水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

2017年01月23日 | 日々のあれこれ

 

 入試。おかげさまで多くの受験生に来ていただき、内職のできない試験監督をし、面接で同じような質問をしまくる。
 「本校を受験しようと思ったの理由を教えてください」「どんな高校生活を送りたいですか」 …
 明らかに練習してきてないなと思われる生徒さんもいるけれど、普通に会話ができれば全く問題ない。
 会話できなさそうでも、高校に入ってからなんとかしたいと思うから、それでもいい。
 勉強以外のことまで合否判定に使おうとする大学入試の狭量さときたら … 。
「あなたの夢はなんですか」という質問に対する答えで一番多かったのは、「はい、夢はまだ決まってないのですが、高校に入ってからしっかり見つけていきたいと思います!」だった。
 なんかウソでもいいから言ってほしいなあ。そう指導されてきたのだろうけど。
 だいたい夢って「決める」ものだろうか。「よし、これがおれの夢ということにして、がんばって努力していこう!」って … っていうのは、夢というよりも、宿題みたいなニュアンスになる。
 じゃ、どんなのが夢かというと、見「てしまう」ものではないか。
 「アイドルになりたい!」とある時思いついたとする。
 何歳で思いついたことにしよう。5歳の子がそう口にしたなら「○○ちゃん、かなうといいね」と言うだろう。
 10歳ならどうだろう。かなり本気度が高いのだとしたら、親としてはそれを目指させるかどうか真剣に考えるか、自然にフェイドアウトするようにふるまうかになるだろう。
 15歳だと、本気で目指始めるには限界が近いから、ほんとに本気かをたしかめないといけない。
 なかなか親の協力無しにその道を踏み出そうとするのは難しいから。
 ただし15歳にもなれば、自分はアイドルになれるタイプかそうでないかは、うすうす自覚できるようになる。
 「夢を追うのがいちばん」「自分の好きなことをめざそう」と無責任な奨励をする先生や大人に出会い、自分を見失ってしまう若者もいるけれど。
 そんなの無理と片方で思ってても、どうしてもそれを目指すことがやめられない、それを目指さなければ自分が自分でなくなっ「てしまう」と思ってしまうこと、気づいたらごはんを食べるようにやっ「てしまっている」こと、そんなレベルのものを「夢」と言うのではないだろうか。
 夢を叶えるためにつらくても頑張ろう! という感覚では、おそらく叶わない。
 頑張っている自分に酔うことが目標になってしまう。
 はたから見たらものすごい努力に見えるようなことが、本人にとってはなんでもない、普通の暮らしになっていないと、その夢なるものには近づけない。
 だからほんとの「夢」とは、持つことさえ難しいものであるというのが実際のところかもしれない。
 そして、一般人はそれでいいのだ。夢などなくて何の問題があろうや。
 他人に迷惑をかけずに普通に生活しているなら、夢がないと他人に非難されるようなことは全くない。
 だったら面接で聞くなという意見はまったく楽しい。ただ、「将来の夢は?」と聞かれて迷うことなく「プロ野球選手です」と答え、そのとおりになった先輩もいるのは事実だ。

コメント
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