古文で「まし」を教えるとき、必ず使う例文がこれ。
我鳥ならましかば、君がもとに飛び行かまし。
英訳してみなさいと指示したあと、
If I were a bird, I would fly to you.
と答えを書く。
仮定法は事実と違うことを言うのだから、amじゃなくて「was」「were」をつかうんだよね、といかにも英文法まで知っているふりをする。
いきおいで、「ローマの休日」で、ダンスに行かないって誘われたオードリー・ヘップバーンが、「I wish I could」って答えるシーンがあるんだけど … と言いかけて、みな完璧にきょとんとしているが、しょうがないよなあ、そんな例を持ち出すことがおかしいと瞬時に反省した。
いまの高校生が「あ~、あれね」とすっとイメージできる何かを探すなら、「少年ジャンプ」のマンガなのかなあ、むしろ「コロコロコミック」ぐらいかと考えてたときに、「今の日本人の教養は少年ジャンプ」という記事が目に入った。
~ KADOKAWA・DWANGO社長の川上量生さんに、「教養」について聞いた。
――川上さんにとって、「教養」とは何ですか。
教養とは、ある時代のあるクラスター(集団)の人たちにとって、コミュニケーションをするのに最低限必要な共通言語ということではないでしょうか。
――たとえばどんなものでしょうか。
いま日本のインテリに通じる教養って何でしょう。理想はともかく、現実は。文学的な教養でいうと、たとえばみんなが分かるのは何ですか。村上春樹ですか。
――夏目漱石やシェークスピアでしょうか。
夏目漱石やシェークスピアは、明らかに読まれていない。村上春樹も知識人と呼ばれる人って意外と読んでいないんじゃないでしょうか。ネットを見ていると、みんなが本当に知っていて、共通言語としてひねったことを言う時に使われているのは、「ドラゴンボール」とか「北斗の拳」「ハンターハンター」、つまり「ジャンプ」ですよ。 (WEB「朝日新聞」) ~
しまった、「北斗の拳」「ハンターハンター」も読んでない。
たしか代ゼミの船口明先生だったと思うが、生徒と話題を共有し、たとえ話に用いるために「ワンピース」を読んで、そしてはまったとおっしゃっていた。
それをうかがって俺も「ワンピース」を読もうと決意して買ってきて、え? こんなかんじ? けっこうえぐいねと思って挫折した。
平均的おじさんよりは、マンガ読んでる方に入るのではないかと自分では思ってるが、ストレートなものを読んでない、つまり教養が足りないのだ。
ちなみに今一番どきどきしてる連載は、映画化もされるという、三部けい『僕だけがいない街』だ。
この作品の密度は半端ない。お酒のんで読んでいると話がわからなくなるので、ドトールで集中して読む。
他に「恋は雨上がりのように」「響~小説家になる方法」「忘却のサチコ」など、いま旬の物は楽しく読めるのだが。
漱石は読まれていないと川上氏は言うけれど、「我が輩は猫である、名前はまだない」とか「親譲りの無鉄砲で子どものころから損ばかりしている」なら、知識人と言わずとも、大体の人は漱石ですよね? ぐらい思うのではないだろうか。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」だとあやしいかな。
「我が輩は○○である、○○はまだない」という表現を誰かがもちいたとき、「あ、漱石をふまえてね」と思う。パロディ? 本歌取り? みたいに。
かりに漱石を全く知らない人は、何がおもしろいかわからずキョトンとするだけで、事情を知ると「それ、パクリやん!」と非難するかもしれない。
パクリかどうかを判断するのには「教養」が必要だなあと、漠然と考えたのでした。