水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

パラリンピックの父(2)

2022年03月07日 | 学年だよりなど
1学年だより「パラリンピックの父(2)」


 中村裕医師が欧米の視察に出向いた時代、「障がい者はベッドで寝て過ごすのが一番」という考え方が、日本で一般的だった。しかし、イギリスでは障がいを持つ人が、どんどん社会復帰しているという。手術などの治療方法は日本と全く同じだった。


~ ストーク・マンデビルでは、「医療体育士」と呼ばれるスポーツ訓練の専門家がいて回診にも同行し、手脚のまひした患者でも少し動けるようになったら卓球場に連れて行ってラケットを握らせるのです。また患者をプールに入れて、理学療法士がマンツーマンで水泳を指導することもあります。さらに中村が体育館に行くと、車いすの患者がバスケットボールをしています。そこでは車いすの患者がボールをドリブルし、ネットめがけて投げていました。しかもボールが跳ね返ると車いすの患者同士が奪い合い、中には接触した衝撃で弾き飛ばされ、床に倒れこむ患者もいます。しかしその患者は平気な顔をして起き上がり、再びボールを追っていくのです。
「何だ、これは……。日本では考えられない」中村はこの光景に衝撃を受け、そして自分を突き動かす何かを感じました。 (鈴木款『日本のパラリンピックを創った男 中村裕』講談社)~


 中村は、帰国後、すぐに障害者スポーツを普及しようとした。
 勤務先の国立別府病院の医師たちに考えを話すと、「それは無理だ」「何の役に立つんだ」と反対された。「医者のくせに障がい者を見世物にするつもりか」という声さえあった。
「無理でない体制ができるのを待っていても何もできない。誰かがきっかけをつくらないといけないのなら、自分がやる。」
 こう決意した中村は、政治家、役所などさまざまなルートで交渉を進め、「第一回大分県身体障害者体育大会」の開催にこぎつける。昭和36年のことだった。
 歴史的に見れば画期的な大会だが、メディアも注目せず、大きな話題にはならなかった。
 日本人は、地方の話題など見向きもしないが、欧米の大会なら俄然注目する――。
 イギリスのストーク・マンデビル大会に、選手をつれていこうと思いついた中村は、またさまざまな交渉を重ね、募金や融資で資金をつくった(ちなみに1ドル360円の時代)。
 「よく来たね」。イギリスで再会したグットマン博士は、「君は実行力のある数少ない日本人だ」と歓迎してくれた。
 アジア人として初めてストーク・マンデビル大会に選手を参加させた中村は、欧米人にも知られるようになった。脊髄損傷の障がいを持つ人だけでなく、様々な障がいを持つ人も出られるようにしてほしいと頼まれた中村は、再びいろんな人に働きかけることになる。
 1963年、オーストリアのリンツで全盲や手足を失った人も参加できる「国際身障者スポーツ大会」が初めて開催された。その後の会議で、日本はパラリンピックの理事国に選ばれる。
 「中村がいるのだから、東京オリンピックのときにパラリンピックをやればいい」グットマン博士の提案に、中村は「やります!」と即答していた。
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