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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

潔い

2012年11月20日 | 日々のあれこれ

 ~ 1敗の横綱日馬富士と全勝の関脇豪栄道が対戦。日馬富士の足が土俵外に出たとして、湊川審判委員が取組を止めさせたが、勝負はついていなかった。 ~

 湊川親方? 大徹さんじゃないですか。福井の生んだスーパースター。
 最高位は小結一場所だけという実績以上に人気を博し、あまいマスクと長いもみあげがトレードマークだった。
 親方がこんな形で有名になってしまうなんて。
 相撲は「取り直し」ではなく「やり直し」となり、けっきょく日馬富士が勝利を手にする。
 試合後に「負けは負けです」と、いっさい文句を言わなかった豪栄道がかっこいい。
 おれだったら「ざけんなよ、あのまま続けてたら勝ってたじゃん、まじありねなくね ちょーやるきなくなったし」と言ってしまうだろ。「だいたい、自信ないのに、なんで手あげてんだよ。現役のときだって、やたら突っ張りの回転早いわりに、いつのまにかずるずると腰高のまま下がってく相撲だったじゃん、はらがすわってねえんだよ。ちょっとダンディーな白髪になってんじゃねえよ」ぐらいまで言ってしまったかもしれない。
 それに比べ、豪栄道の立派なこと。きっと埼玉栄高校時代に人間をしっかり鍛えられたせいであろう。
 柳田格之進のごとき潔さを見た。

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11月19日

2012年11月19日 | 学年だよりなど

 学年だより「脳も肉体」

 「脳は、筋肉と同じように鍛えられる」と説明する方は他にもいる。
 浅田次郎氏は、幼いころから、自分は作家になるとなぜか心に決めていた。
 大学受験に失敗したあと、自衛隊に入隊し2年勤務する。これは三島由紀夫が自衛隊に乗り込んだ事件の影響だった。
 除隊後は、マルチ商法に手をそめ、服飾関係の会社を興し、大成功をおさめる。
 その間も小説を書き続け、雑誌に応募を続けていた。
 生業が忙しくなる一方で、雑誌に応募する小説はまったく入賞する気配がない。
 自分は商才はあるが文才はないのでないかと悩みながら、とにかく毎日小説を書く生活を続けた。


 ~ これは自衛隊で覚えたことですが、本当の体力をつけるには、急激な運動は何も必要ない。一定の同じ量の運動を毎日必ずやる。ただし、一日でもサボってはいけない。これが体力をつける重要なポイントです。脳みそも肉体の一部ですから、同じような機能でできている。だから一日もサボらず、ともかく机に向かう。(浅田次郎『勝負の極意』幻冬社アウトロー文庫) ~


 浅田氏は、毎日6時間は机に向おうという目標を立てた。さすがに仕事をしながらの6時間は無理にしても、3時間は小説を書いたり、本を読んだり、名作の書写をするという修業をし続けた。


 ~  ごはんが終わるとすっと部屋に入って机に向かうという暮らしぶりです。そうなるともう長年の習慣ですから、苦痛をまったく感じない。それを苦痛に感じるのなら、飯を食うのも苦痛ではないかという理屈でやってきた。 ~


 毎日こういう生活だから、奥さんも娘さんも、お母さんも、こういう人だと自然に理解するようになっていく。
 ついに、裏稼業に手を染めていた時代の経験を書いた『とられてたまるか』で作家デビューできたのが、40歳。その後、小説『きんぴか』シリーズ、『プリズンホテル』シリーズで人気となり、『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞を受賞した。ベストセラーになった『蒼弓の昴』の印税で家を新築し、住み慣れた家を出ることになった日のことである。


 ~ 努力目標で一日6時間、実質3時間という生活をずっと続けていると、当然畳はへこみます。畳がへこんでくると、机の高さが微妙に変わってきます。せり上がってきてしまうのです。そうなると書きづらくなり、四十肩でもあるので、疲れてくる。今度はわずかにお膳を移動します。お尻も半分移動すると、居心地がよくなる。それを何ヵ月かにいっぺんやっていくと、ちょうど壁に沿ってお膳の1メートルぐらい後ろの畳が、お尻の形にでこぼこになる。たくさんのお尻がそこに並ぶようになる。これには私も唖然とするばかりでしたが、家内はそうとう思うところがあったようで、畳のお尻の跡をなぜながら、いつまでも泣いていました。 ~

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退席

2012年11月18日 | 日々のあれこれ

 AKB48のメンバーが「悪の経典」を鑑賞したが、大島優子さんが見ていられなくなって退席したというニュースを知った。
 あとで大島さんが取り乱したことを謝罪し、「でも、私はあの映画が嫌いです。」と言い切ったそうだが、ぼくも彼女に言ってあげたい。
 「大島さんの感覚は正しいよ、原作を読めてなくてやみくもに殺しただけの映画だとよくわかったね。優子ちゃんの出てた『闇金ウシジマくん』の方が、ずっといい作品だった。これからもがんばってね、つらいことがあったらいつでも連絡してね」と伝えたい。

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11月15日

2012年11月15日 | 学年だよりなど

 学年だより「調教作業2」

 たとえば東大に入学できる高校生は約3200人。しかも毎年だ。
 何百年に一人の作家かもしれない村上春樹氏の「才能」が「恵まれていないもの」のだとしたら、受験勉強に必要な「才能」など、ほとんどなくていいようなものではないだろうか。
 仮に類いまれな才能を有していても、それを形にし続ける力をもたない場合、才能は発揮されずに終わるから、結果として、その人は才能がなかったということになる。
 「やればできる」という言葉を私たちは好んでつかいたがるし、たしかにそうなのかもしれないが、やらなければできないし、何も生み出さない。
 逆にきわめて少量の才能しかなくても、とにかくやり続け、やり続けることによって集中力と持続力を養い続けていけば、才能の不足分は十分に補いうる。


 ~  才能にそれほど恵まれていない  というか水準ぎりぎりのところでやっていかざるを得ない  作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質を(ある程度まで)才能の「代用品」として余儀なくされる。しかしそのようになんとか「しのいで」いるうちに、自らの中に隠されていた本物の才能に巡り会うこともある。スコップを使って、汗水を流しながらせっせと足元に穴を掘っているうちに、ずっと奥深くに眠っていた秘密の水脈にたまたまぶちあたったわけだ。まさに幸運と呼ぶべきだろう。しかしそのような「幸運」が可能になったのも、もとはといえば、深い穴を掘り進めるだけのたしかな筋力を、訓練によって身につけてきたからなのだ。(村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』文春文庫) ~


 作家であってさえ、集中力と持続力は才能の「代用品」になる。
 なんとか「しのいで」いくこと。とりあえず訓練していくこと。穴を掘っていくこと。
 それは、隠されているかもしれない自分の才能にたどりつくための「筋力」づくりなのだ。
 ただ、確認しておきたいが、みなさんには勉強の才能はあると思う。
 うそぉ? と思っただろうか。だったら苦労しないよ、と。
 いや、実はあるのだ。
 勉強の才能とは、理解の早さや、問題を見た瞬間に解法を思いつける洞察力とかではない。
 勉強の才能とは、机に向かってかりかりと字を書き、電車の中で単語をおぼえ、プリントをファイルしていく能力のことだ。
 それが才能? と思うかもしれないが、万人に与えられた能力ではないという意味で、まちがいなく才能の一種だ。
 勉強というとりあえずの訓練に堪えていけるのは、生まれ持った能力の一つだ。

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アンコン

2012年11月14日 | 日々のあれこれ

 Sax四重奏が金賞をいただきました。
 来月14日、初の県大会に出場いたします。
 皆様、ありがとうございました!

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2012年11月12日 | 日々のあれこれ

 昨日、飯能南高校さんの合唱曲がいいなあと思ってプログラムを見たら、違った曲名が書いてある。
 なんかかすかに聞いたことがあるような気もした。
 今日、かろうじておぼえていたさサビの歌詞をググってみた。
 「僕らの出会いを、別れとよんだ」
 そうか、森山直太朗だ。何年か前のNコンの課題曲でもあった。
 まちがいなくこの曲だろうとすぐに譜面を注文してみた(ネットは便利ですね)。


 広がる空に 僕は今 思い馳せ
 肌の温もりと 汚れたスニーカー
 ただ雲は流れ
 きらめく日々に 君はまた 指を立て
 波のさざめきと うらぶれた言葉
 遠い空を探した

 喜びと悲しみの間に 束の間という時があり 色のない世界
 不確かな物を壊れないように隠し持ってる

 僕らの出会いを 誰かが別れと呼んだ 雨上がりの坂道
 僕らの別れを 誰かが出会いと呼んだ 時は過ぎいつか
 知らない街で 君のことを想っている

 (「虹」森山直太朗)


 なんかよくわかんないけど、かっこいいな。
 「出会いがあるから人の世はすばらしく、別れがあるから人の世は美しい」という向山洋一先生のお言葉を思い出す。
 中学生も理屈はよくわかんないけど、感性としてなんかいいなと思いながら歌ったのではないだろうか。
 そして高校に入ってみずもち先生から「逆説」とか「象徴」とか習って、ますます詩のすばらしさを感じたのではないだろうか。

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バッハザール

2012年11月11日 | 日々のあれこれ

 西部地区高校音楽祭に参加した。
 学校から仏子の武蔵野音大までは、平日だと1時間でつかないが、今年も日曜だったから道がすいててありがたかった。楽器を積んだキャラバンが国道16号を軽快に走る。
 バッハザールにももう20回以上通っているのだ。ナビもいらないわけだ。
 顧問に成り立てのころ、川越から入間にかけての16号は、ところどころ一車線で渋滞箇所がけっこうあった。
 いろいろ裏道を試して行こうとしてたこともあったが、今は平日朝でも16号を使う。
 あとは河原町付近の二車線化を待つだけになっているが、そこが完成したあと何回バッハザールに行けるだろう。
 最終コーナーを回りつつあることを意識せざるを得ない。
 だとしたら、もう一花咲かせたいな。今日も曲のはじめはすごくよかった。
 「マードック」冒頭。木管低音群の響きがバランス良く鳴り、ホルンとサックスのメロディーが実のよく歌い込み一年生クラリネットがそれについていく。
 いいぞ、その調子だぞ、うまいバンドみたいだぞと思いながら気持ちよく指揮してて、だんだんとこまかいチェック点に気づき始め、そろそろ客席にもばれちゃったかな、でもいきおいがある演奏という前向き評価してもらえないかなと思いながら、でも現時点での精一杯であることは違いないと思いながら演奏を終えた。
 部員のみんなも個人個人のなかでは「精一杯」「一生懸命」なのではあろう。
 その中身のレベルをあげていく算段を、なんとか考えていかないといけない。
 午後は、ステージ係。担当してくれたメンバーも実のよく動いてくれる。ただしつめがあまい。これも演奏と同じだ。
 聞きに来てくださった保護者の方が、アンサンブル発表会がクリスマスの日になるようなので、その日にケーキを差し入れしていいですかというありがたいお言葉をいただく。
 クリスマスは男だけでケーキを食すのが青春なのだ。
 恒例の全員合唱をしてから閉会、集合して現地解散。
 サックスパートだけ学校にもどり、アンサンブルの練習。
 夕方からは雨になった。勝手に練習しててもらい、少し予習などをする。
 途中でタイムをはかりにいった。
 テンポの設定、トータルのタイムともに大体良い線いってる。あとは明日専門家に最後のチェックをしていただこう。
 ネットで、「クリスマスイブの投票もありうると安倍総裁が言われた」というニュースをみた。
 昨日は12月16日投票の目もあるといってたが、その日は指揮のレッスンが入っているし、24日はアンサンブル発表会の予定だ。
 われわれ一般人でさえ来月のスケジュールが決まりつつあるのに、国の総選挙という大事な日程が決まらないというのはいったいどういうことだろう。
 「先生、帰れます。」「オッケー、じゃ東門の方ね。」「はい。」
 雨の中、駅に向かう。
 「ああ、もうバッハザールで演奏することなんてないよね」
 「そっか、君たちは今日が最後だったんだ」
 「そうですよ。あ~あ、一年生がうらやましい」
 彼らはバッハザールに二回しか出られない。定演は3回。コンクールも三回。
 高校三年のコンクールは人生で一回。
 そう思うと、今年もシーズンはじまったなあとか、あと何回ふれるかなあなんて考えることのなんと傲慢なことよ。
 毎年、すべての演奏をその時かぎりの、かけがえのないものにすることが顧問の役目ではないか。
 来年は、もう少し大人数で出れたらいいな、今年はここまでかななんてことを、たった一度だけチラと考えた自分を、いはらくん、殴ってくれ。
 かりに部員が三人でも、吹奏楽顧問になったならば普門館もしくは名古屋国際を目指すべきなのだ。それが本当なのだと思った。
 

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11月10日

2012年11月10日 | 学年だよりなど

 学年だより「調教作業」

 たとえば小説家という限られた(選ばれたと言うべきか)生き方ができる人は、おそらく神から命じられた限られた方々だけだ。そのような限定的な才能を万人がもっているとは普通考えられない。たとえばプレミアでプレーするサッカー選手しかり、メジャーリーガーしかり。
 作家の村上春樹氏は、「小説家にとって最も重要な資質は何ですか」という質問に、「言うまでもなく才能」だと答えている。「文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれない」と。
 そして才能の次に大事なのは何かと問われ、氏は「集中力」そして「持続力」だと答える。


 ~ 自分の持っている限られた才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。
  … 集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。(村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』文春文庫) ~


 残念ながら今年の受賞はならなかったものの、ここ数年つねにノーベル文学賞の最有力候補と言われる村上氏。近年の作品『1Q84』は、数百万部を越えるベストセラーとなっている。
 そんな村上氏だが、「自分には才能が不足している」と言う。
 こちらからすれば「うそぉ!」というしかないが、あくまでもご自身の感覚としてはそうであり、その才能の不足分を「集中力」と「持続力」とで補ってきたと言う。
 「才能」はもってうまれたものだが、「集中力」と「持続力」については、いくらでも向上させていくことができると氏は考えているからだ。


 ~ このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかし、それだけの見返りはある。 ~


 集中力や持続力は、筋力を鍛えるのと同様に身体的かつ運動的努力で身につけられるのだ。

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質の高い教育

2012年11月10日 | 日々のあれこれ

 田中文科大臣の大学新設不認可問題を、すべてを彼女一人の資質のせいにして収束させようとしてる空気もないではないが、真紀子さんが提起した問題は八理くらいあると思うし、彼女の強引なあの提起の仕方でなかったら、今後も誰も何もしなかった問題であることだけは間違いない。
 「だいたい大学が多すぎるのよ、こんなに子供が減ってるのに、いまさら数ばっか増やしてどうするの」って真紀子さんが言ったとき、そうだそうだと思った一般人は多いはずだ。
 教室の後ろに貼ってある大学難易度一覧は、一番下の枠、つまり合格偏差値が実質はない大学枠がたくさんある。
 だからその大学に価値はないということにはならないが、積極的にその大学に教え子を入れたいかと言われれば二の足をふむし、そういう希望を口にする生徒さんがいたなら、よく考えて決断しなさいと言うだろう。
 それでも、行くといえばその子に決断だからしょうがないし、ぎゃくに誰もが認める難関大学に行ったから必ず成長できると決まったわけでもない。
 そもそも「質の高い教育」って何?
 「またあのおばちゃんにも困ったもんだよ」と嘆いているお役人も、文科大臣一人のせいにしている官邸も、「質の高い教育」を受けたはずの人々だ。
 そうか、文科大臣自身も自分は「レベルの高い」大学で「質の高い教育」を受けたと考えているだろう。その結果がこれか。
 なるほど、教育全体を見直すべき時期なのかもしれない。
 ただ、大学の数が多いから学生の質が低くなったという批判はあたらない。
 大学に入る前の段階で、学力の低い子は低いのであり、その状態で入れる大学が多くなったというだけのことだ。
 いま、四則計算やらアルファベットの書き方まで面倒を見てくれる大学が存在する。
 だから、かりに何人かがそうやって勉強してくれれば、「大学生になれたのだから、今まで勉強なるものをした経験ないけど、ちょっとやってみようか」と心を入れ替えてくれるなら、大学はあっていい。
 問題は、やはり「どうせうちにはたいした学生は来ないからね」とあきらめて、何年か高給をもらって去って行く先生方のほうではないか。
 たいした研究者でもないのに、かといって教育面でもがんばっているわけではない大学の先生がけっこういらっしゃるように見えてしまうのが正直なところだ。(えっ? いや別に疲れててトゲトゲしてるわけじゃないですよ)

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一之輔

2012年11月09日 | 日々のあれこれ

 春風亭一之輔さんのCDを車で聴いている。落語協会会長小三治師匠の肝いりで、今春21人抜きで新真打ちに抜擢された期待の若手だ。
 一回くらい披露目の興業にいきたかったが叶わなかったので、落語三席と真打ち披露口上の収められたCDを買ってみた。
 やっぱうまいね。ライブを聴いたのは二回かな、噂通りの若手だ、将来楽しみだなとか上から目線で聴いてた気がする。
 収録された演目は「五人廻し」「百川」「あくび指南」という、落語が好きな人はよく知っている噺だ。
 ただ「あくび指南」なんかは、おもしろくない噺家さんが演じると、かなりつまんない。
 町内の暇な若い衆が、風流な「あくび」のしかたを習いにいくという筋立てだ。
 いろんなお笑いネタ、コントがちまたにあふれている昨今、たとえば若い人にこの噺を20分聴かせるには、よほどの技量が要るだろう。
 このおれさまの知性あふれる、きれのあるギャグ満載の授業でさえ、ときに眠りにおちる若者がいるくらいだし。
 で、一之輔師は、ふつうにはなしてるだけ、つまり今風のギャグはほとんど入れないのだが、聴けるのだ。
 何が違うのだろうと思い、ふと吹奏楽の演奏にも同じことが言えるかもと思った。

 同じ曲を演奏して、うまい下手があるのは当然だが、うまいけど面白くない、下手だけど感動するという演奏にでくわすことがある。
 同じように演奏してても、妙に古くさい音に聞こえるときと、なんかすっきりとおしゃれに聞こえるときとがある。こっちの方がいまの話題に近いか。

 落語、とくの古典落語のネタは、基本誰が話しても中身は同じなのだ。
 でも噺家さんによって、まるっきり印象が変わる。
 何がちがうのか。その人自身がちがう。その話をいったんからだに入れるけど、そのからだが異なる。
 それを話す話し方も異なる。
 話し方そのものが演奏技術だとすれば、面白いかどうか、伝わるかどうかは、どれだけその噺を自分のものとして消化しているか、どういうイメージをもっているか、ということになるだろう。
 そして自分の中にあるイメージが、聞く側に伝わるかどうかをちゃんとシュミレーションしているかどうか。
 話している自分を客観化できるかどうか。
 そういう感覚をもっててはじめて、今の人に伝わるものになる。
 客席にいるのは、江戸末期や明治時代の人ではない。
 たまに寄席に出かけると、客席の平均年齢の高さに驚くけど、でも現代を生きる人々だ。
 何十年前の名人をそのままコピーして、完璧にできたとしても、今のお客さんは納得しない。
 楽譜の音を譜面通り完璧に再現できたからといって、いい演奏になるとはかぎらないというのと同じだ(かな)。

 楽譜に書いてあることをそのまま音にしても音楽にはならないと、バンドレッスンの先生から、そして常日頃わたなべ先生から繰り返し言われているものの、なかなか一段階上に進めない。
 今の自分の演奏は聞く側にどう伝わっているだろうかという感覚を育てるのは難しい。
 ただし、うちの場合は、まず楽譜に書いてあることを、まずちゃんと再現することを目標にしなければならないのは言うまでもない。

 漢文2こ、現代文2こ、昼休みに幹部会、放課後は会議で練習をみれず、居残り組を駅まで送って、校舎の戸締まりをしてちょっと一息。そろそろ映画館か寄席のいすにぐだっと座りたくなってきた。そうか、そこでは受け身でいられるからいいんだ。ありがたいぐらい充実した毎日だが、ちょっと力抜きたい気分もしてきた。とにかく明後日のバッハザールを全力で乗り切ろう。

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