団塊世代の人生時計

 団塊世代として生きてきた「過去」、「現在」、そして「未来」を、自分自身の人生時計と共に綴り、「自分史」にしてみたい。

ヒューマニエンス “皮膚” 0番目の脳

2021-03-07 13:18:01 | 音楽

ヒューマニエンス “皮膚” 0番目の脳

2021年03月07日(日)

 

 皮膚は音を聞くことができる、というのです。驚愕!

 

 明日8日(月)23:45からBSプレミアムで、「ヒューマニエンス “皮膚” 0番目の脳」という番組が放送されます。(先週の木曜日に放送された番組の再放送)私は視聴したのですが、非常に興味深いというか驚愕でした。「皮膚は音を聞く」というのです。学者によると、「聞こえない超音波成分を豊富に含んだ音を皮膚が聞いているとき、脳の中の報酬系神経回路といって美しさとか快さを生み出すような神経回路があることが分ってきた」ということでした。実験では、同じ音楽で超音波成分を含んだものとそうでないものを聞き比べ、超音波成分を含んだものでは、「身体があたたまる」とか「幸福感が増したような感じ」といった感想がありました。(注「超音波」とは、耳では聞こえない音域です。)

 CDが出た頃、LPとの比較で、LPの方が音が良いと言う人が少なからずいました。CDは20㎑までしか記録できませんがフラットな特性ですし、SN比やダイナミックレンジが圧倒的に優れていましたので、私はCD派でした。しかし、今にして思えば、LP派の人の肌感覚が優れていたということなのでしょう。(笑)

 注釈が必要でして、LPの方が音が良いという人は、相当高価な再生装置を持っている人です。安物の装置ですと、CDの方が圧倒的に音質が良いです。安物の装置だった私が言うのですから、間違いありません。(笑)

 

 皮膚は音を聞くことができるだけでなく、更には、“光”を捉え、“味”を知るという感覚が備わっていることも分かり、肌と肌との触れ合いが人間形成に重要な役割を果たしていること等も紹介されています。音楽ファンならずとも必見と思います。

 

 超音波成分を含んだ音を、何かの療法として使えないものかと思います。(既に使っているかも知れませんが)

 

 

 次は、2007年の私のブログです。

 

 

                         音楽浴


                                          2007年12月22日(土)


 12月20日付けの毎日新聞に、作家の光野桃さんの「コラム」が載っていました。その美文をぜひ、紹介したくて・・。

 光野さんが、イタリア人で初めてチャイコフスキー・コンクールで優勝したというチェロ奏者のマリオ・ブルネオのコンサートを聴いたことのエッセイです。

(前略)溢れんばかりの色彩に満ちたブルネロの音楽が、頭の上からシャワーのように降り注いでくるのである。それは、聴く、というより、まさしく、浴びる、と言った感覚に近かった。音の粒が、一つ一つはっきりと感じられ、それが、身体の中心に響き、奥底から揺さぶってくる。音楽が色となり形になって、ストレートに身体に入ってくるのだ。
 音楽とは確かに振動なのだ、と、そのとき実感させられた。振動の細かな粒が、体内の水を揺らして、マッサージする。身体と心が一体となって「気持ちいいっ」と叫び始める。
 いい音楽を聴いたときはエンドルフィン(気分を高揚させる脳内物質の一つ)が湧出されて、脳波がアルファ波になる、とはよく言われることだが、演奏する音楽家に近い場所で聴くことは、まさしくその効果が強められるのかもしれない。

 「クライマックス」へと続きます。

 演奏が終わったあと、友人の顔を見ると、つやつやと、まるでエステに行ったみたいに輝いている。お互いに肌がきれいになったことを確認し、これこそ「岩盤浴」ならぬ「音楽浴」効果だと発見した思いだった。(以下略)

 私も、最近「音(楽)浴」を感じることがあり、10月27日付け「アジアン・ユース・オーケストラ」で触れたのですが、文章力がなくて・・。

 ところで、私はベートーベンの第9の合唱団員として歌ったことがあります。
 そこで感じたのは、「音の礫」なのです。
 私の後ろの人が歌う声が、「固い音の塊」になって、私の後頭部を直撃するのです。合唱指導の先生も、「前の人の頭に唾を飛ばすように声を出しなさい。」と言っていました。繰返しますが、「音の礫」です。

 合唱団員は、その「音の礫」を投げつけられると、アドレナリンが湧出され、自分も誰かに投げ返そうと「戦闘モード」に入ります。合唱団全体が「戦闘モード」になることにより、あの迫力ある合唱になるのです。
 「音の礫」を感じるのは、多分、オーケストラの団員も同じだと思います。

 ということは、ステージでの音の「礫」がフロアーに伝わる間に、「て」が消え、光野さんの言う音の「粒」になるということなのでしょうか。
 どうして、「て」が消えるのでしょうか? 私は、なんとも、想像力をかき立てられ、ロマンを感じるのです。

 「なるほど」と思った人は、私の「目くらましの礫」に惑わされた?の?か?な?

 

 

 作家の光野桃さんの批評は、正に音楽を皮膚で感じるといったものです。「なるほど!」と思いました。

 

コメント
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