水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

異類憑依

2012年11月24日 | 日々のあれこれ

 オネエ系とよばれるタレントさんと言えば、昔はおすぎさん、ピーコさんしか記憶がないが、他にもいらっしゃっただろうか。今はほんとにたくさんいる。とくにマツコデラックスさんは出ずっぱりで、自分も「怒り心党」はかかさず見ている。明日の踊りのためにスカートをはいてみて、この格好でいろいろ語ると、尾木先生みたくなれるかなとちょっと思った。
 オネエ系の方がこんなに人気を博すのはなぜか。

 内田樹先生がこんなことを書かれている。


 ~ 異類憑依は文学の基本技法の一つである。作家自身と人種、言語、性別、習俗、価値観、美意識の異なる語り手を造形し、その語り手の言葉を通じて、作者自身とその読者たちを共に軛しているエゴサントリックな臆断を戯画化するという批判の技である。(内田樹『昭和のエートス』) ~


 ちなみに「共に軛(やく)している」は「つながってて離れがたい」、「エゴサントリックな臆断」は「自己中心的なきめつけ」ぐらいの意味です。
 たとえば太宰治が、女学生を一人称の語り手にした小説『女生徒』や、目の見えない人が書いたという設定の『盲人独笑』を書いた。
 そういう語り手をおくことで、作者と読者の間にある「当然の前提」やら「普通の感覚」やらの無根拠さやあやしさが自然とたちあがってくると、内田先生は言っている(んじゃないかな)。

 オネエ系のタレントさんの語ることばには、これと同じ機能があるんじゃないかなと思って。
 男が男言葉ではなく、あえてオネエ言葉で語ることによって、言いにくいこともずばっと言えてしまう。
 男が男のまま普通に語るとバッシングを受けてしまうようなことも、すうっと受け入れてもらえる。
 石原慎太郎氏のセリフはその9割がむかつく人も多いが、同じことをマツコさんが言うなら、「そう、そう、そうなのよぉ」と頷いてしまうのではないだろうか。
 だから女性で男言葉を駆使するタレントさんがいないのは、男社会の論理が世の中のとりあえずの前提になっている証左とも言える。
 そして、「異類」しか本音を語りにくい世の中というのは、いかにも不健全だと思うのだ(スカート一回はいただけでここまで考察してしまうボクちゃんってエライかも)。

コメント
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