1学年だより「パラリンピックの父」
「パラリンピック」という名称の大会は、1964年の「東京パラリンピック」が最初だ。
昭和39年、オリンピック閉会後の11月8日、雲ひとつない秋空の下、代々木公園内の「織田フィールド」とよばれる陸上競技場で開会式が行われた。22カ国、560名の選手たちのしんがりで日本選手団が入ってくる、その選手団長を務めたのが、中村裕(ゆたか)という大分県の医師だ。
この医師の存在がなければ、日本で、この時期にパラリンピックを開催することはなかった。
中村裕医師は、昭和2年、別府市で生まれた。幼い頃から勉強が出来、いたずら好きで、機械いじりが趣味だった少年は、旧制大分中学を経て、九州大学の医学部に進む。
指導教官の天(あま)児(こ)民和教授は、中村に「リハビリテーション」の研究を勧めた。しかし当時、リハビリに関する日本語の研究書などなく、中村は、外国語の文献を辞書を引きながら勉強した。ニューヨークにある障がい者の団体にも出向き、多くの知見を身に付けた。
昭和28年、厚生大臣からの出張命令を受け、欧米の事情を視察できることになった。
そこで中村は、日本とのあまりにも大きな違いを目にする。
~ 最初に訪れたアメリカのリハビリ施設は大規模で、中にはスイミングプールを持っているところもありました。さらに理学療法士、作業療法士といった職業もあり、設備だけでなく人的制度も整備されていたのです。「日本ではまだマッサージの段階。とても真似ができないな」~
今でこそ、「理学療法士」も「リハビリ」も誰もが知っている言葉だが、日本で最初に理学療法士が誕生するのは、1960年代に入ってからである。
~ そして5月にはイギリス・ロンドンの郊外、ストーク・マンデビルにある国立脊髄損傷センターに向かいました。そこで中村を待っていたのは、多くの脊髄損傷患者を社会復帰させ、世界的な名声を得ていたルードウィッヒ・グットマン博士でした。
グットマン博士は、1899年にヨーロッパ中央部のシレジア地方で生まれ、医学の道を志して神経学を専攻。卒業後は神経外科医として脊髄損傷の治療に携わりました。しかしユダヤ人であったことから、ナチスによるユダヤ人排斥運動によって1939年にドイツを追われ、妻と子ども2人を連れてイギリスに亡命していました。
第二次世界大戦中イギリスは、多くの戦傷者が出ることを予想して、ストーク・マンデビル病院に脊髄損傷の特別センターを作りました。そしてその責任者になったのが、グットマン博士だったのです。
(鈴木款『日本のパラリンピックを創った男 中村裕』講談社)~
しかし遠い国からやってきた若者を、グットマン博士は歓迎しなかった。
「今までにも日本からきた人がいる。みんな口々にすばらしい、真似したいといって帰って行く、しかし誰も実行していない、君も同じだろう」と言うのだ。
「パラリンピック」という名称の大会は、1964年の「東京パラリンピック」が最初だ。
昭和39年、オリンピック閉会後の11月8日、雲ひとつない秋空の下、代々木公園内の「織田フィールド」とよばれる陸上競技場で開会式が行われた。22カ国、560名の選手たちのしんがりで日本選手団が入ってくる、その選手団長を務めたのが、中村裕(ゆたか)という大分県の医師だ。
この医師の存在がなければ、日本で、この時期にパラリンピックを開催することはなかった。
中村裕医師は、昭和2年、別府市で生まれた。幼い頃から勉強が出来、いたずら好きで、機械いじりが趣味だった少年は、旧制大分中学を経て、九州大学の医学部に進む。
指導教官の天(あま)児(こ)民和教授は、中村に「リハビリテーション」の研究を勧めた。しかし当時、リハビリに関する日本語の研究書などなく、中村は、外国語の文献を辞書を引きながら勉強した。ニューヨークにある障がい者の団体にも出向き、多くの知見を身に付けた。
昭和28年、厚生大臣からの出張命令を受け、欧米の事情を視察できることになった。
そこで中村は、日本とのあまりにも大きな違いを目にする。
~ 最初に訪れたアメリカのリハビリ施設は大規模で、中にはスイミングプールを持っているところもありました。さらに理学療法士、作業療法士といった職業もあり、設備だけでなく人的制度も整備されていたのです。「日本ではまだマッサージの段階。とても真似ができないな」~
今でこそ、「理学療法士」も「リハビリ」も誰もが知っている言葉だが、日本で最初に理学療法士が誕生するのは、1960年代に入ってからである。
~ そして5月にはイギリス・ロンドンの郊外、ストーク・マンデビルにある国立脊髄損傷センターに向かいました。そこで中村を待っていたのは、多くの脊髄損傷患者を社会復帰させ、世界的な名声を得ていたルードウィッヒ・グットマン博士でした。
グットマン博士は、1899年にヨーロッパ中央部のシレジア地方で生まれ、医学の道を志して神経学を専攻。卒業後は神経外科医として脊髄損傷の治療に携わりました。しかしユダヤ人であったことから、ナチスによるユダヤ人排斥運動によって1939年にドイツを追われ、妻と子ども2人を連れてイギリスに亡命していました。
第二次世界大戦中イギリスは、多くの戦傷者が出ることを予想して、ストーク・マンデビル病院に脊髄損傷の特別センターを作りました。そしてその責任者になったのが、グットマン博士だったのです。
(鈴木款『日本のパラリンピックを創った男 中村裕』講談社)~
しかし遠い国からやってきた若者を、グットマン博士は歓迎しなかった。
「今までにも日本からきた人がいる。みんな口々にすばらしい、真似したいといって帰って行く、しかし誰も実行していない、君も同じだろう」と言うのだ。