と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

完全マスター簡化24式太極拳 套路 前半 解説あり<背面>中村元鴻

2018年09月25日 15時47分11秒 | とーま君の流儀2018

この先生の動画を、一番日々の練習で参考にさせていただいているんだけど、覚えられないのだ・・・トホホ

しかし、ボキの師匠は古式太極拳というのであって、この動画は24式で動きが全く違うので困っている。誰か古式太極拳の動画を知りませんか?教えてくださいませ。

 

完全マスター簡化24式太極拳 套路 前半 解説あり<背面>中村元鴻

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永遠に若いボキは、80代になっても「まだまだ若い、やることがいっぺぇある」って言っているんだろうなぁ

2018年09月25日 15時33分31秒 | とーま君の流儀2018

「おめぇはまだまだ若い」と言われたら、ボキは「そうなんだよん、ボキは永遠に若いのだよん」と言うつもりである(^_^)。

 

 

自分より若い方々をつかまえて、「おめぇはまだまだ若い」という御仁がたくさんいる。

このボキだって言われる。同じことをである。しかも言っている方が、確かにボキよりは年長だが、70代なのである。しかも後半。たいしてかわらないではないか。ジジイやババアになったら、5年10年の年の差なんて何の意味もない。むしろ無駄に年取ってしまって糞の役にも立たないことの方が、恥であるからだ。ボキは、むしろそっちの方が心配であるからだ。

でも、こいつは笑ってしまう。どっだけ先輩面をすれば気がすむのだろうかと思うからである。1年2年の年の差なんてなんの意味もないではないか。

「おめぇはまだまだ若い」という台詞には、それだけ自分の方が年をとっている、円満である、完全である、たいした大物であるという自意識が潜んでいる。つまり、逆から言うと「俺は、ワシは、あたしはジジイでありババアである」と言っているようなもんである。

笑ってしまう。気がついていないからである。

そういう人は早死にするのじゃよん(^_^)。

むしろ、「自分はまだまだ若い」から、したがってまだまだ勉強しなくちゃアカンと思っている人の方が10年単位で若がえってしまうのだ。

なにしろやることがたくさんある。

「あたしゃまだ60代、70代だ」と思っている方が長生きするのだ。

これって、40代くらいからそう思っていた方がよろしい。まだまだやることがたくさんあるのだとやっていた方がいい。だから、毎日を充実させて生きることができるのだ。

どんどん自分は老け込んでいくと自己規定をしている人は、ほんとうにそうなる。

「もう50代だ」「もう60代だ」「もう70代だ」と、「もう」をつけている人はほんとに老け込む。

なぜなら、「どんどん自分は老け込んでいく」と自分の体に言い聞かせているからである。そのとおりに体が反応してしまうのである。こりゃアカンでっせ。

それをである。「まだ50代」「まだ60代」「まだ70代」と考えている人は、「まだまだあれもできる」「これもできる」「まだ未完成である」「まだまだ若いモンには負けない」と前向きに考える。だから若返るのである。

ボキは、朝、洗面所でひげを剃るときに、うっとりとする(^_^)。なぜなら、その鏡にはボキの生き生きとした顔が映っているからである。「もしかして、俺はまだ若いのであるのかもしれない」とシミジミ感じるからである。アホなジジイだが・・・。

つまり、人間の想念は人間の体をコントロールしているということを言いたいのである。

ただし、ボキは頭髪だけが年相応である。つまり、ハゲである。なにもない。スキンヘッドというやつじゃ。しかし、見ようによっては、これもまた若さの象徴である。ハゲだからといっても隠そうとしないからである。こいつは気持ちがいい。隠していると、なんとなく気が重いではないか。思い切って、頭髪をスッカラカンにしたら、本当に気分がいい。なにしろ手入れが要らない。

わはっはははっははっははっはははっはっははっははは。

 

今日も千葉市の某高校で授業をやってきた。楽しいですなぁ。こんなジジイ生活が待っていようとは、お釈迦様でも予想できなかったかもしれない。あっと驚くタメ五郎である。

まったく予定通りになっていないのが、ボキの後半生だけど。博士にもなれなかったし。

ま、良いか。

それもまた人生。これもまた人生である。

そして、ボキは80代になっても、「まだまだ80代だ」と思っているのだろうよん。

 

(。・_・)ノ

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9月24日(月)のつぶやき

2018年09月25日 06時29分43秒 | とーま君の流儀2018
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寺内貫太郎一家 '98 秋 SP( てらかん )

2018年09月24日 21時08分04秒 | とーま君の流儀2018

樹木希林さんを偲ぶ。。。。。。。。

名女優でしたなぁ。

 

 

 

寺内貫太郎一家 '98 秋 SP( てらかん )

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側にいてくれるだけで良い・・・歌詞がいいのだなぁ~~~~と思うから。

2018年09月24日 08時15分12秒 | とーま君の流儀2018

側にい~~てくれるだけで良いという演歌があったなぁ。あれですよ、あれ。フランク永井の「おまえに」。すてきな演歌でありまする。

 

 

遠藤周作の本で、イエスはなにをした人かというような文章があったと記憶している。その答えは、ただ側にいてくれた方であったというような記述があった。これはなるほどであった。

イエスだけではない。看護師の方々もそうだ。側にいてくださるだけでもありがたい。実に癒やされる。エコノミークラス症候群で入院したときに、ちょっとだけ車いす生活をしていたが、あの時もありがたかった。優しい若い女性看護師で、ほんとうに感謝した。どこに行くのにも車いすを押してくださった。四方山のハナシをさせていただきながら、ボキはありがとうございますと何度も申し上げた。

こんな汚いジジイの面倒を見てくださるのであった。感謝である。こころからの感謝である。この体験は、現在、別の某大学で看護学部の大学生たちに教えている。尊い仕事だと思っているからである。

天使のような方というのは実際におられたからである。

ボキが車いすになったのは、動けるのに動かしてくれなかったからである。立って歩けたのである。病室でタメしたから、間違いない(^_^)。

とんでもない患者であった。ま、そのおかげで今がある。元気で過ごしている。ただし、人生観が変わった。教えていない方の某大学大学院で博士を目指していたのも完全に挫折した。中退をした。

だからここら辺が、ボキの人生折り返し点であったのだ。

そして思った。側にそっと付き添ってくださる方がいるということに気がつかなくてはならない、と。

家人である。古女房殿である。どっちが早くあの世に逝くかはわからない。しかし、それまでは共に生きていかなくちゃならない。大事にしたいことの一つである。

 

樹木希林さんが亡くなった。

このご夫婦もかなり珍妙な夫婦であったと知った。なにしろ共同生活をしていない。いないが、こころの底ではつながっていたのではないのか。周囲の方々から伝わってくる情報でしか知らないけれども。

だから実際に共同生活をしているか、いないかということではない。心的状態として側にいてくれているかということである。側にいても、離れているという心理状態ではアカンのだ。

「仁」という漢字がある。

これは側にいてくれる人間のことを指す。仁は、人と人とが支え合っている意味を持つ。これをいつも念じて生活することである。だから、仁を実践している方は人徳があるとなる。

ボキじゃあとても無理である。人格者のかけらもない。人徳もない。

だいいち、そんな人間ではない。悪行三昧で生きてきたからだ。反省しかない。

しかし、人生の考え方として仁を基盤にしていると、良いこともあるのだ。

損得勘定でもよろしいのである。

仁を基盤にしていると、良いこともあると思っていればまさに良いこともあるのだ。

 

今日は、祭日である。毎日が日曜日のボキには、どうでも良いような話である。孫のところにでも行ってくるか。あ、昨日も一緒に過ごしていたっけ。剣道のライオンズ大会があって、孫のパパが審判をしていたから一緒に見学しに行ったのだった。孫は周囲がパチパチと拍手しているのでまねをしていた。かわゆいものである。手が痛くなっただろうけど(^_^)。

(。・_・)ノ

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9月23日(日)のつぶやき

2018年09月24日 06時28分27秒 | とーま君の流儀2018
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人生の追い風は、「追い求める」人生には吹かない。「捨てる」ことにあり。まったく、今まで欲張りな人生を送ってきたからで・・・トホホ。

2018年09月23日 08時52分32秒 | 精神のありかた

捨てるか、追い求めるか・・・それが問題だ。現在のボキにとっては。ま、たいした問題ではないのだけれども。

 

 

「捨てる後半生」ということをシミジミ考えている。まさしくそうだ。今までやってきた仕事や、地位(ボキにはまったくないが)や、名誉(これもない)、収入もである。収入にいたっては、年金暮らしだから減る一方である。仕方なし。

この逆に「追い求める前半生」というのがある。否、あった。もう過去形である。仕事でやりがい、生き甲斐、収入、出世、マイホーム、マイカー等々いろんなものを追い求めてきた。若い人なら当然であろう。結婚して、子どもができてますます張り切るというのは当たり前である。

むろん、途中で挫折する場合もある。それはそれで、挫折したらやり直しのきくかぎりチャレンジしていくべきである。

なぜなら、後半生ではなかなか難しいからだ。やり直しは。すでに一定の評価を受けてしまっているからだ。でも、ボキはあきらめないけどねぇ。生涯学習ごっこをやっているのもそのためであるから。つまり惚けないで生きるというのがあるからだ。

成果も出している。そうなのだ。まだ惚けていないからである。それに生涯学習ごっこで修士もとらせていただいたし。そうなのである。若いときに修士課程で学んだのではないからである。

わははっはははっはっはははっはははっははははっははっはは。

 

手に入れる前半生、捨てる後半生と言い換えても良い。仕事につくのが前半生である。仕事というのは、事に仕えると書く。うまくできている。まさに、そのとおりである。事というのは次から次へとやってくる。向こうからやってくる。どのような職種でも良し。仕事を選択したら、なんでも追求して自分のものにしていくことである。若いときは吸収ができる。ドンドンできる。貪欲に学ぶことである。実践することである。

仕事をドンドン・ガンガンやっていれば、周囲に喜ばれる。そうすると収入も上がっていく。やりがいにつながる。

時に、ボキ&アタシは収入なんか要らないと聖人君子ぶっている方がいるが、あれは嘘である。それに収入を馬鹿にしてはいけない。収入あってこその生活である。米だって、買わなければ食えない。農家は別として、まさか農家からドロボーしてくるわけにはいかない。そりゃ犯罪であるからだ。

問題は、後半生である。人生の折り返し点を過ぎたら自分でなにかをしたいと考えるよりも、頼まれごとをされたら引き受けていくというのが楽だということに視点を切り替えていくということである。

一見、おとなしい消極的な生き方のように見えるかもしれない。しかし、喜ばれるのである。頼まれごとをしてくださる方は、困っているから頼むのである。今月から、千葉市の某高校で授業をやっているが、同じである。頼まれごとであるからだ。しかも、喜ばれている。生徒にである。動画を使った国語授業も展開しているし、漢文だって資料をかなり渡している。話題を発展させている。池上彰の「伝える力」には、そんなことが書いてあって、こちらは通信制高校の授業で用いている。それの応用である。動画を作っていく授業も企画している。絵コンテを描かせるつもりである(^_^)。

楽しいなぁと思う。

もう捨てまくっているからである。自我をである。わがままな若い時とは、まったく変わってしまった。金銭の亡者でもなくなった。株式投資もやらなくなった。第一、資金がない。ちょっと年金が貯まったら、海外旅行で逃亡してしまう(^_^)。

捨てるということが、人生後半生の「追い風」になる。毎日が楽しいからである。

明るく笑ってばかりのジジイである。

 

今日は、孫と一緒に剣道の大会を見に行く。長男が審判をしているからである。孫に父親の活躍している姿を見せてやりたい。これもまた捨てる人生の楽しみでもある。

孫がなにを感じてくれるか。

あ、まだ11ヶ月の女児だった。

 

(´∀`*)ノ

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9月22日(土)のつぶやき

2018年09月23日 06時29分26秒 | とーま君の流儀2018
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「このままじゃいけない」「もっと向上するはずだ」「もっと努力しなくちゃ」=果たしてそうだったか?

2018年09月22日 07時30分15秒 | 精神のありかた

ゆるんで生きていこう。ゆったりと生きても、セカセカ生きても時間は平等に流れていくだけだから(^_^)。

 

 

ボキは、自分を許せない人間だった。「このままじゃいけない」「もっと向上するはずだ」「もっと努力しなくちゃ」というように、マジメな人間だった。

つまり、自分で自分を痛めつけていた。現状に甘んじることなく、努力こそ必須、まだまだ向上しなくちゃと焦っていた。

弦楽器の弦のようなものである。ぴぃ~~~~んと張っていて、緩みがない。いつもいつも緊張していた。成果を出したいと思っていた。

その結果、一日13時間も論文を書いていても飽きなかった。じっとしていた。某大学大学院に入学してからも、大学院生だけが入室できる部屋で閉じこもっていた。その代わり、知る喜びや調べる楽しさというのは十分味わったけど。

そして、その代償がエコノミークラス症候群で入院16日となった。某大学大学院も退学した。

まさに、ピーンと張っていた弦であった。張りすぎて、弦が切られてしまったのである。

自分の意志ではなかったと今になっては思う。天とか、神とかのご意志であったと思う。あらかじめシナリオが書いてあったのだ。

と~ま君よ、無謀なことをしたのだよんとおっしゃっていたのだ。

今になってよくわかる。

「ゆるみ」がなかった。その一言に尽きる。自分の神経を全部それこそフルに使っていた。

こうあるべきだという固定観念に凝り固まっていた。努力すべきだ、向上すべきだ、時間も無駄にしてはいけない等々。そういう固定観念に支配されていた。

自分を受け入れることができなかった。能力のない自分、博士になれない自分、論文が書けない自分が許せなかった。

某大学大学院を中退してから、海外旅行に行く機会が増えた。後半生の目的も目標もなくなったからである。

しかし、海外旅行に行ってみて、おおいに反省した。それはリラックスできたからである。リラックスすなわちゆるみである。時間の流れが国によって極端に違う。時差がある。今、朝であっても外国では別の時間である。

それに気がついたら、なにも焦って生きている必要はないと思い定めたのである。

それに、大学院で博士になろうがなるまいが、外国の人にとってはなんの関係もない。そんなもん、ただの紙でしかない。へぇそうですかと言われてお仕舞いである。

自分にも他人にも厳しく生きてしまったのだ。それが見えてきた。

これからは、自分に対しても他人に対しても「甘く」生きていこうと思っている。「緩やかに」「甘く」である。なにも焦って生きる必要はないということである。

ボキは、一生懸命、十分生きてきたからでもある。よく働いてもきた。37年間も、運動部(柔道、野球、バレーボール)の練習試合で土日もまったくなかった。さらに朝練習までやっていた。

もう良いではないか。

今まで十分やってきた自分を褒めてあげましょうと考え方を変えてしまった。

だから淡々として生きていくことができるのだとしみじみ思う。

 

昨日、千葉市の高校で4限目の授業が終わって帰ろうとしたら、4限目の授業をやっていた3年のクラスの生徒が「もう帰るんですかぁ~~」って聞いてきた。13:12分の電車で九十九里浜まで帰りたいからである。不思議だったのだろう。こんなに早く帰るのだから。心配してくれたのかもしれない。ありがたいものである。

こんなジジイになっても若い女子生徒に心配されてしまうのである。

ありがたい。本当にありがたい。

 

今日は、久しぶりに朝よく寝た。7:26である。一日ゆったりと過ごすつもりである。体のためにも、精神のためにも。

 

(´∀`*)ノ

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9月21日(金)のつぶやき

2018年09月22日 06時32分21秒 | とーま君の流儀2018
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脳細胞をフル回転させ今この瞬間に生きる!「念(気づき)を育てる」愛媛松山伊予

2018年09月21日 23時32分48秒 | とーま君の流儀2018

今日の千葉駅からの帰り、まねごとをやっていた(^_^)

 

 

脳細胞をフル回転させ今この瞬間に生きる!「念(気づき)を育てる」愛媛松山伊予

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292kg大露羅が引退!最後の一番で白星を狙う!!大相撲2018秋場所 13日目 大露羅-樹龍

2018年09月21日 23時31分47秒 | とーま君の流儀2018

侍でもありましたなぁ~~~~~!

ご苦労様でした。

 

 

292kg大露羅が引退!最後の一番で白星を狙う!!大相撲2018秋場所 13日目 大露羅-樹龍

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一切笑顔も見せないで、ブスッとしていたら運気も逃げていくのではありますまいか?

2018年09月21日 15時50分40秒 | 精神のありかた

ニコリともしない厳しい表情の某紳士を知っているが、何が楽しくて生きておられるのかねぇ。笑顔が一番、冗談も大いにやった方が人生楽しくて良いと思っているのだが。

 

 

エラク厳しい表情をしている方々と会うことがある。定年退職したのに、まだ前職にこだわっている方々である。やめたのに、思い出はつきないのだ。しかも表情が硬い。こわばっている。厳しい顔をしておられる。舐められてたまるかという強気がミチミチている。

ボキとハナシをしたがっている方というのは、****という部署にいたとか、ナントカという役職にいたとか、偉かったのだとかいう話題が多い。辟易してしまう。もうそんな話は関係ないではないか(^_^)。

もっとある。それは、古文書講座でお見かけする某紳士のことである。厳しい表情をされている。読み方が順番にくるから自分の番になったときに、ミスしたくないというわけである。緊張感がこっちにも伝わってくるのだ。しかも、おもしろくなさそうにしておられる。不機嫌なのかとずっと思っていた。そしたらそうでもなかったのだ。笑顔もない。誰ともクチをきかない。不思議な御仁である。

ボキ?

ボキは、わざとゆっくりつっかえつっかえ読んでいる。すらすらと読んでいたら、そりゃ約束違反である。だって、師匠があらかじめ解読されたノートを配ってくださるのだから、それを対照して読めばいいだけだからだ。つまり、自分の実力ではないのである。すらすら読める方が当然なのである。ま、それをわざとゆっくり読んでいる方もおかしな人間だが(ボキのことである)。

他にどう思われるかということは無縁の生活を送っている。関係ないのである。

どう思われようと、自分が楽しければいいだけの生活である。だから明るく生きている。さらに謙虚に生きている。可能な限り敬語を使っている。誰に対してもである。タメ口はきかないことにしている。その方がトラブルが少ないからである。

その結果、娘婿にすら敬語で接するようになった。あるいは長男の嫁さんにもそうである。タメ口をきかないようにしているからだ。

でも、思うことがある。究極的には人間は孤独だということをである。九十九里浜では、所詮ボキはよそ者であるということを実感しているからだ。親しい友人、つまりタメ口をきけるような友人は数少ないからだ。故郷にはいるけど。

どこまで行っても、ボキはそういう意識を持っているらしいのである。どっかに冷めた意識がある。だから、淡々と生きていられるのだろう。

何が起きても腹を立てないで生きていきたい。穏やかに生きていきたい。頼まれごとは的確に処理し、やるべきことはキチンとやる。そういう生き方が後半生の特色になってきた。

あまりギラギラしなくなってきた。

おとなしいだけのジジイなのだ。

わはっはははっはっははっはははっはははっはははっははは。

自分で言うかであるが。

 

今日は、15:44千葉市から帰ってきた。楽しい授業をやらせていただいた。ジジイだからこそ心許してくれる若人が多い。これもまたありがたいかぎりである。

さらに夜は塾である。夜バイトである。依頼があるだけありがたいもんである。

ぼけないからだ。

 

(´∀`*)ノ

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9月20日(木)のつぶやき

2018年09月21日 06時27分11秒 | とーま君の流儀2018
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夢や希望を持って・・・とやっているよりも楽しさの追求の方が良い。

2018年09月20日 17時07分55秒 | 精神のありかた

楽しいから疲れない。目の前にある仕事を楽しくやっているからである。

 

 

「夢や希望を持って努力せよ」とか「他人を蹴落としても這い上がれ」とか「受験競争に勝つことだけが人生のシアワセだ」とか、まぁまぁいろんなことを言われてきた。そうやってジジイになってみて、これはちょっと違ったのではないのかと思うことしきりである。

特に、夢や希望を持って・・・という部分にはかなりの違和感を感じる。

なぜなら、夢や希望というのは、目の前にないからである。事実、目の前に存在しないから夢となり希望となる。

高級な外車もボキの目の前にはない。

豪壮な宮殿のような大邸宅に住んでいるわけでもない。

誰をも圧倒するようなチョーブランド高学歴もない

なんも欲しくないし、これからはひたすら年金暮らしだから、希望もない。あるわけない。希望なんかとは縁遠しである。それで良いのだ。

そんな程度の夢や希望を持っていると、永久に渇望感でもって悩まされるではないか。

くだらない夢や希望を持っていると、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれも足りない、これも足りない」と、足りないもののオンパレードに陥る。そいつはかなり寂しいことである。

 

自分がなにをしたいのか、どうなりたいのかという自問自答ばかりしているのも、だいぶ危険である。少し離れてみるのも良しである。

価値観を変更してみるのである。これまで、いろんな方々から教育されてきた。特に母親からの影響が大きい。まるで母親の期待どおりに生きてきたような気がする方々は、かなりいるのではないのか。

親が、子どもを思い通りにしたいからである。子どものことはそっちのけ。影響力を及ぼして喜んでいるという構図がかなりある。

だから自立できないのである。子どもがである。自分で生きていけないのだ。自分で考えないから、夢も希望も母親から伝達という名の押しつけをされてそれを自分のモットーにしてしまうのだ。

そしてそれに気がついていないのがいるのだ。

 

気がついた男女は、強くなる。強く生きていくことができる。そういう男女は、楽しい人が多い。当たり前である。自分で生きているからである。楽しさを自分で見つけて、それなりの努力をしている。

したがって、経済生活もけっしておろそかにしない。銭を馬鹿にしちゃアカン。

聖人気取りで、霞を喰って生きていくから、銭が欲しい人は馬鹿であるとか、純粋ではないと思っている人はちょっと改めた方がいい。

夢や希望やシアワセを追い求めている人は、「自分は楽しいことをやっているのだろうか?」と問うてみたらいい。楽しければ問題なしである。

 

さ、これからボキは夜のバイトに行く。塾である。千葉市の高校で授業をやってきたから普通は疲れるのであろうが、疲れない。なぜか。それは楽しいからである。

(^o^)/~~~

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/