局の道楽日記

食道楽、着道楽、読書道楽  etc
生活色々を楽しんで暮らしている日々の記録です

懐かしい光景

2009-08-29 21:54:56 | 記憶の箱
つい先ほど、近所の公立小学校でのイベントに行ってきた。



ペットボトルを廃物利用した灯篭が校庭へと続くエントランスに並べられている。
コンサートは芝生の校庭。
5,6年前から緑化された学校である。

校舎もゴーヤが絡んでいた。



近所の女流画家の友人と一緒に行ったのだけどコンサートの始まる前に二人で芝生にペタンと座り、申し合わせたようにビールを取り出したのには笑ってしまった。



草の匂いと川風に吹かれながら二人ともいい気持ちでビールを飲んでいたら
「アルコールの持ち込みはお断りします・・・」のアナウンスが・・・

ビール缶にハンカチを巻きつけてごまかす二人・・・ 

子供は走り回り、ぐずって泣き出す赤ちゃんもいるコンサート会場なんだからビールの一杯や二杯いいじゃないのさ。まったくお堅いね~ この辺の文化人ってさ などと思いつつ・・・

開催時間がせまるにつけ会場はうまり



あちこちから 「あらこんにちは」 「夏休みも終わりですねえ」 などとご近所、学校の父兄同士の挨拶の声が聞こえる。

ギターとフルート ソプラノ歌手によるコンサートが始まった。

今年で三年目になるそうだ。

 ←アヴェ・マリアの演奏

校庭に集まる人々 簡易なスクリーン 幼い時に近所の公園や小学校の校庭で夏の町内会イベントの映画会をふと思い出した。

ありあわせの布製のスクリーンに写る映像はいびつで 雨が降っているような映像 時々フィルムがとぎれてわけのわからない数字なんかが写ったりして。

それでも夜遅く外に出られる。普段と違う経験が結構楽しかった。

帰り道 家への坂道を登っていくにつれてあたりの温度が高くなって行くのを感じた。
やはり芝生や緑のカーテンっていうのの温暖化に抗する効果を実感した。
我が家には芝生を植えるほどの庭がないのが残念だけど。




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私もやってみた

2009-03-15 23:35:34 | 記憶の箱
ちまたで流行ってる初恋の人からの手紙ってサイトを試してみた。(⑦パパさんのところで見たので)
赤字は寸評

tsubone、ひさしぶり。
もうモテる女性を「下品な女」と罵るクセは治りましたか?毎日のように言っていたtsuboneをなつかしく思います。←ちょっと違うかな 美人でもてる同性の友人は好きです

喧嘩が増えてきて、tsuboneが「もっと大切にしてくれる人と付き合う」と言い捨てたあの日から、もう33年が経ったんだね。月日が流れるのは早いものです。

手紙を書いたのは、とくに用事があるわけではないんです。ただふと思い出して懐かしかったので、思いつくままに手紙に書こうと思って。ふふ。驚いたかな?

思い返してみると、いつも恋愛の主導権を握っているのはtsuboneのほうでしたね。ときどき告白されるtsuboneに対し、女子と接点すらほとんどないおれ。←これも違うな ライバルもいないような男には食指が動かんですがねtsuboneがいつも「私たちは束縛とかしない自由なカップルでいよう」と言っていたのは、おれにとって、ほとんど「いつでも別れるぞ」という脅迫のようなものでした(苦笑)。今でもその場面が夢に出てうなされます。

あ、そういえばtsuboneからしてみれば、おれは初恋の相手なのかな?付き合った当初はやけにtsuboneが不安げだったのをよく覚えています。「手はつないだほうがいいの?」「週に何回会えばいいの?」って、正直うるさい(笑)←結構マニュアルを気にするところもあるからそういう時代もあったかも

付き合い始めのころ、tsuboneは平気で「いつか結婚してあげてもいいよ」などと言っていましたね。あまりの強気(意地っぱり)に唖然としたけど、その気持ちは嬉しかったものです。今でもその話は有効なのでしょうか。←まず言わないだろうなあ 

恋愛を総括して言えば、きっとおれはtsuboneと付き合うことができてよかったのだと思います。いつもどこかにいってしまいそうなtsuboneと付き合って、最終的には自分との戦いだということを学びました。←まあ 愛は戦いっていうからね

いろいろ書いたけど、おれはtsuboneのことがそれでも好きでした。これからもtsuboneらしくいられるよう、それと、そろそろゴキブリを素手で殺すのはやめて(笑)、幸せをふりまいてください。←素手は無理だがスリッパなら殺せる

またいつか会いましょう。では。

P.S. tsuboneがくれた霊魂が宿るとかいう石、そろそろ捨てていいですか←スピリチュアルは嫌いだっちゅうに

【短評】
性格としては最も男性に愛されやすい。素直さがあり、甘えるのも得意。ただし相手によっては振り回され疲れる。←そうだねえ 基本的には素直 人により甘える
【あなたの恋愛事情を考察】
tsuboneさんは、最も「女性らしい女性」と言えるタイプに分類されます。男性との心の壁があまりなく、時と場合によって上手に人に頼ることもできます。悪く言えば主体性に欠けるのですが、周囲の人から愛されやすい人柄であると言えるでしょう。←女脳だね 方向オンチだし

ただ、好きな人に対して一心不乱すぎて、相手の一挙手一投足に影響を受けやすく疲れることはないでしょうか。甘えすぎて面倒くさがられたり、逆に「強くならねば」と思っても何か自分で無理しているところがあったりして、どうしていいのか分からなくなってはいないでしょうか。←もっと強くなれっておっしゃるの?

本当は強くなる必要などなく、むしろそのままのほうがずっと魅力的なのですが、方向性を間違えると「らしさ」を失ってしまう危うさを抱えています。

ここから言える、tsuboneさんにありそうな問題点を列挙します。

◆なぜか「人の気持ちを考えない男性」を引き寄せやすく、振り回されやすい。←そうでもない
◆自分の課題は「強くなりしっかりすること」だと誤解している。←課題だと思ってない
◆別れるたびに次の恋愛に恐怖し、強さを自分に求め、素直さを失っていく。←恋愛対象には素直だと思うけどな

まあ 色々考える人がいるんだね。こんなの作って何かメリットがあるのだろうか? ちょっと前も脳内分析だかが流行ってたけど同じ類よね。
あのくらいの設問ではそう精密な分析はできるわけないが、ちょっとした遊びと話のタネ(ブログのタネ)にはなるであろう。

で、ここからが本題(でもないか)

このサイトに触発されてですね、初恋の人を思い出したんですね。
初恋といっても中高の時の淡い想いではなくて大学の時 はっきり言えば夫と付き合いだす前まで三年間にわたりつきあってた人のことであります。
ちょっとばかり結婚も考えた時もあった。
偶然夫と同じ学部で、彼はお父さんの後を継いだはず。現在の住所もわかれば事業所名も見当がつく。
それで Yahooで調べてみたんでございます。
バッチリヒット、しっかりHPがあった 

一度お邪魔したことがあるそちらの施設、多分そう昔ではない頃に建てなおしたのだろう。ずいぶんキレイな建物が画面に現れた。事業展開や詳細も書かれていてた。かなりがんばってるしハードに仕事しているんだろうなってことがしのばれた。ボンだったのに発展させてるね、パパの仕事をって感じだった。
そして「ご挨拶」の場面をクリックしたら。O十年ぶりに彼の顔を見られてしまった 

ネットってすごいね。あちらはツユ知らずだろうけど こんなことまで見られてしまうんですねえ・・・(ある意味怖い)

当時 スリムで結構なイケ面(顔立ちからいうと桜O翔タイプ)だったのが 今は疲れた渡O徹 になっていたけど・・・

何はともあれ元気で活躍していそうなのが何より。私生活も幸せでありますように。




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ハロウィンよりは

2008-10-01 23:08:59 | 記憶の箱
買いたいものがあって LOFTに寄ったらハロウィーンのグッズの花盛りだった。



訪れた人に衣装を着せて記念撮影なんて行事もしていた。子供づれの若いママが嬉しそうに魔女の衣装や かぼちゃの冠をつけた子供を写してもらっていた。
私もコスプレは好きだが、この行事に関しては冷ややかである。
どうも ケルト人の民間伝承から起こったものがキリスト教と結びついて収穫を祈ったり魔除けの祭りとして定着したものらしいが、言ってしまえば異教の迷信からの行事が商魂と結びついて 無理やり日本の商店で騒いでいるものってだけじゃないかと思うからである。

ここ10年くらいじゃないだろうか ハロウィン ハロウィンって騒ぐようになったのは・・・
なぁにが trick or treatだよ、ああ気恥ずかしい。

昔のことだが、ちょうどこのくらいの季節、生糸、織物関係の商売をしていた私の実家ではえびす講ってものをしていた。
商売繁盛の神であるえびす様に対しての行事だったと思うけど、神棚を清めて大きな鯛のおかしらつき 刺身の大皿、色々な果物をお盆に山盛りし、釜いっぱいのお赤飯をたいて御膳に山盛りしたものなどを供えた。
そして 祖父が売り手となって 家族や会社の役員が お供えを下げたものを景気よく買うふりをする と言った行事だった。

かなり昔のことなので詳細は覚えていないが、家長の祖父がそろばん(祖父のは五つ玉だったw)をかざして 売り手と買い手がやりあい、何百万、何千万から何億なんて単位が出てきて 子供心にウチってこんなにお金があるのかなあなどと思っていたw。

その当時でさえ 家庭でこの行事をやっている家っていうのは周りで見られなかったし現在じゃ廃れてそうだなと思う。こんなこと行事を家庭でやっていた記憶がある方 あるいは今もやっている方っているのだろうか?

私の実家は古い商家特有の行事をかなり真面目にこなしていたように思う。
それで四季の移り変わりを感じたりしたものだった、そのたび普段の家事に加えてお赤飯をたいたり、客の御膳も整えたりした祖母や母は大変だっただろうなとも思う。
振り返ってみれば私は全然そういう準備にはかかわらなかったが、実家のお赤飯も鯛の潮汁もおいしかったな~と懐かしい。

で、ハロウィンなんかやるより、どうせ 民間伝承なら外国のマネじゃなくて日本古来の行事を伝承させればいいのにな~と思うのである。
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鳥人間コンテスト

2008-09-16 20:58:26 | 記憶の箱
昨夜は 夫は昼から仕事。娘はダンス後に友人宅にお招ばれということだった。
息子もどうせ練習の後はデートでもしているんだろう 今夜は一人でのんびりすごそうとまったりしていたら 着信 

「今日、家で飯食べたいんだけどさ、なんかある?」

特別に何かはないが 家族四人の一週間分くらいの食料は冷蔵庫に入れてある我が家である。(このように誰がいつご飯食べるかわからない家なので 

「あることはあるよ。何食べたいの?」

「うまいもの(笑) M子も一緒だからよろしく」

何だよ~ 実家を定食屋、母親をまかないのおばちゃんだと思ってるなと思ったが、しょうがない ちょっと気合入れてご飯を作り始めた。

冷蔵庫に生協の合びき500gと昨日買ったばかりのキャベツがあったので、メインはロールキャベツにした。あとはもらいものの栗をゆでておいたのがあったので、栗ときのこのライスグラタンにする。豚ロース少々ときのこ大量を炒めて、栗とともにホワイトソースで和えてとバターライスに載せて、オーブンで焼くだけだけど見かけは手が込んでご馳走に見えるという客料理の時によく作るものである。
それに、モッツァレラの買い置きがあったのでトマトに載せて一皿にして、赤ワインでもあければ十分であろう。

ホワイトソースは缶詰ですませ ちゃっちゃとロールキャベツも仕込んで煮込んでいたら 二人到着。相変わらず可愛い格好(フリフリのミニスカートに ニーハイソックスをあわせて バレリーナシューズ)のM子である。
一応気を遣ったらしく 渋谷で売ってましたと生キャラメルとチョコレートをお土産にくれた。

食事がほぼ終わって、ワインを飲みながらTVをつけてみた。
鳥人間コンテストをやっていた。

もう、この季節か~ 夏も終わりだな~ と 思う。

と共に、23年前を思い出した。

なぜなら 23年前の夏、この番組を見て今日と同じように夕飯の片付けをしていた時に 私は産気づいたんだもの(笑) その時生まれたのが 目の前で彼女をはべらせつつ赤ワインを飲んでいる息子である。ヒトって成長するのね。
ある意味 感慨・・・

「あのね、あーたが生まれる前の日にこの番組見ててね、あら?変だなって思ったら破水して そのまま入院になったのよ」と言ったらなぜか受けまくる二人。

「そっか~ この番組がおかんを産気づかせたのか~」

23年前、新婚時代の局家は夫の仕事のため、それまで行った事も無かった関西の某都市に住んでいた。その頃実家は祖父がボケて母はその介護で手一杯だった。
だから妊娠しても里帰り出産は多分無理だと思い、知らない土地だったが、そこで出産するつもりだった。夫はエライ忙しかったので家で一人の時が多かったが、社宅のような所で周りがみんな同じ職業で同年代の人たちも多く、しかもみんな仲良しだったので その点は大丈夫かなと案外気楽にかまえていた。今だったら色々生んだ後の事も考えて不安だっただろう。ある種 若さゆえの無知から来るのんきな状態だっただろうと思う。
息子は未熟児だったしすごく神経質だったので 生まれてからがノイローゼになりそうだったけど(苦笑)

その夏は ものすごく暑い夏で 何十年かぶりで阪神が優勝した年だったので その土地も色んな意味で暑かった。夫は巨人ファンなんて間違っても言えないような環境で、社宅も野球の中継時間になると周りから歓声が聞こえてくるような環境だった。

で、その日、まだ予定日より10日早かったが、昼間網戸を洗ったり、スイカを運んだりした影響もあったのか なんとなく腰が痛いな~ なんて思っていた。
珍しく夕食時に夫が帰ってきていて、二人でご飯を食べていて夫がTVをつけたら、鳥人間コンテストだった。そう思うと長寿番組なのね。

当時は昨日のように精巧にできている飛行機は少なく、100mも飛んだら結構すごいな~みたいな感じだったのじゃないだろうか? なんだか 人間に翼をつけただけとか こんなの飛ぶわけないよ なんて冗談のような機体もあって 半分お笑いみたいな部門もあったような記憶がかすかにある。
それを横目で見つつ片付けをしていたら、突然水のようなものが降りてきて
「何 これが破水?」と言うことになった。そうなったら感染症の危険があるので即受診というのは知っていたので 慌てて入院セットを持って病院に駆け込んだのである。
その後 次の日の明け方からやっと陣痛が来て午後3時半ころに息子が誕生だったのである。
あ~ しんどかった。

「ってわけで あーたはこの番組に触発されてこの世に生まれてきたのよ」

「そうか~ なるほどね。何か影響受けたのかな~?」


必死になって人力で琵琶湖を横断しようとペダルを踏んでいる東北大学の子を見て、母は思った。

そうか、息子の自転車好きはここから来ていたのか・・・・ 


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祖母の法要にて

2008-07-22 21:23:27 | 記憶の箱
昨日は母方の祖母の17回忌だった。
お墓は 関東でよく最高気温を記録する ディープ埼玉のとある墓地とお寺で法要をした。

ここのお墓には母の父母と弟の遺骨が入っている。しかしこの地は父母のどちらにも関係がない。

元々 母の実家も父と同じ生糸関連だった。母方の祖父母もわりあい大きく糸関係の商売や製糸工場をしていたが、母と叔母が嫁に行き 叔父が東京で就職して 跡継ぎがいないままになり、比較的若く祖父が60で亡くなったので 一人になった祖母を 結婚した叔父が引き取った。
後から聞いたことだが 母の実家や工場の土地など祖母の分以外は 母と叔母は相続を放棄して叔父に渡して 祖母の世話をしてもらうようにしたらしい。
その頃 昭和40年代はまだ長男が家をついで 親のめんどうを見ると言うのが 社会通念であったのだと思う。

ところが 叔父夫婦はあまり夫婦仲がよくなく、なんとなく祖母も居心地がよくなかったようだ。しかし、一人娘の私の従姉妹は可愛がっていた。
そうしたら 叔父も50歳で癌死してしまったんですね。
叔母は、これ幸いと 祖母を追い出しにかかった。
娘の教育にお金がかかる とか 私が姑を見る義務はない とか

そして 家の父母のところで祖母は暮らすことになった。
ちょうど 父方の祖父母が亡くなったあとであった。かなり我がままで気難しかった父方の祖母が生きていたら その話は実現しなかっただろう。
母方の祖母は 天然で優しく性格のよい人だったから 年取って違う地に越してきても 老人会などで楽しくやっていたようで 晩年は幸せだったと思う。
そして6、7年後に大腸がんになり、肺、脳と転移して帰らぬ人となった。

家の父母も 父方の祖父母、母方の祖母と 三人の年寄りをほぼ自宅で見送った。
祖父は最後の半年はかなりボケて徘徊などして大変だったと思う。
その頃私も出産したので 実家は殆ど頼れなかったが 特に母の大変さは感じられた。
母もずっと専業主婦で 世間知らずの天然と言われることもあるが、主婦業の完璧さと、骨身を惜しまず人に尽くすと言う点は ホントに我が母ながら 偉いもんだな~と 思う。

祖母が癌の闘病中、父は何度か 叔父のお嫁さんと娘に連絡をとった。祖母が孫の顔を見たがったから せめてお見舞いにきてもらいたかったらしい。
ところが 某私立の歯科大に進学した従姉妹の学校が忙しいからと一度も来ることはなかったらしい。
未亡人だからお金がない と 言うわりには娘をお金のかかる学校に進学させたもんだな~と 思う。

で、祖母のお通夜の時、親戚の席にも座らず 終わるギリギリの時間に来て焼香して挨拶もそこそこに帰ろうとした叔母と従姉妹に 父は玄関先で怒鳴った。
どれだけ 生前祖母が従姉妹に会いたかったか、なぜ一度でも従姉妹の顔を見せに来なかったのかと。

父は口は悪いが温厚で、他の人に対して怒鳴ったりする事はそれまで見たことがなかったので、私はかなりびっくりした。そして表面上は飄々として 祖母を受け入れ、面倒を見ていたが、内心では叔母の情の無さが腹に据えかねていたと言う事を知った。
だから 私は従姉妹とはその時以来会ったことがない。今頃歯医者さんになっているのだろうか・・・

で、またまた前置きは長くなったが、それまで叔父の遺骨は 祖父の遺骨とともに祖父の本家の墓に入っていたが、叔母は それ以降、こちらの親戚とは一切縁を切り叔父の法要もする気がないと言ってきたらしい。
ちょうどその時 ディープ埼玉に居た母の妹の叔母夫婦が まだ家にお墓がないからこの近くにお墓を作って 祖父母と叔父に入ってもらって いずれは叔父夫婦と一人息子がそれを守ろうと言い出し、父もそんなことならと費用も一部負担させてもらって その地にお墓を作ったのである。しかし また ところがで、一人息子で 従兄弟は 関西のDを卒業したあとに関西系の大企業に就職して 彼の地で結構出世してしまった。そして家を建てて自分の父母も呼び寄せることになった。

で、お墓だけ残ったというわけであります。

こういう内々の事情を書いても読んでくれる人には何も面白くないだろうが、一応書いておかないと、私もなんだっけかなと細かいことを忘れてしまうし、万が一私が急に死んだりした時なぞ、これを見れば 夫や子どもも事情がわかるであろう。

で、このお墓も関西に永住することになった従兄弟が将来守るのも不都合だし、跡継ぎはいないしで宙に浮きそうである。
ちなみに 夫は一人息子、私の弟は子無しなので家の子どもたちには従兄弟がいない。必然的に 夫関連、私関連のお墓は息子に集約しそうである。
「あんた 三つ、四つ お墓がついてくるよ」と息子に言ったら
「そこまで面倒見られないから 一つにまとめといてくんないかな~」と困っていた。これも一つの少子化の弊害であろう・・・

そんなこんなだが、もう祖母も17回忌だし、暑い中 大阪から叔父夫婦と従兄弟も出てきてもらうのも大変だということで、昨日は本当に内々で 父母と弟夫婦と私だけで法要をした。

  

わりに由緒あるお寺らしいが、祖母が亡くなった頃には跡を継いだばかりでなんとなく頼りなかったイケ面住職も、だいぶ慣れて風格が出てきたところにも17年という時の流れを感じた。

法要が終わり 卒塔婆をもらってお墓参りをすませ、みんなで法要の食事をした。

   ←この地の地場産業 足袋で一代で財を築き上げた名士の邸宅が料亭になっている。建物も庭もステキだった。

   ←食前酒と先附け・ジュンサイの豆乳仕立ての冷やし汁

   ←鱧とひらまさのお造り・煮物

   ←和牛フィレステーキと 和牛の握り寿司

 ←ゆかりご飯と赤だし・枝豆のジェラードもあったが撮りわすれ。

うちの実家一族もおいしいもの好きの食いしん坊なので 残す人は誰もいなくて食事はすすむ。

今日の法要の話になって

母 丁寧にお経を読んでくれてありがたかったわ
私 それにしても上手になったよね~、あの住職 
父 そうそう ばあさんが死んだ頃のお経なんて聞けたもんじゃなかったな
私 今日のお経は 自分の声に酔ってたって感じだったじゃない こぶしが効いちゃってさ
母 講和もそれなりの事を言うようになったわね
弟 でも カンペ見てたぜ
母 前はお尻を向けたまま講和してたのよ OO子(私ね)が怒ってたじゃない
私 そうそう そうだったよね。後ろ向いたまま説教しても、ちっともありがたくないって怒ったよね 私(笑)
父 卒塔婆の字もだいぶ格好がついてきたな
母 そうよ へったくそだったのよね~ あんまりヘタすぎてお墓に立たせるのが恥ずかしいくらいだったものね
私 今日のは 上手じゃないけど ヘタなりに格好になってきたよね
父 門前の小僧だな あっ 門前じゃなくて本物の坊主か

弟 しかし 家の一族って口わりいよな 「上から目線」だしさ~ 特にねえちゃん 相変わらずだよな

   へいへい、いつでもどこでも口が悪くてすみまへんな   


 




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タイムマシンツール

2008-05-12 22:57:07 | 記憶の箱
まずいおからクッキーを作ったことを何日か前のブログに書いたが、昨日はリベンジと思って バターとコンデンスミルクたっぷりのレシピで作ってみた。抹茶風味とコーヒー風味の二つ。
これが まあ おいしかったこと。(うまうまでしたhirokoさん!)小麦粉は一切入れないのだが却ってさっくり感があっておいしかった。まるっきりダイエットにはならない食べ物ではあるけど。
写真にとるヒマもなく家族で食べてしまった・・・


子どもの頃 コンデンスミルクが大好きだった。
あの濃厚なミルクの甘い味が好みだったのだろう。ミルキーとかおしどりミルクケーキなんかも好きだった。(今でも好きですが)

母はいつもコンデンスミルクの缶をお菓子作りに使うために戸棚にストックしていた。
小さな缶だったが、金髪の女の子が描かれてた。白いリボンのついたブラウスに赤いジャンパースカートをはいて、それがとてもすてきに思えて、子ども心にもそんな金髪でしゃれた服を着た外国の子どものようになりたいと思った。
またその子は缶の中で自分が描かれている缶を持っていた。当然その缶にもまた缶を持つ女の子が描かれているわけだからどこまでいっても小さく小さくなりながら女の子の連鎖は続いていくわけである。 どこまでそれは続くのだろう・・・
子ども心にとても不思議だった。

まだ小学校にも行かない時分、そんな事をぼんやり頭に描きながら 廊下のすみの戸棚の中のコンデンスミルクの缶をじーっと見つめていた覚えがある。はためで見たら変な子かよほどコンデンスミルクが食べたいのだろうと思われていたかもしれない。

祖父母もまだ元気で生きていて 父母も今の自分より若くて生き生きしていて、私は大人たちの間で一日過ごしていた。
一歩家を出るとそこは未知の世界だった。
その頃の一日は途方もなく長かった。

屋敷のひんやりとした日の差さない廊下の隅に 金髪の少女を見つめていた幼い自分が コンデンスミルクの甘さを味わうとなぜかよみがえってしまう。


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姑より怖い・・・

2008-04-14 23:50:15 | 記憶の箱
昨日の日記に関連しますが私事です。

娘は小学校から私立にやっていたが、当時の小学校の責任者の(仮にシスターXとしますが) とてもとても と~~~っても 恐ろしい人だった。
もちろん 暴君であるとかってことじゃないんですよ。
ただ、その学校のカラーをあくまでも信じて守ろうっていう意識が強いというか 自分にも他人にも厳しいと言おうか。

小学校1年のころ、その学校は毎月のように母親が参加しなければならない会があった。その月ごとの行事や 学年の様子などを保護者に知らしめる。そして全体的にその学校の思想や教育方針に結び付けて 学校と家庭が一体となって子供によき教育を与えるということが目的だった会だと思えた。
その他にも 教養講座、学校行事や授業参観などあったから 娘の小学校低学年の頃って毎月2回は学校に狩り出されていた気がする。
その度スーツ着て、緊張感を強いられ なかなかストレスフルな時代であった。

その月の定例会では シスターXが最初に壇上に立つ。無言のまま起立して礼をする母親たち、Xのお話は一言たりとも聞き逃さずにメモをとり 私語一つ無い会場は 今考えても統制がとれていたものだと思う。

そして私は娘が入学して3ヶ月目くらいに失敗をしてしまった。

学校の規則で、子どもが忘れ物をした時は 決して届けてはいけない。忘れ物をしたのは子どもと親の責任だから困らないようにあらかじめ注意なさってください。
と言うお達しだった。
ただし、届けていいのはお弁当。育ち盛りだし お腹がすいて午後の授業に差し障ってはいけないという理由からだと思う。

だから結構ピリピリして 教科の準備、提出物など必ず私も目を通していたのだけど。

6月に入り、体育で水泳が始まった。水着や帽子などはもちろん 水泳カードに保護者が朝子どもの体調をみて熱をはかって印鑑をおしたものを持たせることになっていた。
それをある朝持たせるのを忘れてしまったのよね。プール大好きな娘、友達が入っているのに自分は入れなくてさぞがっかりしているだろう・・・
だけど、その日はちょうど母の会がある日だった。
「これ学校で娘に渡せばいいや よかった~~」と思った私。

ところが甘かったのよね。
お母さんがカードを持ってきてくれたからプールに入ります と 嬉々として先生に訴えた娘。担任は迷った末にシスターXに相談し、結局ダメということになった。

そして、その後の母の会で シスターXは名指しはしなかったものの 「こういう事をなさったお母様がいらっしゃいますが、これは私が申し上げたことを理解してらっしゃらない証拠です。規則はその時の都合で曲げられません。お約束と言うものの神聖さをよくご理解してくださいますように」と厳しくおっしゃられました。

その学校は卒業生ママがまた子どもを入れるって連鎖が多い中 私は外様で、ただでさえそこでやっていけるかどうかの自信もない頃だったので(ナイーブだったのよね~ その時はw)かなりトラウマになった。
それに自分の落ち度が原因で子どもも傷ついたのではないかということもあって自己嫌悪にもなった。
それから もっとピリピリして毎朝の忘れ物のチェックをするようになり、提出物は即座に書いて娘の連絡帳に挟ませ、友達の家によばれた際お礼状はその日のうちに出し、集金のためにピン札を常に用意という体制を整えた。(あの頃の緊張感は今いずこですが)

シスターXは まだご健在なのだろうか?
確かに「意地悪ババア」と心の中でののしったこともあるが 自分を律した上での正しい厳格さは今の世から消え去りゆく風潮の中、なかなか貴重なものだったと思う。
少なくとも私はいい経験、いい勉強になったと思える。

彼女が 昨日のような事件やマスコミの対応などを見聞きしたらどう思われることだろうと聞いてみたい気もする。
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バレンタインだったようだ(投げやりに)

2008-02-15 21:35:19 | 記憶の箱
先日 新宿三丁目の駅付近で用事をすませて何かの行列ができていたので なんだろうと思ってみたら ジャン・ポール・エヴァンのチョコを求める マダムだか、マドモアゼルだかの群れだったのでたまげた。
みんな気合入ってるのね・・・

我が家の男性二人は日本にいないし、だいたい夫なんて こういった行事はまるで関心のない人だし(ほっとくと クリスマスとかお正月とかも関係なく過ごすタイプね)私もまた世間が騒げば騒ぐほど引き気味になってしまうという A型らしからぬ天邪鬼の部分も持ち合わせているので、情熱もないんですわ、この行事。

プレゼントを渡す、もらう。ご馳走する される は 誕生日の方が私にとって重要です。世間と同じじゃなくて個人的な日の方が燃える。

まあ それは置いといて・・・と

20余年前のこと。夫が就職した次の年のことだった。夫が学生時代に知り合った同い年の私達でありますが、彼は就職して半年後に 関西の地方都市で研修を受けていたわけです。 私達は一応内々で結婚することにはなっていた。
当時、夫の職場は多分1対10くらいの割合で女性が多く、しかも研修が終われば一緒に東京に戻れるんじゃないかいって期待 など 色々な条件も重なり、かなり職場の女性に狙われていたようであった。(まあその2年間くらいだったんだろうな、夫の花の時代はw)忘れるところだったが夫も今より10kg少なく、見かけも精悍と言ってもまあ許されるよな くらいだったと思う(遠い目)

だから すごかったですよ。手提げ袋にいくつものチョコレート、ブランド物のキーホルダーとか財布、手編みセーター4,5枚 マフラーも何本か。
たまたま、バレンタインデーの何日が後に行って 夫の寮でその有様を見て、
「へ~~ 私の存在って周りに知らせてないわけね」といじめるのも楽しかったし、チョコレートを吟味して これは本命 これは義理と推理するのも楽しかった(すんませんな、性格悪くて 当時は若気の至りでそういう競争心あったわけです。)
おいしそうな(高価そうなのを)開けてはつまみつつ・・・

今だったら 人と違う価値観でもって 自分だけがわかる男の魅力ってことも珍重できるかもしれないが(別に実行はしてないが)、さっきも言ったが若気の至り、そりゃあ他の女性が見向きもしないような人と付き合って結婚するのも口惜しかりけり・・・ だったわけだから、まあ、そういうシチュエーションで食べた他の女性の心をこめたであろう(含 義理)チョコレートっのは はっきり言いましょう、うまかったわ。
結婚後その時もらったセーターのサイズが小さすぎたのも私が着ていました。すみませぬ。

で、なんだね。当時を思い出して娘に言った。
やっぱり人と同じことして突撃するな。自分の好意は安売りするな。まして、向こうが気があるかどうかもわからないのにセーター編むなんてもっての他だ。

まあ ものぐさだからね ウチの娘。
恋愛体質じゃないって逆に悩んでいるくらいだから(メール返すのもめんどくさいらしい) まずしないであろう。

愛想なさすぎるのと私の戦略的ものぐさとはその辺が違うんだな(って分析してどうするのよね)






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諸行無常

2008-01-19 21:22:21 | 記憶の箱
今日夫は大学時代の親友と飲んでいる。同じ学部、同じサッカー部で過ごした友人である。
夫と職業も似ている関係で仕事上での接点も多いし、いまだに二人ともサッカーを続けているので時折は同じグランドでボールを蹴ることもある。

昨夜、夫が 「明日 Mと飲むんだけど、お前も来る?お前が来るんだったらMの奥さんも呼んで四人で久しぶりに会うのはどうかってMも言ってるよ」と言われた。
ちょっと 気を引かれたけど結局私は遠慮した。おとといも夜遊びしているし、今日は子どもたちもいるしというのもあったのだが、M氏に会うのはなかなか複雑な想いもあるのである。

M氏は夫の学年で有名人だった。割りにガリ勉系ジミーズの多いその集団で都会の名門校出身、すごくイケ面ってわけじゃないけど整ったしょうゆ顔、服装のセンスも良かった。そしてサッカーをやらせれば名ストライカーだったし、バンドでサックスも吹いていてそれがまたステキであった。
当然もてましたよ。
私は夫の彼女としてM氏に紹介され、彼らのサッカーの試合も観戦に行ったのだが、スィーパーとしてゴールの前を守る夫より華麗なドリブルで相手を抜いて着実にゴールするM氏のプレイについ目をひかれてしまっていた(夫よ、ゴメン)

だけどM氏は高校時代からの大事な彼女が郷里にいて、しっかり付き合っていた。だけどそれはあまり広まっていなかったので、サッカー部のマネージャーや違う学部の女の子たちのおっかけは多く、M氏も適当にその子たちとも遊んでいたようであった。
私は時々 四人で食事をしたりしていたのでその後結婚したM夫人も当時から知っていた。

M氏に続いて 私達も結婚した。M氏はわりに早い時期に何年かアメリカに留学していたので子どもは家より遅かった。
我が家は結婚一年後に長男が生まれ、ほぼ年子のようにして長女が生まれた。
長女が生まれて間もないころだったと思う。
当時、夫はものすごく忙しくて子育てはすべて私の手にゆだねられていた。だけどその中で夫はサッカーも続けていて、徹夜明けでもサッカーとなると試合に行くような状態だった。私もたまには子どもを見て欲しかったが、サッカーが夫の仕事のストレスの唯一のはけ口だろうと思っていたので文句も言わずに送り出していた(なんてケナゲだったあの頃のワタシ・・・・)
そして、徹夜明けで一日中サッカーをして、その後飲んで、かなりお酒も強い夫だがやはり無理だったのだろう。泥酔してM氏に送られてきたことがあった。
私は、乳飲み子とやんちゃ盛りの長男を一日追い掛け回し 髪を振り乱し おしゃれもする余裕もなく 毎日目の下にクマをこしらえている状態だった。
夜中にチャイムがなって起きて泣き出した長女を抱えて玄関先に出たら 夫をつれたM氏だった。
よれよれ(だったと思う)のパジャマでよれよれの自分がみじめだった。
夫を連れてきてくれたM氏は
「OOが酔うなんて珍しいな。悪かったね、飲ませちゃって」と優しく言った。
あせる私に 更に優しく
「小さい子二人って毎日大変でしょう 家は一人でもふうふう言ってるよ。」

もう よろめきたいと思ったね(爆)

まあ そんな思い出もあり、私の中のM氏は初恋の人のような、なんとなく甘やかに存在していた人だったのであります。

それが、それが・・・・・(今日は長いよ)

5年ほど前だっただろうか・・・
家の近くのグランドでサッカーの試合があった。私もその時たまたま応援に行って久しぶりにM氏に会った。
ところが・・・ ところがである。

サッカーグランド上でさらっと風になびいていた髪が、サックスを吹く合間にうっとうしそうにかき上げていたちょっと長めのその髪が・・・・

どこへ行ったのだ その髪は・・・・(全部とは言わないが 二分の一くらいは失われていた 号泣)

その場はショックを隠して愛想よくお話したけど、夫と二人になってから、
「あの頭はショックだよ~~~」 と訴えた。
「お前 Mのファンだったもんな~」 と、ちゃんとお見通しの夫。

その後夫はM氏に会うたびに幾分嬉しそうに私に彼の頭髪状態を報告するようになった。(夫も人が悪いヤツである)着実に頭髪の減少は進捗している模様である。
ちなみに夫は幸いにしてフサフサである(メタボは進捗しているが)

私もよせばいいのに 同じ大学出身でM氏を知る故郷の友人にM氏の頭髪状況を教えてしまった。やはり嘆く彼女たち。想いは一緒であります。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。


ホントに風の前の塵のごとく散ってしまったのね M氏の髪・・・(しつこく)



さっき夫からメールが来た

「Mと××で何時から会うよ。鍋でもつついて来るわ。11時までには戻る」

それに対して

「了解 M氏を ハゲまして来てね♪」と返信した私はやっぱり人の悪い女かしら。

   
     
    
        
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お受験の季節だね

2007-11-02 19:13:35 | 記憶の箱
昨日の昼間電車に乗ったら 幼い子どもを連れた紺色づくめの親子三人組をちらほら見かけた。そう言えば 11月1日 東京の小学校受験の日なんだなあと思った。
懐かしかった。

家は夫も私も小学校受験組だった。と言っても大学までのエスカレーターじゃなくて節目節目でその後受験もあり大学も一般受験したからのうのうと遊べる環境ではなかったけれど。だから何となくというか当たり前のように 夫婦も 両方のジジババも 私達の子どもは小学校から国立または私立の学校に行かせるのだろうという意識はあったと思う。
だけど 息子は喘息だったことや学区の関係から受験はしないで公立にすすませた。中学受験からの中高一貫の学校の方が魅力的に思えたこともあった。だけど地元の公立ってのが家の息子の学年はひどく荒れていて 担任も 四人のうち二人はよかったけど 一人は教える能力がない30代男 もう一人は人間的にも最低と今でも恨んでしまうほどひどい50代の男の先生に当たってしまった。
息子はそう曲がることなく育ってくれたけど、あの時代がなかったらもっと穏健になったかなあなんて思うこともある。(まあたくましくはなったけど)

だから 本腰を入れて取り組んだのは娘の受験の時だった。
一年だけだけど受験塾と体操教室に通わせて模試も受けた。親の模擬面接なんかも受けた(笑)
娘は4月生まれだったし上の兄弟もいたので何でもすんなり器用にこなしてたので そう親子でその受験のための「勉強」に関してはストレスに感じることはなかった。
ただ、私立の小学校が求める 「親子像」「家庭環境」ってものが、娘の様子や親子面接なんてものからうかがい知れてしまうと言うのはなかなか大変なことだったと思う。
求める子ども像を端的にいってしまえば、家庭内が仲良く、親が子どもに愛情深くしかしきちんとしつけている。
例えば、毎食きちんと母親の作ったバランスの良い食事を食べ(おやつなんかも手作りだったりするとモアベター) 季節季節の行事を大切にして(お月見なんかはお母様とすすきを飾ったりすると望ましい) そして 朝ごはんの席でお父様が社会の出来事なんかを子どもにわかりやすく解説したりして(世界のこの国で今戦争が起こっているんだよ 何かOOちゃんに出来ることはないかな なんて問題提起するようなとうちゃんが望ましい)

んなもん無理じゃん。だいたいその頃の夫は今以上に多忙。職住が近かったにもかかわらず殆ど深夜帰りで泊りもしょっちゅう。子育ては殆ど私の役だったし、年子だったので そんな悠長に丁寧に夫婦で子どもに向き合うなんてそれまでできなかった。

まあその私立学校があげる理想像って言うのは間違っているものではありませんからね。むしろちょっと前のよき日本の家庭像にグローバルな視点っていうのを付け加えた理想家庭をあちらは求めているわけだから それを無理して形作ろうとするのは悪い事ではないと思った。
ですから かなりの付け焼刃だったのだけど、それなりにがんばったわけです。受ける学校の沿革とか教育目標を分析し、塾のアドバイスなんかも聞いた上で夫にレクチャーして、結構お受験ってものが大変だよって事を理解してもらった。(自分たちの経験は殆ど記憶にないからね)
私の言うことも聞くことは聞いていたが、夏休みに模擬面接を受けて しどろもどろになった経験を経て夫も変わった。割りに甘く見ちゃいけないって事を感じたらしい。そうなると、自分の受験に関してはその度燃えてクリアして来た人だから結構真剣になった。

この経験でよかったなってことは、それまでもちろんお互いに環境が違う家庭で育った(私のの母親と姑はかなり性格も家庭運営も違ったので)、私達夫婦が ある意味 スタンダードの子育ての指針ってものがはからずも与えられたことだったと思う。 どちらの家庭がスタンダードに近かったのかは敢えて言いませんがww
そしてそれを踏まえて 受験クリアと言う共通目標を持ったことで 子どもに対してかなり真剣に向き合えた時間がもてたこと。
結論から言って この経験で夫はかなり変わったと思うから。それまでは仕事にかまけて子育てに決して積極的な人じゃなかった。その後はそりゃあ忙しくて物理的にかかわらなくても かかわって行こうと言う意欲だけは感じられた。それだけでも私にとっては嬉しい変化だったから。

だから我が家にとってはよい経験だったと思う。

お受験というと 特殊なもの。あんな小さい子に色々詰め込んでかわいそうなんて話も聞かれる。
私も沿線の女子小を受けに来ていたであろう母子数組が、電車の中で一斉に折り紙をやりだしたのを見て 「そこまでやらんでも・・・・」と思ったこともあるし、模擬試験の後で男の子を叱り飛ばして泣かせている母親も見たことがある。
まあ、そこまでヒートアップすると怖いもんがあるけど 子どもの小さいうちに子どもと向き合って色々なことを教えたりする親子の時間って上手に使えばいいものなんじゃないかしらね と 思う。
この頃は物騒で なかなか公園などで子ども同士で遊ぶ機会も減り、ほうっておかれた子どもたちはどうせゲーム三昧になりがちなんだから。。。 それよりはましな時間の使い方だと思うけどな。

娘は入りたい学校に入ったわけだけど、それが彼女にとって良かったか悪かったかはまだ計り知れない。ただなかなか窮屈な学校で 私も色々苦労はしたけど、全体的にはいい教育をしてくれた学校だったと思う。
娘も厳しすぎると文句を言いつつ 大学になった今も 何か悩みがあると中高の先生を訪ね、週末はたいてい その頃の仲間と遊んでいる。離れてみると本当によかったと思えるらしい。

かと言って小学校で不合格になったからと言って その後の人生が狂うわけじゃないですからね。チャンスはそれからたくさんあるしね。
ただ、今は 緊張したおももちで面接スーツで学校に向かう親子に 秘かに 「がんばって」とエールを送ってしまう。


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ゆとりの弊害

2007-09-01 01:09:36 | 記憶の箱
前々から思ってたけど 娘は知識が欠落している部分がある。
小学校から私立で そう勉強もせずに高校まで進学して あまり受験の厳しさも体験せずに大学生になってしまった。
当然その年なら知っているだろうとこちらが思っているのにトンチンカンでこちらがトホホ状態におちいることが多々あるのである。

さっき駅まで彼女を迎えに行った車の中で

娘:O(友人)が今免許とってるんだけど クラッチがある車で練習してるんだって。それってどういうこと?
局:ああ、マニュアル車ってのがあってね。クラッチがついてて自分でギアをチェンジするのよ。家の車は両方ともノークラッチのオートマ車でしょ。マニュアルの免許とるって必要ないと思うよ。
娘:ふ~~ん そうなんだ
局:よっぽどのマニアじゃなきゃ今時マニュアル車は載らないしね。耕運機はクラッチがあるらしいけど
娘:こううんき? なにそれ?
局:耕運機って あなた 耕運機しらないの?
娘:あっ わかった OOのパパ(代議士)の乗るような黒塗りの車でしょ??
局:あーたね 根本的に勘違いしてる どうして耕運機が黒塗りなのよ
娘:運転手さんが迎えにきてくれるような大きな車じゃないの?
局:わかった それは 公用車!! 耕運機って田んぼを耕したりする農業につかう車両だよ~~ そんなことも知らないの?
娘:(逆切れ)だって 私は都会っ子なんだよっ 田んぼ耕す車なんて知ってるわけないでしょっ!!

都会っ子のせいにされてもね~~ しかし企業の社長とかお偉いさんが耕運機に乗って職場まで送迎されたらおもしろいだろうなあって想像したら笑いがこみあげてきてしまった。

そう言えば娘は 悲劇的にもゆとり教育の真っ只中で育ってしまった。
生活科だか総合学習だかが取り入れられて その弊害で社会とか理科の時間が少なくなったのではないだろうか?
この前の皆既月食の時、どうして月食が起こるか聞いてみたらしっかりと理解していないようで悲しくなった。娘はまあいい。ただ、あの子に育てられる子供がかわいそうである(取り越し苦労のA型は思う)

幸い私立で親も先生も教育熱心だったので そこまで文部省どうりではなかずではある。英語教育は素晴らしかったし、女性の教養をつけるという観点からの教育には素晴らしい点もあってあの子の過ごした学校に対してはそう文句はないのではありますが(怠けていたのは娘だから)
しかし、その当時の社会的な背景と言えば、やはり教科書は薄く、知識の詰め込みが悪というようなみなされ方をしていた時代だと思う。

それなのに今更こんなこと言われてもねえ・・・↓

小学校授業時間、30年ぶり増=「総合学習」は削減へ
-ゆとり路線転換・中教審中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の小学校部会は30日、国語や算数などを中心に、小学校の授業時間数を増やす方針を決めた。また、高学年で初めて英語の授業を導入する一方、ゆとり教育の目玉とされた「総合的な学習の時間」は削減する。文部科学省は、年度内に予定される学習指導要領の改定に反映させる。
 小学校の授業時間増は1977年の指導要領改定以来、30年ぶり。総合学習の削減と合わせ、ゆとり路線からの転換が図られる。 


 
今更ゆとり路線の変換だって ゆとり ゆとりのかけ声先行でバカにされてしまった世代は取り残されたわけですね。
小学校で基本的な知識を詰め込まなきゃその後どうやったら色々な教養の基礎が形づくられるって言うのだろうか?
家の娘のバカは親の責任もそりゃああるけど、あの悪夢のようなゆとり教育推進の影響もあると思うなあ・・・

土台のないところにはロクな家は建たないのである。
ホントにこの時代の文科省に責任とってもらいたいもんだわね。



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農村の発明家(追記あり

2007-08-02 10:22:21 | 記憶の箱
先週末、結婚前の職場のOB会に出てきた。OB会といっても同期の人が発起人になって会社は関係なく集めたものだったので気楽に楽しめた会だった。

私は大学を卒業してから 某メーカーの研究所に勤めた。私の住んでいた実家のある市から車を飛ばして(ハンパな飛ばし方でなく)40分、田舎の広大な敷地の企業だった。
ちょうどある官庁によってある種の製品の再評価、再審査が義務化された時期であり、研究所にわりと多くの人が採用になった時期であった。
そこは 師や士を持つ専門職や事務の女の子、大学から派遣された院生、県の技官からヘッドハンティングされた所長をヘッドに色々な人種がいたし、製品を作る工場も同じ敷地内にあって そこは似たような年齢のお兄ちゃんたちが多かったので、みんな入り乱れて本当によく遊んだ。(一応仕事もしたけどそれより遊んだ記憶が強烈である) 
夏はテニス、冬はスキー、間に誕生会やらで飲み会はしょっちゅうあり 今の大学生のシーズンスポーツやテニサーのようなノリだった。

ある時、同じ研究所の 農学部卒の男の子(当時)が運転する車で 何人かで隣の市に出かけた時だったと思う。確か目当てのピザハウスかなんかが行ってみたら休みでこれからどうしようかという話になったはずである。そうしたら彼が

「あっ この近くに俺の友達がいるんだよ そこの家に遊びに行こうや」って話になった。断っておくが、もちろん私と他の人はその友達も知らなかった。それにアポなしである。ついでに夕飯時であった。躊躇していると
「いいから、いいから あそこのオヤジ客好きだからさ、喜ぶぜ、遊びに行くと」
(ホントにいいの~?)と思いながらも 彼に連れられそこの家に行った。あいにく友達は留守だった(今のように携帯など無かったのである)

それにもかかわらず、出てきたそこのオヤジさんは
「おおNか よく来たなあ 彼女連れてきたんか? まああがっていけや。飯まだか? じゃあ食っていけ!おかあさん、何かもってこいや」 と 聞きしに勝る客好き、歓迎振りであった。(もうそこの家の名前も忘れたけど)

床の間のある大きな客間で、たくさんのお惣菜や畑でとってきたとうもろこしや青菜のゆでたのなんかがおいしかったことを覚えている。今の私が同じ立場だったら冗談じゃないって怒るだろうけど、そこのお母さんも突然の来客にもニコニコして歓待してくれた。
そこで、枝豆が出た。もちろんそこの家の作物だった。取立てだったろうからおいしいこと。思わず「おいしい枝豆ですね~ 」と褒めたら そのオヤジさんが喜ぶこと。自分の家の枝豆がこの辺の農協におろしている中じゃ一番評判がいいこととか自慢になった。更に彼は農作業にまつわる機械の発明家であったらしい。いくつか特許もとっているって話にもなった。
そして 今でもその名前を思い出すと笑いがこみあげてくるのはこの名前。

「枝豆もなあ 枝についたまま売るよりも、もいで袋詰めしたほうがナンボか高く売れるでな。でもその手間が大変だからな オジサンが発明したんだよ。そんでな、マOモーグ(O=メです)って名前つけたんだよ

マOモーグ・・・ 私達は確かその場で死ぬほど笑い転げたことを思い出す。オジサンは自分の話が受けたので気をよくして それから得意になって色々な発明品を披露してくれた。とうもろこしの皮をむく ムキOキ(O=ムです)っていう機械もあった(笑)


この前のOB会でその話になって 「あのオジサン元気?」って言ったら 「元気だよ 相変わらずだぜ」って言ってたので何となく安心した。
あの頃の田舎って温かくておもしろい人たちが多かったのである。

今日の夕飯は枝つきの枝豆をゆでた。マOモーグを思い出して思わず一人笑いしてしまった。


ここから追記)
今アクセス解析みたらマOモーグの語句から私のブログが閲覧されていることがわかりあせってメを消しました。

それからご報告!すごい! マOモーグの製造元ちゃんと何十人もの社員がいる株式会社でした。
ちなみにムキOキは 私の記憶違いでとうもろこしの皮むきじゃなくて長ネギの皮むきの機械だそうです。

謹んで訂正するとともに 発展をお祈りしておきました♪

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東京はお盆ですね~鬼灯の記憶

2007-07-15 20:44:38 | 記憶の箱
何日か前から 花屋の店先やスーパーの花売り場の一角でこんな物を売っている。
そう言えば東京はお盆なのね。

私の実家の方ではお盆と言えば8月の月遅れで行われる。夏休みもピークを過ぎて、お盆が終わるともうあんなに長かった休みの残りがあと10日あまりしかないことに気づき、まだやり残した宿題を考えてそわそわしはじめ、日は短くなり始め、夏が終わってしまうというなにかやるせなさを感じさせる季節だった。
一月しか違わないのに、7月と8月ってずいぶん違いがあるものなんだなと思った。

中学か高校の国語の教科書に柳田国男の随筆が載っていた。東北のある地方の盆踊りの話だったと思う。無言で静かなお囃子だけで行われる盆踊りの様が描かれ、やはりお盆は月遅れがいい と記されて終わっていたのがおぼろげに覚えている。
出典もさだかでなく本当に柳田国男のものかどうかもはっきりしないんだけど、その寂しげな盆踊りの描写に心をうたれ、お盆に新暦のものとその月遅れのものがあるってことを初めて知ったので印象に残っている。

ところで、私は鬼灯が大好き。あの綺麗なオレンジと自然が作った可愛らしい形。どうもツボに入ってしまう。
女子のみなさまは遊びませんでしたか?

鬼灯の皮をむいて実を丁寧に丁寧に指先でもんで 柔らかくタネが見えるくらいまでにしたら、そおっと皮から切り離して、爪楊枝で中身を出す。上手に丁寧にやらないと口のところから裂けてしまう。
全部上手に出せたら、からっぽになった小さな袋を何度か水で洗って鬼灯笛のできあがり。
それを唇と舌を使って鳴らす遊び。
なんて事ない遊びなんだけど、それを作るのって結構集中力と根気が要るもんだった。あと少しってところでちょっとあせって中身をだそうとすると 中の核になっているぐじゅぐじゅの部分が大きいまま出てきてしまって口が裂けて口惜しい思いをしたりした。

今の子ってこの手の遊びしないのね。家の娘にもそう言えば教えたことなかったと思う。何だか遣り残した気がしてちょっと口惜しい。

街角で鬼灯を見て、一瞬にして、これらの記憶、実家の隣の盆踊りの光景、その時に着た金魚の柄の浴衣、庭でした線香花火・・・ がよみがえってしまった。
夏の記憶は切なくて、急いで歩いていた足を止めさせてしまう。
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男友達~ダメンズA

2007-07-10 22:40:25 | 記憶の箱
先日女友達について書いたのでついでに。

私には大学以来、兄と位置づけられる三人の男友達がいる。高校の親友R子の兄Aとその友達TとNである。親元を離れて進学で東京に出てきた私に Rが兄と一緒に暮らしていた東急沿線のアパートはほっとする場所であり、週末になるとお邪魔して一緒にご飯を作ったり泊らせてもらったりで、その兄Aの親友たちもしょっちゅう来ていたので、お互い同郷の大学生同士。仲良くなるのに時間はかからなかった。
ただ、帰郷したときもお互いの実家に行き来していたため、親同士 兄弟同士も仲良くなったにもかかわらず、なぜか一組もカップルが成立しなかったのはどうしてだろう?(笑)
まあお互い、別のところにつきあっている異性はいたし、あまりに親しくなりすぎて、裏も見すぎてて そういう感情が芽生える環境になかったのかもしれない。酔っ払って同じ部屋に寝ても安全、Nとは一緒に関西の親戚の家に旅行に行ったくらいである。それを私の比較的厳しかった両親も知っているし、夫も知っている。だけどそれが許されるような、ちょっと世間からみると変な関係がもう四半世紀続いているのである。
ちなみにNは私の結婚式の二次会もプロデュースしてくれたし、TとNの結婚式には私も参列して彼らの妻たちとも仲良し、っていうかTの妻は私が紹介した妹分の昼行灯女Yである。(2006年11月17日ブログ参照)

で、書きたいのはその中の友人の兄Aのこと。
彼は世間一般では人気のある四谷の大学の経済学部生だった。ただ、Aの兄は現役で国立医に入り、現在教授、妹も現役で三田の大学と優秀な上下に挟まれて微妙な立場にあり、今思うと一浪したAは結構屈折していたのかもしれない。
だけど、その当時のAはそりゃあ面白かった。陽気で目立ちたがりや、飲み会など遊びの企画は随一で、行動力があり(緻密さはなかったが)一緒にいるとまず飽きないヤツだった。酔っ払っての毒舌は聞いていて涙が出るほどおかしくて、今の私の毒舌は彼の影響もかなりあるんじゃないかと思われる。
ただ、結構はた迷惑なヤツで、妹と一緒の家計として毎月少なくはない仕送りがあったにもかかわらず、飲んだり、女の子におごったり、フェンダーのギターやらトニーラマのブーツやら(時代を感じるなあ)を生活費から勝手に買って、妹の分の定期代も使い込んで、私の友達はいつも真剣に迷惑がっていた。その後妹は塾の講師と家庭教師のバイトをして自分の生活費は工面するようになったが、Aはいよいよお金に困ると部屋にたまった一升瓶とコーラの瓶を酒屋に持っていって売って学校に行く交通費を捻出していた(笑)

それに自分の大学の定期試験の時はカンニングに命をかけて、一、二年で落としたドイツ語をクリアするために 同じドイツ語選択の妹と私を召集して徹夜でカンニングペーパーを作らせた。小さい紙にドイツ語の定冠詞なんか書き込みながら 「Aちゃん、こんな時間があるならマジメに勉強したほうが早いんじゃないの?」とは言ってはみたものの・・・ 結局卒業時にもドイツ語の単位はとれなかったらしく、就職がチャラになってしまうからと母親と一緒に担任の神父さまのところに行って拝み倒してやっと卒業できたんだとその後心底呆れたと言った口調で妹に教えてもらった。

で、彼は卒業後、誰もが知っている国民的某メーカーに就職が決まった。成績はともかく、口と自己PRがうまいのである。そしてすぐ、相手の親に反対されてすったもんだのあげく駆け落ち騒ぎまで起こして 地方の旧家の娘の現嫁と結婚した。(この嫁だけは私は苦手で、向こうも私が嫌いみたいである。って言うか警戒されてるみたいである。Aちゃんを知り尽くした上で浮気するほど物好きじゃないっちゅうに)
で、最初は広報部に配属されて最初は華々しく働いていたようだけど、(その当時業界風吹かせてそりゃあウザかったもんである)大企業だけど安月給で有名なその会社は10年くらいで辞めてしまった。
それから 転職した外資系の大企業に何年か勤めたけど上司とうまくいかずに契約を切られ、その後今はなき大手の結婚相手紹介の会社の広報(つぶれたのはAのせい?)その後は1年失業した後、小さな広告代理店に契約社員として就職したらしい。
言っちゃ悪いがかなりの転落ドラマである。
それだけではなく、彼は何年かおきに女性関係で揉め事を起こしてきた。それが、フィリピンパブとかロシア人パブとかお仕事関係の女性のうちはまだ良かったが(それにしても脇が甘いから嫁にばれてその度修羅場になったらしい)一番すごかったのは結婚相談所の部下の独身社員と不倫、それで一年間家出して彼女と暮らしたのである。もう10年くらい前、子供も中学か高校で一番多感な年頃だったにもかかわらずである。ただ嫁もさるもの、実家の知り合いの弁護士に相談して、浮気相手の彼女を訴える代わりにAの給料の9割を押さえると言った同意書を作らせ兵糧攻めにしたのである。
不倫がばれて職場を首になった彼女は結局お金もない中年男を却って養うハメになってスナックかなんかに勤めだしたらしい。ホントに踏んだりけったりだっただろう。その家出期間中、やはり子供もいるんだしってことで両方の親が出てきて話し合いの場を持ったり、色々なことがあったらしい。Aの嫁に泣かれてTやNがAの留守宅に駆けつけたり、両家の話し合いの場に同席させられたり、A以外の兄たちも巻き込まれて大変な騒ぎだったと二人から聞かされていたし、夜お留守番でヒマだったAは酔っ払いながら当時携帯はなかったのでよく家電に電話してきた。
相変わらずバカな話ばっかりして、人を笑わせてくれたけど 「Aちゃん、このままじゃすまないよ どうするつもり?」なんて聞くと 「まあ 局まで責めるなよ~ 俺もどうしていいかわかんないんだからさ~」と言いながらまたバカな冗談を言い始め、いい加減うんざりした私が 「もう切るからね」と言っても「もうちょっと話そうぜ、あと一杯飲む間だけ~」と粘られ、1時間以上も長電話に付き合わされたもんだった。かなり寂しがり屋なのだ、ヤツは。

でもこの騒ぎの後、なぜかAは家庭に帰った。
どういった経緯なのかは TとNも妹もよく知らないらしい(彼女に愛想つかされたんだろうって説が有力)まあ子供もいることだし、親たちはほっとしたらしいけど、絶対家族には傷として残ったと思う。子供たちは物心ついていたっていうか、多感な年頃だったんだから。
その後勤めていた会社はつぶれて失業した後に就職して今に至っているのだけど。
今は完全におこづかいやカード、帰宅時間など嫁の管理下にある状態らしい(当たり前と言えば当たり前である)つい最近まで携帯も持たせてもらえなかった可愛そうな境遇だったらしい。

まあ、ね。こんなこと陰で書いちゃって申し訳ないが、だらしなくって情けなくってしょうもないA。客観視すれば女性の敵でもあるのだけど、なぜか憎めなくてもはや四半世紀のつきあいとなっている。
寅さん映画で おっちゃんが 「またか 寅のやつ」と吐きすて、おばちゃんが「寅ちゃんたらしょうがないねえ」とエプロンで涙をぬぐうそんな光景。Aにはそれと同じような匂いがまつわる(じゃ 私はさくらか 笑)

で、長々書いたがあさってTの企画で久しぶりに三人の兄と 昼行灯と私と 五人で飲み会予定です。
それに至ったのも色々裏話があり、昼行灯と私はTとNからのA情報をメールで交換しながらで抱腹絶倒してしまったのである。

長くなったので、その経緯と飲み会報告は木曜日以降に♪
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再会2

2007-05-14 22:41:39 | 記憶の箱
昨日の続きです

さて 居酒屋の入り口からふらりと現れたK。まず私は彼の髪の毛があることに安堵しました(笑) だってここ重要じゃないですか。Kは昔からさらりとした髪をなびかせていたタイプ ああいう髪質は青少年時は美点だけど、年をとると薄毛になるのを周りでずいぶん見ているからちょっと安心したのである(何安心してるんだ) ちょっとおなか周りも中年ぽさが漂ってはいたが、そう見かけに関しては おっさん~~↓という感じはしなかったのでちょっとホッとする(そういう自分はどうなんよ?と言う突っ込みは受け付けませぬ)

私は受付、兼 会費徴収係をしていたので着た人から4500円もらって、名前、その他差し支えなければメルアドなどを書いてもらうことになっていた。
他のメンバーは一人を抜かして(訳ありで)気軽に書いてくれた。

「しばらく K君 悪いけどまず会費集めさせてくれる?」←O十年ぶりの会話
「あっ遅れて申し訳ないです。えっ? 誰? もしかして局さんですか 久しぶりです」
「ホントお久しぶり じゃ 会費いただくね あと差し支えなかったら連絡先書いてくれる? またこの会開くかもしれないし、この会の写真も送りますよ」
「あっ 今日はOを偲ぶ会ってことで来ただけだし、(実は彼らと同じ部活に居た女性の7回忌にちなんでこの会は行われたのよね)この先は連絡はいいから 写真も遠慮しますよ 」←最初からこの態度、あんた私に喧嘩売ってるんかい と かなりムカつきつつもそれをどうにか収めて
「じゃ、あの辺空いてるからどうぞ」と案内した。

その後 亡くなったOさんの話でしんみりすることもあったが、お酒がまわってくるとちょっと最初は微妙な雰囲気のみんなも打ち解け、座も移動しはじめ、盛り上がってきた。私は最初から最後までテーブルの端でウイスキーと水割りの作成係り、Oは濃い目、×は薄め、レモン絞るやつ 梅干いれるやつ など把握してチーママと呼ばれながらサービスに徹し席は移動しなかった。
そのうち周りに気のいいSとか表同窓会にも気軽に参加するのでおなじみの職人系のMとかが集まり、そこで小さな輪で話していた。
そしたら突然Kが乱入。
遅れては来たもののかなりのピッチで飲んでいるので結構回っている様子
「どう?楽しんでる?」と私が尋ねたところ
「いえ こういう場は苦痛ですから」とK←ホントに喧嘩売るんかですよね
「おまえな そう言うなよ せっかく何十年かぶりに会えたんだろ またいつ会えるかわかんないしよ Oみたいに死んじゃうやつもいるんだからさ」とS 苦笑するK
そこで、また今まで話していた、誰が付き合ってたかとか誰が好きだったかという同窓会の定番アホ話に戻った。
「そう言えば局はさ 誰が好きだったんだよ?」一度もクラスが一緒になったことのないS このタイミングでそれを私にふるなよあほ~と思いながらも
「Kだよ」と言った。
「ホントかよ~~ 知らなかった」と騒ぐSに周りで聞いてた女性Hも 
「そうだよ~ そういう人多かったよね Kってすごくかっこよかったよね」と便乗した。
「そうだよK お前人気あったじゃん。ちくしょー 俺を好きだったって女いねえのかよ」とS(背は高かったが当時から小椋圭に似ていた)
「よしてくださいよ 俺はあの小中時代は自分の人生から消し去りたいと思っているんですから」←やっぱこういう事を言うのよね 噂通りだった
「何しらけること言ってるんだよ まあ 飲めよ」と職人Mがその場をとりなし、Kもその場に定着して更にグラスは空き、私も自分が飲む暇もないくらいお酒を作り続けた。
何度目かにKに焼酎を渡したとき
「局、薄いよ。全然酒入ってないよ!」と突き返された。それまで誰に対してもわざとらしい敬語を使っていたくせに突然その態度に戸惑いながらも
「あっ悪い じゃ 作りなおすからさ」とグラスを受け取ったら
「高校時代 失礼しましたよ すみませんでした」と突然謝るK。
(はっ?失礼って私をふったこと~~?)
「何を今更言ってるのよ へー覚えてるんだ」←空気読めよ 謝られるほうが失礼だっつーの
「覚えてますよ 色々局さんや周りのことでカルチャーショック受けましたからね。結局俺はあの学校にいるべき人間じゃなかったってことをよく理解できたしね」
まあ 詳細は省くが 当時自分がどう周りと折り合いがつかなくなっていったか、それがその後どういう影響を与えたかを話はじめたK。
私も一応はあいづちを打って聞いていたが だんだん面倒になっていった。男の愚痴を聞くのもたまにはおもむきがあるが それは惚れている男に限るとつくづく思った(笑) なんとも思っていない男の愚痴聞くのはかなり忍耐のいるボランティアだわねえ その場はボランティアしましたよ 偉かった私!
だけど、最後にお開きになる前には
「あのさ、別に差し支えないんでしょ ひねくれてないで連絡先くらい書きなさいよ。」とさっきの名簿を渡してやった。今度は結構素直に書くK。なんとなくそれで勝ったって言う気がした(笑)

Kは二次会には行かず その場でさよならした。
「今度会うのは何年後になるかしらね まあ元気でいてよ」と言ったら
「局も元気でね 思いがけず今日会えてよかったですよ」とKは言った。
あらま、お愛想も言えるじゃん と 思った。

40過ぎてはなかなか考えも変わらないと思うけど、もうちょっとKの中での小中時代が肯定的にとらえられるものになってくれればいいのにな と 思った。
嫌だったなら嫌だったでもしょうがないけど 消し去りたいって言うのは悲しいじゃないですか。なんにせよ自分の基礎を形作った時代には変わりないのだから・・・
同窓会で初恋の男に会う 甘酸っぱいブログにしたかったのに現実はこんなもんだす hirokoさん ミックさんごめんなさい(笑)



コメント (6)
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