と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

9月19日(水)のつぶやき

2018年09月20日 06時26分24秒 | とーま君の流儀2018
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優先事項というのは、約束がいつ入ったかというのが大事だと思うのだが。まったくそのとおりである。

2018年09月19日 08時03分51秒 | 精神のありかた

よく考えてみれば、優先事項なんて確かなものではないんですなぁ。

 

 

優先事項というのがある。すべてのことにおいて、「これは重要」「これは重要ではない」という分け方である。

ビジネス世界では当然の考え方であろう。

しかし、果たしてそうだったのか。ここで過去形を使っているのは、ボキは今現在ビジネス社会に生きているわけではないからである。もっとも、これまでもビジネス社会で生きてきたわけではない。そんなことを言ったら、おこがましい。

ボキの乏しい社会体験でも、重要か重要ではないかということはあまり関心がなかった。

要するに、いつ予定を入れたかという順番が大事なのであって、どの予定を優先するかというのはまた別問題であるからだ。

よくドタキャンする人で、「ゴメン!予定が入ってしまった」という方がいるが、そりゃ違うだろう。予定が入ったのではなくて、入れたのは自分だからである。つまり、キャンセルするほど急いでいたのだろうけど、そりゃ相手に失礼である。別の予定が入ったからという言い方はしないほうが良い。そんなんだったら。それこそ友人を失ってしまう。

用事や予定というのは、「はいっちゃった」のではないのである。「入れちゃった」のである。自分がである。だから、スケジュール管理が大事なのであるが、これもまた度が過ぎるとアカン。

時間のためだけで生きているようなものであるからだ。いくらスケジュール管理をしても、人生のシナリオなんてあらかじめ決まっているのだ。いつ病気になって、いつ死ぬのかも決まっているとボキは常日頃から感じているのだ。ジタバタしたって、始まらんのだ。

冗談で、ボキの方が、私の方が早く死ぬとか言っている方がいる。佳人薄命とか美女は長生きできないというのと一緒である。美女だから早死にしてしまうからだとも言う。自分で言うかである(^_^)。

冗談でもそんなことは言わない方がよい。実現してしまったら、話にならんではないか。

ジタバタしないというのはそういうことである。そういうこと。

だから、ボキは「頼まれごと」が来たら引き受けることにしている。いつ入ったかという観点からだけで引き受けている。

後から入ったら、それはお断りしている。でないと失礼になるからだ。ゴミ出しを家人から頼まれていたら、それは以前からの「頼まれごと」である。だからやる。ただそれだけのことである。

それをである。有料の「頼まれごと」だからやる、お世話になった人だからやる、他の人ならやらないというのではいかがなものかと思っているからでもある。先に来た方を優先するだけである。

 

さ、今日は午前中に古文書講座を受講してくる。夜は中国語講座である。楽しみ、楽しみ。

(^.^)/~~~

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9月18日(火)のつぶやき

2018年09月19日 06時23分59秒 | とーま君の流儀2018
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実践こそ大事だと思うけど、本来そんなもんはしなくてもいいことばかりかも。そう思っていると気が楽になる。

2018年09月18日 18時59分46秒 | 精神のありかた

しなくてもいいことを、自分の意志でやってみようというのが大事なことだと想定しているのだ。ま、ボキだけそう思っているというだけだけど(笑)。

 

 

「自分の意志でなにかをしよう」というのが大事なことだと思っている。しかもそれは本来「しなくてもいいこと」と思い定めていると気が楽である。むろん、これはボキだけがそう思っているというだけで、それを他人に押しつけようとかはこれっぱかりも考えていない。

そういう意味で、拙ブログはまったくの独り言であって、まさに自分に語りかけているだけである。自分の考えを打鍵してみて、確認しているだけでしかない。

昨日、国立歴史民俗博物館に行ってきた。「お化け暦と略縁起-くらしのなかの文字文化-」(第4展示室)というのがあったからである。楽しみにしていた。古文書もあるのかなと思ったので行ったのだが、こっちの方は期待外れ。

ま、いいか。行っても行かなくてもどうでも良いような話である。道楽でやっている趣味の世界であるから。

それに久しぶりにクルマを動かしたし。たまには遠出しないとバッテリーに悪い。

十分楽しんできた。沖縄の映像資料にはまったく驚いてきたが。この担当の総合研究大学院大学の准教授の女性の先生が担当されたのかもしれないし。たぶんご担当なのであろう。ちょっとお会いしたことがあって、大学院進学の相談に乗っていただいたからである。

結果的には進学の夢はかなわなかったけど。

それにしても、この資料数で、環境で論文書きをしていたらおもしろかっただろうなぁとは思ってきた。蔵書数もダントツであるから。しかも専門書のみ。古文書の数ときたら、モーレツである。

しかし、また病気になったらアカン。一日10時間以上はこもりっきりになってしまうだろうから。

なにしろ厭きないのであるから、始末におえない。机にしがみついて、動かない。当然、エコノミークラス症候群になってしまう。またICUに入るのはごめんである。

と、ここまで打鍵してきて、ハタと気がついた。そりゃ自分のためだから楽しいのであって、それこそハタから喜ばれる行為であろうかということである。家人が特に喜ばない。病気になってほしくないからである。お互いの趣味である海外旅行にも行けなくなる。海外旅行というのはリラックスの極地であるからだ。世界には知らないことがたくさん落ちているし、食事も観光も楽しい。

あまりケチケチで暮らしているとお金も回らない。お金は入ってくることを心配しているよりも、回すことである。回るから、世の中が循環する。死んじまったら、あの世にまで持っていくことはできない相談である。

リラックスして生きることである。しかも、薄味で。薄味なら、他人は厭きない。あまり個性が強いと人は寄ってこない。当然、孤独になる。

ステーキと一緒である。毎日ステーキを食わせられたら、ゲップである。胃腸がやられてしまうではないか。

それよりもお茶漬けの味である。

減塩した味である。

濃いめの味は、人生を間違ってしまう。

他人をどうにかしようと思っているから、個性豊かな濃いめの味になってしまうんだよんとマジに思っている。

プラス「自分の意志でなにかをやる」ことである。実践である。実践していなければ、生きている自覚も持てない。理想論ばかり言っていたって、そんなのは学者さまにでも任せていればいい。

 

今日もアルバイトである。千葉市に行ってくる。橋本武先生のように、いろいろな資料を使って古典の授業をやってくる。楽しみである。それだけだけど。

夕方相撲を見る時間までには帰ってきたい。なんと言っても稀勢の里ファンなので(^_^)。

 

BYE-BYE!

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9月17日(月)のつぶやき

2018年09月18日 06時29分34秒 | とーま君の流儀2018
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もうおぼれても良い、これで結構だと力を抜くと浮かびあがるのである。ゼロラインである。

2018年09月17日 08時35分06秒 | 精神のありかた

初めからゼロラインを想定していると、結果がおもわしくなくとも絶望だけはしないというもんである(^_^)。

 

 

ボキは、奥州の山奥で育ったから水泳が大嫌いである。なんと言っても川で泳ぐしかなかった。それも最上川上流の吉野川という川で川幅が5メートルくらいしかなかった。そこで遊んでいただけである。楽しかったけど。

小学校の4年生くらいから町のプールができた。しかしそこは有料だった。貧乏な町役場職員の亡父と小学校の教師であった亡母を両親として生まれ育ったから銭がなかった。だから川で泳いでいたのである。

で、どうしても嫌いだった理由がある。それは知らず知らず力んでしまって沈んじゃうのだ。これは困った。近所のガキどもに馬鹿にされたからである。それを心配した従兄弟にもう亡くなったが、ショウジさんという方がいて、ボキを特訓した。一度なんか、岸辺から放り投げられたことがある。当然、ぶくぶくと沈んでしまった。

そのときである。

突然開眼したのである。もう沈んでしまってもいい、もうこれでボキの人生終わりだと思って力を抜いたのである。

そしたら、びっくりした。

なんと、浮かび上がったのである。ショウジさんが拍手してくれた。ボキも大いに喜んだ。生まれて初めて泳げたのである。ありがたいものであった。

この体験があるから、脱力が大事だとしみじみ思うのである。

つまり、基本的にゼロラインというものがあるんだということである。ゼロラインというのは、そうならなくても良いというものである。初めからそう思っていると気が楽である。

基本的に、「どうしても浮かびたい」という思いがあるとそうならないのだ。もういいや、沈んでもいいやと思うと浮かぶのだ。気持ちがゼロになると、自然と体から力みがとれてしまうのだ。ゼロラインというのは、そういうことである。

太極拳なんかもそうだろう。力むとロクなことはない。柔道もそうだ。さらに仕事でもそうだ。力いっぱい力んでいると、結果的はことごとく失敗する。自分が堅くなってしまうからである。人間関係もそうだ。なんとか円滑にやりたいと思えば思うほど人間関係は悪くなる。だから、会いたくない人とは会わなければ良いのである。仮病を使ってでも会わない。しかし、仕事でどうしても会わなくちゃアカン場合もある。そういう時は仮面をかぶれば良いのである。すくなくともボキはそうしてきた。それでもって急場をしのいできた。こつは敬語を使って遠ざけるのである。そしたら、人間関係が濃密にならなくてすむ。

夫婦間は難しいだろう。仮面をかぶってでもアワナイという場合もあるだろう。そういうときには無理せんほうが良い。そういう夫婦には、かまってあげないことにしている。さっさと別れてしまいなと申し上げることにしている。そうすると、え?そんな結論で良いのですかと言われたときもある。つまり、説得されたがっていたのだ。引き留められてみたかったのである。後は、銭勘定が支配する。慰謝料の問題である。それを覚悟で結婚したのだろうから、致し方なし。

鬱病もそうだ。かまいすぎると、だんだん症状がひどくなる。ある一定のガイドラインを設定しておいて、このレベルを超えたらドクターのところに行くとしていたら安心である。愚痴を聞いていれば良いという方もいるが、かまいすぎるから暗くなる。暗くなるから鬱になる。結局は、自分が治すしかないのである。

この自分が治すというのは、ボキの糖尿病克服の記憶と一致している。食事療法と運動療法で克服したからである。アルコールを飲むのも自分。病気になるのも自分。自分が選択したからそうなるのである。

ゼロラインというものを基本的に持っていると、いろいろうまくいかなくなっても立ち直れる。

人生万事塞翁が馬である。

 

今日はこれから佐倉の歴博に行ってくる。あそこにある総合研究大学院大学には一度ならず入学を検討した大学院である。あこがれの施設である。博士課程しかないけど。楽しみである。

やりたいことはいっぺぇあるのだ。

わははっははっはははっはははっはははっはははっはははっは。

 

(^.^)/~~~

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9月16日(日)のつぶやき

2018年09月17日 06時35分16秒 | とーま君の流儀2018
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なにも事件が起きず、毎日普通の生き方をしていることがありがたい=天からの最高のプレゼントである

2018年09月16日 08時36分42秒 | 精神のありかた

波瀾万丈よりも、毎日がなにごともなく普通に淡々と過ぎていくことがありがたい。居住地の神社でもお礼を言うだけでお願い事はしたことがないし。宝くじも当たったこともないし(^_^)。

 

 

仕事をしている時代には、毎日が同じことの繰り返しでつまらないとも思っていた。しかし、あるときからかなり変化した。やることが大変化した。学校をよみがえらせるために粉骨砕身努力した。この時期が実に楽しかった。成果も出た。

しかし、だからと言ってそれがなんになろうか。自慢して言っているのではない。

なにも起きない、変化しない、一見つまらない日常であっても良いのだと最近は思っている。

淡々として生きている、あるいは淡々と過ぎていく今のこの瞬間が幸せの本質なのではないだろうか。

波瀾万丈という生き方がある。そういう名前のテレビ番組もある。しかし、波瀾万丈というのは周囲から見たらそう見えるだけであって、波瀾万丈の生き方をしているご当人は自覚がないのだろうと想像している。

生きているただ今が、すべてであって、なにもオノレの生き方が波瀾万丈だとは思っていないからである。

ボキだって、新聞配達しながら苦学したことを従兄弟たちに波瀾万丈だと言われたことがある。従兄弟たちにすら、ボキの生き方は普通じゃないと受け止められていたのであった。本にしてみないかとも言われてしまったが、それはいくらなんでもできない。才能がない。やる気もない。

なにも事件が起きず、毎日普通の生き方をしていることがありがたいのである。天からの最高のプレゼントだと思っているのだ。朝、目が覚めたことも奇跡である。本当なら、昨夜のうちに死んでいたのかもしれないからである。

そして、やおらウオーキングに出かける。朝日が上ってきたら最高である。パワーが伝わってくる。今朝もすでにMetsで5000歩は突破した。しかも早歩きである。おかげで、血糖値も正常で、糖尿病の薬ともオサラバしてもう二年になる。

なにかが起きてくれたら最高なんだけど、という言い方は危険である。幸せというのがあっちから来てくれると思っているからである。幸せというのは、来てくれるものではない。むろん、こっちから迎えにいくものでもない。

今、現在がすでに幸せなのである。本来、幸せなのである。手かせ・足かせから自由になっていることが、幸せというものである。

水前寺清子さんの歌に「幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね」というような歌があったような気がする。でも、ボキは、この歌は、ちょっと違うような気がするのだ。努力が前提にあるのだろうけど、努力しても精一杯努力しても駄目だったらどうするのか。

そうじゃないような気がする。

失敗しても挫折しても受け止め方次第なのである。

今のこの瞬間を大切にしていれば、道は開けるような気がするのだ。

今朝のウオーキングで毎朝寄ってくる神社がある。家人の女子校時代のクラスメイトが神主をしている神社である。拝殿にむかって、作法通りにお辞儀して「ありがとうこざいます」とお礼を言ってきた。ちなみに、ボキはお願いごとを一切しない。病気治癒もお願いしない。宝くじが当たりますようにともお願いしない。100歳過ぎまで生きられますようにともお願いしない。

ここから先は神様こそ知るである。

わはははっはははっははっはははっははっはははっははは。

 

(^_^)ノ””””

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9月15日(土)のつぶやき

2018年09月16日 06時29分45秒 | とーま君の流儀2018
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Let's Get Funky!! ~武生商業高校・植田薫先生の日本一ファンキーな吹奏楽指導~

2018年09月15日 09時54分00秒 | とーま君の流儀2018

こっちも橋本武先生と同質な気がするのですが(o゜∀゜o)

 

 

Let's Get Funky!! ~武生商業高校・植田薫先生の日本一ファンキーな吹奏楽指導~

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100歳の伝説の灘高講師、橋本武先生の特別授業

2018年09月15日 09時35分37秒 | とーま君の流儀2018

ボキの理想です。

事実、これでこそ受験も成功します。

自分で考えられるからです。

 

 

100歳の伝説の灘高講師、橋本武先生の特別授業

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ほめるの上手ですねぇって、言われてしまった。亡父亡母に真逆の書道指導をされたからである。今となっては感謝しているが。

2018年09月15日 07時09分55秒 | とーま君の流儀2018

どうやらボキは、欠点指摘型のノウハウを持たないようである。その方が実力が身につく。厳しく指導すればするほど、相手は逃げていくからである。

 

 

「相手の優れたところを見抜き教えてあげることが本当の教育である」ということを実感している。

昨日も千葉市の某高校で授業をやったし、夜は夜で塾のアルバイトをやったからである。

まさに実感している。なぜか。生徒に言われたからである。「ほめるの上手ですねぇ」って(*´∀`*)。

なるほどボキは欠点指摘型のハウツーを持たない。相手の弱点を攻めてそれでもってなんとかしようというタイプではない。そんなことをされたら、やる気がなくなってしまうではないか。経験上。

ボキの亡父亡母は字がうまかった。書道を本格的にやった。亡父の方がうまかった。墓の字も書いていた時期があったくらいである。

だから、字のへたくそなボキを厳しく指導した。これには参った。なんでこんな汚い字を書くのだと何度も何度も指導された。そりゃそうだろう。自分がうまく書けるのだから、才能のない息子にいらだったのはわかる。

それにしても程度問題である。新聞紙を何枚も用意して、筆で何度も練習させられた。ホトホト嫌になっちまった。

もしかしたら、あきらめさせるために練習させたのだろうかと思っていた。すべてをである。

ま、その教育効果は大いに上がった。ジジイになったボキは、すべてを受け入れることにしたからである。字の汚い自分を受け入れた。

スポーツもそう。体を使ってなんかやろうというのも苦手である。太極拳を練習しているが、あれもなかなか覚えられない。頭が悪いからだろうなぁと思う。

そして思った。約26年ぶりに古典の教育をさせていただいているが、これもまた教え方一つであると。四面楚歌を授業でやっているが、それこそ話題をどんどん拡大して、項羽と劉邦の関連資料をいくらでも印刷して配っている。歴史的な理解もそうだが、ひたすら書き下しにして語釈、訳をつけるだけではいかがなものかと思うからである。

それにしても26年ぶりである。長い間カンリショク生活をやっていた。だから、授業のカンがさび付いてしまった。もっとも、大学や塾でこの7年間授業をさせていただいてきたから、人前でハナシをするのは大丈夫である。だからできるようなものの、基本にあるのは「賞賛の教育」である。

まずはほめる。意欲をである。それから訂正した方が良いところは、やさしく言ってあげることが大事である。

勘違いしないことである。

私学の雄である灘高校の国語教師橋本武先生を思い出したのもよかった。中勘助の「銀の匙」一冊を3年間かけて分析していくという授業である。ボキにできることは、橋本武先生の後をおっかけるだけである。作家の遠藤周作氏も教え子の一人だった。

101歳まで生きられた。

 

1984年 - 灘校を退職。その後も、地元の予備校で校長兼講師、地元の文化教室で『源氏物語』の講師を務めるなど、精力的に活動を続ける。

1994年 - 解離性大動脈瘤で緊急搬送され、高齢を理由に手術不可能と言われたが、奇跡的に損傷箇所が塞がり九死に一生を得る。

2002年 - 妻と死別。

 

なんだか橋本武先生の後追いをしているような気になってきた。手術不可能と言われても奇跡的に治ってしまっている。しかも「解離性大動脈瘤」である。こいつは怖い。ボキもエコノミークラス症候群で16日間入院していたときに、4人部屋の足下の方にいた紳士がこれだった。めげずに、たばこも吸っていたらしい。奥様に叱られてばかりいた。ボキよりも若い50代の紳士だった。怖いものなしであった。叱ってばかりいるから、逆に反抗していたのであろうから。

ううううううううううううううううううううううううううむ。

まさに実感している。

ほめ上手こそ、最大の教師である、と。

 

さ、今日は久しぶりにオヤスミである。昼寝もしようっと。どんな楽しい一日が待っているかと思うとワクワクしてくる。

ありがたいものである。

 

ジジイの青春である。

 

(^_^)ノ””””

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9月14日(金)のつぶやき

2018年09月15日 06時35分23秒 | とーま君の流儀2018
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楽しい生涯を送りたいものである。自分が楽しければ、周囲も明るくなるから。バイト三昧の後半生でもあるけど。

2018年09月14日 18時41分01秒 | 精神のありかた

中勘助の銀の匙を扱った灘高校の橋本センセのように生きてみたい。最も尊敬している方であるから。楽しい生涯であったろうなぁと思うので。

 

 

なにが正しいのかと思うことがある。あるがクチには出さないことにした。社会現象万般のことについて、マスコミをはじめとしてまぁまぁうるさい。首相批判に始まって、いろいろな組織のあり方について、全否定ばかりしている。

本当にそうだろうか。そんなにデタラメなものばかりだろうかと疑問に思う時があった。果たしてマスコミの言っていることは正しいのだろうかということである。

マスコミの言うことを鵜呑みにして、ボキも一丁前に社会批判をしたことがあった。

しかし、今はちょっと違う。

全部自分の思うとおりにしたいとは思わなくなったからである。相手を、社会を自分の思うとおりにコントロールしたいというのは、不遜であると感じるようになったからだ。

家族関係でもそうだ。家人を思うとおりにコントロールしたいと思ってもそんなもんは不可能である。自分とは一心同体だと思うから、腹が立つのである。

たとえ自分の子どもであっても、思うようにならないのが家族である。

だったら、そういう現実を受け入れるしかないではないか。

そんなもんで、グチャグチャ悩んでいるよりは、「自分にとって楽しい」と思われるようなことをやったほうがずいぶん良い。自分が楽しければ、他に喜ばれる。他が喜んでくれるのならば、自分も楽しい。好循環である。

毎日が楽しくなる。自分も他人も、家の中も。それにアルバイト先でもそうだ。

働いているとどうしても評価される。他人からどう見られているかということが気になる。そりゃしょうがないことだ。

まだ現役の仕事人ならば、そりゃ仕方なし。会社には勤務規則もあるし。

ま、ボキは、定年で引退してしまったから、自由自在に生きている。評価もまったく気にならない。誰がなんと言おうと、ボキの評価が低かろうと関心がない。関係ないからである。しかし、そんなボキでもトラブルは起こさない。自分が楽しいからである。楽しくアルバイトをさせていただいていれば、周囲がよくしてくれるのだ。今日もこれから行くが、千葉市の某高校でも楽しいから同僚の方々も親切だ。さらにボキの胸にぶら下がっているネームプレートも、カードとネームカードの入れ方が逆だと直してくださるのだ。女子生徒がである。こんなことは初めてであった。長いこと学校関係で仕事をさせていただいてきたが、初めてである。

楽しいものである。だから必然明るくなる。そりゃそうだろう。こっちが生き生きとしていれば周囲も明るくなる。なにがなんでも明るくふるまうことである。

そうして「ありがとう」と感謝していれば、ありがたいことが向こうからやってくる。

 

中勘助の銀の匙という作品を材料に、これ一冊で3年間授業をやったあの名門高校の灘の橋本センセという方から教えていただいたことでもある。

ちなみに、小学館文庫のHPにこんな紹介がある。橋本先生の解説付きの文庫の方である。

 

>漱石絶賛の名文が伝説教師の解説付きで甦る

古い茶箪笥のひきだしから小さな銀の匙(さじ)を見つけたことから、幼年期の叔母の愛情に包まれた日々を、透き通るような無垢な目線で回想していく主人公。明治43年に前篇が執筆され、夏目漱石の「子供の世界の描写としては未曾有」という絶賛・推挙により、大正2年から東京朝日新聞で連載された、中勘助(1885-1965)の自伝的作品。戦後の灘中学でこの作品を3年間かけて読み込む授業を実践、同校を名門校へと導き、中本人とも深く交流した橋本武(現在100歳)による当時の授業を再現する[解説]を全編に掲載。本文の理解を助け、横道にそれる橋本授業の真骨頂を体験できる、[知的ヒント]と[気づき]がちりばめられた1冊です。

※橋本センセは、2013年に亡くなられたけど。

 

こういうことをボキはやりたいのである。100歳まで。

 

わははははっはははっはははっはははっは。

 

さ、今日も元気に千葉市に行ってくる。さらに夜は塾に行く。数学のⅠの問題が昨日できなかったから、往復の電車で参考書とにらめっこである。

楽しいなぁ。

アホのごとく楽しいですよん。(アホだけど)

 

BYE-BYE!

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9月13日(木)のつぶやき

2018年09月14日 06時30分02秒 | とーま君の流儀2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/