学年だより「下克上受験(1)」
桜井信一さんは、娘さんを私立中学校に入れたいと考えた。
桜井さんは「中卒」である。中学時代にヤンチャをして、それに見合った高校に入ったものの、意義を見いだせず、高一の夏に中退した。ともに高校に行ってないご両親も、とくに反対しなかった。転職をくりかえして現在の職場に落ち着いた。奥さんも中卒である。
暮らしは、裕福とは言えないが、不幸ではない。ただ、中卒という学歴に見合った仕事にしか就けないのが現実であり、それは「食う」ためだけのものだった。仕事そのものにやりがいを感じたことはなく、「中卒」に対するコンプレックスはあった。
そんな自分の人生にもたらされた最大の喜びは娘さんの誕生だ。無数の父親候補から自分を選んで生まれてきてくれた。
しかし、こうも思う。もっと経済的に豊かな家に生まれていたなら、娘は違った人生をおくれただろう。家に暖炉があるようなお屋敷の子に生まれさせてあげたかった。
世の中を現実を知るにつれて、娘をこのまま大人にしていいのかという思いがふくらんでゆく。
~ ある書き込みで「職業に貴賎なし」と発言している人がいた。私はそんな言葉を聞いたことがない。大卒の人たちには標準レベルの言葉なのだろうか。私の親類縁者10人に友人知人を加えて20人ほど集めたとしても絶対に誰一人として知らないはず。早速ネットで意味を調べてみたが、いまひとつ理解ができない。
この言葉は上から下へ向けて慰めるための言葉なのか、それとも下から上へ叫ぶ言葉なのか、私には理解ができない。むしろ、急速なネット社会化は「貴賎」を明確にしてしまったと思ってしまう私は、やはりこの言葉の意味を正しく理解できていないのかもしれない。
ネット社会化によって、今まで聞えてこなかった罵声が目に飛び込んでくるようになった。身分による壁だけでなく、本音と建前の間にあった和風の壁までも取っ払ってしまい、何もかも丸見えになってしまった。
すると、知りたくないことまで嫌でも気付かされてしまうのだ。富裕層の年収、貯蓄、食生活、考え方、その羨ましい限りの情報は私たちにとってストレス以外のなにものでもない。確かにネット社会の到来は国境を越えて情報をやりとりすることに成功した。しかし同時に社会のタテ方向の情報閲覧も可能にしてしまったのだ。
想像の域で止めておきたかったエリート社会の情報の数々。向こう側がそんなにも幸せだとは気付かなかった。それを現実に知ることが可能になった時代をトボトボ生きるということ。劣等感。喪失感。ネット社会は私たちにストレスを与え続けた。 (桜井信一『下克上受験』講談社文庫) ~
自分とは別の人生を歩ませたい。さいわい、香織さんの成績は小学校ではいい方だ。
そして、試しにと受験させた四ッ谷大塚の模試は、26000人中20000番台、偏差値41だった。