~ その日の信長 ~
永禄3年(1560年)皐月(旧暦5月)十二日。
信長は切羽詰まっていた。
どうする? どう切り抜ければいいのか。
相談する相手もいない。
そもそも誰かに相談して「こと」を進めるキャラではない。
意図的にそうしてきた。
尾張の一弱小領主がのし上がるには、周りを気遣っているひまはなかった。
織田の嫡男はうつけ者じゃ――。
そんな噂が広まるくらいでちょうどよかった。
さすれば、最初から相手はかまえてくる。
そこであえて真っ当なことを言う、礼儀正しくしてみせる。
一気に相手の気持ちを掴み、取り入ることができる。秘技「ギャップもゑ」と呼ぶ作法だ。
信長は豪胆に見えて、繊細な策略家だった。
いや、繊細すぎる内面をもったがゆえに、そう振る舞わざるを得なかったとも言える。
傷つきやすい内面をさらけだして人の上に立っていられるほど、穏やかな時代ではない。
「あなたさまのお好きなように、なさればよかろう。今さら、そのようなことを申されても、 私には何も言えませぬ。」
「帰蝶、つれないことを申すな。美濃の援軍は頼めぬものか」
「何を今さら。最初に頭を下げていたならいざ知らず」
この時代、信長の性格を唯一理解していたのは、後世に濃姫と呼ばれることになる、妻の帰蝶だけだったかもしれない。
父斉藤道三のもとを初めて訪れた青年の横顔を、帰蝶は今も時々思いだす。
さびしそうな目をしていた。
そしてどこか遠くを見つめている。
この人が見つめる先に何があるのか、私もいっしょに見てみたい――。
ふいにそんな気持ちになった自分が不思議だった。
思いのほか早く、それは叶えられるのかもしれない。
この人はきっと自分で道を切り開く。
追い込まれれば追い込まれるほど本領を発揮することを、帰蝶は知っていた。
「出かけてくる」と言い残して、夫は馬にまたがる。
ご武運を……。
帰蝶は心の中でつぶやいた。
よい風が吹いておる。
信長は考え事をするとき、いつもこの丘に登る。
この高台から、広大で肥沃な濃尾平野を見渡す時、いつも湧き起こってくる気持ちを抑えることができなかった。
もっと広い世界を見たい、自分には必ずそれができる、という思いだった。
遠(とお)江(とうみ)の大(おお)大名今川義元にとって、わが軍など取るに足りないものであろう。
自分の上洛を邪魔する者がいれば、蹴散らしていくまでと考えているはずだ。
戦わずに降参せよと言う声もあるのは知っている。
しかし、自ら奴隷への道を選ぶくらいならば、わしは栄光ある戦いにうってでる。
そもそも人は必ず死ぬ。
戦いがなくても、病で明日死ぬこともあるのだ。
いまこの瞬間にわしの心の臓がとまることもある。
実際、そんな人を幾度も見て見てきたではないか。
限りある命ならば、できるだけ有効に使いたい。
必ず死ぬからこそ、価値ある死を選びたい。
それが、まがりなりにも武士として、領主の家に生まれた者の務めだ。
ええい、しかし……。
「親方さまぁ!」
遠くから自分をよぶ声が聞こえる。
「ここじゃ~!(やべ見つかった)」
「親方さまぁ、何をしておられるのですか」
「ここから、今川の大軍が見えるのじゃ(見えねぇよ)」
「みんな、待っておりまする!」
「わかっておる、すぐ行く(はぁ、行きたくねぇ……)」
決断が迫られている。
また一陣の風が吹いた。
う、なんだ、この頭の痛みは……。
「親方さまぁ!」
わかったから、もう呼ぶなって。
あ~あ、どこか行っちゃいたいなぁ……。
いかんいかん、そんなことを思うては。
うう、どうした、からだが浮いていくようなこの感覚はなんじゃ……。
信長は、突風に包み込まれたように感じた。
一瞬、すべての光を失った。
冷たい炎(ほむら)の中を、肉体が通り抜けていく。
何者じゃ、わしを運ぶのは。
どこへ連れて行こうとするのか。
ほんの一時だったかもしれない、しかし同時に数百年だったかもしれない。
わが肉体を包むものは風ではない。
自分を包んでいるのは時の流れだった。
ふいに「包むもの」から開放される。新しい日差しに目を細める。
うっ。イタっ。
誰じゃ、わしにぶつかったのは。
おなごか。
まさか、帰蝶……。
ちがう、帰蝶ではないな。
面妖な衣服を身にまとっている。南蛮のおなごか。
わしを見て、怯えておるのか。
何? 信長に似ているじゃと。
似ているのではない、信長じゃ。
なぜ、その書物にわしの絵が載っておる。おまえは誰じゃ。
ただのジェイケイ? 意味がわからん。
ここは、一体どこなのじゃ……。