水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

パラリンピックの父(3)

2022年03月09日 | 学年だよりなど
1学年だより「パラリンピックの父(3)」


 東京パラリンピックの開催を中村裕医師が約束してから、開会までわずか1年。
 猛スピードの準備が始まった。まずは世界各国に招待状を送る。そもそもオリンピックの選手村は、障がい者を想定していない。短期間で改装できるのか。車いすを乗せる車がないからメーカーに作ってもらうこと、運転手を自衛隊にお願いすること……。
 別府の病院で整形外科医として働きながら、東京との往復を繰り返す中村を、「この人はいつ寝ているのだろう」と当時の看護師たちは見ていた。
 昭和39年(1964年)11月8日、参加22カ国、560人の選手・役員の最後に入場行進した中村の感慨はいかほどのものだっただろう。
 大会を終えて、中村の心に残ったのは、外国の選手と日本の選手との圧倒的な差だった。
 それはたんに競技そのものの能力差ではない。競技者を支える社会の差であった。
 外国の選手達の多くは自分の職業をもっていた。とくにイギリス、フランス、オーストラリアの選手は9割が職業をもち、健常者と変わらない収入があるという。日本選手団53人のうち働いているのは5人。欧米選手は、「保護される患者」ではなく、「自立した個人」だった。
 障がい者の社会復帰を進める施設や、働く場所を見つけることが必要だった。
 首相官邸、厚生省、通産省、業界団体、メディア……。さまざまな人たちとの交渉を積み重ねる。
 私財を投じて建設した施設「太陽の家」が、1965年(パラリンピックの翌年!)に開所する。
 オムロン、ソニー、ホンダ、三菱商事などの企業と共同出資会社をつくり、障がい者の雇用を生み出すことができた。
 スポーツの普及にも引き続き尽力した。第一回大分国際車いすマラソン、第一回アジアパラリンピックの開催、車いすバスケットの紹介……。
 中村医師がいなかったら、日本における障がい者の生活は、全く異なる景色を見せていただろう。
 ストーク・マンデビル大会を作ったグットマン博士は「パラリンピックの父」、中村裕は「日本のパラリンピックの父」である。大会を企画したことだけをもって、そう呼ばれるのではない。
 障がい者の生き様を変え得たからこそ、そう称されるのだ。
 グットマン博士も、中村裕医師も、自身や家族に障がいがあったわけではない。
 機械作りが好きだから整形外科を選び、たまたま指導教官に進められて、手探りで文献を読むところからスタートした中村が、なにゆえこのような超人的な業績を残したのか。
 「とりつかれたように」とか「神に選ばれた」としか言いようがない。
 世の中の枠組みを揺るがすレベルの仕事する人とは、そういうものかもしれないとも思う。
 結果的に、第一回パラリンピックは、中村にとってゴールではなく、スタートになった。
 もしかしたら、何事にも、何(なん)人(びと)にも、あてはまるのかもしれない。
 人生において、なんらかの目標を立てて、それが実現する。
 しかし、それは到達点ではなく、そこから始まったことが後でわかるということが。
 試験、おつかれさまでした。今日はゴールではなく、スタートの日だ。
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