昔別れしは是れ何れの処ぞ
相逢えば皆な老夫なり 唐・杜甫「高式顔に贈る」
初雪の便りを聞く頃に久しぶりに同級会に参加した。特急電車に乗るのもレンタカーを走らせるのも随分久しぶりなのだったが、参加した同級生の半数は卒業以来の相手だったから参加者の名簿はあっても名前が判らない。男性には臆面もなく名前を聞けたけれど、さすがに女性には失礼に当たるかと思って聞けなかったのだが、そこは不思議項近視眼いいえ、不思議膏金鵄丸の薬効あらたか話している間に彷彿と名前が湧き上がって来たのだった。お互いまじまじと見つめあえばそこには卒業式当日の写真に写った若者の今があったのだ。まあ、半世紀の空白を得ながら当時の様子に戻ってしまうのはタイムスリップしたような感じだった。
相前後して国政選挙があり何かと喧しく情けない限りだった。「同じて和せず」は毎度の異なれどまたもや期待値は「ブルータス、お前もか・・・やっぱり」なのだった。世界に目を向ければ急激に似たような結果をもたらしている様に見える。こんな時に浮かぶのは
手を翻せば雲と作り手を覆せば雨
紛紛たる軽薄 何ぞ数うるを須いん 唐・杜甫「貧交行」
子曰く、其の以す所を視、其の由る所を観、
其の安んずる所を察れば、人焉んぞ廋さんや 人焉んぞ廋さんや (為政第二)
誤解を恐れずに言えば民草の「視・観・察」の力が無くなっている様に思える。享受は膨張するも教授は及び腰、縮小する結果でもあろうか。それとも愚衆政治の台頭なのか、耄碌した身にはとんと分からん。とっぺんぱらり、えんつこもんつこさげだどや。