局の道楽日記

食道楽、着道楽、読書道楽  etc
生活色々を楽しんで暮らしている日々の記録です

再会

2007-05-13 20:52:16 | 記憶の箱
昨日(いいえ今朝だわね)、親友(幼稚園年長組からO十年 一番親しい友人)A(お互い片付けられない姑という悩みを共有する)と共に午前様して帰り着いたのが 2時半だった(夜中の)

昨日は Aが企画した中学友人との飲み会 男女半々くらいでその中の一人がやっている居酒屋に集まってまた延々飲んだわけです。
わけあって昨日のメンバーは私がいつも参加するメンバーとちょっと派閥が違った。正式な5年に一度の学年会や、先生を交えての会、東京で行われる会などには参加しないグループ むしろそれを「けっ」と眺めているグループ 言っちゃ悪いが少々アウトサイダー的なグループである。
例えば不良した人、進学でつまずいた人、×1、×2、会社つぶした人々。

それをなぜAが取りまとめてわざわざ幹事役を引き受けて私もそれを手伝うことになったのは面倒だから詳細は省くが、企画したA自身でも会が始まる前には「あのメンツで盛り上がるのかな~ すごく心配になってきた」とびびっていたくらいであった。
結果、結構盛り上がって 12時まで安い会費で居させてくれた一次会居酒屋では足りず、場所を変えて飲みなおそうということになり 2時過ぎまで飲んで、Aと二人でタクシーで帰宅し実家の玄関の鍵を開けて忍び込むということになったのだけど。
私はひたすら焼酎、水割り作成係りをしていたんだけど、ペースの速いこと、みんなの強いこと(男女問わず)びっくりさせられてしまった。最初はちょっとぎくしゃくしていたけど、アルコールが回ると昔のまんまの口調が出てきて、卒業以来初めて会った不良男の話 「えっ OO君 よく生きていられたねえ」 最近離婚した女性の 「自営業だったんだけど私がつぶして向こうの家出てきたんだ。子供も向こう、今自分の親の面倒見ながら夜の仕事してる」と タバコを片手にけだるく語る近況。まさに人生色々・・・

私的の昨日のハイライトは 初恋の男が来た事だった(笑)
中学二年で同じクラスになったK。スポーツ万能でハンサムで、ある競技のポイントゲッター その頃のKは輝いていたもんだった。彼と何故かほんの短い一時公認となって 数回一緒に帰ったり(それがその当時の公認の仲 今の中学生に比べると可愛いもんである)対外試合に応援に来てと言われて応援に行き、誰よりも点をとる彼の姿に心ときめかせ、試合に勝った瞬間、Kが私の方を向いて手をふって「勝ったよ」と言われた時の嬉しさと誇らしさはまだ記憶に残っているから私も結構好きだったのであろう。その後大学時代につきあったラガーマンの試合や、夫のサッカーの試合にも何度も行ったが、あれほど心ときめかせて観戦したことはなかったと思う(夫よすみませぬ しかし私も自分はしないクセに団体スポーツする男が好きだったわけねと今認識)
だけど、中学時代って本当にもろくて感じやすい時代、中2であんなにキラキラしていたKは家の事情その他で結構すさんでいった。結局進学でつまずいて、それをずっと引きずり、ちゃんと大学も出て安定した職にもついたのに、コンプレックスを前面に出して 昔の同級生にあうと「みなさん立派ですから」とか自分を卑下してしらけさせたりと言う噂も聞いた。私は実は高校時代しっかり彼に最終通告でふられていたのだったけど。それも「住む世界が違うから」と言うなんともいや~な言い方でふられたわけだった。

その彼が来るという。Aと「よく来る気になったねえ」とも話し、受付をしていたのだが、開始時刻から30分たっても彼は来ない。彼を誘った男Sが電話したところ、「やっぱり気が乗らなくて」と言っているらしい。「近くだからいいじゃないか お前の分も用意してあるし、みんなも待っているから来いよ。すぐ近くじゃないかよ」と説得する人の良いS。
その電話を傍らで聞きながら、まったく子供じゃあるまいし、一度参加表明をしたのにそれかよ と 私はかなりかなり呆れてしまっていた。

そして さらに20分ほどたって現れたK。卒業以来の再会だった。

              以下続く
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今年の牡丹

2007-04-22 16:55:10 | 記憶の箱
実家から自宅に戻った。
おととい急に気分が悪くなり、血圧も急上昇して知り合いの病院に駆け込んだ母だったが 昨日の朝一で MRI 心電図 血液検査などをしていただき すぐに結果も出てその段階では脳内も 心臓も 生化学的にも何も異常がないことが判明 ここ一週間で動きすぎによる疲れが出たのじゃないかという結論に達した。
おとといの夜間に飛び込んで 次の日の午前中 そこまでの検査と診断をしてもらえてひとまず安心できたのはよかったし、一晩安定剤を飲んでしっかり寝たらだいぶ母も調子が戻ったようだったけど・・・

一週間様子を見て、またいくつかの検査をすることになったが、母に「何か忙しいことしたの?」と尋ねて判明したこと。
父や自分の友人たちの何組かを招いて 牡丹を見る会を催したらしい。

確かに実家の庭の牡丹は綺麗だ。

 

犬も喜び庭駆け回っておりまする




父の仕事の関係のご夫婦、自分の仕舞や謡のおけいこの友達オババ その方々を招いて お弁当をとってお昼を一緒に食べたり、和菓子とお茶を出しておしゃべりしたりと忙しい社交の一週間を過ごしていたらしい。その上私も行って遅くまでしゃべったり買い物をしたりしていたから、気づかないうちにかなり無理をしてしまっていたのだろう。

ちなみに家の中も牡丹でしつらえてあった

客間の床の間の掛け軸も牡丹



玄関の違い棚の花あしらいも牡丹



なぜ、こんなことを細々アップしたかと言えば、今回のことで私はやっぱり危機感を覚えたからだ。こういう風景、こういうしつらえ。私は東京に嫁に来て、かなりコンパクトで気軽な暮らしをしている一方、ふるさとの育った家には 大事にしておきたい自分の原点となっている風景を保持している。それはとてもいい所取りであること、このような状況がいつまでもあるとは限らないことというのが、今回の母のことで現実に突きつけられたこと、それが危機感である。
いつまでも変化しないで欲しいと思っても、人も物も変わってしまうのが世の常だと思う。こういう庭と家のしつらえを もう年取った父母だけにまかせて 自分の都合のいいときにだけそれを味わいにくるというのが もうそろそろ限界かもしれない。残しておきたいのなら私自らが残せる努力をしなければならないのだろう。
ただ、60年の時を経た日本家屋と手入れを必要とする庭を今後維持する力を私と弟で持っているかはとっても不安。私には地理的な条件もあるし。二人の配偶者の意見もあるから私達兄弟だけでは決められないとも思う。
それに、まだ元気でいる両親があって、病気になったらとか ましてや 亡くなった後の事とかできれば考えたくないし、そういった仮定のもとで彼らの前で話をすすめるのもなんとなく控えてしまって 後回し後回しにしてしまう。

だから 今年の牡丹は今年の牡丹で私の中で大事にしておきたい。両親ができるだけ元気で、ここがいつまでも変わらず私を迎えてくれることを願いながら。
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ピアスの理由

2007-03-29 23:07:21 | 記憶の箱
娘が耳にピアスの穴を開けたくてしょうがないらしい。
もう大学生なんだから開けるのならどうぞご勝手にとは思う。
イヤリングよりデザインは豊富だし、長くしていても痛くならないし、落とすことも少ないし。
ただ、娘の高校までの友達の間で 御用達の皮膚科医があるからそこに行くとか 親しい友達と一緒にいくとか ぐずぐずしているうちに春休みも終わってしまいそうである。
開けるのならさっさとあけてくればいいのに。

と言っても私もピアスをしたのは割りに最近だ。
8年くらい前だろうか?娘の小学校の保護者会に行く朝のことだった。
小さくなった制服を学校に寄付するために大きな紙袋とハンドバッグを両手にかかえて初夏の季節、あるターミナル駅の改札にさしかかった時のこと・・・
片方の耳からイヤリングが落ちた気配がした。あわててつかもうとしたけれど荷物があるのでつかめなかった。その日は夫の伯母さんからもらった十八金にダイヤがついた一張羅のイヤリングだったのに~~~
改札付近は朝のラッシュの終わりかけの人の群れ。その群れが途切れるのを待ってあわてて私は駅の構内をうろうろ探した。
コンタクトですか?と何人かに声をかけられたけど いえ大丈夫ですと内心あせりながら答えたけど見つからない。そのうち次の電車がホームに入ってきて大勢の人が駅に吐き出される。保護者会の時間もせまっている。
涙を呑んで諦めて学校に行った。
女って(私ってか)気に入りのものを無くすと本当に落ち込むのよね。
夏休みの注意なんてお話も殆ど上の空。片方の耳だけについているイヤリングが寂しかった。

それでですね。つまんない落ちですが、家に着いて普段着に着替えたら出てきたのよね片方が。結構襟ぐりの広いスーツを着ていた関係で落ちていたわけです 服の内側に。
諦めていたイヤリングの片方に思いがけずに再会して小躍りした私(アホ)
そしてその夏さっそくピアスにしたわけです。今回と同じ轍を踏まないようにと。

ピアス初心者のうちはおっかなびっくりでつけるのも時間がかかったり、金かプラチナ以外だとかぶれたりしたけど、今は落ち着いてどんな素材のでもOKになった。(もうすぐ誕生日だな 意味なくつぶやいてみる)

耳元で光ったり揺れたりする物を身に付けるって簡単だけど女度が上がると思います。

娘もこれからどんなピアスライフを送るんだろうか?またアヴァンギャルドなものを見つけてくるんだろうなあ・・・
垣間見るのがちょっと楽しみに思う。

写真は最近遊びで買った左右デザイン違いのもの。
これをしてたら友人に 「ピアス壊れてるよ!」と言われてちょっと凹んだ。
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さくらの記憶

2007-03-28 21:27:19 | 記憶の箱
桜が開花した。日当たりによって咲き加減が違うけど 三分咲きから七分咲きくらいと言うところだろうか?今週末は色々なところでお花見が繰り広げられるだろう。

桜の花を意識したのは小学校の入学の頃だと思う。
両親に連れられての入学式で 「桜が咲いているわね」と母が言ったのに 私は一向にそれが綺麗だと思わなかったのをよく覚えている。
なんだか灰色がかって一つ一つの花も小さくて地味な花だと思った。
今思うと、咲き始めか咲き終わりかの頃で花の数が少なかったのではないだろうか? 
その翌年、小学校の桜が満開になったときの木を見上げて 「なんて綺麗な木だろう」と思ったことが記憶にあるから。
他の少女たちもそうしたように、花びらを集めてままごとの道具にしたり、糸でつづってほんのつかの間の首飾りにしたりして遊んだ。

成長してからも、春の記憶は桜に彩られている。色々なところで見た桜。特に私は柳の芽吹きの若々しい緑と一緒に桜を見られる風景が一番好き。春生まれだから余計桜の季節は印象深いのだろうか?

こんな風にたいてい桜の記憶は穏やかな記憶に満ちたものだったけど・・・

もう 6年になるだろうか、甘やかばかりだったものに辛いエッセンスを加えた出来事から。

去年、夏の思い出と題してブログに書いた 友人一家の話。家の子供たちと同級生で家族ぐるみでお付き合いをしていたお宅のご主人が亡くなったのは 4月2日だった。
肺がんが見つかってから一年もたたないうちに、見る見る衰えて亡くなってしまった彼の最後。
数回の手術も功を奏さずに、大学病院から出され、彼の意に沿わない病院に入れられた時は本当に本人も家族も辛そうだった。
脳に転移して、もうなすすべがないと言われてから 彼の奥さんである私の親友は彼をホスピスに入れるために奔走した。
運よく、近くのホスピスに入れたのが3月の初旬。私も何回かお見舞いに行ったけど、それまでの病院での険しい表情がウソのように彼の顔は穏やかになっていた。

「局ちゃん。今までに比べてここは天国だよ」と彼は言った。医師も看護士も優しく穏やか。今までダメとだけ言われてきたことも、なるべくかなえてくれる方向で聞いてくれる。ペットセラピーも取り入れられていて、彼が大好きだった大型犬とも触れ合える。「外でさ、タバコも吸えるんだよ」と嬉しそうに笑った。
さすがに病院内じゃダメだけど、車椅子で外に連れていってもらって日に少しだけなら吸わせてもらえていたらしい。
「よかったねえ。いい病院に入れて。Hちゃん(奥さん)のおかげだよね」と私が言ったら照れくさそうに笑っていたっけ。

その年は記録的に桜の開花が早く、三月の二十日すぎくらいから開花宣言が出されていた。そして、その病院の中庭にも大きな桜の木が植えられ、彼の病室の窓の真正面に窓いっぱいに咲き誇る光景が展開された。
ただ、その頃には、彼の意識は薄れ、一日中起きているのだか眠っているのだかわからないようになっていった。私が行くと
「ほら パパ 局ちゃん来てくれたよ」奥さんに言われ、その時だけはうっすらと目を開ける彼。闘病中に髪は真っ白になり、中高だった顔はげっそりして高い鼻がよけい目立っていた。(この人はまもなく逝ってしまうんだろうな)と内心思った。
亡くなった人の事は悪く言いたくないけど、昔ながらの俺様亭主。おとなしくてしっかりした奥さんと素直な子供を従えて、明治男みたいに家族に家長として君臨していた彼。好き勝手やって、こんなに若くて綺麗な奥さんとまだ中学と高校の子供を残して(ついでに借金も残して)一人で行っちゃうわけ?と内心なじりたかった。
「見えてるのかわからないけどね、桜の方を向きたがるのよ。」私の友人がポツンと言った。
その時が生きている彼を見た最後だった。

4月2日の早朝に彼は逝った。葬儀をしたお寺の入り口には大きな桜が植えられ、開花が早かったのでもう桜吹雪が舞い踊っていた。
参列の人たちも思わず目をとめてその見事な舞いを愛でる。それはダンディだった彼の最後の演出みたいだった。
それから げっそりやつれた奥さんと中学と高校の制服を着た子供たちを見て現実に帰り、これからどうするんだろう と参列した誰もが思っただろう。

今年、浪人していた彼女の下の子が志望の大学に合格した。
私立の理系だからお金もかなりかかるけど、奨学金をもらいながらがんばると息子も言っていた。あと数年は大変だけど、優しい彼はきっと彼女の助けになると思う。

こうしてあの春以来、桜をみると、あのホスピスの記憶、葬儀の記憶が蘇ってしまう。

年取るってことは思い出も色々な色に染められてしまうんだなとつくづく思う。いいのか悪いのかはわからないけれど・・・



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テキ屋との戦い 最終章

2007-02-07 18:44:39 | 記憶の箱
vol.1から読んでくださいね。

さて、O大が喧嘩して怪我させられたかもしれない相手のMが女の子だと言う事を私が指摘したとたん Oの父ちゃんの顔色が変わった。
「O大、それじゃ お前 女と喧嘩して泣かされたんか?」
O大は 脅えたように 父親を見つめたが やはりちゃんと答えないで もじもじしたあげくに
「う~~ん そうだったかもしれない」と答えた。
「そうだったかもしれないって はっきりしろO大!」怒る父ちゃん。
O大は何故かにやにやして家の息子を見つめている。私ははっきり言ってそのやりとりに相当うんざりした。ここで勝ち誇って お宅の息子がウソ言ったんじゃないの!って追求するのもあほらしくなった。もう殆ど明らかなんだから・・・

その後呆れたことに Oのオヤジは謝らなかった。
「それじゃ 家のO大が 女に泣かされる情け無いやつだったってことだな」と捨て台詞を言って席を立ってしまったのだ。
残された私達とOの母子は なんとも居心地が悪かったが、さすがに悟った様子でOのお母さんは
「あの なんだか家の息子が間違ってたみたいで すみませんね」と謝ってくれた。

やっぱりその時は、息子への誤解が解けたことで安心したことが先に立ったし、非日常の世界におかれてかなり緊張していたので、これで 一仕事終わって帰れるということにほっとして嬉しかった。

だけど 家に帰ってその日の出来事を思い出すにつけ 猛然とムカついてきた。

子供がウソをついたこと、それを100%信じてよく確認しないで電話してきたことはまあよしとしよう。ああいう状況では子供もごまかしたくなるだろうし、父ちゃんとしても自分の子供を信じたいのが親心だろうし、それは私も理解できる。
私が後になって一番腹が立ったのは、
「家の商売がテキ屋だから 家の息子がいじめられる(ってことは局家の息子がそういう前提の元でいじめた)」と言う思い込みである。
もちろん私は息子にそんな事を吹き込んだ覚えはないし、そんな了見の狭い教育をしてきたつもりもない。

だいたい 法律を守ってちゃんと営業してるならテキ屋はテキ屋でいいではないか。
商売がうまいから、普通のサラリーマンじゃ買えないような価格の家を買って、家族を養い、部下だか手下だか若いものも雇えるんだから立派なもんじゃないか。
何で自分がやってる仕事を卑下する必要があるのか・・・

青雲高校の入試の面接時、「家の父ちゃんは日本一の日雇い人夫です」って飛雄馬に言わしめた星一徹のように誇りを持てば何の職業だろうといいじゃないのさ。

それに「女に泣かされた=情けない」って言う決め付け。小学校の中学年なんて女の子のほうが強いしでかいんだって。まったくアホなマッチョは困ったもんだ。

それに何より 人の土曜の夜を台無しにしておいて潔く謝れっちゅうに。



まあ そんなこんなで 結構怒りは尾を引いてしまった。夫に話したら まず
「お前さ、今度そういうことあったら一人で行くな」って言われたし。

その後、Oの父ちゃんとはその家の前を通るとよく顔を合わせた。若い者がトラックで荷物を搬入したりする時 指揮をしていたりするのに出くわすことが多かった。一応会釈をすると向こうも会釈を返すくらいの間柄にはなっていたんだけど。

その次の年の夏祭り。家の息子が学校の友達と近くの神社の縁日に行った時の事。
「ママ(当時はそう呼ばれていた)今日さ Oの父ちゃんが 焼きそば売っててさ。俺が前通ったら 焼きそばタダでくれたよ」 と 言った。

やっぱりどこかで借りを作ったなと思っていたのであろう。
焼きそばくらいですますなよ とも内心思ったが,同時に結構おかしかった。
「へ~ よかったわね」と答えておいた。

その後 O大は地元の中学にすすみ、高校は定時制にすすんだそうだ。
高校をやめてしまったって噂も聞いたし、まっ金髪でなんだかすさんだ目つきで自転車をこいでる姿も何度か見かけた。
忘れられない経験をさせてくれたO親子だけど、今は恨みもムカつきも何もない。父ちゃんの後をついで立派なテキ屋になっていて欲しいもんである。
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テキ屋との戦い vol.2

2007-02-06 23:19:06 | 記憶の箱
で、 それからである。
O大のオヤジは私達親子の前に座り、息子も呼ばれた。初めてO大に相対したが、身体は大きいけどちょっとおどおどして父ちゃんをうかがう感じの子供だった。お母さんは私達の脇に座った。
「夜分遅くお訪ねいたしまして失礼いたしました。今日は主人があいにくおりませんが 私がうけたまわりますので」と私は言った。これはせっかくの土曜の夜遅く電話かけてきて呼び出したことに対しての嫌味のつもりだったけど 通じなかった模様。
そして O大の怪我を見せてもらった。耳の後ろに 2,3本のみみずばれとちょっと血が出た後のかさぶた様の怪我だった。確かに痛そうだが、そう大したこともなかったのでとりあえず安心はした。
すると オヤジが
「家の商売の事で、O大がいじめられて、こうやって怪我させられるんじゃ O大がかわいそうでな。それでこうやってお宅に来てもらったわけだが」といきなりかましてきた。
その最初から家の息子って決め付けていることにも腹がたったが むかつくと口が回るのよね(笑)
「お宅が何のご商売をなさってらっしゃるかは存じませんでしたし、(察しはついてたけどさ)私共はそういった事でお友達に対して仲良くするなとか申したことはございません。(これホント、男の子ってそういうの気にしないし、自然に仲良くなる子って親の価値観も似てるから、息子の交友関係に口はさんだことなかった)それにO大くんのお怪我の事ですが どのような状況でそうなったか きちんと確かめた上で こちらも××に対処させたいと思うので まずお互いの言い分を聞いたほうがよろしいのではないでしょうか」

「掃除の時にお宅の息子にやられたんだそうだ」
なぜかO大はソファの上で身体をぐにゃぐにゃさせ、その上家の息子にニコニコ笑いかけている。
そこで 家の息子が口を開いた。
「掃除って O お前と場所違うじゃん。俺 OO室だったぜ~ お前 O班だから教室じゃん」
「え~~と う~~~んと」と もじもじするO大。
「こんな痛そうな怪我したら どこで誰にやられたか覚えてるよね O大君。それに子供の言葉ですから、覚えがなくても何かの拍子でってことも考えられますよね。きちんと確かめたほうがいいと思いますけど」 と 私。
「そうだな、家の家業のせいで O大がこの先もいじめられたら 黙ってられないからな」 と オヤジ
「OO大がかわいそうだし、お友達もいないようだし」と お母さん。
だから~ 家業は関係ないだろ このクソおやじ! それに友達かどうかの問題じゃないんだってお母さんさあ と思っていたが O大はぐにゃぐにゃもじもじするだけである。

その時、息子が
「あっ お前さ 帰りの会の時 Mと喧嘩してたじゃん。髪の毛ひっぱられて泣いてただろ」と 口を挟んだ。
私はそのとたん激しく状況を理解した。
Mは その当時、クラスで一番背が高く頭も口も回るリーダー格の女の子だった。悪い子じゃなかったが、元気があまって 男の子も追っかけまわしてケリを入れるような女の子。家の息子も口げんかしたりはしていたらしいが。だいたいこの年代は女の子の方が身体も大きいし強いのである。
後日談だが Mはそのまま地元の中学、都立高校とすすみ、バスケットで活躍したそうだ。つい先日近所のファミレスで男の子とデートしている所を目撃したが、可愛くなっちゃって、男の子にケリを入れたり、家のそばで肉まんを食べながら 「中村やの肉まんってうまいよな」と 大声で言っていたことなど忘れたようだ(笑)

まっ とにかく 女の子に泣かされたって言うのがとうちゃんに言えず、通学路が一緒になるうちの息子の名前をとっさに出しちゃったというのが真相だと確信した。

「そんなことあったの? O大くん 覚えてるかな?」と私
「う~~ん そうだったかもしれない」と一層ぐにゃぐにゃするO大。
「O大 はっきりしろ ××君にやられたんか? M君か?」 と オヤジ

「あの~ Mさんは女の子なんですが・・・・」と 私はそこで口を挟んだ。

           以下続く 引っ張ってすみませぬ。

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テキ屋との戦い vol.1

2007-02-04 21:30:20 | 記憶の箱
昨日は節分。近くの神社が豆まきをするとかでにぎわっていた。
前を通りかかると、いくつか屋台が並び、その中に忘れもしない顔があった。
久しぶりにみたOの父ちゃんだった。

もう10年以上前になるだるうか?家も息子は近所の公立の小学校に進学していた。幼稚園も近所だったが、そこは小さいながらもしっかりした方針のキリスト教系の幼稚園で、バス無し、給食無し、延長保育無し、ついでに余計な早期知能教育も無しで 親の手はかかるけど、結構子供を丁寧に育てる親たちが集まっていて、そこで知り合った親子とも信頼できるし、気も合う友人に恵まれた。その仲間とは今でも親子で付き合いが続いている。
で、その延長にあると思って、地元の公立に進ませたわけだけど、これが結構問題の小学校だった。色んな子がいて、色んな親がいた。幼稚園は立地上とか、歴史とか考えると温室だったんだな~と 一年の初頭からイヤというほど思い知らされた。今思うと、まあ親子とも揉まれ、たくましくならざるを得なかったってことでよかったなとも思う(。ただ女の子にその轍は踏ませたくなかったので娘は私立に避難させたけど・・・)

で、息子も私も地元の小学校に慣れてきた、彼の3年生の秋のことである。
その夏、息子の通学路の途中に一軒の建売住宅が建った。まだバブルは弾けたとはいえ、今よりも住宅が高価だった時代、その8000万くらいの物件、どんな人が引越してくるんだろう?と思っていたのだけど。一階がガレージになっている所には何故かキッチンのような調度やガスボンベが何本も入っていた。それに たこ焼きとか焼きそばとかというのぼりも何本か。あまり広いとはいえない道にO興業と書かれたトラックも止まる様も見られるようになった。
「へ~ テキ屋さんか」と思った。テキ屋さんって結構お金があるって大学の授業でならったし(どんな授業だ)その時はなんとも思わなかった。
そうしてそこの家の長男(姉、弟の下の子)が息子のクラスに転校してきた。
その時も別になんとも思わなかった。

で、その秋の事、土曜日の夜だった。当時夫は今よりも忙しく、土日もなく職場に詰めている状態で家はかなりの母子家庭だった。その夜も夫はいなかったがもう10時過ぎ、子供たちは寝ていたし、私もお風呂から出て、そろそろ寝ようかなと思っていた時間だった。
電話がなった。
「Oの親だけど ××さんかい」と最初から居丈高な声のOのオヤジだった。
私は心当たりがなく、びっくりしたが、確か
「OO君のお父様ですか?はじめまして、なにかご用でしょうか?」と答えたと思う。
「ご主人はいるかい」とオヤジ
「主人は今日仕事で帰ってこないと思います。私がうけたまわりますが」と局
オヤジ 舌打ち
「お宅の息子がなあ 今日 家のO大に怪我をさせたんで そこんところ聞きたいと思って電話したんだけど、奥さんは知らないんか」
と最初から喧嘩越しのオヤジ。さすがにあせった私は寝ていた息子を起こしOのお父さんからO大君があなたから怪我をさせられたって言って電話してきているけど、覚えはあるか聞いた。息子は寝ぼけながらも ??状態 まるで覚えがないと言う。
身びいきで言うわけじゃないが、確かに彼はやんちゃで悪いこともしていたと思うが(苦笑)やったことをやらないと言い張るタイプじゃないし、どうせ検証すればわかるようなウソをつこうとするほどアホじゃなかったと思う。
様子を見て 多分これは誤解だなと私は確信した。
「申し訳ないんですが、うちの子は覚えがないと言っております。何か誤解があるのではないでしょうか?」と言ったら 烈火のごとく怒り出すオヤジ
「それじゃ あんたは家のO大がウソ言ったって言うんかい? お宅の息子がやったって家の息子は言ったんだよ」
私は頭に血が上りつつも極力レイセイであろうと努めた。
そして、水掛け論になりそうだったので、こちらから息子と二人で出向くことにした。

もう、寝る体勢だったが 本能的に私はしっかり化粧をして娘の学校用のお出かけスーツに着替えた。戦闘服のつもりだった。ここで女だと思って馬鹿にされちゃいけないぜ と言う身構えだったと思う。息子にも着替えさせ、当時小学校1年だった娘一人残して、Oの家に乗り込んだのである。
初めて訪れるOの家。チャイムを鳴らしたら、フィリピン系のお母さんがドアを開けてくれた。今まで挨拶はしたことはあるが話すのは初めてである。いつもはひかえめながらニコニコしている彼女の表情は硬かった。
玄関には タイマイの甲羅が飾られ、デコラティブな服を着せられた太ったチワワが出てきてワンワンほえた。
内心「すげ~ これがテキ屋の自宅か らしい!らしすぎる!」と思ったが 結構びびっていたことは否めない。
リビング兼応接間に通された。洋間だったが 床の間のようなところがあり、何かテキ屋関係の権利書(?)の入った賞状のようなものが飾られ、おまけに日本刀も飾られていた。(らしい、らしすぎる・・・・・)
そして 「あなた」とちょっとアクセントが違う日本語で呼ばれて二階から下りて来たOのオヤジ。私はその時オヤジとは初対面だったが、絵に書いたようなテキ屋であった。かなりきつめのパンチパーマ。はでなゴルフシャツ、おまけに袖口からは皮膚にお絵かきがのぞいているではないか・・・・

ひえ~~~~~
私は夫や実家の親にも告げず 単身(息子つきだが)乗り込んだことに後悔したわね。

          長くなったので明日続き書きます。
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柿にまつわる記憶

2006-11-11 21:01:19 | 記憶の箱
近所に お兄ちゃんのやっている小さな八百屋さんがある。スーパーよりも安いし新鮮なのでよく買いにいくんだけど。今日は 絶対おいしいから ちょっと高いけど持ってきな という柿を買ってみた。

和歌山のもので もともとは渋柿、木になったまま ビニール袋をかぶせて 渋抜きしたものだという。「中は真っ黒だけど 驚かないでね。それが元の渋だからね。ものすごく甘いよ~」 という彼の薦めとおり 二つに割ってみてびっくり。
でもむいてみたら ものすごく甘かった。



実家に大きな柿の木があった。渋柿の木に下の方に甘柿を接いだ木だったけど、私は渋柿の方が好きだった。とても大きいのがたくさんなった。祖父が柿が大好きで 家族の止めるのも聞かず、よくハシゴに乗って木の高いところまで収穫して、それをはらはらしながら下で見ていた幼いころの記憶がある。
隔年ごとにたくさんなって 一度に100個以上くらいとれる年もあった。そうなると廊下にシートを敷いて、祖母、母、お手伝いさんと女手総出で 干し柿を作ったものだった。私も小学校高学年くらいの時は 手伝った覚えがある。キレイに剥いた柿をへたのところで紐でしばって軒下に並べて吊るすと 急に自分の家が農家になったような光景が現れて面白かった。
自家製の干し柿は とても柔らかくて甘くておいしかったし、おやつに食べたり、白和えなど普段の料理に使ったり、お正月までとっておいて、ナマスに入れたりして長いこと楽しめた。
私は木に残って とろとろに熟した柿を冷凍にしてシャーベット様にして食べるのが好きだった(祖母に身体が冷えると怒られながら食べた)

今も実家に帰ると柿の木は健在だけど、昔ほどならなくなってしまったそうだ。
裏庭にあったいちじくも枯れてしまってちょっと寂しい(私の一番好きな果物なのに)
柿が大好きだった祖父も 口やかましかった祖母も あちらの世界に行ってしまった。私の生まれた頃から居たお手伝いさんも おととしくも膜下出血で命はとりとめたものの植物状態になって入院したままになってしまった。
見かけは変わらずにたたずんでいる柿の木が これからどんな風に変わる家の歴史を見ていくのかと思うと 感慨にふけってしまう。
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ある夏の日の思い出(後編)~うってかわって暗いかも

2006-08-24 11:17:05 | 記憶の箱
さて、アホをしながら金沢を満喫した後、局一家は友人一家4人と合流した。
子供たちの幼稚園が一緒でご近所だったこと、そこのママと気もあって家族ぐるみのお付き合いをしていた一家だ。アウトドア好きなご主人が金沢出身だった。キャンプ道具を積んでエスティマで来ていた。それに同乗して 福井の海岸のキャンプ場へ・・・

私にとってキャンプ場って言うのは初めての経験だった。友人夫が手際よく二つのテントを張って行くのを感心しながら眺めて、(夫も私も役立たずだったと記憶している)金沢で仕入れた食材の下準備をした。バーベキューと焼きそばというキャンプの定番みたいな食事をして、大人がビールを飲んでいる傍ら、子供たちは花火をしたり、ゲームをしたりで楽しそうだった。
楽しかったが、隣の学生たちがうるさいのと、下の地面の凹凸が気になったりで私は殆ど一睡もできなかった。夫も眠れなかったようだ。その後アウトドアとかキャンプとかまるっきり言い出さないのでほっとしている。彼は虫嫌いで、モノグサで、所詮都会っ子ってことだろう。
友人夫の頼もしい働きぶりや、パパの命令に従ってきびきび動きまわる子供たち、よくしつけたもんだわね~ と 友人に言ったものだった。


そして、友人一家(H家)と我が家ともこういう交流がずっと続き、お互いの子供たちの成長もずっと見られると思っていたのだ・・・

その翌年、H家のご主人の会社が倒産した。バブルの弾けた後もがんばっていたらしいがそれが裏目に出た形でかなり負債も背負ってしまった。
専業主婦だった友人はパートに出て、ご主人は色々な職を掛け持ちして朝から夜中まで不規則に働いていた。
子供達には今まで通りのことをさせたいとかなり無理していた と 後で友人から聞かされた。
そして、上の女の子が高校に入ったばかりの年、ご主人の肺がんがわかった。若かったから進行が早く、脳に転移してしまい、半年後に亡くなった。友人は若い未亡人になった。パート先から 正社員にならないかと言われ 言われるままに正社員になった。そして残業代も出ないで一日12時間くらい働き続けている。
上の女の子は、高校時代はずっとママを助けて家事をしていた。とても美少女に育った彼女が遊びにも行かずに家にいるので 私は「Mちゃんそんなに可愛いのにボーイフレンドいないの?」と からかったもんだった。ところが大学に入ってバイト先の一回り年上のカフェの店長と仲良くなったあげく、彼女は家を捨てた。外泊が多くなり、連絡をとりたがる友人に一切の連絡をしなくなった。友人は反対しているわけではなく、きっちりけじめをつけて大学も卒業して欲しいだけなのに。ごくたまに連絡がとれても はい、とごめんなさい としか言わないらしい・・・
大学も行っていないようだ。
友人は浪人中の下の男の子と二人暮らしをしている。今の生きがいはその子だけだけど、あまりそればっかりだとまた上の子の二の舞になるから怖いと友人は言う。

今思うと、亡くなったHさんは昔ながらの家長だった。完全に家庭を統率し、自分が法律、自分の価値観が絶対だった。それに従っていた友人と子供たち。上の女の子はものすごくパパっ子だった。客観視すれば今回も自分を導いてくれるパパを外に求めてしまっただけだと思う。
私は、その間彼女(ママ)とずっと付き合いを続けてきた。
そして、悲しいけれど、家族って言うものが 決して磐石ではないこと、何かのきっかけでもろく崩れていくってことを学ばせてもらった。
自分も親から離れて別に一家を構えているわけだけど、子供が離れていった両親の気持ちを初めて (淋しかったのかもな) と しみじみ思いやるきっかけになったし、子供たちは自分から離れていくものだという覚悟もできたような気がする。

先週も、ビール持込で彼女の家で飲んだ。
大変な思いをしてさすがにやつれたけど、夫が昔「幼稚園のママの中で一番光り輝いてる(笑)」と言った美貌は健在だし、苦労してるのに人への思いやりは忘れないし、相変わらず良い人だ。
おせっかいにも浪人生に 「がんばりなさいよ」と声をかけて、毎日の激務で疲れた~と嘆く彼女に そんなに仕事ばっかりやって雇い主の思うツボになってどーすんのよ?といつも通り言ってしまった(だって本当に搾取されてるんだもの)
また「誰か男でも作れ、あーたならまだイケル」と言ってしまって 遺影と目があって少しあせった。

あの夏の写真、家の子供達は自由研究のネタにしたのでたくさん撮ってアルバムに張ってある。しかし、そのキャンプの写真は見たくない。Hさんを恨んでしまいそうだから。



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ある夏の日の思い出(前編)

2006-08-22 20:00:11 | 記憶の箱
昨日の夕方 10日ぶりにジムに行ってステップのレッスンを一時間受け、下半身バリバリ筋肉痛の局です。(次の日に筋肉痛が出るってまだ若いのね) と 自己満足でうれしがってる自分がアホ可愛いわ。

今日は、思い出すと懐かしい夏休みの思い出を書きたいと思う。
書いておかないとだんだん薄れていってしまうから。

子供たちが、まだ小学校の中低学年くらいだったから10年ちょっと前のことになるだろうか?
その夏、我が家の夏の家族旅行は 電車で、地図を持って、なるべく色々な所を体験しよう というコンセプトで(だいたいこういう落ち着きの無い旅行を提案するのは夫)5,6泊くらい各地を泊まり歩いた。 まず東京から北へ、群馬の水上で一泊、その後新潟に新幹線で出て、在来線の特急で金沢に出て一泊、その後福井で友人家族と合流して海辺のキャンプに一泊、それから 三重に出て 志摩の民宿で二泊、それから名古屋に出て新幹線で帰る と言うような道筋だったような気がする。
こうやって振り返ると 私も若かったけど、家の子供たちも体力はあったんだなあと思う。お金もなくてロクな宿にも泊れなかったけど、それはそれで楽しかった。

金沢でのことである。初めての駅に降り立ち地図を見ながら夫は言った。「見所は町の中心だし、そんなに広い町じゃないから自転車借りて一日回ろうよ」
お盆前後の一番暑い頃である。今だったら 「冗談じゃないわよ 一人で行ってね」と冷たく言うところだろうが しつこいようだが私も若かった。「いいよ」と言って ついでに娘も後ろに乗せて一日金沢の街中を走り回ったのだから。

忍者寺や昔の廓街、加賀友禅の工房などを見た後、また駅前のホテルを目指して帰り道での出来事だった。

静かな住宅街のあまり車の通りのない道、日本家屋がならんだ中、よしずが涼しげに家の前を覆い 静かなたたずまいの一軒の家を通りかかった時である。
その家から 小学校くらいの男の子の声が聞こえてきた。

「ばあちゃん シャワー浴びてもよか?」

お盆休みで父親か母親の里に連れられてきたのだろう。九州弁であった。家の窓は開け放してあったのだろう。はっきりと聞こえた。
私は、一日の肉体的な疲れは感じながらも心は結構高揚していたのかもしれない。
そして 何故か 大声で その子に答えてしまった。

「よかよ~~」

そして、後ろも見ずにダッシュで自転車を漕いだ。
あきれ果てた後に ゲラゲラ笑いながら私の後に自転車でついてきた夫。
今でも 「お前って時々何しだすかわからねえな」 という根拠になる出来事であった。

その後はどうなったのだろうか? シャワーを浴びたかった孫は天の声に従ってシャワーを浴びたのだろうか・・・・? 
ばあちゃんに 「お前、勝手にシャワー浴びちゃいけないよ」 などと叱られなかった事を祈りたい。

                以下 続く









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私と針仕事

2006-07-18 22:35:28 | 記憶の箱
昨日のトール作品をほめられちゃったので気をよくしつつも、カミングアウトすると私は
針仕事が死ぬほど嫌いだ 
前にも書いたけど、幼少時すごい潔癖症&心配性の祖母に 針を誤って踏んで折れたら血管の中をめぐって心臓に入ったら死ぬ(笑)とか いい加減な迷信を散々吹き込まれたせいだと思う(責任転嫁)
本当に一種の神経症だと思う。先端恐怖とか。
注射も刺されるところを見ることができないし、お産の時、点滴されて針がなかなか刺さらなくて何度も刺しなおされた時失神した。韓国ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」 もチャングムがスラッカン(王様の厨房)にいるうちはよかったが医女になってから見られなくなってしまった。(だって針治療の場面が出てくるんだもん)

今までの人生、針仕事だけはすり抜けてきた。家庭科の時間は作っているふりをして家に持って帰り洋裁和裁も得意な母にやってもらった。娘が小学校入学の時、学校指定のかばん(サイズ違いで6個 怒)防災頭巾などは手芸の得意な女友達を拝み倒して作ってもらった。だいたい嫁に来る時に 母が 「ミシンも買わなくちゃね」 と言ったのに対して 「そんなの 誰が使うのよ?」と言って却下して嘆かせたものだった。その時せめて「繕い物くらいしなさいよ」 と 揃えてくれた「みすや針セット」は今でも新品である(自慢にもならんけど)

ただ、娘が小学校の時の体育祭でダンスの主役をした時(スイミーという魚たちの話をダンスにしたもので娘が赤い魚の中で一匹だけ黒い魚になった)黒いTシャツに半ズボンが衣装で簡単♪と思っていたところ 体育の先生から(その小学校に棲みついている妖怪みたいなオババ)から 体育祭の前の日にスパンコールを二袋渡されて「もうちょっと衣装が目立ったほうがいいでしょう。お母様につけてもらってね」と言われて帰ってきた時には 本当に倒れそうになった。その夜は徹夜でスパンコールをつけましたよ、慣れないと本当に下手くそでスパンコールと一緒に裏の生地まで縫い付けて半分泣きながらやり直してさ。当日、娘の晴れ姿を見られたのは嬉しかったけど徹夜のおかげで目の下真っ黒で五月の太陽が応えたもんだった(遠い目)
後、着物を着ると半襟を付けるとか、細々とした針仕事はどうしても避けられないものだが、マジックテープ半襟とかファスナーで留めるとか手抜きグッズを探せば色々あるもんである。どうしても の時は3cmくらいの針目でざくざく縫いはするけど。

そんなこんなで、家族はいかに私が針仕事にストレスを感じるのかよ~くわかっている。娘はどうしたわけか 洋裁大好きになり 中学になったらミシンをねだられた(買ってもらっておけばよかった)ダンス部に入って衣装も全部縫ったし(ビクトリア調の貴婦人の衣装まで縫った)アナスイ風の帽子を作ったり、市販のものにちょこっと手を入れたり、ワンピースやスカートくらいはすぐに作ってしまう。
写真はこの前作っていたスカートだが、表は変哲のない巻きスカートで裏に切り替えやダーツがだくさんはいり、おまけにに柔らかい布でたくさんフリルがついていて、歩いた時にその裏のフリフリがのぞく可愛いものである。
「上手ねえ」 ってほめたら 「しょうがないでしょ ママが頼りにならないのわかってるからさ、自分で作るしかないって中等科の時決心した」 だそうだ(苦笑)勉強はイマイチ、成績は色物しかよくないけど、とりあえず、偉いぞ。

息子も、この前 アロハのボタンが一つとれたといって ボタンのストックから同じのを五個みつけて総取替えしてボタンつけをしていた。私だったら一つくらい目をつぶって似たようなのでごまかすであろう。結構こだわってるわ。やっぱり 偉いぞ。

まあ、こうやって母親が何もしてあげない分野で思わぬ教育効果を生んだ例であろう(自画自賛)

後は夫が針仕事に目覚めてくれれば、針仕事から逃れられるのになあ。手先器用だしやればできそうなんだけど・・・
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怪談 猫屋敷

2006-06-01 09:43:22 | 記憶の箱
昨日 電車の中で声をかけられた。以前住んでいたマンションでお隣さんだった奥さんだった。
駅の反対側に引っ越した我が家だが、不思議に前の住人とはすれ違うこともなく、とても久しぶりであった。

そのマンションは12世帯のこぢんまりとしたもので、1階には専用の庭があり、緑も多くて住みやすかった。幼かった家の子たちもその庭で よく遊んだものだった。
ただ、時々増水する川のほとりだったので 盛り土をした上で マンションにはめずらしく縁の下があった。そこに使わない時のビーチチェアとかガーデニングの道具とか入れておいた。
で、当時、娘が大事にしていた猫のぬいぐるみがあった。誰かにいただいたか、買ってあげたかは忘れたが、茶色のトラ猫で電池が入っていて抱き上げるとミャーと可愛い声を出すものだった。
ある日の事、たんすの上のその縫いぐるみが 何も動かさないのに 朝から鳴くのである。今までそんなことなかったのにと思いながらも その日は一日 忘れた頃に夜まで鳴き続けた。
そして次の日の朝、晴れたので庭に出てみると ハエがやけに飛んでいる。おかしいな と思ってあちこちのぞいてみると ちょうど家の真下の縁の下に大きなトラ猫が死んでいたのである。
が~~ん!! 自分じゃどうにもならないので 保健所に相談して引き取ってもらえた。落ち着いたら昨日から鳴いていた猫のぬいぐるみの事を思い出してぞっとしてしまった。動かさなくても鳴いた日は その前の日一日だけ。死んだ猫を発見して処分してもらった後 ぬいぐるみは一度も静止した状態では鳴く事はなかった。
その後まもなく、縁があって今の家に引っ越した際に 何だか気味が悪くてそれも捨ててしまったような気がする。

そして、昨日の話に戻るが、私達の後に引越して来たのはまだ幼い3人の子供をもつ夫婦だった。同じ大家の持つアパートに住んでいたので顔見知りだった。手狭だから引越ししてきたらしい。よく道など掃除していた、東北出身らしい物静かできれいな人だった。その人は引っ越してきて 2年あまりで 乳がんで亡くなったらしい。
残されたご主人は三人の子供を連れて自分の実家 やはり東北に帰ったそうだ。
次に引っ越してきたのは、川の向こう側に住んでいた一家だった。一人っ子の男の子が家の息子と同い年で 同じ地域のサッカーチームに所属していたので やはり知人だった。感じのよいご夫婦で子供もしっかりした子だったのを覚えている。
そちらのご主人が やはり住んで2年目くらいに出張先で突然亡くなったらしい。
連絡がとれないので会社から家に電話があって 出張先のホテルの部屋で亡くなっているのが発見されたという話であった。
「局さん家は ご主人もお子さんもお元気なの? なんだか 続けざまにあの部屋には不幸があるから 気になっちゃって」と元隣人は言っていたが、彼女もその隣にずっと住み続けているのはいい度胸である。
例の猫の話は あんまり気持ちのいい話題じゃなかったので そのマンションの住人にはしなかった気がする。

あの鳴き声は偶然だったのだろうか? 今でもハエにたかられて軽く口を開けて死んでいた猫の姿が脳裏によみがえってぞっとすることがある。





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うぐいす嬢

2006-05-21 11:35:52 | 記憶の箱
大学時代のバイトの中で、思い出深いアルバイトは なんと言っても うぐいす嬢の経験である。
友人のお父様からの依頼で、某区議会議員選挙のお手伝いをすることになった。もちろん初めての経験で、できるかどうかの不安もあったが、「とにかく選挙カーに乗って 名前を連呼して手をふって愛想ふりまきゃいいのよ」という 友人のいいかげんな誘いにのり 引き受けてしまった。候補者は開業医の先生であり、報酬も魅力的だったこともあった。

朝、7時半ころに選挙事務所について なぜかおそろいのポロシャツとテニスのスコートみたいなミニスカートに着替えさせられ、白い手袋をはめて 車に乗り込む。あとは一日中候補者の名前と簡単な政策を連呼し、他の候補者とすれ違う時は 「××先生がんばって下さい」 と エールを送り、応援してくれているらしい医院の前をとおれば 「OOがまいりました。△△区医師会のために尽力いたします」 と 声をかけ、、、最初は恥ずかしかったけど 慣れるにつれてだんだん乗ってくる。「福祉と医療の専門家」 だけじゃなくて アドリブも入っていい加減な公約まがいを作っちゃったりする。選挙戦も後半になると 手の振り方も堂に入ってくる。普段何の仕事をしてるかわからないけど 一日中事務所につめて、役にたつのかどうかは定かでない予想をたててる 選挙ゴロみたいなオヤジとの連帯感も生まれちゃったりする。
なんだかんだで 割りに燃えた10日あまりだったけど、予想外だったのは太ったことである。
なんたって 事務所についてすぐに出される朝食から始まって 10時のおやつ、昼食、三時のおやつ、夕食 その合間にものど飴をすすめられたり、差し入れのジュースを飲んだりで 働いてるって言っても 車に乗って声出してるだけだから、消費カロリーもしれていたに違いない。
幸い 某区の某党公認で一位で当選した日に 喜びに沸く事務所の中で ひそかにうぐいす嬢仲間で 増えた体重について嘆きあった思い出がある。

私の選挙のお手伝いは その時一度だけだったけど、その先生は、その後 何期か区議会議員を務められ引退されたようである。お元気でおられるのかな と 選挙の季節になると今でも思い出す。
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