の意志を通そうとはしませんでした。大司教は、そのことが非常に重大なことであると理解していたので、天主様にしるしを求めたのです。大司教は、二つのしるしを受けたと思うと言われました。一つ目はアッシジでした。

アッシジで何が起こったのでしょうか? キリストの代理者である教皇が、世界のすべての宗教の指導者たちを、平和のための会合に招待しました…平和を祈るために、ですよ。それは全く受け入れられないことです! なぜでしょうか? 私たちの主は天主です。この世に来られ、ご托身になり、ご自分が教会とお呼びになる一つの宗教を創立された天主です。それは天主の教会です!

教会はいつも言ってきました…それはただ…天主へ行く道は一つしかない、と。その道は私たちの主です! 私たちの主はご自分の教会を作られました。主の教会はキリストの神秘体です。教会とは何でしょうか? それは、私たちの主と主の教会です。なぜなら、主の教会はキリストの神秘体だからです。

教会とは何でしょうか? それは、洗礼を受けた人々の霊魂を一つの体に一体化なさった私たちの主です。それが、私たちが真の教会と呼ぶ教会です。理解しなければならないのは、ピオ十二世までの教皇によれば、他の宗教について話すときは、他の宗教を偽の宗教と呼ぶ、ということです。すべては偽物なのです!

それがプロテスタントであれ、聖公会であれ、正教会であれ、それらは偽の宗教と呼ばれています。なぜでしょうか? なぜなら、彼らは、自分たちが提供することのできない終末を提供すると言い張るからです。私たちを天国に連れて行くことができる唯一の宗教は、その手段を持っている唯一の宗教は、カトリック教会です。

ですから、カトリック教会の指導者が偽の宗教を招待するのを見ることは、その諸宗教が、私たちの主のところに行けると主張しない宗教であっても、それは冒涜なのです…どうしてこんなことが可能になるのでしょうか? つまずきです! 信じられません! すべての人を欺いているのです! これらの宗教の信者はみな、自分たちが招待されるのなら、自分たちには価値があると思ってしまいます。

二つ目のしるしは、もっと難しく、もっと神学的なものですが、大司教にとっては、もっと重要なもので、それはローマとの話し合いの時にありました。私たちは常にローマと議論をしてきました。私がよく覚えているのは、1984年か1985年ごろのことです。

大司教は、ラッツィンガー枢機卿と議論していました。聖ピオ十世会が、大司教が、信教の自由の問題に関して疑問を示していることに、枢機卿は同意していました。それが、私たちがやっていたことです。その2年後、1987年の初めに、ルフェーブル大司教はその返事を受け取りました。

その返事の中で、ローマは、「はい、信教の自由は新しいものです」と認めたのです。しかし、カトリック教会に新しいものはありません。教会が持っているもの、教会が守っているもの、それは最後の使徒の死で終わる啓示の遺産です。新しいものは何もないのです。

「Nihil novi nisi quod alicuius est」という有名な言い方があります。訳すと「他者のもの以外は、新しいものは何もない」で「教会には新しいものはなにもありえず、もしも新しいものが入り込んだとしたらそれは教会に属するものではなく、教会以外の別物に属することだ」という意味です。教会には、受け継がれたもの、すでに持っているもの以外には何もないのです。また、第一バチカン公会議は、聖霊は聖ペトロと後継者に、新しい霊感や新しい思想を約束してはいない…いや、そのための不可謬権や助力は約束されていない、とはっきり言っているのです。聖霊は、二つのことを約束しておられます。それは、信仰の遺産を絶えず保存することと、それを忠実に伝達することです。

ですから、彼らが新しいもの、この立場における、つまり信教の自由という観点における新しいものがあることを知っていると言うことは、大司教にとって、それは受け入れられない、と言う理由だったのです。

このことは、説明する必要があります。多くの人は、私たちが信教の自由と言うとき、洗礼を強制してはいけないという意味だと思っています。私たちはその意味には、完全に同意します。洗礼は自由な行為であり、教会はその自由を望んでいます。私たちが信教の自由と言うとき、そのことを話しているのではありません。

それよりも、国家と教会の関係についての問題の方が、もっと大事です。これは別のことです。単純化すれば、こう言えるでしょう。つまり、私たちの主は天主である、主は万物の創造主である。コロサイ人への書簡の冒頭で、このことが言われています。

これは何の意味でしょうか? 主はすべての被造物の創造主である。すべての被造物には必要性、自分の持つ使命からの義務、創造主である天主から受ける義務がある。そして、これは個人という観点からだけでなく、社会としての観点から来るものでもある。人間社会は完全に私たちの主に依存している。そして、この依存は、人間社会の法を私たちの主に従わせることで表現される。つまり、自然法に、天主の法に従わせることで。国家は、それらに反する法を作ることはできない、ということです。

もっと正確に言えば、レオ十二世は、教会が常に国家の自然の権威を認めてきたと言いました。たしかに、一国の国民はその政治機構を組織し、その指導者を指名します。しかし、権力と権威は常に天主から来るのです。

すべての大統領、すべての王は、その権力の行使について、彼らの審判者である私たちの主に対して答える義務・釈明する義務があります。トランプも、バイデンも、みんな…天主から受けた権力で何をしたのかについてです。これがすべてを語っています。でも今日、そのことを誰も言いません。

今日、教会は、「いえいえ。私たちが国家の側に求めるのは、自由だけです」と言うことで満足しています。それ以上は言わないのです。いえいえ、そんなことはあり得ません。教会と国家という二つの社会は、もちろん完全で区別されたものであり、混ざり合うものではありません。しかし、天主様は両方の同じ天主です。しかも、国家の成員でもある教会の成員は、天国に行くというただ一つの目的しか持っていないのです。だから、天国に行くための法に従わなければならないのです。

国家が、罪となることを許すような、天主の法に反する法を作った瞬間に、その法は天国に行く妨げになります。このような国家は、地獄、この世の地獄にその姿を変えます。このすべてが重要です。

ルフェーブル大司教は、ローマからのその声明を読み、「ノー」と言いました。それが意味するのは、教会には、なにか行動を起こすべきような危険があるということです。だから何かをしなければならない、ということです。しかし、最初にすべきことは、ローマと話をすることでした。私たちには司教が必要だ、と伝えるのです。大司教は、単独で全てを行ったわけではありません、違います。

その結果、1年にわたる話し合いが行われ、最終的に、ローマは聖ピオ十世会に一人の司教を与えることに、おおよそ同意したのです。聖ピオ十世会の司教という考えは、これらのテキストから来るものです。つまり、聖ピオ十世会で奉仕する補佐司教です。聖ピオ十世会での奉仕を委任されたカトリック司教のことです。

これは重要なことです。私たちは、非常に困難な時代に聖別されました。私たちは、裁治権が欲しいのではなく、ただ奉仕するためだけにここにいるのです。ローマは、私たちが離教者でないと認めたのですから、これは極めて重要なポイントです。私たちは、持っていない権力を持とうと主張することはありません。

その後、私たちがどのように活動しているかを説明する必要があるでしょう。しかし、これは極めて重要です。私たちは、【カトリック教会とは別の】並立する教会を設立するようなことはしていません。私たちはカトリック信者なのです。それだけです。話はこれで終わりです。

【ロマン氏】分かりました。では個人的な質問です。司教様は29歳のときに司教に聖別されましたが…。

【フェレー司教】(笑い)いいえ、30歳です!

【ロマン氏】(笑い)分かりました、30歳です。なぜ29歳と読みまちがえたのか分かりません。若くして聖別されたその日、どのようにお感じになりましたか? その翌日、司教様は「破門」されました。正式にはどうお感じになったのですか。とても強いお気持ちだったではと、想像するのですが…。

【フェレー司教】このように言いましょう。教会の状況についての認識、何かをする必要があるという認識があまりにも強かったので、「破門」は何ともありませんでした。

カストリヨン枢機卿と連絡を取ってから、かなりたって、2000年頃、つまり12年後に、枢機卿は私にこう言われました。「あのぅ、教皇ヨハネ・パウロ二世は聖ピオ十世会との関係を修復したがっています」。私は枢機卿にこう言いました。「願わくは、それは私にとってうれしいことです。しかし、私たちには問題があります。それは、私たちがあなたたちを信用していないということです」。

「私たちは、あなたたちが聖ペトロ兄弟会をどのように扱われたかを見たばかりです。「交わり」のうちにある彼らがどのように扱われてきたかを見てきました。私たちは彼らよりも「もっと悪い」とされています。であれば…いや、私たちは確信が持てないのです。そのため、私たちはしるしが欲しいのです。言葉ではありません。私たちが信頼を回復することのできるような明確で効果的なしるしです」。

私たちは二つのことをお願いしました。一つ目は、世界中のすべての司祭に、トリエント・ミサを捧げる権利があることを伝えてほしいということです。二つ目は、枢機卿にこのように説明したのですが、破門に関することです。「破門」とはちょうどアヒルの首の水滴のように何の影響も与えないのです。しかし、司教の方々は、それを使って聖ピオ十世会の仕事を妨害しています。ですから、取り去ってください、と。

本当に、ちょうどアヒルの首の水滴のように何の影響も与えないという表現がぴったりだと思います。そうです、あるとされてはいるのですが、なんの意味もありません。しかし「あなたは破門されている!」だからミサを捧げるのを禁止されている、というのは、もちろん納得がいきません。でも、どう言えばいいんでしょう。お分かりになるでしょうが、得たもの【司教聖別】に対して支払った代償【「破門」のレッテル】は、小さなものでした。緊急必要性は、これまでずっと教会にあり、今でもあります。それはいつも同じです。時期によっては、少し違った形があるでしょう。しかし、基本はいつも同じです。あなたの質問にお答えできたでしょうか…。

なぜ破門なのか?

【ロマン氏】十分にお答えいただきました。時代が大司教に、すべきことをする理由を与えたのです。私は、司教様がすでに多かれ少なかれお答えになっていることをお尋ねしたいのですが、おそらく司教様は、それをさらに明確にすることがおできになるでしょう。ルフェーブル大司教は、正確にはなぜ「破門」されたのでしょうか? 異端でしょうか? 離教でしょうか? その理由は何でしょうか?

【フェレー司教】それは、非常に興味深い質問です。1917年の教会法、つまり最初のローマ教会法では、教皇の委任なしに司教を聖別した場合、破門はなく、聖職停止しかありませんでした。

自分の持っていない権力を使ったために、聖職停止になったわけです。教皇しか、司教を指名できませんから。また、破門ではなく、聖職停職だけしかありませんでした。その行為が破門になるのは、1983年の新しい教会法になってからです。

これは、中国の歴史上の偶発的な出来事から来ています。1950年、中国国家は自分たちの教会を作ろうと望みました。彼らは、カトリック信者を強制的に「愛国協会」と呼ばれる教会に統合させました。中国で、この離教に加わったカトリック司教たちが司教を聖別し、この離教が、ローマからの分離という真の離教だったのです。

司教を作ったからではなく、独立した教会を設立したこと、つまり離教的行為に対して破門を受けたのです。人々が(教皇の委任を受けずに)司教を聖別することが離教的行為であるという考えを持ったのは、この歴史的な出来事があったからです。

また、教会法の条文は離教的行為について述べているのであって、離教について述べているのではありません。しかし、大司教は聖別式の説教の中で、離教の意向はなかったと非常にうまく説明しています。私たちは教皇の権力を認め、すべてのことにおいて、教皇に従うことができるのです。ただ、救いを危うくするような行為がある場合だけは、私たちは教皇に従いません。

しかし、特定の行為においては、教皇の権力を拒否することはあります。それは、自分の子どもに、「さあ、盗みに行け!」と言う父親と同じことです。もし子どもが父親に「ノー」と言ったとしても、それは父親の権威を認めないということではありません。この命令に「ノー」と言うのは、全く違うことです。

この行為(司教聖別)が離教を成立させるのに十分であるかのように言い張ることは、そんなことをローマは一度も言っていませんが、間違いです。枢機卿でさえも、離教ではないと言った人が何人かいます。しかし、公式文書には、(聖ピオ十世会の司祭が)全員破門されたと思わせるものはなく、司教たちだけが「破門」され、その「破門」はその後解除されたのであり、それがすべてです。離教の話は一切ありません。その後、ローマ側との話し合いで、彼らは私たちが離教者でないと納得したのです。

【ロマン氏】その通りです。はっきりさせるために、ルフェーブル大司教、司教様、教会は、何か【離教】が起こったとは、言うことができませんし、言ったこともありません。司教様は教会の教理について何も間違ったことは言っておられませんし、異端を広めてもおられません。でも、人々は、司教様が新しい神学を確立したと考えているのです。

【フェレー司教】いえいえ、絶対に違います。【新しい神学などありません。】

【ロマン氏】ローマの許可のない司教聖別があっただけですね。

【フェレー司教】そうです。このことは、文字通り教会法に書かれています。その後2009年に…。

【ロマン氏】はい、それが次の質問でした。お許しください、司教様。

【フェレー司教】いいえ、どうぞ

聖ピオ十世会の聖職者の地位

【ロマン氏】教皇ベネディクト十六世は、司教様を含む4人の司教の破門を解除しました。司教たちの教会法上の状況は…、これが正しいかどうか私には分かりませんが、ある記事から引用しましたので、間違っていたら訂正してください…、聖ピオ十世会の聖職者たちと同じ、すなわち「聖職」(divinis)が停止された状態です。これが、私が司教様にお話ししたかったことです。多くの人々が聖ピオ十世会に対してこの言葉を使うからです。

これは、教皇ベネディクト十六世が世界の司教たちに送った手紙の中で、なぜそのようなことをしたのかを説明するために言ったことです。「教理上の問題が解明されるまでは、聖ピオ十世会は教会においていかなる教会法上の地位も有しません。たとえ彼らが教会法上の制裁から解放されたとしても、教会においていかなる合法的な聖務も行使することはできません」。

これが何を意味するのか、司教様にお尋ねします。聖ピオ十世会で行っているミサや秘跡は有効ですか? そして、それらは合法的な秘跡なのでしょうか?

【フェレー司教】いやいや、それは非常に重要なポイントです。しかし、その質問が理解できるようにお答えするために、私は具体的な方法でその問題に迫りたいと思います。

それはなぜでしょうか? これらの法はすべて規律の法(disciplinary law)です。社会としての教会には、社会の良き秩序のためにこれらの法が必要です。どの社会でもそうですが、社会をどのように組織するかなどを説明するために、かなりの数の法あります。それは良いことです。

規律の法の文字通りの適用が害を及ぼす可能性がある状況もあります。それは非常に特殊な状況です。このことを、ある例で検証してみましょう。

それは、交通信号の例です。赤信号があります。通常、赤信号では止まります。法で決まっていますから。赤信号では止まらなければなりません。しかし国家は、問題なく通過できる特定の車両があることも知っています。特定の音を出す必要があるかもしれませんが、通過します。赤信号でも通過します。なぜでしょうか? それは、もっと大きな善が問題になっているからです。

別の例は、火事です。家が燃えているとします。その火事に対処する責任を負う、公的な立場にある人々は消防士です。当たり前のことです、彼らは消防士なのですから。しかし、消防士が間に合わなかったとします。すると、できる人なら誰でも、その火を止めるためにできることをする義務があります。

そこがポイントです。法は「だめ、だめ! 消防士だけが責任を負っています!」と言います。しかし、もしも火事の時に、消防士がいなければ、事態は、別の状況に変わります。

公会議後の教会の状況を見ると、少しそれに似ています。教会の状況を全体的に見れば、教会の状況は、いわゆる「非常事態」であることが理解できるでしょう。

ニューオーリンズのハリケーン・カトリーナが、すべてを破壊したのと少し似ています。水がやって来て…警察が…消防士が…病院が…誰もそれ以上できません。すべてが麻痺しています。その時は、ニューオーリンズの人々一人一人が行動を起こし、自分のできる範囲で、救われることができます。

こんなときに、通常の法を適用してもうまくいかないことは、まったくはっきりしています。もっと高いところを見なければなりません。それが今起こっていることなのです。ルフェーブル大司教は最初から、存在しなければならない例外について話しています。

それを明らかにする例として、非常に興味深いものがあります。それは、死の危険です。教会の通常の法が言っているのは、例えばカトリックではない正教会の司祭には、秘跡に関するものについては誰も近づいてはいけないということです。この司祭は教会の外にいるのです。教会の外にいるのですが、真の司祭なのです。

しかし、同じ教会が、もし死の危険がある場合、つまり、路上で事故があり、誰かが死にかけていて、そこに正教会の司祭がいた場合、その死にかけている人は、霊魂の救いのために、離教者で司祭としての務めを果たすことを禁じられているその男性のところに行って、終油を与えてもらってよい、と言っているのです。それは完全に合法的なことです。

そして、その時に霊魂を救うために、教会は通常の時に必要な制限をすべて取り払います。しかし、今は普通ではありません。だから、制限などはみな、忘れてしまうのです。大切なのは霊魂を救うことなのです。

聖職者たちの怠慢が非常に強く、また非常に広範囲に及んでいますから、今日、肉体的ではなく、道徳的、霊的な死の危険があることを明確に示すために私たちが使うのが、この例です。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、確か1981年だったと思いますが、「異端は善人の手によって教会全体に広まる」と述べています。異端はあらゆるところに広まります。しかし、異端は霊魂を殺します。殺すのです。ですから、人々が真理を受けることは、どんな状況でも非常に重要なことなのです。

また、これは秘跡についても言えることです。もはや「真の現存」を信じていない、ミサが真の犠牲であると信じていない司祭がたくさんいます。その人たちは、何をするのでしょうか? 彼らは霊魂たちに何を告げるのでしょうか?

そうなると、霊魂は死にます。霊魂は飢えています。恩寵に飢えていますが、霊魂はそれを受けませんし、受けてもごくわずかです。祭壇で司祭が行うことに完全につまずいてしまい、もうその司祭のところに行けない霊魂がいるのです。霊魂は孤立し、迷っているのです。

彼らは私たちのところに来て、助けを求めているのです。私たちは彼らを助けなければなりません。繰り返しになりますが、人は自分にできることをする必要があるのです。よろしい、教会の通常の法をすべて認めましょう。しかし、緊急事態が適用される状況があることを認めなければなりません。

【ロマン氏】その通りです。

【フェレー司教】また、ローマでの講演で、私は「善きサマリア人」の例を挙げました。私たちの主は言われます。怪我をした人がいます。レビ人がいます。司祭がいます。彼らはすべての権能を持っている人々です。彼らは何をするのでしょうか。通り過ぎます。自分たちには関係ない、と。助けるのはまったくの外国人です。彼は怪我人の世話をします。まさに、それが私たちのしていることです。

だから、今までずっと、私たちは自分でミッションを作らないと言ってきたのです。私たちは、私たちを求めてくる人のところに行くだけなのです。これは、聖ピオ十世会で起こるすべてのことの原理です。私たちはどこへも、どの国へも行くことを計画したことは一度もありません。常に依頼があり、それが本当かどうか、正しいかどうかを確認し、そして、私たちは可能な限りその場所に行くのです。

本当に、「教会で飢えて死ぬ人を助けなさい」を、全てに厳密に適用するのです。私たちは裁治権がないことをよく承知していますが、必要とする人々のところに行くのです。それはとても重要なことです。

それは、教会におけるミッションの問題とも結びついています。死の危険があるとき、第一の法は、すべてを支配する法は、霊魂の救いである、と教会が言っていますから、合法的なことなのです。

秩序を曲げているように見えるかもしれませんが、今日の教会が抱えている大きな秩序の乱れに対処するためには、秩序を曲げることが必要なのです。状況は破滅的です。ますます、今日の混乱は甚大です。そして、混乱はさらに悪化しています。

【ロマン氏】そうです。1980年に比べれば10万倍も悪化しています。

【フェレー司教】そうです、もちろんです。しかし、それは当然の結果なのです。私たちにとって、それは新しいものではありません。激しいものでもありませんし、重大なものでもありません、違います。それは、第二バチカン公会議の原理やその改革を、多かれ少なかれ規則的に適用しているだけなのです。それ以上ではありません。このことは、十分に何が起こっているかを説明しています。

聖ピオ十世会によって執行される秘跡

【ロマン氏】司教様、正しいかどうかお聞きしたいのですが、私が聞いたところでは、法律用語で言えば、司教様方の置かれた状況においては、ある意味で秘跡は有効ですが、許されない(illicit)方法で行われている、ということです。そう言うのは、正しいでしょうか?

【フェレー司教】いいえ、正しくありません。しかし、なぜでしょうか? それは非常に興味深い質問ですが、決定的に答えられていません。私は次のように説明します。

ローマは私たちがいるのを見て、私たちを知り、私たちと議論し、私たちを分析し、私たちの仕事を見て、その仕事が良いものだと知っています。私はこのことを、ローマの代表者である、エクレジア・デイ委員会の委員長であったカストリヨン枢機卿から直接聞いたのです。私たちが初めて会った時、4人の司教のうち3人が、枢機卿から、私たちの実が良いから、そこに聖霊がおられる、と言われました。枢機卿はそのようにおっしゃったのです。

グイド・ポッツォ大司教は最後に、最初はそうではなかったのですが、最後に、聖ピオ十世会には教会がこの危機から脱するのを助ける手段がある、と誰かにおっしゃったのです。これは非常に強力な言葉です。この状況を知っている人、私たちを見てきた人、そうおっしゃることのできる人なのです。

さて、これは、どういう意味でしょうか? 純粋に教会法上のレベルでは、イレギュラーです。不正規性(irregularity)が存在するように見えます。これは今使われている用語でイレギュラー「不正規」です。公式には認められていないのですから。そうです。それは事実です。

しかし同時に、現実的な意味で、教会は目をつむってそれを放置しているのです。信号が赤のとき警官が「通れ」と言うのと同じです。そういう状況なのです。実用的なアプローチではそれを決して説明できないことは明らかです。なぜなら、法の現実的、実用的な例外のようなものですから。

その例をいくつか挙げてみましょうか。たくさんありますから。材料は一つだけではありません。私たちの持っているローマとの実際的な関係が、あたかも私たちが通常の状況にあるかのように進んでいくことを示すものが非常にたくさんあります。

例えば、私は何度も、教会の問題に関する裁判官に任命されました。ある時、教理省から指名がありました。ある司祭が教理省に訴えたことに対して、教理省が私を指名したのです。私が完全に「非正規」だったとしたら、私がそんなことをすることはできないでしょう。しかし、ローマはそれをしたのです!

もう一つの例は、より正確でデリケートな、ローマに留保された譴責であり、この場合のローマは、内赦院(Penitentiary)と呼ばれるところです。罰則や譴責を伴う罪があり、より重大な罪に対する譴責のいくつかはローマに、教皇に【赦免が】留保されています。

例えば、ご聖体に対する罪、あるいは告解の秘密を破った司祭です。これらは非常に重大な罪であり、教会はこれらを譴責で罰するのです。そして、教皇以外の誰も譴責を赦免(適用)することはできません。

さて。しかし、実際にはどうなのでしょうか? 多くの場合、そのようなケースを見つけた司祭が答えを出すでしょう。しかし、それが有効であるためには、その司祭は1カ月以内にローマに連絡する必要があり、ローマがその答えを出すことになります。

しかし、今だから言えますが、私たちは20年前からこれを行っています。新しいことは何もありません。もっと昔もそうでした。その場合、誰かが罰を、譴責を受けます。私たちの司祭は赦しと償いを与え、ローマに、内赦院に手紙を書くのです。

すべてのケースで、ローマは私たちにこう答えました。「あなたがたはうまく行いました。あなたがたの赦免は合法(licit)です」。有効なだけでなく、合法とされたのです。時にはこうも言われました。「あなたがたの償いは正しかったのか、正しくなかったのか。この程度の重大性があれば、もっと与える必要があります」。しかし、毎回、この認証印(stamp)がありました、大丈夫でした。

告解についてのものもあります。公式には「彼らの告解は無効である」などと言われた時代もありました。でも、もっと深刻なケースでは? ローマからは? 告解という状況では、告解をした人物の名前は絶対に書きませんから、絶対に、ですからそれは秘密です。その後、ローマから書類を受け取ったら、破棄しなければなりません。すぐに破棄する義務があるのです。ですから、証拠がないのです。でも、実際にはそんなものなのです。

もう一つの例です。私たちの司祭叙階について、レーゲンスブルクの司教と問題がありました。この司教は毎年、今でも、抗議をしてくるのです。「あなたたちには司祭を叙階する権利はありません。ここは私の教区です。私が教区の責任者です。私の許可が必要です」。こんなことです。

さて、この問題を何度もローマに相談しました。ローマはこの司教に介入して「落ち着きなさい」と言ったのです。私は、その委員会のトップだったポッツォ大司教の手紙を持っています。「あなたがたは司教の許可を得ることなく司祭を叙階できます。(叙階について)司教に助言をするのが適切ですが、それは必要ではありません」。

もう一つの例です。私たちが助祭や司祭の叙階を行うたびに、ローマは私たちに、(叙階される者の)名簿を渡すように求めてきました。これはすべて、私たちの側がローマの権威を尊重することを意味し、相手【ローマ】側からは、この【私たちがローマの権威を】尊重していることを、【ローマが】受け入れたことを意味します。何故なら、彼らが権力を行使しているからです。彼らが「よろしい。名簿を提出しなさい」と言うのなら、それは何か意味のあること【聖ピオ十世会を活動を認めていること】です。

これは実務レベルでは、すべて慎み深く、冷静で、すべてこのようなことが、教皇フランシスコ以前に起こったていたことです。教皇フランシスコは、私たちに告解を聞く権能の委任(delegation)を与えてくださいました。ポッツォ大司教は、この委任は終油にも適用されると述べています。

教皇ベネディクトと教皇フランシスコの比較

【ロマン氏】これは後にする予定だった質問ですが、今答えることができると思います。教皇ベネディクトと教皇フランシスコの違いは何でしょうか? 教皇フランシスコは、世界中で無制限に告解を聞くという委任(delegation)を聖ピオ十世会に与えました。それは良い決断のように思います。それはどのような重要性を持っているのでしょうか? 何を示しているのでしょうか?

【フェレー司教】火事の例でお話しします。私たちは火を消そうとしているのです。さて、この教皇フランシスコの委任で何が起こるのでしょうか? それは、消防士の制服を受け取るようなものです。今、私たちは仕事をしているだけでなく、仕事は同じですが、制服も持っているのです。

【ロマン氏】その通りです。以前は許可を得なければなりませんでしたが、そうなのですか?

【フェレー司教】以前は、私がお話しした通りでした。ローマはそれを合法としました。他の人たちは「ノー」と言いました。しかし、最も重大なケースでは、私たちは常に許可を得ていました。そして、内赦院は教皇と非常に緊密に連携していることを知っておいてください。譴責を赦すのは教皇ですから、彼らはこれらのことを教皇に提示します。したがって、それは教皇の許可なのです。

【ロマン氏】非常に良いことです。このことからも、同じように分かります…というのは、私が人々を司教様たちのことについて述べるとき、彼らは私にこう言いました、「ああ、でも彼らは交わりにはいない」と。

【フェレー司教】そうです。交わりという考え方も…私はローマに抗議したんです。なぜなら、彼らは私たちが「完全な交わり」(full communion)にいないと言いましたし、今も言っているからです。私はポッツォ大司教に、「抗議します」と申し上げました。曖昧な言葉で遊んでいるからです。

なぜでしょうか? なぜなら、全カトリック信者のかしらが、ある人に対して、あなたは完全な交わりにいないと告げる場合、その人は(教会の)外にいるからです。

【ロマン氏】その通りです。

【フェレー司教】私は大司教に、「それが正しくないのはご存じでしょう。私たちが教会の中にいることはよくご存じでしょう」と言いました。でも、あなたはこの「完全な交わり」という用語を、新しい考え方で使っていますね。それは(第二バチカン)公会議以降に発展した考え方です。教会を「交わり」と見なす考え方です。

これは新しい用語です。新しい考え方です。それを彼らが使っているのです。ボス、高位聖職者、彼らの一部とでも言いましょう、でも一般的に【その新しい意味で使っています】。それは【今までの教会の】考え方ではありません。【教会の】考え方はいつも同じです。【今までの考え方によれば】完全な交わりにいないなら、外にいるのです。

私たちが教会の中にいることをよく知っていて理解している当局者たちがいます。しかし、そうです、イレギュラーなのです。非正規性はあるのです。彼らは、【そのイレギュラーであることを指して】この「完全な交わり」にいないという表現を使って、この非正規性について話しているのです。でも、非正規というのは、外という意味ではないのです! だから、この言葉を使うのは、ごまかしなのです。

【ロマン氏】もちろんです。教皇フランシスコと聖ピオ十世会の皆さんとの関係、これは、皆さんが教会の外にいるのではないことを人々に示すために私が使っているものです。そうでなければ、教皇フランシスコは皆さんに何かをくださることはないでしょう。

【フェレー司教】そうです、そうです。個人的に、教皇様にお会いしたとき、何度も招待されたとき、教皇様は直接、私にこう言われました。「私は皆さんを断罪しません」と。そしてさらに、「私が皆さんに関わろうとすると、私に問題を起こしてくる人たちとの間で、私は問題を抱えているのです。私は彼らにこう言います。『私は破門された人々やプロテスタントの人々に関わろうとしているんです。なぜ、あなたがたは私を悩ませるのですか? なぜ私はカトリック信者を助けられないのですか?』」と言われました。教皇様は、私にそのように言われました。

教皇様は続けて、こう言われました。「また、私は、あなたのグループの中で、人々があなたに問題を起こしていることを知っています!」。聖ピオ十世会の中には、このすべてに満足していない人々がいるのです。続けてこう言われました。「うーん…私には、圧力をかけるのは良いとは思えません。時間をかけて、ゆっくりと行うべきです」。ですから、それがおきています。私たちは、ゆっくりと行っています。

【ロマン氏】その通りです。では秘跡は合法なのですか? 洗礼は…。

【フェレー司教】私にとっては合法です。寛容という面からそれを説明できると思います。法に一致していない状況です。法に従いたい人は、「おい、だめだ! ちょっと待て! 信号は赤だぞ!」と言うでしょう。そうです、信号は赤なのです。

【ロマン氏】しかし、有効性についてはどうでしょうか? ミサを捧げるとき、キリストは現存されるのですか?

【フェレー司教】まったくはっきりしています。その通りです。

【ロマン氏】人々は私に尋ねてくるのです。なぜでしょうか?

【フェレー司教】なぜなら、簡単に言えば、有効性は、合法性を考慮しない要素によって決まるからです。秘跡が有効であるためには、正しい質料、形相、そして意向が必要なのです。この三つが存在すれば、秘跡は有効です。

恐ろしい例を挙げましょう。それは黒ミサです。黒ミサは恐ろしい冒涜ですが、司祭が必要です。黒ミサは有効です。それは有効です。それは、人が想像できる最悪の冒涜です。【合法性以外の】他の要素によって有効性のある場合があることを理解できます…。それは、はい、有効なのです。

司祭である人…例えば正教会の聖職者は、有効なミサを捧げます。しかし、正教会の司祭はカトリック教会の成員ではないので、そのミサは不法なものです。これは強盗のようなものです。彼らは、カトリック教会の秘跡を持ったまま教会を離れたのです。彼らの秘跡は、【もともとは】カトリック教会の秘跡なのです。

【ロマン氏】しかし、秘跡は天主のみわざです。だからこそ、キリストが働かれるのでしょうか?

【フェレー司教】そうです。問題は、その秘跡を受ける人々にとって、それが、効果があるかどうかという、効果性のレベルの話です。「ex opere operato」(為されたわざから=事効)の定義は、障害物を置く人々のためではなく、反対の要素を置かない人々のためのものです。離教者であること、教会の外にいることは、そのような障害物を置くことなのです。

【ロマン氏】そうです。それは重大です、非常に重大です。

このインタビューの第2部は、近日中に掲載予定です。

Conoce Ama Y Vive Tu Fe con Luis Roman - sspx.org - 02/17/2022
PRIMERA PARTE ENTREVISTA a Monseñor Bernard Fellay


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年03月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、四旬節第二主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計115人でした。大阪では26人でした。

大阪では、金・土・主日と三日間にわたって聖フランシスコ・ザベリオの列聖400周年を記念して、聖フランシスコのことを黙想しました。御聖体降福式では、イエズス会を記念してイエズスの聖名をたたえて Jesu, Rex admirabilis をパレストリーナのポリフォニーで、聖フランシスコ・ザベリオの O Deus ego amo te を、聖フランシスコ・ザベリオと同時に400年前に列聖された聖イグナチオの Anima Chrisiti も歌いました。

3月19日(土)は聖ヨゼフの祝日です。修道院と大阪で、聖ヨゼフの主日のミサ聖祭があります。

来週の3月20日の東京のミサの会場は神田須田町ホール3階です。ご注意ください。

神田須田町ホール3階地図 このビルは、1階に「AQUOS Watersports」の店があるビルと、「Kanda Cross」ビルの間にあるビルです。奥のエレベーターで3階においでください。】

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 115, including children.

09:00 mass
M: 20 (incl. 3 children)
F: 28 (incl. 4 children)
Total: 48 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 18 (incl. 6 children)
F: 25 (incl. 5 children)
Total: 43 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 15 (incl. 0 child)
F: 15 (incl. 2 children)
Total: 30 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 9 children)
F: 65 (incl. 11 children)
Total: 115 (incl. 20 children)


キリストのご変容・聖フランシスコ・ザベリオ列聖400周年|「これはキリストにならった主の愛する弟子である、彼に見習え、彼に祈れ」

2022年03月12日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年3月13日は四旬節第二主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第二主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【再掲】四旬節の四十日と、ヨハネの福音第5章の三十八年来病気になやんでいる男(聖アウグスチヌスの解説)

2022年03月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

さて四旬節の四季の斎日の金曜日に福音では、ヨハネの福音の第5章を読みます。

「その時、ユダヤ人の祭があって、イエズスはイエルザレムにのぼられた。イエルザレムの羊門のそばに、ヘブライ語でベザタという池があり、そこに五つの廊があった。その中には多くの病人やめくらや足なえや中風の人がうずくまっていた。(かれらは水が動くのを待っていた。主の天使がたびたび池に下りて水を動かすので、水が動いて最初に飛びこむと、どんな病気でもなおった。)そこには、三十八年来病気になやんでいる男がいた。その男がそこに臥せているのを見られたイエズスは、それもずい分前からのことだと知って、「治してほしいか?」とおたずねになった。病人は、「主よ、水が動くとき、私を水に入れてくれる人がありません。私が行こうとすると、ほかの人が先におりてしまいます」といった。イエズスは、「起きて、床をとりあげて歩け」とおおせられた。するとその男はすぐ治って、床をとりあげて歩き出した。
ちょうど、その日は安息日だった。ユダヤ人は治った男に「今日は安息日だから、床をもつことはゆるされない」といった。すると男は、「私をなおしてくださった人が、"床をとりあげて歩け"とおっしゃったのです」と答えた。ユダヤ人が、「"床をとりあげて歩け"とあなたにいったのはだれだ?」と聞いたが、病人はその人を知らなかった。なぜなら、イエズスは、そこに押しよせていた群衆の中に姿をかくされたからであった。
その後、イエズスは、神殿でその男にあわれたとき、「どうだ、あなたはなおった。さらに悪いことが起らないように、もう二度と罪をおかすな」とおおせられた。その男は、自分を治してくださったのはイエズスだったと、ユダヤ人たちにいいに行った。」


それに関する聖アウグスチヌスによる説教を少しご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Quadragenarius numerus sacratus nobis in quadam perfectione commendatur. Notum esse arbitror Caritati vestrae: testantur saepissime divinae Scripturae. Ieiunium hoc numero consecratum est: bene nostis. Nam et Moyses quadraginta diebus ieiunavit 5, et Elias totidem 6 ipse Dominus noster et salvator Iesus Christus hunc ieiunii numerum implevit 7. Per Moysen significatur Lex, per Eliam significantur Prophetae, per Dominum significatur Evangelium. Ideo in illo monte tres apparuerunt, ubi se discipulis ostendit in claritate vultus et vestis suae 8. Apparuit enim medius inter Moysen et Eliam, tamquam Evangelium testimonium haberet a Lege et Prophetis 9. Sive ergo in Lege, sive in Prophetis, sive in Evangelio, quadragenarius numerus nobis in ieiunio commendatur. 40という聖なる数は、ある完成において私たちに示されている。あなたたちの愛徳に知られていると私は思うが、聖書はきわめて頻繁にそう証言する。断食がこの数で聖別されていると、あなたたちは良くしている。何故ならモイゼは40日間断食した(5)、エリアも同じ日数(6)、私たちの主にして救い主イエズス・キリストも断食のこの数を満たされた(7)。モイゼによって律法が意味され、エリアによって預言者が意味され、主によって福音が意味される。従って、主がその顔と衣服の輝きにおいて御自分を弟子らに示されたかの山において3人が現れた(8)。実に主はモイゼとエリアの間に、福音が律法と預言者によって証言をもつかのように、現れ給うた(9)。したがって、或いは律法において、或いは預言者において、或いは福音において、40という数は、私たちに断食において示されている。
Ieiunium autem magnum et generale est, abstinere ab iniquitatibus et illicitis voluptatibus saeculi quod est perfectum ieiunium: ut abnegantes impietatem et saeculares cupiditates, temperanter, et iuste, et pie vivamus in hoc saeculo. Huic ieiunio quam mercedem addit Apostolus? Sequitur, et dicit: Exspectantes illam beatam spem, et manifestationem gloriae beati Dei, et salvatoris nostri Iesu Christi 10. In hoc ergo saeculo quasi Quadragesimam abstinentiae celebramus, cum bene vivimus, cum ab iniquitatibus et ab illicitis voluptatibus abstinemus. ところで、大きな一般的な断食とは、この世の邪悪と不正な邪欲を控えることであり、これが完全な断食である。それは「この世において、不敬虔と世俗の欲望をすてて、節制と正義と敬虔とをもって私たちが生きるため」である。この断食に使徒[聖パウロ]はどのような報いを加えているだろうか?続けてこう言う。「幸福な希望と、幸福な天主であり、私たちの救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれとを待ちつつ」(10)と。従って、この世において、私たちが善く生き、邪悪と不義の邪欲とを控えるとき、私たちはいわば「控え」の40日を祝う。
Sed quia haec abstinentia sine mercede non erit, exspectamus beatam illam spem, et revelationem gloriae magni Dei, et salvatoris nostri Iesu Christi. In illa spe, cum fuerit de spe facta res, accepturi sumus mercedem denarium. Ipsa enim merces redditur operariis in vinea laborantibus secundum Evangelium 11, quod vos credo reminisci: neque enim omnia commemoranda sunt, tamquam rudibus et imperitis. Denarius ergo qui accepit nomen a numero decem, redditur, et coniunctus quadragenario fit quinquagenarius: unde cum labore celebramus Quadragesimam ante Pascha; cum laetitia vero, tamquam accepta mercede, Quinquagesimam post Pascha. Nam huic tamquam salutari labori boni operis, qui pertinet ad quadragenarium numerum, additur quietis et felicitatis denarius, ut quinquagenarius fiat. しかし、この「控え」は報いが無いのではないので、「私たちはかの幸福な希望と、偉大な天主であり、私たちの救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれとを待っている」。この希望において、この希望についてが現実になるだろうとき、私たちは一デナリオの報いを受けるだろう。じつに、福音によると、この報いがぶどう畑で働く労働者らに与えられる (11)。このことをあなたたちは思い出してくれると思うし、ま粗野な人々と未経験者たちであるかのようにすべてを思い出させるべきではない。したがって、10(decem)という数字からその名を受けているデナリオ(denarius)は与えられる。そして40に加えられると50になる。そこから復活祭の前の40日〔四旬節〕を、労苦をもって私たちは祝い、復活祭の後の50日を、受けた報いとして、喜びをもって祝う。なぜなら、40という数に関わるこの善き救いをもたらすわざの労苦に、休息と至福の一デナリオが50になるように加えられるからだ。
5. Significavit hoc et ipse Dominus Iesus multo apertius, quando post resurrectionem quadraginta diebus conversatus est in terra cum discipulis suis 12; quadragesimo autem die cum ascendisset in coelum, peractis decem diebus misit mercedem Spiritus Sancti 13. Significata sunt ista, et quibusdam significationibus res ipsae praeventae sunt. Significationibus pascimur, ut ad res ipsas perdurantes pervenire possimus. Operarii enim sumus, et adhuc in vinea laboramus: finito die, finito opere, merces restituetur. Sed quis operarius perdurat ad accipiendam mercedem, nisi qui pascitur cum laborat? Non enim et tu operario tuo mercedem solam daturus es: non etiam afferes illi unde vires reparet in labore? Pascis utique cui mercedem daturus es. Proinde et nos Dominus in istis Scripturarum significationibus laborantes pascit. Nam si ista intellegendorum sacramentorum laetitia subtrahatur a nobis, deficimus in labore, et non erit qui perveniat ad mercedem. 5. このことを、主イエズス御自身もより明らかなやりかたでしるしとして行われた。主が、復活後40日の間、地上で御自分の弟子らと交わられたが(12)、40日目に天に上られ、10日が過ぎると聖霊の報いを送り給うた(13)からだ。これらは意味され、あるしるしによって現実それ自体が先取りされた。私たちはしるしによって養われるが、それは永続する現実それ自体に到達することができるためである。実に私たちは労働者であり、まだぶどう畑で働いている。一日が終わり、仕事が終ると、報い返されるだろう。だが、報いを受けるべく堅忍する労働者は、労苦しつつ養われる者ではなくて誰だろうか?実にあなたでさえも、自分の労働者に報いのみを与えるわけではない。あなたもかの労働者に、労働において力を回復させるものを与えるのではないか?あなたは報いを与えようとする者を養う。そこで主もまた、働いている私たちを、聖書のこれらのしるしによって養ってくださる。なぜなら、これらの神秘を理解する喜びが私たちから取り去られるなら、私たちは労働に疲れ、報いに到達する者は誰もいなくなるだろうからである。
Lex impletur in gemino praecepto caritatis. 法は愛徳で完成する
6. Quomodo ergo quadragenario numero perficitur opus? Fortasse ideo, quia Lex in decem praeceptis data est, et per totum mundum praedicanda erat Lex: qui totus mundus quatuor partibus commendatur, Oriente et Occidente, Meridie et Aquilone, unde denarius per quatuor multiplicatus, ad quadragenarium pervenit. Vel quia per Evangelium quod quatuor libros habet, impletur Lex: quia in Evangelio dictum est: Non veni solvere Legem, sed adimplere 14. Sive ergo illa, sive ista causa, sive alia aliqua probabiliore, quae nos latet, doctiores non latet; certum est tamen quadragenario numero significari quamdam perfectionem in operibus bonis, quae maxime opera bona exercentur in abstinentia quadam ab illicitis cupiditatibus saeculi, hoc est, generali ieiunio. 6. 従って、どのようにして40という数によってわざは完成するのだろうか?それはおそらくこうだろう。法は10の掟において与えられ、法は全世界に宣べ伝えられるべきであった。全世界は、東西南北という四つの部分に分かれる。そこから10のもの〔デナリオ〕が四倍されて40になる。あるいは、福音は4冊の書からなるが、法を完成する。何故なら福音にはこう言われているからだ。「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」(14)。先の理由によるのか、後の理由によるのか、あるいは私たちには隠れているが知者には隠れていない他のより本当らしい理由によるのか、確かなことは、40という数によって、善きわざにおける或る完成が意味されており、最高に善きわざは、この世の不正な邪欲を控えることによって、つまり、一般的な断食において成し遂げられる。
Audi et Apostolum dicentem: Plenitudo Legis caritas 15. Caritas unde? Per gratiam Dei, per Spiritum sanctum. Non enim haberemus illam ex nobis, quasi facientes illam nobis. Dei donum est, et magnum donum: Quoniam caritas Dei, inquit, diffusa est in cordibus nostris per Spiritum sanctum qui datus est nobis 16. Caritas ergo implet Legem, et verissime dictum est: Plenitudo Legis caritas. Quaeramus hanc caritatem, quemadmodum commendatur a Domino. Mementote quid proposuerim: numerum triginta octo annorum in illo languido volo exponere, quare numerus ille trigesimus octavus languoris sit potius quam sanitatis. Ergo, ut dicebam, caritas implet Legem. Ad plenitudinem Legis in omnibus operibus pertinet quadragenarius numerus: in caritate autem duo praecepta nobis commendantur. Intuemini, obsecro, et figite memoriae quod dico; ne sitis contemptores verbi, ne fiat anima vestra via, ubi grana iacta non germinent: Et venient, inquit, volatilia coeli, et colligent ea 17. Percipite, et recondite in cordibus vestris. Caritatis praecepta duo sunt a Domino commendata: Diliges Dominum Deum tuum ex toto corde tuo, et ex tota anima tua, et ex tota mente tua; et: Diliges proximum tuum tamquam teipsum. In his duobus praeceptis tota Lex pendet et Prophetae 18. Merito et illa vidua omnes facultates suas, duo minuta misit in dona Dei 19: merito et pro illo languido a latronibus sauciato, stabularius duos nummos accepit unde sanaretur 20: merito apud Samaritanos biduum fecit Iesus, ut eos caritate firmaret 21. Binario ergo isto numero cum aliquid boni significatur maxime bipartita caritas commendatur. Si ergo quadragenarius numerus habet perfectionem legis et Lex non impletur nisi in gemino praecepto caritatis; quid miraris quia languebat qui ad quadraginta, duo minus habebat? 使徒が言っていることも聞きなさい。「愛は律法の完成である」(15)。愛はどこからか?天主の恩寵によって、聖霊によってである。私たちはかの愛を、あたかも自分自身でかの愛を行っているかのように、自分から所有するのではない。天主の賜物であり、大いなる賜物なのだ。なぜなら「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(16)と言われるからだ。従って愛は律法を完成する。「愛は律法の完成である」とは極めて真実に言われた。私たちは主によって勧められているものとしてこの愛を求めよう。わたしが述べようとすることを記憶しなさい。かの病人において38年という数を私は解明したい。なぜこの38という数が健康の数というよりも病気に関わるのか。先に言ったように、愛は律法を完成する。すべてのわざにおける律法の完成に関わるのが、40という数である。しかるに、愛徳には、二つの掟が私たちに与えられている。どうかよく見て、わたしが言うことを記憶にとどめなさい。あなたがたがことばを軽蔑する者とならないように、またあなたがたの霊魂が、播かれた種子が発芽しない道、そして「空の鳥が来てそれを集める」と言われる(17)道とならないために。あなたたちの心の中に受け取って、据え付けなさい。主より与えられた愛の掟は二つである。「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"。"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」(18)。あのやもめも、素晴らしくも、自分のくらしの費用の全てである二レプタを天主の賽銭箱に入れた(19)。強盗に傷つけられたあの半死半生の人のために、宿屋の主人は、正当にも、治療代として二デナリオを受け取った(20)。イエズスは、正当にも、サマリア人たちのもとに二日の間留まられたが彼らを愛において固めるためだった (21)。それゆえ、この二という数で、何か善いものが示されているとき、特に二つの部分の愛が示されている。だから、もし40という数が律法の完成を意味し、律法が二つの愛の掟のもとにおいてのみ完成するのなら、この40に二足りない数をもった人が病んでいたからといって、あなたは何を驚くのか。
7. Videamus proinde iam quo sacramento iste languidus curetur a Domino. Venit enim ipse Dominus, caritatis doctor, caritate plenus, brevians, sicut de illo praedictum est, verbum super terram 22: et ostendit in duobus praeceptis caritatis pendere Legem et Prophetas. Inde ergo pependit Moyses quadragenario suo, inde Elias cum suo, hunc numerum attulit Dominus in testimonio suo. 7. 次に私たちは、この病人が主によって、どのような神秘によって癒やされたのかを見みよう。来られたのは、主ご自身、愛徳の教師、愛に満ちた方、また、ご自身についての預言されたとおり、「地上において御言葉を速やか行われる」(22)方である。そして、愛の掟の二つに律法と預言者がかかっていることを示した(マタ二二・40)。従って、モイゼは自分の40日によってこれ[愛徳の掟]にかかり、エリアは自分の[40日によって]これ[愛徳の掟]にかかる、主は自身の証言でこの数を捧げた。
Curatur iste languidus a praesente Domino; sed prius quid ei dicit? Vis sanus fieri? 23 Respondit ille hominem se non habere, a quo in piscinam mittatur. Vere necessarius erat illi homo ad sanitatem, sed homo ille qui et Deus est. Unus enim Deus, unus et mediator Dei et hominum, homo Christus Iesus 24. Venit ergo homo qui erat necessarius: quare sanitas differretur? Surge, inquit, tolle grabatum tuum, et ambula 25. Tria dixit: Surge, tolle grabatum tuum, et ambula. Sed Surge, non operis imperium fuit, sed operatio sanitatis. Sano autem duo imperavit: Tolle grabatum tuum, et ambula. Rogo vos, cur non sufficeret: Ambula? aut certe cur non sufficeret: Surge? Neque enim ille cum sanus surrexisset, in loco remansisset. Nonne ad hoc surrexisset ut abiisset? Movet ergo me etiam quod duo praecepit, qui illum iacentem duobus minus invenit: tamquam enim duo quaedam iubendo, quod minus erat implevit. この病人は現存する主によっていやされる。だが、主はまず何を彼に言うだろうか?「治してほしいか?」(23)である。彼は、自分を池に入れてくれる人がいない、と答えた。病人にはいやしてくれる人が必要だった。しかしかの人は、天主でもある。「天主は唯一であり、天主と人間との間の仲立ちも、人間であるキリスト・イエズスただ一人である」(24)。かくして、必要だった人がやって来た。なぜいやしは遅らされるのか。主は言う、「起きて、床をとりあげて歩け」(25)と。主は三つのことを語られた。「起きよ」、「床をとりあげよ」そして「歩け」である。だが、「起きよ」というのは仕事の命令ではなく、いやしのはたらきであった。そこで主は、いやされた人に二つのことを命じられる。「床をとりあげよ」と「歩け」である。あなたがたに尋ねる、なぜ「歩け」だけでは十分でなかったのか。なぜ「起きよ」だけでは十分ではなかったのか。彼はいやされて起き上がったとき、その場所に留まらなかった。この人が起き上がったのは、立ち去るためではなかったろうか。この横たわっている病人が二つのものを欠いていることをご覧になり、二つの掟をお与えになったのは私さえも感動させる。主は、いわばある二つを命じることによって、欠けていたことを満たした。
8. Quomodo ergo inveniamus in his duobus Domini iussis, duo illa praecepta significata caritatis? Tolle, inquit, grabatum tuum, et ambula. Quae sunt illa duo praecepta, fratres, recolite mecum. Notissima enim esse debent, nec modo tantum venire in mentem cum commemorantur a nobis, sed deleri nunquam debent de cordibus vestris. Semper omnino cogitate diligendum esse Deum et proximum: Deum ex toto corde, ex tota anima, et ex tota mente; et proximum tamquam seipsum 26. Haec semper cogitanda, haec meditanda, haec retinenda, haec agenda, haec implenda sunt. Dei dilectio prior est ordine praecipiendi; proximi autem dilectio prior est ordine faciendi. Neque enim qui tibi praeciperet dilectionem istam in duobus praeceptis, prius tibi commendaret proximum, et postea Deum; sed prius Deum, postea proximum. Tu autem quia Deum nondum vides, diligendo proximum promereris quem videas; diligendo proximum purgas oculum ad videndum Deum, evidenter Ioanne dicente: Si fratrem quem vides non diligis, Deum quem non vides quomodo diligere poteris? 27

8. では、主のこの二つの命令のなかに、あの愛の掟が意味されたことを、どのようにして見いだすべきか?主は言われた、「床をとりあげよ」そして「歩け」と。この二つの掟がどのようなものか、兄弟たちよ、どうかわたしと共に思い起こしなさい。[二つの掟は]極めてよく知られているべきで、これは単に私たちが記念して心に浮かんで来るだけではなく、あなたがたの心から決して消されてはならない。常に天主と隣人を愛するべきであると考えなさい。"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を"、"隣人を自分と同じように" (26)。これら[の掟]を常に考え、これらを黙想し、これらを心に保ち、これらを行い、これらを実現しようとしなければならない。天主への愛は、掟の順序としては先であるが、隣人愛は行為の順序としては先だ。あなたに愛を二つの掟において命じるかたは、まず隣人を、しかる後に天主を[愛せよ]ではなく、まず天主を、次に隣人を[愛せよと]お命じになる。しかしあなたはまだ天主を見ていない。だから、隣人を愛することによって、天主を見るに値するようになるべきだ。隣人を愛することによって、天主を見るためにあなたは目を清める。ヨハネははっきりと言う「目で見ている兄弟を愛さない者には、見えない天主をどうして愛することができるだろうか?」(Ⅰヨハ四・二〇)と。

【この後、聖アウグスティヌスは、病の人は床によって担われ、床は病を癒やされた健康な人によって担われているから、互いに重荷を担い合えという隣人愛の掟を思わせる、そこで「床をとりあげよ」は隣人愛の掟を意味する。隣人愛は、天主へと向かっていくことだから「歩け」は天主への愛の掟を意味する、と続けています。】

5 - Cf. Ex 34, 28.
6 - Cf. 3 Reg 19, 8.
7 - Cf. Mt 4, 2.
8 - Cf. Mt 17, 1-3.
9 - Cf Rom 3, 21.
10 - Tit 2, 12-13.
11 - Cf Mt 20, 9-10.
12 - Cf. Act 1, 3.
13 - Cf. Act 2, 1-4.
14 - Mt 5, 17.
15 - Rom 13, 10.
16 - Rom 5, 5.
17 - Mc 4, 4.
18 - Mt 22, 37-40.
19 - Cf. Lc 21, 2-4.
20 - Cf. Lc 10, 35.
21 - Cf. Io 4, 40.
22 - Isa 10, 23; 28, 22; Rom 9, 28.
23 - Io 5, 6.
24 - 1 Tim 2, 5.
25 - Io 5, 8.
26 - Lc 10, 27.
27 - 1 Io 4, 20.
28 - Io 1, 18.
29 - 1 Io 4, 16.
30 - Isa 58, 7-8.


悲しみの聖母の元に行って、マリア様と共に苦しみを捧げる:マリア様は御一人で世界中の異端を滅ぼした方

2022年03月10日 | お説教・霊的講話

2022年2月26日(土)聖母の七つの御悲しみの随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、マリア様の七つの御悲しみの随意ミサをしています。

マリア様の御悲しみは、御子イエズス・キリストの苦しみをご自分で感じた事でした。イエズス・キリストが、罪のない御子が苦しまれているのを、マリア様も共に苦しんだ事です。それと同時に、天主聖父の御旨が成就されているので、この苦しみを主の御旨として、共にお捧げしました。

マリア様は教会の神秘体の苦しみをご覧になって、どれほど今、共に苦しまれている事でしょうか。昨日、今ローマで行なわれている、去年の10月から開始された、「シノダリティーについてのシノドス」が行なわれているのを見ました。ドイツでのこの2月での投票と、その決議の結果を見ました。それによると、「女性司祭を導入する」「司祭の独身制を廃止する」「大罪の状態にある人でも御聖体を配る」あるいは「平信徒でもミサの司式をする事ができるようにする」あるいは「司教様の権力を縮小させる」絶対多数で、2/3以上でこれらが可決されて、今まで教会は、教会のミサがプロテスタントのようになってしまった、ミサが食事会になってしまった、色々な御聖体に対しての崇敬が失われてしまっただけでなく、そのドイツでの「シノドスの道」の結果を見ると、私たちは、御聖体に対する攻撃がますます更に酷くなる事を予感します。

女性が司祭になるという事は、つまりそのミサは全く無効となってしまう事です。

司祭の独身制というのは、御聖体がイエズス・キリストの御体で、真の御体であるからです。聖なる天主の御体であるからです。マリア様も聖ヨゼフも童貞でした。

御聖体を大罪の状態にある人にも配る事ができるというのは、それは御聖体というものがどれほど聖なるものであるか、という事を理解していないからです。分かっていないという事しかあり得ません。御聖体があたかもただのお菓子であるかのように考えているのでしょうか。

平信徒でもミサを司式する事ができるというのは、イエズス・キリストが立てた品級の秘跡、叙階の秘跡についての全くの無知があります。

ある、今聖伝のミサを捧げている神父様が、「なぜ聖伝のミサを捧げるようになったか」というインタビューを少し見た事があります。この話は皆さん知っている方もいらっしゃるかもしれません。繰り返しになるかもしれませんが、申し上げるのを許して下さい。

この神父様は大学生の時に、歴史の本や政治の本をたくさん読んで、ビルマで政府が国民たちを虐待していて、残酷に扱っている、不当に扱っているというのを見て、「何とかビルマの人を助けたい」と思って、ビルマに行ってビルマ政府に抗議したそうです。そしてこのような人々と連帯して活動していたのですが、3回投獄されました。1回目は15日間、2回目は15週間、3回目は15ヶ月、牢屋の中に閉じ込められたそうです。そしてその時にとても腹が立ったそうです。特に牢獄を守っている官吏は職員は、非常に意地悪で、わざと何か挑発的な、あるいは屈辱的な態度を取ったり、何かわざと怒らせたりするような事をしたり、人間とは取り扱わないような、牢獄が本当に地獄のようなものでした。

ところがある日、彼はその地獄のような牢獄の中で回心しました。突然「地獄が天国になった」と言います。何故そうなったかというと、「三つの理由がある」と説明しました。

一つは、聖書を牢獄の中で受け取って、それを読んで黙想しだした。主の愛について黙想した。イエズス・キリストについて読んだ。
第二は、自分の今までの罪を痛悔した。主に今まで逆らって、主の御旨の通りに生きてこなかった事を悔い改めた。深い痛悔があった。
第三に、今まで自分をいじめてきた、屈辱的に貶めようとしてきた、この今まで憎んできたこの男を、憐れみの目をもって接するようになって、彼を愛し始めた。愛を持ち始めた。

すると「今まで地獄だった牢獄が、天国になった」と言います。

そして牢獄から解放されて、外に世俗に出た時に、「牢獄がどれほど幸せだったか」という事を思ったほどでした。「今までの人生の中でこれほど幸せな時はなかった。そしてそれに代わる、それと同じような幸せを求めて、どこにあるだろうかと探した。どこにもなかったけれども、唯一それに匹敵するような、更にそれを超えるような幸せを見つけた。それが、カトリック教会の聖伝のミサだ。ラテン語のこのミサだ。」

そしてそれに与って、そして遂には司祭になった、というインタビューを私はYouTubeで見ました。

ドイツのシノドスは、この地上での最大の宝を無効とさせる、これを地上から取り除いてしまおうかという、ますますイエズス・キリストの神秘体への攻撃です。私たちは一体これに対してどうしたら良いでしょうか?

そこで、悲しみの御マリア様の元に行って、マリア様と共に、この苦しみを捧げる事を提案します。ファチマでマリア様は仰いました。「私だけが、あなたたちを助ける事ができる」と。まさにその通りです。マリア様は御一人で世界中の異端を滅ぼした方です。

マリア様は司祭になろうと思いませんでした。なぜかというと、マリア様にとって最も大切な事はそんな事ではなかったからです。主の御旨を果たす事だったからです。主の婢女となる事だったからです。そして主の婢女となって、主の御旨を果たす事だけを求めたところ、大司祭の母となって、天主の御母となって、最高の地位を、これ以上ない尊厳のある方となりました。天主の御母聖マリア。大司祭イエズス・キリストのその御母。

ですから女性は、「マリア様のようになる」という事のその意味が分かれば分かるほど、主の御旨を果たす事になれば果たすほど、偉大な方となるのです。主の贖いの御業に協力する事ができるようになります。

マリア様は童貞でした。その為にこそ、天主の御母となる事ができました。イザヤの預言にあった通りです。マリア様は罪の無い御方でした、無原罪の御孕りでした。だからこそイエズス様を御孕りにならす事ができました。御聖体拝領する時にも、マリア様に倣うべきです。

マリア様は、イエズス・キリストの御旨を果たして、使徒たちよりも先に立とうとは思いませんでした。そうではなくて、使徒たちがマリア様を尊重したからです。マリア様はミサを捧げようなどとは思いませんでした。それは使徒たちの役割であると、司教たちの役割であると、司祭たちの役割であると知っていたからです。しかしそのミサに熱心に与る事によって、自分の苦しみをいけにえとして捧げる事によって、より多くの霊魂を救う事ができました。

全ての解決は、マリア様がお持ちです。今の教会のこの苦しみ、これは「御聖体」と、そして「汚れなきマリア様」のこの二つで全て完璧に解決できる事です。ですから私たちはこの二つをいつも守る事ができますように、お祈り致しましょう。

今日は特に悲しみのマリア様に、私たちもいつもマリア様の傍を離れる事がないように、十字架の下を離れる事がないように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズス様の立てた教会は後にはもう一度、かつてあった通りの素晴らしい形で、聖伝において復活する事を私たちは確信しています。より良い状態で復活する事を確信しています。

2022年03月10日 | お説教・霊的講話

2022年2月25日(金)御受難の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は金曜日で、イエズス様の御受難の随意ミサを行なっています。

このイエズス様の受難は、イエズス・キリストが同時に天主であってそして人間であった事から可能でした。イエズス様は人間になった時に、人性を取られた時に、天主である事をやめたわけではありません。イエズス様が十字架に付けられて、十字架の上に死するまで、自分を無とされたというのは、だからといって天主であるという事を放棄したという事ではありません。

イエズス様はいつでも、どんな時でも、御托身をした後には、同時に天主であって人間でした。マルチン・ルターはこの点で間違っていました。マルチン・ルターは、「天主である事を放棄した」と誤解して理解していました。

ところで現代の教会も、教会の受難を迎えていると思われます。教会は、一・聖・公・使徒継承の真のイエズス・キリストの教会は、イエズス・キリスト天主がお立てになった、創立したものですから、決して地獄の門に負ける事はありません。しかし同時に、人間がその構成員であるので、その構成メンバーである人間の弱さの為に、人間性を帯びているが為に、苦しむ事もあります。

そして現代、ベネディクト十六世が言っている通り、「教会は、姿をますます、見分けがつかないほど汚されてしまっている」と言っています。そして実際、その受難はますますひどくなるようです。もうこれ以上教会が、こんなにここまで苦しむ事はないだろう、と思ったのが、更に苦しみを受けているかのようです。ちょうどイエズス様が、まさか天主でありながら、なぜ十字架の上で亡くなってしまったのか、そのような苦しみが可能だったのか、弟子たちも使徒たちも理解を超えていたように、教会も大きな苦しみを受けているようです。

去年の10月から来年の10月まで、約2年に渡って教会では、「シノダリティについてのシノドス」というものが行なわれています。これは結局は、教会を変えてしまおう、フランシスコ教皇様の言うには、「別の教会ではないけれども、これまでとは違った教会を作ろう」と言っています。

どのように違うかというと、それはすでに数日前にドイツで、「シノドスの道」という会議が開かれていますけれども、それでこれからどうやるのか、という事を全世界に示したようです。このシノダリティの為のシノドスというのは、ローマで、去年の10月10日に開かれました。そしてその一週間後の主日の10月17日から全世界の司教区で開かれています。今その真っ最中です。

それはどういう事かというと、かいつまんで説明します。「全ての洗礼を受けた人は、そのシノドスに参加して、教会はそのような人たちの声を聞きたい」と言っています。聖書の言葉を聞きたい、あるいは神学者の言葉を聞きたい、司教様の教えを聞きたいというのではなくて、「信徒の声を聞いて、特に教会に来なくなってしまったような、教会を離れてしまった人々の声を聞きたい。」「そういう人たちが主体になって、それを司教区ごとにまとめる」と。

三段階あって、まず司教区ごとのそのような集まりです。私が韓国にいた時は、韓国ではその話で持ちきりでした。小教区ごとに信徒たちが発言をする、それをまとめる。司教区でそれをまとめて、それを上げる。そしてそれを次の段階では、今年の秋頃に、大陸ごと、あるいは地方ごとに、アジア、北アメリカ、南米、アフリカ等と、司教あるいは平信徒たちが集まって、その色々上がった司教区の内容をまとめて、そして来年の10月にはローマで、そのような代表者たちが集まって、最終的な文章を決定する。

これがシノダリティについてのシノドスで、教会の言ってみれば民主化であって、今まで教会がやった事がないような事をやろうとしています。

つい最近ドイツでは、その「シノドスの道」という会議があって、採決が執られました。ドイツは2019年から既にそのようなものを始めています。そして初めての採決をしたのですけれども、その内に絶対多数で、2/3以上で可決されたものがいくつかあります。たとえば、「女性司祭を導入しよう」とか、あるいは「司祭の独身制を廃止しよう」とか、あるいは「罪の状態にある人々にも御聖体を配る事ができるようにしよう」とか、あるいは「平信徒でも教会の指導的な立場に立ったり、ミサをしたり、ミサの司会をしたり」とか、あるいは「司教様の役割をもっと縮小すべきだ」などという革命的な、全く教会が一体何であるか、天主が立てた教会がどのような構造か、という事を全く理解できていない、そのような決議が可決されました。

今、日本でも同じような事がなされています。ローマでもそのような、似たような文章が絶対多数で認可されるのかもしれません。教会は今までの美しいその姿を、苦しみの姿に、見違えてしまうほどの姿に変えさせられようとされています。

しかしイエズス様は、その御自分の苦しみを、私たちの罪の償いの為に、より大きな善の為に、それを捧げて下さいました。そして最後には復活を以って、御自分が真の天主であって、真の人間であるという事を証明されました。それと同じように、これから私たちは、教会の色々な苦しみを目撃するかもしれませんが、決して何も恐れないで下さい。何も絶望したりなさらないで下さい。イエズス様の立てた教会は後にはもう一度、かつてあった通りの素晴らしい形で、聖伝において復活する事を私たちは確信しています。より良い状態で復活する事を確信しています。

だからといって、私たちは教会を他の人と一緒になって痛めつけたり、汚したりしてはなりません。私たちは聖ベロニカのように、あるいはマリア様のように、苦しむイエズス様に寄り添って、イエズス様をお慰めして、そして苦しみを捧げつつ、復活を待ち望みましょう。それと同じように、教会の苦しみを私たちはなるべく和らげようとしつつも、そしてその教会を汚すような方には決して与ずに、そして教会の復活を確信して待ち望む事にしましょう。

その為にはどのようにしたら良いのでしょうか?

教会が最も大切にする宝、このミサに与り続ける事によって、教会を守る事ができます。教会をそのままの栄光のまま保つ事ができます。そして今、多くの方々が教会を発見しています、カトリック教会のあるべき姿がどこにあるか、という事を発見しています。全世界中で、「聖伝のミサにこそ、救いがある」という事を、人々が目覚めています。ですから私たちは是非それを助けるように、教会を助けるように、ミサを捧げ続けていくように致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


Invitation to the 16th Pilgrimage to Our Lady of Akita: May 1st to 5th, 2022

2022年03月10日 | 秋田巡礼_Akita Pilgrimage

Ave Maria Immaculata!

Dear Bretheren and friends, 

I would like to invite you to the Pilgrimage to Our Lady of Akita 2022 (16th). 

DATES: May 1st to 5th, 2022. 

PLACE: Hotel Plaza Crypton (Tel 018-882-4811 )
38-4 Aza Uwamatsurisawa Kawabe
Toshima Akita, Akita 019-2611 JAPAN
http://www.plaza-crypton.jp/
7 minutes by taxi from Akita airport to Plaza Crypton. 
20 minutes by taxi from JR Akita Rail Station to Plaza Crypton. 

PROGRAM:
Evening of May 1st: Meeting at Hotel Plaza Crypton. 
6:00 PM, Traditional Latin Mass
7:00 PM, Supper
[Please inform us if you need supper or not. Thank you!] 

May 2nd, 3rd, 4th, 
6:30 AM Sung Traditional Mass
In the morning : Spiritual conferences for adults, as well as special activities for children 
In the afternoon: Procession of the Blessed Sacrament, of Our Lady, Stations of the Cross, etc. Eventually, if possible, visits of the statue of Our Lady of Akita. However, the latter visit was not possible last two years due to Covid restrictions. 

May 5th, last day
6:30 AM Sung Traditional Mass
Around noon time, departure. 

PRICE: JPY 45,000. 
This includes the following:
1) Registration fee (JPY 1,000).
2) Hotel booking from May 01 to 05, 2022 (JPY 44,000)
3) breakfasts and dinners during the entire stay. 
(lunches and Airfare are excluded).

APPLICATION: 
Pilgrims who wish to join us, please contact Miss SAKATA at (please kindly change [@mark] into @) : 
sspxjapan_akita_pilgrimage [@mark] yahoo.co.jp

We are making all our reservations as the SSPX JAPAN. Please contact us for any inquiry or booking. In order to avoid troubles and misunderstanding, please refrain from individual direct booking at the facilities. Thank you for your cooperation! 

In Fatima as well as in Akita, Our Lady requests prayers and sacrifices. 
What should we do? 
What can we do to make her happy? 
What does Our Lady want from us? 
How can we contribute for the peace of the world?
Let us meet at Hotel Plaza Crypton ! 
Our Lady would be pleased if you invite your friends to this pilgrimage, because they would also receive tremendous graces!

God bless you.

Sincerely yours in the Immaculate Heart of Mary

Fr Thomas Onoda, FSSPX


愛する兄弟姉妹の皆様を2022年「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」へお招きいたします

2022年03月10日 | 秋田巡礼_Akita Pilgrimage

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を2022年「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」へお招きいたします

2022年5月1日(日)~5月5日(木)

今年のおおよそのプログラムは次の通りです。往復のチケットの手配のご参考としてください。

2022年5月1日(日)(初日)
午後3時からホテルクリプトンにチェックイン可能
午後6:00頃 聖伝のミサ
午後7:00頃 夕食
(ご到着の都合で夕食に間に合わない場合は、不要とすることもできます。要不要を必ずご連絡ください)

2022年5月2日(月)~5月4日(水)
6:30 聖伝の歌ミサ
午前:霊的講話
午後:聖体奉仕会訪問・御聖体行列・聖母行列など

※新型コロナ禍の感染拡大防止のためにここ二年間、聖体奉仕会訪問禁止となっています。それが継続している場合は、巡礼団は聖体奉仕会の訪問ができない可能性があります。もしも、訪問可能の場合には、プラザクリプトンから聖体奉仕会までは、聖歌と祈りの内に、マイクロバスで移動します(40分位)。

2022年5月5日(木)(最終日)
6:30 聖伝の歌ミサ
インマクラータの騎士となる誓約式・霊的講話など
お昼ごろ 解散予定

※各自で宿泊施設プラザクリプトンへ集合してください。 
※JR秋田駅→プラザクリプトン(タクシーで20分)、秋田空港→プラザクリプトン(タクシーで7分)です。 
※無料駐車場がございます。(62台収容) 

【予約】

※PCやタブレットでごらんの方はhttps://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimageの左に「メッセージ送る」という機能があります。クリックするとメッセージ入力フォームが開きますので▼メッセージを送る▼でご連絡ください。メールフォームが開きますので,①お名前, ②メールアドレス, ③件名="巡礼参加申込" , 本文に, ④お電話番号, ⑤霊名(カトリック信者の場合は), ⑥参加される日程(5/1の宿泊についてもお書きください), ⑦5/1(日)の夕食(19時ごろ)の要不要, ⑧秋田までの交通手段(飛行機や新幹線など)をご記入の上、画面下に見えている【認証数字4桁】を入力して、送信ボタンを押してください。

※スマートフォンでご覧の方は、↓このアドレス↓に下記の内容をメールでお送りください。【@マーク】を@に変更してメールをお願い致します。)
sspxjapan_akita_pilgrimage【@マーク】yahoo.co.jp 
①お名前, ②メールアドレス, ③件名="巡礼参加申込" ,本文に, ④お電話番号, ⑤霊名(カトリック信者の場合は), ⑥参加される日程(5/1の宿泊についてもお書きください), ⑦5/1(日)の夕食(19時)の要不要、⑧秋田までの交通手段(飛行機もしくは新幹線など)をご記入ください。

【是非守って頂きたいこととお願い】
宿泊施設へは、聖ピオ十世会として団体予約をしております。お問合わせやご予約、ご要望等は全て、巡礼担当マネージャーか小野田神父へお願いいたします。
これは、必ず守って頂きたいのですが、施設へのご迷惑とトラブルを避けるため、個人的な予約はご遠慮ください。なにとぞご理解とご協力をお願いいたします。
秋田市内にお住まいの方や、その他の重大な理由のために、プラザクリプトンに泊まることができない方でも、「大会議室」で行われるミサ聖祭と霊的講話に無料で参加することができますし、聖体奉仕会への巡礼などに参加することもできます。(但し夕食などを一緒に取る場合には別途夕食料金が必要です。)その際にも、施設へのご迷惑とトラブルを避けるために、担当マネージャーにその旨ご連絡をお願いいたします。 

[巡礼費用]について】
[巡礼費用]は、全日程参加で一人45,000円です。
[巡礼費用]=[宿泊費用][参加費用]で計算しております。

[宿泊費用]は、全日程参加で、44,000円となります。
[宿泊費用]には次が含まれています。
宿泊食事費:プラザクリプトンに宿泊で、ひとり1泊2食(朝夕付)(全部屋にお風呂・トイレ付)
設備利用代:御ミサ会場代とマイクロバス利用代など。
全日程参加(四泊五日)で 44,000円 となります。
ひとり1日の宿泊費用は、宿泊食事費と設備利用代の合計11,000円です。
※増税と料金の見直しが発生したため、何卒ご了承ください。

[参加費用]として参加日数にかかわらず巡礼参加の事務手続きなどの費用として1,000円ほどとさせていただいております。参加者全員のために「巡礼のしおり」を用意いたします。あらかじめ、その巡礼のミサ聖祭の内容と歌ミサで歌うグレゴリオ聖歌や日本語の聖歌、お祈り、スケジュール、その他を記した「巡礼のしおり」を一人一部ずつ配布し、巡礼の記念の手帳とするようなものです。 

【お支払いについて】 
巡礼当日に、ホテルにて、巡礼マネージャーが集金させていただきます。
お支払いは、現金、日本円でお願いいたします。
ホテルにはキャッシュコーナーや銀行ATMはありません。またホテル周辺にはコンビニエンスストアもありませんので、現金のご準備は予めよろしくお願いいたします。

秋田巡礼で愛する兄弟姉妹の皆様とお目にかかれることを楽しみにしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!


【カトリックのニュース】いま全世界の司教区で行われているシノドスとは何か?シノダリティとは何か?来年の10月にローマで何が決まろうとしているのか?

2022年03月09日 | お説教・霊的講話

2022年2月20日(主日)六旬節の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、去年の2021年10月10日から始まった、ローマでの「シノダリティ」というものをテーマとするシノドスについて、少しお話したいと思っています。ローマで起こっている事です。もしかしたら一般の方はご存知ない方がたくさんいらっしゃるかもしれません。

「シノダリティ」というのは、「シノドス性」とか「シノドスである事」という意味です。一体何の事かというと、「シノドス」というのはギリシャ語で、「シン syn」というのは「一緒に」という意味で、「ホドス hodos」は「道」です。そこで「一緒に歩く道」という意味になり、転じて「教会の会議」を意味するようになりました。

でも今回のシノダリティというのは、通常の「教会会議」というよりは、その語源に忠実に「一緒に道を歩く」という意味で解釈して、一緒に道を歩く為のシノドスだ、という事です。結局は、結論を言ってしまえば、「シノダリティ」というのは、「民主主義化」という事です。

この今回行なわれているのは、どのような事かというと、去年の10月10日から、ローマで始まったシノドスを、その次の主日、つまり10月17日から、全世界の司教区で、シノダリティについてのシノドスを開始する、という事です。

三つの段階に分けられています。
今年の4月頃までは第一の段階で、地方の司教区ごとの段階になっています。そこで司教区の中で、「一般信徒の方の声を聴こう。教会は耳を傾けなければならない。」聖書に耳を傾ける、あるいは教会博士に耳を傾ける、教父たちに耳を傾ける、司教様のお話や神学者の話に耳を傾けるのではなくて、「全ての洗礼を受けた人の話を聞こう。そして特に、教会に来ていない人の話を聞こう。そしてどのような教派とか、どのような人とかでも構わず、洗礼を受ければ誰でもOKだ」という事です。

そしてそれで出てきた声をまとめて、それを地域ごと、あるいは大陸ごとに、第二の段階でまとめて、その次に最後に2023年、つまり来年の10月は、ローマでそれを、平信徒も聖職者も一緒になって、それを最後の決定的な文章を作って、それを可決させる、という事です。

指導文書(Vademecum)によると、「数の支配ではなくて、また利益が優先するようなものではない。そういう政治的な駆け引きは無い」とされていますけれども、一体それを保障するものはどこにあるのでしょうか?

結局、教会が今までやった事がないような大実験をしていて、つまり名前だけの付いていない実質上「第三バチカン公会議」が行なわれる、もう一回「10月革命」が行なわれると言ってもよいでしょう。これは、教会の在り方を根底的に変えてしまおうとする革命が今、行なわれつつあるという事です。

教皇様自身も「別の教会を作るのではなくて、違う教会を作る」と仰っています。「新しさに開かれた、これまでとは違う教会に向かって歩む」とされています。

そしてこのシノダリティについてのシノドスの為のモデルが、全世界に向けて既に示されています。「全世界の人々は、このモデルを見て、このようにやりなさい」というシノドスがあるのです。それはドイツでありました。

つい最近、第3回の総会で、最初の投票が行なわれて、色々な問題点が可決されました。ドイツのSynodale Wegと言われている「シノドスの道」というものは、230名ほどの参加者がいて、代表がいて、そして平信徒と聖職者からなっているのですが、「ローマに持っていく為の最終文章を今、準備している」との事です。これは2019年から、COVIDの危機にも関わらず、ずっとやり続けてきたものです。

これによると、2月5日の投票においては、まず「女性の司祭」を認可しました、174名が賛成、反対が30名でした。またそれによると、「司祭の独身制を廃止させよう。」これが賛成が159名、反対が26名。また司祭の結婚を促進しよう。また「同性愛ももう一度考え直して、そして罪の状態にあるような霊魂たちにも、御聖体を配るようにしよう。」またあるいは、「司教様だけが教会を統治するのではなくて、平信徒も統治してもいいんじゃないか。」あるいは、「ミサも司祭が司式するのではなくて、平信徒も司式してもいいんじゃないか」などというものが可決されました。これは遂にローマに行く前に最終の形になるのですけれども、これを見せて、全世界に「これを真似するように」と言っているのと同じです。

つまりこれは、今までカトリック教会が見てもいなかった、考えてもいなかった、「許されない・いけない」と教えた事を可決する、という事で、教会の信仰に対する大きな攻撃です。信仰に対する攻撃のみならず、教会を根底から覆して、教会を全く別のものに変えてしまおう、違ったものにしてしまおうという革命が今、行なわれているのです。つまり「教会を廃止してしまおう」という事です。

もちろん、教会は天主が作ったものですから、イエズス・キリストが立てたものですから、廃止する事はできません。いくら人間が革命を起こそうとしても、これは失敗に終わるに決まっています。

しかし、一体なぜ、このような考えが生まれてしまったのでしょうか?

なぜかというと、ここに参加している方々は、「聖なるものが一体何であるか」「天主が一体どれほど聖なるものであるか」という事をご存知なかったか、理解できていない、分かっていないからです。

「天主」というのは、私たちを無から創造して在らしめて、そして生かして下さって、そして全宇宙を統治しておられる、そして何億何兆という無数の天使・大天使たちが、いつも絶え間なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」“カドシュ、カドシュ、カドシュ!”と賛美して、礼拝している、その御方の立てた教会をあたかも何でもないかのように取り扱う事が、一体どうしてできるのでしょうか?
なぜかというと、「御聖体」を、「天主の御体、イエズスの御体」御聖体を、あまりにもなおざりに取り扱って、「聖なるものとは何か」という感覚を失ってしまった結果ではないでしょうか?

一体私たちには、この教会を守る為に、教会をイエズス・キリストが立てたそのままを守る為に、一体何をすれば良いのでしょうか?このシノドスに参加して、「いや、これはこうです」と意見を書けばそれで良いのでしょうか?

そうではないのです。それは数の理論で、影響の力で、権威の力で、簡単に聖伝などのようなものは廃止されて、教会はそのまま革命の波に埋まってしまって、そして私たちの知っている教会とは全く違う、人間の作ったものが出来てしまうかもしれません。その今、危機の岐路に立っています。ですから私たちは今、その事をよく自覚しなければなりません。どうしたら良いでしょうか?

まず、兄弟姉妹の皆さんと私が、「聖なるもの」に近付いて、「聖なるものが何であるか」という事をよく理解する事が必要です。そして「聖なるものに近付く、聖なるものに心を上げる」というのは、「天主に近付く」という事はどうしたら良いでしょうか?

「祈り」と、特に「御聖体」、そして「聖伝のミサに与る」事によって、聖なるものを良く知る事ができます。新しいミサではありません、聖伝の、カトリック教会が今まで伝えてきた、一・聖・公・使徒継承のそのミサ聖祭に与って下さい。そうする事によって私たちは、何十倍にもカトリック教会をそのまま保ち、守る事ができます。

「あぁ、私には関係ないよ。教皇様が、司教様が、なさることだから」今そう言っている時代ではありません。私たちが教会を守らなければなりません。一体、何ができるでしょうか?

「マリア様」です。なぜかというと、マリア様は天主の婢女(はしため)として、全てを天主の御旨のままに行なおうとする事によって、大司祭であるイエズス・キリストの御母となった方だからです。

マリア様は天主の御旨に逆らって司祭になりたいと思った事は一度もありません。罪の無い御方です。良心には一度も罪の汚れの影さえも無かった方です。そのマリア様が、天主がどれほど聖なる方か、イエズス・キリストがどれほど聖なる方か、その御体がどれほど聖なるものであるか、よくご存知です。そして司祭とは一体誰がなる事ができるか、知っています。主が選んだ者です。主は旧約の時代から、アブラハムがメルキセデクに生贄を頼んだその時代から今に至るまで、4000年間、モーゼの時代を通して、司祭はいつも男性でした、主の御旨によって。それが聖なる御旨なので、一体誰が変える事ができるでしょうか。

私たちはもう一度、「教会が聖なるものである、天主が立てたものである」という事に戻らなければなりません。人間が手をつける事ができません。その為にこそ、ミサを聖なるものとして守らなければなりません。ですからどうぞ、良い四旬節を過ごす為にも、ミサに、聖伝のミサに与って下さい。ロザリオを唱えて下さい。

マリア様に、無原罪の御孕りのマリア様にお祈り致しましょう。教会を守って下さいますように、カトリック教会をそのまま、イエズス様が立てたままを守って下さいますように。今、時は重大です。今、私たちが祈る時です。ミサに与る時です。そして愛する兄弟姉妹の全ての皆さんを、ミサに招待致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ヴィガノ大司教「悪魔は、罪の罰【死、病気、痛み】が、謙遜をもって受け入れられるとき、贖いの道具となることに堪えられない。サタンは、破壊と死という武器が、再建と生命の道具となることに堪えられない。」

2022年03月09日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の四旬節の黙想

「天主の正義を抱き、十字架につけられたキリストと一致して『真の苦行』を捧げて罪を償おう」

Abp. Viganò’s Meditation for Lent: Embrace God’s Justice, Make Reparation for Sin by Offering “True Penance” in Union with Christ Crucified

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年3月3日

Venite, convertimini ad me, dicit Dominus.
Venite flentes, fundamus lacrymas ad Deum:
quia nos negleximus, et propter nos terra patitur:
nos iniquitatem fecimus,
et propter nos fundamenta commota sunt.
Festinemus anteire ante iram Dei,
flentes et dicentes:
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.

Transitorium ambrosianum in Dominica Quinquagesimæ
五旬節の主日のアンブロジオ聖歌の聖体拝領誦

「来て、われに回心せよ」と主は仰せられる。
来て、泣け、天主に涙を流そう。
われらが背いたがゆえに、われらのゆえに、地は苦しむ。
われらが悪を犯したがゆえに、われらのゆえに、地の基は揺らいだ。
天主の御怒りになる前に、その先を急ぎ行こう、
泣きながら、こう言いながら、
「世の罪を除き給う御者,われらをあわれみ給え」と。

アンブロジオ典礼のミサ典礼書のこの言葉を、現代人が理解するのは難しいでしょう。しかし、この言葉は厳しい明瞭さにおいて単純です。なぜなら、私たちの罪と裏切りのために引き起こされた天主の御怒りは、痛悔と苦行によってのみ、なだめることができることを私たちに教えているからです。ローマ典礼では、この概念は、諸聖人の連祷の祈りの中で、さらに明確に示されています。「Deus, qui culpa offenderis, pænitentia placaris: preces populi tui supplicantis propitius respice; et flagella tuæ iracundiæ, quæ pro peccatis nostris meremur, averte.」(罪によって怒らせ給い、悔い改めによってなだめられ給う天主よ、切に願い奉る御民の祈りを顧み、われらの罪のために受くべき御身の怒りの鞭を、われらから遠ざけ給え)。

キリスト教文明は、この有益な概念を大切にすることができました。それは、罪がもたらす正当な罰への恐れのゆえにだけでなく、痛悔の祈りが私たちに教えているように、罪が「限りなく善にして、すべてを超えて愛すべき」天主の御稜威に対してなされる侮辱でもあるから、私たちは罪から遠ざからなければならないと考えることです。

何世紀にもわたって、キリストに回心した人類は、歴史上の悲しむべき出来事――地震、飢饉、疫病、戦争――が天主の罰であることを認めることを知っていましたし、これらの鞭によって打たれた人々は常に、苦行をして天主の御あわれみを願う方法を知っていたのです。そして、主、聖母、聖人たちが出現や啓示によって人間の問題に介入するとき、天主の掟を守るようにという呼びかけに加えて、人間が回心しなければ、大きな艱難が待っているだろうと警告しました。

ファチマでも、聖母は天主の御怒りをなだめ、平和な時代を享受できるように、ロシアをご自分の汚れなき御心に奉献し、初土曜日の償いの聖体拝領を行うよう求めておられます。さもないと、ロシアは「世界中にその誤謬を広め、戦争と教会への迫害を推し進めていくでしょう。善き人々は殉教し、教皇は多くの苦しみを受け、さまざまな国が破壊されるでしょう」。

聖母の要求を無視し、ますます多くの恐ろしい罪によって主の御怒りを招き続けるなら、私たちは何を予想すればいいのでしょうか。「彼らは私の要求を満たそうとしませんでした! フランス王のように、彼らは悔い改めてそれを行うでしょうが、それは遅れるでしょう。ロシアはすでにその誤謬を世界中に広め、戦争と教会への迫害を引き起こしてしまっているでしょう」。

今日、人類を苦しめて奴隷にし、中国共産主義に触発されたグレート・リセットの地獄の計画に人類を服従させるこれらの戦争は、またもや、私たちの不従順の結果であり、主の法を踏みにじって主の聖名を冒涜してもその結果【天罰】などないと信じる、私たちの頑迷さの結果なのです。何と不幸な厚かましさでしょうか。何というルチフェルのような高慢でしょうか。

脱キリスト教化した世界と、カトリック信者にさえ感染した世俗化したメンタリティーは、人間の罪に対してお怒りになる天主ということを、また、人間が悔い改めて赦しを請うようにさせるために、人間を鞭で罰する天主という考え方を受け入れません。しかしこの概念は、天主の創造の御手がすべての人間の霊魂に刻みつけ、異教徒でさえ持つ正義感を呼び起こさせる考えの一つです。

しかし、その考え方が、いつの時代にもすべての人の中に存在するからこそ、私たちの同時代の人々は、善人に報い悪人を罰する天主、御怒りで自らを現され、天主の御怒りを招いた者に涙と犠牲を要求する天主という考え方に恐怖を覚えるのです。

人類の罪によって冒辱された主の御怒りへの嫌悪、それも洗礼によってご自分の子とされた人々によって冒辱された主の御怒りへの嫌悪の背景には、人類の敵【サタン】の容赦ない憎しみがあります。これは、私たちの主イエズス・キリストの贖いの犠牲に対する憎しみ、天主の御子のご受難に対する憎しみ、アダムの堕落と私たち個人の罪の後に、主の御血が私たち一人一人のために勝ち取った贖いの値に対する憎しみです。

人間の創造以来ずっとサタンを夢中にさせてきた憎しみ、天主のみわざを失敗させようとし、天主の似姿と像に似せて造られた被造物である人間を醜させ、さらには新しいアダムであるキリストと新しいエワであるマリアの天主による償いの業を妨げようとさえする、狂気の試みの憎しみです。

十字架の上で、新しいアダムは贖い主として、罪によって破壊された秩序を回復させます。十字架のふもとでは、新しいエワが共贖者として、この回復に参加なさるのです。

アダムの誘惑は、主のみ旨への不従順と、何の結果【天罰】もなく主のご命令を破ることができるなどという思いあがった厚かましさとによって完了しました。それと同じように、サタンの行為の失敗は、至聖なる三位一体の第二のペルソナによる御父への従順と、天主の御子が受けた屈辱とで成し遂げられるのです。

この世は、痛みや死を受け入れません。原罪や自罪に対する正当な罰としても、キリストによる贖いの値と贖いの道具としても、受け入れないのです。ですから、これはほとんど逆説です。私たちの元祖アダムとエバを誘惑して、死、病気、痛みをこの世に持ち込んだ、まさにその者【悪魔】が、まさにこれら同じもの【死、病気、痛み】が、砕かれた正義を修復するために謙遜をもって受け入れられるとき、贖いの道具となり得ることに堪えられないのです。サタンは、破壊と死という武器が自分から奪い取られ、再建と生命の道具となることに堪えられないのです。

現代人は、新たにサタンに欺かれています。ちょうど、人がエデンの園で欺かれたように。そのとき、蛇は、善悪を知る木の実を取らないようにという天主の命令に背いても、何の結果【天罰】も起こらないと信じ込ませました。実際、蛇は、そのように背けば、アダムは天主のようになれると告げました。今日、蛇は、これらの結果は【元来】避けられないものであり、また死、病気、痛みを正当な罰として受け入れること、それらをイエズス・キリストのご受難と死と一致させながら、人間のために逆転させることは不可能である、と人間を欺いています。

なぜなら、天主の判決を受け入れることで、犯罪者は裁判官たる天主の権威を受け入れ、自分の過ちの無限の重大さを認識し、犯した罪を修復し、罪にふさわしい制裁を償うからです。そうすることによって、犯罪者は天主の恩寵に立ち戻り、サタンの働きを無効にするのです。

このため、時の終わりが近づけば近づくほど、悪しき者【悪魔】は、キリストによって啓示された真理を取り消し、聖なる教会によって何世紀にもわたって説かれてきた真理を取り消すだけでなく、救いの基礎である正義の概念そのもの、つまり"違反には処罰が必要だ"という考え方、罪の償いという考え方、"被造物の創造主に対する背信は重大なことだ"という考え方を排除しようと努力を重ねています。自分が何も罪を犯していないとますます信じさせるならば、人は何も悔い改める必要がないとますます思い、死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われた御独り子をお与えになるほど世を愛しておられる天主に対して、何の感謝の気持ちもないと思うようになることは明らかです。

私たちの周りを見渡せば、正義の取り消し、善悪の感覚の取り消し、善人に報い悪人を罰する天主がおられるという考え方の取り消しが、どれほど決定的で回復不能で取り返しのつかない主への反逆、霊魂の永遠の地獄行きの前提になっているかが分かるでしょう。犯罪者を無罪にし、正しい人を罰する裁判官、罪と悪徳を推し進め、誠実で高潔な行為を非難したり阻止したりする統治者、病気を利益の好機とみなし、健康を障害とみなす医者、四終のこと【死、審判、天国、地獄】について沈黙し、罪の償いとしての苦行、犠牲、断食の概念を「異教徒的」とみなす司祭――これらの人はすべて、おそらく無意識のうちに、サタンのこの最新の欺きの共犯者となっているのです。

この欺瞞で、一方では被造物に対する天主の支配権や、行為に応じて被造物を報いたり罰したりすることができる天主の権利を否定し、他方では天主のみが与えることのできる財物や報酬をサタンが約束するのです。砂漠でキリストを山の頂上に導いた後に、サタンはあえて、「あなたがひれ伏して私を礼拝するなら、これらをみなあなたに与えよう」(マテオ4章9節)とさえ言ったのです。

現在の出来事、人類が日々犯している罪、天主の御稜威に逆らう多くの罪、個人と国家の不正、罰を受けることなく行われる嘘と詐欺は、たとえ正義を回復し悪人を罰するために軍隊が武器を手にしたとしても、人間の手段で打ち負かすことはできません。なぜなら、人間の力は、天主の恩寵がなく、超自然的なビジョンによって活力を与えられなければ、不毛であり、効果がないからです。

しかし、3世紀以上にわたって続いてきた欺瞞、つまり、人類が人間を神格化し、イエズス・キリストから王冠を奪うという高慢さと厚かましさをもって以来、陥ってきたこの欺瞞と戦う方法があります。そしてこの方法は、天主のものであるがゆえに不可謬です。つまり、苦行、犠牲、断食に立ち戻ることなのです。ランニングマシンで走る人々の虚しい苦行でもなく、地球を人口過剰にしないために自ら子どもを生めなくする人々の愚かな犠牲でもなく、グリーン・イデオロギーの名の下に肉を断つ人々の空虚な断食でもありません。これらはまたもや、私たちの良心を沈黙させる悪魔的な欺瞞なのです。

真の苦行とは、聖なる四旬節が私たちに実りある形で実行するよう励ますものであり、私たち一人一人が、自分自身や隣人、国家、そして教会人の犯した罪の償いのために欠乏や苦痛を捧げることなのです。

真の犠牲とは、私たちが感謝の念を持って自らを主の犠牲に一致させ、私たちが当然受けるべき苦痛に霊的な意味と超自然的な目的を与えることなのです。真の断食とは、体重を減らすためではなく、情熱に対する意志の優越、肉体に対する霊魂の優越を回復するために、自ら食べ物を絶つことなのです。

この聖なる四旬節の間に行う苦行、犠牲、断食は、私たちのために、愛する人々のために、隣人のために、祖国のために、教会のために、全世界のために、そして煉獄の霊魂たちのために、父なる天主の御怒りを止めることのできる唯一の恩寵をもたらす償いの価値を持つことになるのです。なぜなら、私たちが御子の犠牲と一致することで、サタンが私たち全員に引き起こし、主に背くことで罪へと導いたものを、超自然の宝に変えるからです。

この宝は、壊された秩序と侵害された正義を回復させるでしょう。この宝は、私たちがアダムにおいて、また個人的に犯した過ちを修復するでしょう。地獄の混沌(chaos)には天主の秩序(kosmos)を、この世のかしらには王の中の王を、高慢には謙遜を、反逆には従順です。「あなたたちは実にそのために召されている。キリストはあなたたちのために苦しみ、その足跡を踏ませるために模範を残されたのである。(中略)そのお体に私たちの罪を背負って十字架の木につけられた。それは私たちを罪に死なせ、正義に生きさせるためである」(ペトロ前書2章21-25節)。

この黙想の締めくくりに、灰の水曜日のミサの書簡を引用します。これは預言者ヨエルの書から取ったもので、天主の民を戒め、回心を呼びかける仲介者、取り次ぎ者としての司祭の役割を思い起こさせます。これは多くの聖職者が忘れてしまった役割であり、彼らが、時代遅れの教会、時代についていけない教会、苦行と断食で主を「なだめ」なければならないといまだに信じている教会の遺産だと信じて、拒否さえしているものです。

「シオンではラッパを吹き鳴らし、断食を命じ、厳かな集会を行え。前庭と祭壇の間で、主に仕える司祭は、泣いてこう言え。『主よ、主の民をあわれみ、主の遺産に恥を与え給うな、他国の奴隷となし給うな、民の中で、〈彼らの天主はどこか〉と言わぬように。主は、ご自分の地を愛し、主の民を赦し給う』。主は、民に答えて仰せられた。『見よ、私は、おまえたちに、麦と、ぶどう酒と、油を送る。おまえたちは、豊かにそれを持つ。私は、もう、おまえたちに、他国の恥を受けさせないであろう』と、全能の主は仰せられる」(ヨエル2章15-19節)。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、時間があたえられている限り、天主に御あわれみを求め、天主の赦しを請い願い、犯した罪の償いをしましょう。なぜなら、御あわれみの時が終わり、正義の日が始まる日がやって来るからです。Dies illa, dies iræ: calamitatis et miseriæ; dies magna et amara valde.(その日こそ怒りの日、災いと不幸の日、大いなる嘆きの日)。その日、主は火をもって世を裁きに来られる。judicare sæculum per ignem.(火をもって世を裁く)

聖母と神秘家の聖人たちの戒めが、この暗黒の時に、私たちを真に回心させ、自分の罪を認め、告解の秘跡で罪が赦されるのを見、断食と苦行で罪を償うように私たちを導いてくれることが、天主をお喜びさせますように。それにより、多くの者の上に落とされるべき、天主の正義の御腕を、少数の者によって止めることができますように。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年3月2日
灰の水曜日、断食の初日
Feria IV Cinerum, in capite jejunii


聖ペトロ・ダミアノ「キリストの十字架を愛さないものは、キリストを愛さない。」

2022年03月08日 | お説教・霊的講話

2022年2月23日(水)司教証聖者教会博士聖ペトロ・ダミアノのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、多くの方がミサに与って下さってとても嬉しく思います。今日は新しい小さなお友達もいらして本当に嬉しいです。

何でこんなにミサが大切なのでしょうか?ちょうど今日のミサの聖人、聖ペトロ・ダミアノの話と全くそっくりです。

聖ペトロ・ダミアノという方は、西暦の1007年に生まれた方です。遂には司祭、修道院長、司教様、そして枢機卿という、教会で最も高い地位についた方です。

でも、生まれた時にはお母さんが、子供があまりにも多いので、お母さんが、まだ赤ちゃんだった時に捨ててしまったのです。「あぁ、こんなに子供が多いと、貧しくてもう育てられない。」
お母さんも辛かったと思います。でも捨ててしまったのです。「とても育てきれない。」

しかし、その家で働いていた女中さんが、半分死にかかっていたその子を拾って、「でも奥様、でもこの子がかわいそうじゃありませんか。」と言って、お母さんの元に戻したのです。

お父さんは亡くなり、孤児となり、兄弟たちのうち一人の兄がペトロを育てるのですが、ペトロを奴隷か召使のように厳しく取り扱いました。貧しくて、生活は大変でした。ある日、たまたまコインを、お金を道で拾ったのです。ペトロくんは「あ、お金!」と、そのお金で、自分の何か好きな物を買う事もできたかもしれません。でもこの子は「いや、これのお金で、神父様にミサを立ててもらう。特に亡くなったお父さんの為にミサを捧げてもらおう」と言って、神父様にお願いしました。そして神父様はその子供のペトロ君のお金をもらって、それでお父さんの為にミサを捧げて、おそらくこの家族の為にミサを捧げたと思います。

すると、全てが変わりました。このそれを見た別のお兄さんが、このペトロの教育の面倒を見ようと決心してペトロを養子にしました。「こんなに良い子だったら、僕が面倒を見よう」と。そのお兄さんはダミアノという名前でした。ですからこのペトロ君は、苗字としてお兄さんの名前を付けて、ペトロ・ダミアノとなりました。またお姉さんのロザリンダ母親のようにしてくれました。

そして非常に頭の良い子で、優秀でした。祈り、苦行し、愛徳を実践せていました。25才になると、教える仕事につくようになりました。特にラテン語が得意で、「当時最高のラテン語学者」「中世のもっとも偉大なラテン語著述家の一人」とされています。美しさを敏感に感じ取ることができた人でした。1034年ごろには、天主の絶対性をもっと黙想し、もっとお祈りしたい、儚いこの世をから離脱したいとますます思うようになりました。1035年には司祭に叙階され、厳しい生活を送るために「聖十字架修道会」のフォンテ・アヴェラナ修道院に入るのです。修道者たちのために創立者の聖ロムアルド・デ・ラヴェンナの伝記も書きました。

「聖十字架修道会」の修道者として、十字架の神秘は聖ペトロ・ダミアノにとってもっとも大切な黙想の主題でした。「キリストの十字架を愛さないものは、キリストを愛さない。」ミサ聖祭は、十字架の犠牲の再現ですから、聖ペトロ・ダミアノにならえば「キリストの十字架の再現である聖伝のミサを愛さないものは、キリストを愛していない」と言うことができるかもしれません。

また、自分のことを「キリストの十字架のしもべたちのしもべであるペトロ」Petrus crucis Christi servorum famulus と呼び、手紙の末尾にそう書いていました。聖ペトロ・ダミアノは、十字架の人、祈りの人、黙想の人、観想の人でした。

しばらく経つと、フォンテ・アヴェラナ修道院の修道院長が亡くなります。1043年、このペトロ・ダミアノが修道院長になりました。そしてついに後には司教様に、枢機卿様になります。でも、聖ペトロ・ダミアノにとって、地上の財産とか、地上の名誉というのは全く関心がありませんでした。「霊魂を救いたい。霊魂を天国に導きたい。十字架の神秘を黙想したい」というその事だけでいっぱいでした。1072年に帰天するまで、聖ペトロ・ダミアノは、つねに「キリストの十字架のしもべたちのしもべであるペトロ」として教会の為にものすごい活躍をしました。どのような活躍をしたかはたくさん話がありますが、しかし、今日はそれは省略して、最後に、私がつい最近YouTubeで見た神父様の話をさせて下さい。聖ペトロ・ダミアノと核心のところで関係があると思うからです。

この神父様はイギリスで、やっぱり皆さんが与っているミサと同じ聖伝のミサを捧げている、ジェームス・モスリー神父(Fr. James Mawdsley)という方です。聖ピオ十世会の司祭ではありません。この神父様が何で司祭になったかという、昔の話をしたインタビューを、私がちょうどたまたま見る機会がありました。

それによると、ジェームズ・モーズリー神父はまだ大学生だった頃、歴史の本をたくさん読んで、そしてビルマで政府が人々を、国民を非常に残酷に不正義に取り扱っているので、非常にかわいそうになって、ビルマの人を助けたいと思ったそうです。でもその頃は、カトリックだったけれども、熱心に教会でお祈りをするというよりはむしろ、そういう活動をして人々を助けたい、と思っている方でした。

それで大学を卒業するかしないかすると、ビルマに行って、ビルマの人と連帯して、政府に抗議して、「この人々を助けて欲しい」という活動を始めました。するとビルマの政府は面白く思わなくて、この神父様を投獄しました。牢屋の中に入れました。そういう機会が3回ありました。最初は15日、2回目は15週間、次は15ヶ月、牢屋の中にいたそうです。

しかし、この牢獄は、のちに天国に変わったそうです。その理由は聖書と、悔悛と、愛徳でした。

牢屋の中にいると、最初は「なんだ!」と怒ったり、悲しかったりしたのですけれども、牢屋の中にいた間に、聖書が送られてきたそうです。聖書を読んで、ずっと読んでいたのだそうです。

すると「あぁ、自分はどれほどそのような愛に逆らってきたのか」と罪を痛悔しだしたのです。「自分の今までの人生は、本当にイエズス様の聖心に適うものだっただろうか?」と思ったことでしょう。痛悔して、回心があったのだそうです。

その次に、今まで監獄の見張りをしていた人が、非常に乱暴に残酷に扱っていたので、いつも怒っていたのでしょう。「何だこいつ!下らないやつだ!」などと。しかし、それが却って憐れみに変わったそうです。「いや、そうではなくて、この彼を愛そう」と「私をこう悪く取り扱うこの彼を憐れもう、愛そう」と思ったのでしょう。愛徳を行ったそうです。

その聖書を読んで、罪を痛悔して、そして隣人を、難しかったのですけれども、愛したのです。そうすると「牢獄が天国に変わった」と言います。そしてその何ヶ月もいた牢屋は本当に幸せな場所になり、出ると「あぁ、もう一度あの幸せを戻したい。あれほどの幸せな時はなかった」と思ったそうです。

それでイギリスに戻って、そして「何かそれに代わるものはないか?」とずっと探していたそうです。それに唯一代わる事が、地上を天国にする事ができる唯一のものを見つけた。それが、今皆さんが与っているこの「ラテン語のこのミサ」だったのです

このミサは、地上の最高の宝であって、これ以上の善はない。これ以上の宝はない。なぜかというと、私たちの主イエズス・キリスト様が、私たちの為に十字架に付けられて、聖血を流されて、そして私たちを愛して下さって、その御恵みを全て下さるから。これ以上に勝るものはない。最高の宝だ、と。それで遂には「司祭になろう」と思って、司祭になった、というインタビューを見ました。

皆さんもきっと「あぁ、私も思い当たるところがある」と仰るかもしれません。

ですからこの皆さんが与っているミサは、どれほど多くの霊魂たちに多くの恵みを与えてきて、多くのこの地上での苦しみを喜びの元に変えてきた、という事をご存知になって下さい。

今日は、聖ペトロ・ダミアノに、ぜひ私たちにこのミサの御恵み、十字架の神秘をよく理解する事ができるように、お祈りしましょう。

マリア様にもお祈り致しましょう。

それから今日は天皇誕生日ですから、天皇陛下の為にもお祈り致しましょう。皇室の為にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちを聖とする事ができる唯一の方、イエズス・キリストのますます近くに行って、聖であるとは何か、天主とは何か、という事をますます深く理解する

2022年03月08日 | お説教・霊的講話

2022年2月20日(主日)六旬節の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆様、今日は六旬節の主日のミサを捧げております。

御説教の前に一言、感謝の言葉を申し上げたいと思っています。4ヶ月ほど不在でおりましたが、皆様にご不便やご不都合をおかけしてしまいました。皆様のご理解と寛大な忍耐を感謝します。
またその間、皆様がたくさんのお祈りをして下さった事を心から感謝致します。

私がミッションで韓国に行ってる間、皆様のおかげで、全てが主の御手の中に、全てが準備されていたかのように、全てが整えられているかのように、主が働いて下さっているかのように、奇跡が起こして下さっているかのように、全てが順調に行きました。多くの方々がミサに来られて、洗礼を受けた子供たち、初聖体の子供たち、多くの秘跡を受けた方々、毎日ミサに与った方々、若い青年たち、聖伝のミサに初めて与った方々、宣伝をしたわけではなかったのですけれども、新しい方がたくさん来られました。御恵みと奇跡の連続でした。皆様のお祈りのおかげだと知っております。

韓国の信徒の皆様が、日本の兄弟姉妹の皆様の犠牲に深く感謝しています。その感謝の念は、私たちの想像を超えますけれども、拙いながらそれを皆様に伝えたいと、韓国の信者さんの感謝の念を伝えたいと思っております。

今日、六旬節の主日は、私たちは四旬節の為に準備をますます深めています。では、どうしたら四旬節を良く過ごす事ができるでしょうか?
「あぁ神父様、四旬節というのはね、簡単ですよ。四旬節の最初に、灰の水曜日にはおでこにちょっと灰を付けて、ダイエットして、そして聖金曜日にまたちょっとだけダイエットすれば、それで終わりです。」

いえ、そうではなくて、四旬節の本当の目的というのは私たちがますますイエズス様に一致することです。つまり言い換えると聖となることです。言い換えると、私たちを聖とする事ができる唯一の方、イエズス・キリストのますます近くに行って、聖であるとは何か、天主とは何か、という事をますます深く理解することです。

全宇宙を無から創造された天主、何億何兆という数え切れないほどの無数の天使たちが今でも絶えず、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と礼拝しているその全能の永遠の天主、そして私たちを無から未だ在らしめて生かして下さっている、私たちに全てを与えて下さっているその主の愛の中で、それを認めて、主がどれほど聖なる御方かをよく知る事です。世俗を離れて、主に向かう事です。

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それにもかかわらず、そのような愛を受けたにもかかわらず、その聖なる主に対して罪を犯した私たちのその罪の醜さと、おどろおどろしさと、いやらしさを理解する事です。

どれほど罪が主に反対している事か、それにもかかわらず、その極限の悪にも関わらず、天主の聖子が人となって、私たちの代わりに苦しみを受けられた、その苦しみと、その愛、その罪、それを理解する事です。その私たちに罪の赦しを与えて下さる天主、人となった天主の苦しみに合わせて、私たちも祈りと、償いと、犠牲と、あるいは施しなどを捧げる事によって、ますます主に一致する事です。全能の天主のその聖なる中に入っていく事です。ますます私たちを聖として下さるイエズス・キリストに一致させる事です。そしてこの一致を決して離さない、絶やさない事です。

それこそが良い四旬節なのです。私たちが罪を痛悔して、悔い改めて主に立ち戻る、聖なるものに触れる事ができるようにする時期です。

その為には一体どうしたら良いでしょうか?

祈りです。主に向けて心を上げる事です。その最高のやり方が、ミサ聖祭です。聖伝の昔からのミサ聖祭です。なぜかというと、ミサ聖祭においては、聖なるものを聖なるものとして大切に扱うからです。最高の尊敬を以って扱うからです。そしてそれを表明するからです。

祈り、ミサ聖祭、御聖体拝領、ロザリオを唱えて、聖なる主がどれほど聖なる方か、という事を黙想して、そしてその中に生活すべきです。これによって私たちは、私たちの霊魂を耕さなければなりません。

なぜかというと、世俗の精神が、私たちの心を雑草や茨や土やコンクリートで固めてしまった土地のようにさせてしまい、「主が一体どなたであるか」という事を忘れさせるからです。

皆様もご存知の通り、教会では今、革命が起こっているかのようです。去年の10月から来年の10月まで、2年間に渡って「シノダリティーについてのシノドス」というのが今、開催されています。

3段階あって、第1段階は今年の4月頃までは、各司教区ごとにその会議がされています。聖書を聞くのでもなければ、司教様の話を聞くのでもなく、教父の話を聞くのでもないのです。ただ信徒の声を聞く、特に教会に来ていない人たちの声を聞くというのです。

第2の段階ではそれらの人の声を集めて、それを大陸ごとに会議を開いてまとめます。
第3の段階では、ついにはローマに持って行って、来年の10月に、教会を変える、という会議、シノドスが、今、進行中です。

これは、教会に革命を起こそうとしているかのようです。名前だけがない実質上「第三バチカン公会議」が今起こりつつあります。日本でも今それがなされています。

全世界に向けて、一体このシノダリティーの為のシノドが一体どのようなものであるべきか、というものを、ドイツが模範を見せています。

つい数日前に、第3総会で初めての総決投票が行われました。それで、全世界の司教や信徒たちに、「このシノドスは、このように行なうべきだ」という模範を示しています。先駆者です。プロトタイプです。

260名ほどの平信徒や聖職者たちから集まっている会議で、多数決で、絶対多数決で、2/3以上で可決されたのが、「女性司祭」「司祭独身制廃止、司祭の結婚を求める」「司教でなくても、平信徒が教会のリーダーに立つ事ができる」「平信徒がミサの司式をする事」「罪の状態にある人でも聖体を拝領してもいい」などということでした。異端と、革命と、離教に満ちたものが、多数決で可決したのです。

ドイツのシノドスの道は、これこそを、2023年にローマで教皇様に主張するんだ、教会を変えていくのだ、と主張しています。革命を起こす決意が見えます。来年の「10月革命」です。異端と離教が今、目の前で公然と投票されています。一体何故?何故?

何故かというと、ここに参加した260名の信徒と聖職者たちは、「聖なるものが何か」という事を全く理解できなかったからです。天主がどれほど聖なるものであるか、モーゼが燃える茨の中で、「私は在りて在るものである」というその名前を告げた、その偉大な神秘、あるいはシナイの山で、燃え盛る大炎の天変地異の中で与えられた、この十戒、「我の他に誰も天主として礼拝するなかれ。我こそが唯一の天主だ。」その荘厳さ、その聖なる方であるという事を、全く理解できていなかったからです。

御聖体が一体どれほど聖なるものであるか、ただのパンの欠片のように考えているからです。

司祭が独身であるというのは、キリストの御聖体を触る事ができる為です。マリア様が童貞であったのも、まさにイエズス・キリストを孕す事ができる為でした。マリア様のように汚れのない、罪のない、無原罪でなければならなかったのです。しかし、その御聖体が何であるか全く分かっていない人は、それを全く分からない状態で、何でもないように取り扱うとするのです。

司祭は結婚しても良いとか、御聖体を誰に配ってもよいとか、女性が司祭をやってもよいとか、一体何故こんなことが主張されるのでしょうか??

聖なるものを聖なるものとして扱うミサが不在だったからです。教皇ベネディクト十六世は言っています。「今現代の信仰の危機は、典礼の危機にある。典礼があたかも、天主が存在していないかのようになされているから、聖なるものが聖なるものとされていないから。ここに今、危機がある。」

私たちはこのまま、「ああ、まあノブス・オルドだから。」「知らないよ」「俺、関係ない」と言っても良いのでしょうか?私たちはできません、何とかして、私たちの母である教会が今侮辱され、冒されているのを、何とかして守らなければなりません。ベロニカが必要です。キレネのシモンが必要です。勇気を持って立ち上がる必要があります。

私たちの母なる教会が今これほど攻撃と、侮辱と、革命を前にして、私たちは一体何が出来るでしょうか?どうしたらこの革命をストップする事ができるでしょうか?

それはまず、私たちが「聖なるもの」というものを深く理解して、それを礼拝する事から始まります。「ミサ聖祭を、聖なるものとして守る」事から始まります。

私たちには最大の武器があります。「御聖体」と「マリア様」です。この四旬節を、まず私たちが聖なるものに触れる事に、そして私たちがますます聖に近付く事によって、良い最高の四旬節となるようになさって下さい。

この2022年の四旬節は、カトリック教会にとって極めて重大な時です。教会の未来を決める時です。ですからこの四旬節を是非、ミサに与り続けて、聖伝のミサに与り続けて、多くの方をこのミサに招いて下さい。与りたくても与れない方々がいらっしゃる、という事もどうぞご承知下さい。そしてそのような方々に代わって、そして世界中の人々に代わって、私たちがその祈りと、イエズス様に対する愛を倍増させる事を、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様はルルドでこう仰いました。「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「私は、無原罪の御孕りである。それが私の名前だ。」罪の無い御方。聖なるものがどのようなものか、天主が誰であるかよく分かっていた方が、マリア様です。マリア様に、私たちにその同じ信仰を与えて下さるように、私たちが良い四旬節を過ごす事ができますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「私の身の上に起きたことを思え、それは定めである。昨日は私だった、そして今日はあなたの番だ」

2022年03月07日 | お説教・霊的講話

マリア・テレジアさんの埋葬についての説教

ドモルネ神父さま

マリア・テレジアさんの埋葬レクイエム・ミサを捧げています。小野田神父様が2020年12月、マリア・テレジアさんに最後の秘跡を授けました。私たちは、マリア・テレジアさんが死後の裁きを受けるために、私たちの主イエズスに会うべき正しい心構えにあったと確信しています。今日、私たちはミサを捧げ、もしマリア・テレジアさんが今、煉獄におられるのであれば、一刻も早く煉獄から解放されるように祈ります。この埋葬の機会に、死という現実を思い起こしましょう。

死は私たちに必要な終わり

マリア・テレジアさんは106歳でした。100年以上…この世でそんなに長く生きられると本当に思っている人は、きっと誰もいないでしょう。しかし、どんなに長い人生にも、死という終わりが来るのであり、これはみんな同じです。聖書の次の言葉を、思い起こしましょう。「アダムの一生は930年であった。そして彼は死んだ。セトの一生は912年であった。そして彼は死んだ。エノシュの一生は905年であった。そして彼は死んだ。ケナンの一生は910年であった。そして彼は死んだ。マハラレエルの一生は895年であった。そして彼は死んだ。エレドの一生は962年であった。そして彼は死んだ」(創世記5章5-20節)。私たちは、どんなに長い人生であっても、最後には死ぬのです。

特に若いうちは、自分の死という現実を忘れてしまうかもしれません。宗教を人生の付属物と考え、真剣に気にするのは老後だけでいいという、誘惑に駆られるかもしれません。その結果、天主に最小限の時間しか捧げず、仕事、家族、社会活動、娯楽に忙殺されることになるのです。そんな、この世的な考え方と、霊的な生ぬるさのせいで、私たちは、聖徳を実践するのを怠ることになり、簡単に罪に陥るのです。福音の中にある、私たちの主イエズスの警告を思い起こしましょう。一生懸命に働き、この世のことに非常に積極的な金持ちがいて、こう言いました。「『魂よ、おまえはもうこれから長い年月を過ごせる多くの財を蓄えたから、休め、飲め、食べよ、楽しめ』。ところが、天主はその人に『愚かな者よ、おまえの魂は、今晩呼び戻されるのだ』と仰せられた」(ルカ12章19-20節)。

今日、マリア・テレジアさんの死は、どんなに長い人生でも終わりが来るということを、私たちに思い起こさせてくれます。この世での私たちの人生は、永遠と比べれば、とても短いものなのです。聖書の中で、ヨブは、こう言っています。「思い出したまえ、私の命は息吹に過ぎないことを」(ヨブ7章7節)。また、聖ヤコボは、こう言っています。「あなたたちの命とは何か。あなたたちは、しばらく現れて、瞬く間に消える湯気である」(ヤコボ4章14節)。私たちはいつか死ぬのですから、その覚悟をしておかなければなりません。

死を思い起こすこと

霊性の大家たちは皆、しばしば死を思い起こすように、と勧めています。これは、この世の精神や、霊的な生ぬるさをすべて振り払い、三つの情欲という錯覚を払いのけ、ありのままの現実を直視するための強力な手段です。その現実とは、天主と永遠です。イエズスは、こう言われました。「天地は過ぎ去る、だが私の言葉は過ぎ去らぬ」(マテオ24章35節)。

この世と私たちが持っているものは、消えてしまいますが、私たちの死後のイエズスによる裁きは永遠に続きます。「父の祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」、あるいは「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章34、41節)です。

死を思い起こすことは、私たちが悪を避け、聖徳を実践するのを助けてくれます。原罪が起きた時、楽園で何が起こったかを、心にとめておくのは興味深いことです。アダムとエワが、禁断の実を食べてはならないという掟に従うよう、天主は、死について、はっきりと強く警告されました。「その実を食べたら、おまえは必ず死なねばならぬ」(創世記2章17節)。しかし、エワは、悪魔に誘惑されたとき、こう言いました。「『それを食べても、それに触れてもいけない、そうすると、死ぬことになる』と、天主は言われました」(創世記3章3節)。エワは、天主の警告を真剣に受け止めず、死とその結果について、真剣に考えなかったのです。悪魔は、このことを理解し、それを利用したのです。すぐに、エワの抵抗に打ち勝つために、死という考えを捨て去ったのです。「いや、そんなことで死にはしない」(創世記3章4節)と。そして、エワは、それを信じ、罪に陥りました。

結論

親愛なる信者の皆さん、マリア・テレジアさんは、もうこの世におられず、その旅路は終わりました。私は、個人的にマリア・テレジアさんにお会いしたことはありません。しかし、私と皆さん全員にとって、今日、マリア・テレジアさんは、特別に好意を寄せる人です。マリア・テレジアさんは、私たち自身の死を思い起こさせてくれます。マリア・テレジアさんは、棺の中から静かに、集会書の次の言葉を私たちに伝えてくれます。「私の身の上に起きたことを思え、それは定めである。昨日は私だった、そして今日はあなたの番だ Memor esto judicii mei : sic enim erit et tuum : mihi heri, et tibi hodie.」(集会書38章22節)。

マリア・テレジアさんが安らかに眠り、永遠の光がマリア・テレジアさんを照らしてくれますように。アーメン。

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「喜べ、童貞マリアよ。御身は、たった一人で、全ての異端を滅ぼし給うた。」まさに今日、このマリア様の力が必要とされている時です。

2022年03月07日 | お説教・霊的講話

2022年2月19日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

まず皆さんに、感謝の気持ちを申し上げたいと思います。4ヶ月の間留守をしておりましたが、皆さんがドモルネ神父様を助けて下さって、一生懸命ミサに与ってくださり、そして私の為にも、ミッションの為にもお祈りして下さった事を深く感謝しております。…

今日はマリア様の、土曜日のマリア様のミサをしています。詠唱の中にはこういう一言があります。
“Gaude Maria Virgo, cunctas haereses sola interemisti.”
「喜べ、童貞マリアよ。御身は、たった一人で、全ての異端を滅ぼし給うた。」

まさに今日、このマリア様の力が必要とされている時です。なぜかというと、去年の10月から、ローマではシノドスについての教会会議というものが始まりました。これは、今までになかった新しいやり方の、名前の付いていないいわば「第三バチカン公会議」です。教会における革命、教会を根本から変えてしまおうとする会議が今開かれています。

まず最初に、各地方でそのような会議、シノドスを開いて、つぎには大陸のレベルで開いて、そして最後にはローマで、2023年最終のシノドスを開く、という事です。これはどのようになるかというのはドイツのシノドスをみれば分かります。

ドイツでは、ローマに先だって似たような会議が今行われています。2月に、つい最近、採決しました、聖職者や平信徒たちの集まりが投票しました。コロナの中で皆、教会を閉じて、お祈りもやめて、という中でも、ドイツではシノドスがずっと続けられたのでした。

それによると、色々ありますが、特に「女性の司祭を認めよう」、「司祭の独身制を廃止しよう」、それから「同性愛を認めよう」あるいは「大罪の状態にある霊魂たちにも、御聖体拝領を授けよう」、などというものが、賛成多数で可決されました。

教会の聖伝の教え、使徒継承の教えとは離れています。カトリックの一・聖・公・使徒継承の教えからは離れていることが可決されてしまいました。これはとどのつまり、ミサ聖祭を攻撃するものです。

女性の司祭は聖伝に反しています。使徒継承の教えに反しています。イエズス・キリストの制定された司祭職によって、旧約時代から新約時代に至るまで、全て男性が受け継ぐものです。そしてヨハネ・パウロ二世が言った通り、ラッツィンガー枢機卿が言った通り「女性は司祭になる事が決して出来ない」のです。

司祭の独身性も、使徒継承のものです。特に西方教会ではいつも守られてきた事で、東方教会でも司教になる為には必ず、つまり司祭職の最高のものであるためには必ず、独身でなければなりません。

同性愛というのも、自然に反するものです。また大罪の状態にある罪の状態にある霊魂が御聖体を拝領する事ができるというのも、これもイエズス・キリストの教えに反するものです。

これらの異端の説に、教会は巻き込まれてしまうのでしょうか?そのような考えが今後、世界中で投票されて、可決されて、そしてついには来年の10月にローマでも可決されるようになってしまうのでしょうか?私たちはどうしたら良いのでしょうか?

マリア様にお祈り致しましょう。このすべては、マリア様が解決する事ができるからです。

なぜかというと、マリア様は、最高司祭イエズス・キリストを生んだ御方だからです。マリア様があたかも香部屋のように、マリア様の胎内で、イエズス・キリスト、天主の御言葉が人間となって、イエズス・キリストとなって、大司祭となりました。ですからマリア様が一番、誰が司祭になるべきか、という事を知っている方です。

マリア様は童貞です。そしてそれを生涯守られた方です。ですからこそ、イエズス・キリストを孕す事ができたし、イエズス・キリストの御体を触る事ができました。イエズス様はまさに御聖体において真にましますので、マリア様のような司祭が必要です。つまり童貞の司祭が必要です。

マリア様は全く罪の汚れのない無原罪の御孕りでありました。ですからこそマリア様はイエズス様を孕す事ができました。御聖体はイエズス・キリストの御体、天主の御体ですから、聖なるかな、聖なるかな、聖なる方で、全く罪の影もそこにあってはならない方です。ですから私たちは、成聖の状態で、罪の無い状態で御聖体を拝領しなければなりません。ですから御聖体拝領をする方は、マリア様を倣わなければなりません。

今日、土曜日の聖母のこのミサを捧げながら、マリア様に是非お祈り致しましょう。汚れなき御心にお祈り致しましょう。

教会を守って下さいますように、特に日本の教会を守って下さいますように、私たちの信仰を汚れなく守って下さいますように、そしてミサ聖祭を必ず守って下さいますように。教会の伝統を破壊して、ミサに対する攻撃をするようなものは長く続きません。イエズス・キリストに打ち勝つ事はできません。マリア様がそれら全てを、足で噛み砕く事でしょう。

ですから私たちは、その日が一刻も早く来るように、そしてこのマリア様の最も大切にするミサが守られて、多くの方々に与えられますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2022年3月5日(初土)男らしいカトリック信者たちが、凍える冬のワルシャワで跪いてロザリオで聖母に祈っています。

2022年03月07日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年3月5日(初土)男らしいカトリック信者たちが、凍える冬のワルシャワで跪いてロザリオで聖母に祈っています。https://twitter.com/i/status/1500056962654171139

Sachin Jose

Catholic men's Rosary rally in Warsaw Twitter

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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