水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ゴミ

2007年09月25日 | 日々のあれこれ
練習場に落ちているゴミを、誰かが100%拾うだろうか。残念ながらうちのバンドはそこまで成熟していない。返事もまあまあできるようになったし、かばんの並べ方もきれいになったし、練習後のそうじもそれなりにできるようになった。それは一昔前にくらべたら大きな進歩だ。しかし、さらにうえを目指すのなら、「それなりに」「なんとなく」ではなく、「確実に」が必要になることは重々わかってはいる。私も部員もおそらく理屈ではわかっているのだ。しかしなんとかペーパーが一枚落ちているのを気づいていながら拾えないことはある。幸いなことに、そこから大きく崩れていくほどの甘さでもなくなっているとは思うけれど。
教室に落ちているゴミを、誰かが拾うだろうか。これはほとんど拾わないだろう。今日はたまたま拾っている生徒を見かけて感心した。その子はおそらく大学入試でもいい結果をのこすだろう。理屈はわからないが経験上そういうものだと言える。
神戸の私立高校でいじめを苦にして高校生が自殺した事件があった。学校は当初いじめの実態をつかんでなかったといながら、後にそれを翻した。担任の先生も予兆はつかんでいながら対策を講じなかった事実があきらかになっている。おそらく見えていて見ていなかったのだろう。見たくないものは見えにくいともいえる。いじめがエスカレートする以前の段階で、亡くなった生徒のクラスはどんな状態だったのか。想像でしかないけれど、ゴミが落ちているのを誰かが拾う空気はなかっただろう。授業中の態度、休み時間の様子、清掃のしかた、生徒達の声の大きさ、いろんな面で教師の指導がすっと通る状態ではなかったのではないか。ぎゃくにいうと、生徒・教師の関係がきっちりしている空間で、いじめが犯罪レベルにまでエスカレートする危険性は少ない。「管理教育はいじめの背景」などとのたまう先生が昔はいたが、ふつうに考えればしっかり管理されていれば、いじめは悪化しない。もちろん人間のつくる空間だから、いじめを皆無にすることは無理だろう。しかし、ゴミ一つの段階でなんらかの指導ができる空間であれば、いじめは回復可能ないじめレベルで終わらせることはできる。まあこれくらいはいいかの積み重ねは、いきつくところまでいってしまう危険性を持っている。
コメント (1)
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