【城端別院 善徳寺①】
廓龍山善徳寺は真宗大谷派に属し、室町時代の文安元年(1444)に創建され、はじめは加賀国河北郡井家庄にあり、越中国法林寺村、同福光村を経て永禄年中に現在の城端へ移りました。
近世には越中国の真宗寺院の触頭のひとつとして大きな位置を占め、中世の城端城の跡を引き継いで寺域としています。
◎2024年11月24日編集 富山県にて 写真21枚
★砂子坂道場時代・・・善徳寺発祥の地・善徳寺創建之跡(金沢市砂子坂町)
善徳寺の寺伝は「蓮如上人が吉崎に滞在していた頃、吉崎から井波瑞泉寺に向かう際に『砂子坂の周覚が布教していた旧地』に立ち寄り、道場を建立するよう手配し周覚の孫蓮真に委ねた」と伝えています。
砂子坂道場跡
★法林寺時代・・・光徳寺
現在の南砺市法林寺に位置する光徳寺。善徳寺と同じく砂子坂道場から興った光徳寺は、加賀国への一時的な移転を経て、かつて善徳寺が寺基を構えた法林寺地区に移った。
★田屋川原の戦い・・・この戦いにおいて福光石黒家・医王山惣海寺勢は大敗を喫した上に本拠地も失って滅亡し、逆に勝利した一向一揆勢は瑞泉寺・土山御坊による砺波群支配体制を確立したとされる。
この法林寺時代に井波瑞泉寺が福光石黒家を滅ぼした田屋川原の戦いがあったが、蓮真・実円父子は積極的には関わらなかったと推定されます。
田屋川原の戦い後、砺波郡南部に周覚系一家衆が、北部に勝興寺系一門衆が勢力を拡大していくが、この流れの中で善徳寺も砺波郡平野部に進出していくこととなりました。
★山本時代・・・山本善徳寺跡。現在は墓地となっている。
山本善徳寺跡(南砺市山本)に実円は法林寺から更に山本へと移転し、その後永正6年(1509年)12月13日に父蓮真に先立って死去した。
現在、山本の善徳寺跡には善徳寺の墓所が残されている。また、「善徳寺」の名称が記録されるようになるのがこの頃であること等から、善徳寺が本格的な真宗寺院として活動を開始するのは山本時代のことであったと指摘されている。
★福光時代・・・現南砺市福光の知源寺
実円の死後、後を継いだ4代目円勝は天文年間(1532年~1555年)ごろに山本から更に福光に移転したと伝えられている。
伝承によると、石黒氏が福光城内の一郭を割いて善徳寺とその門前市を招き、善徳寺が福光を去るとその跡地が現在の善徳寺掛所(知源寺)となったという。
★城端への移転・・・砺波市苗加の万福寺山門。荒木善太夫が善徳寺に寄付した城門を移築したもの。
★城端への移転・・・城端別院善徳寺②へ
円勝の没後、福光善徳寺を継承し、現在まで続く城端への移転を行ったのが5代祐勝であった。
祐勝による善徳寺の城端移転時期については諸説あるが、『城端善徳寺由緒略書』に基づく「永禄2年(1559年)、城ヶ端城主荒木大膳の願いにより福光から城ヶ端へ移った」という経緯が定説とされています。
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