1月16日。
3年生が登校してセンターの結果をまとめる日。
一喜一憂する何人かと話したり、担任の先生と思わず握手したり、苦渋の面持ちで見つめ合ってみたり。
長い人生の中では数々のイベントのひとつにはすぎないが、18歳の高校生にとってセンター試験は、自分の人生を決めていく大きな壁のようなものととらえている子も多いだろう。
勉強するしないは本人に責任だが、ちゃんと試験をしてあげるかどうかについては、大人はもうちょっとちゃんとしてあげた方がいいのではないか。
センター二日目、理科の一科目目と二科目目の間にトイレ退出した生徒が多数いた会場もあったという新聞記事を読んだ。二科目目の問題を見てから教室外に出たのだから、不正をしようと思えばいくらでもできる。
そこまでして点数とりたいヤツにはとらせてやればという気持ちもないではないが、不正をはたらこうと思えばそれが可能なシステムで実施している大人に問題があるのは間違いない。
初日の社会の配り間違いも、あきらかに不利益を被った受験生がいるはずだ。
「ちゃんとできないのなら、へんな変更すんなよ」という声を、高校教師の代表(いつから?)として書き記しておきたい。
不正のシステムといえば、改善される気配のないのが国語の受験時間だ。
現代文だけ2問を解答する場合も、現代文・古典の4問を解答する場合も同じ80分なのだ。
評論、小説、古文、漢文と四題解くのに、80分は相当力のある子でもぎりぎりの時間だ。
だから受験生は、時間配分を考えての練習を、国語についてはかなりやると思う。
それでも、15分で解こうと思っていた漢文が去年みたいに難しくて例えば25分かかってしまうと、小説の後半は時間がなかったです、みたいになってしまう。
今年は、極端に難しい問題はなかったけど、それ以前に問題の質が例年に比べて低いので、ほんとにこれが答えでいいの? という悩みでよぶんに時間がかかってしまった子は多いはずだ。
小説の問6とか、今も正解の意味がわからない。
ちゃんと勉強してきた子とそうでない子との差がつきにくい問題だったと感じているのは、自分だけではないと思うのだが。
さて、新人戦の結果にめげているひまはなく、ひっしのパッチで練習していかねばならない。いただいた講評用紙を印刷して配り、基礎しっかりやろうと最初に話す。合奏はわたなべ先生におねがいし、川越市合同音楽祭の打ち合わせに川越高校まで。予想よりはやく終わったので(ていうか本田先生が全部だんどってくれてあった)、ドトールで少し読書と講習の予習。
1月17日
今日からはじまる講習の準備をしていたら、センターで今ひとつ結果が出なかった子がきて、「いろいろご指導いただいたのにいい結果が出なくてすいません」と言うではないか。謝るのはこっちだと言いながらロビーで少し話をする。
人生は長いから、今時点での不本意な結果は、後々にはプラスだったと思える日が来るかもしれない。一方で誰の人生もいつ終わるを迎えるかわからないのだから、落ち込んでいたら時間がもったいない。結果は結果として受けとめて、次にできる最善のことをやろうよと諭す。いつしか自分に言い聞かせるように。
午前の担当教室に行くと11人いる。「萩尾望都か!」と心のなかでつぶやきながら問題を解いてもらう。 午後のクラスには4人。人数は少ないものの、彼らの志望校にあわせた問題を毎日教えるには、さすがに予習が大変だが、やりがいがある。
合間に部活の新しい曲の譜面を用意をする。なんかやりがいだらけだ。