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逃亡くそたわけ 絲山秋子

単行本で出たときに買ったのに読まずに放置していた本書だが、最近文庫本になっているのを本屋さんの店頭で発見した。別に慌てる理由もないのだが、何故か慌てて読むことにした。実に雰囲気のある小説だ。読後も何故かほのぼのした感じが心に残る小説だ。ほんの数時間なのに何故今まで読まなかったのか。緑と赤と白の背景に、銀色の文字と鉛筆で書かれたスケッチという表紙のセンスの良さと、帯の「新芥川賞作家」という大きな文字に惹かれて購入したのを覚えているが、その後どうして読まずに放置していたのかは良く判らない。単行本としては薄めなので、いつでも読めるという感じでなんとなく放置していたとしかいいようがない。さらにその間に、私は横浜と名古屋の2重生活となり、大半の未読の本は横浜に置いたままにして、名古屋で読む本は名古屋で調達することにしたのだが、数冊だけはすぐに読もうと思って名古屋に移動させた。その数冊の1冊が本書でもある。それでも読まなかった。何故なんだろう。
しかし本書を読んでみて、今になって読んだこと、今まで読まなかったことに、何か偶然とは言いがたいものを感じた。この本を読んで初めて知ったのだが、この本のストーリーには、私の仕事のテーマでもある「名古屋と東京」の関係が文学者の目で書かれている。本書の舞台は九州だが、主人公の1人が「なごやん」と呼ばれる「名古屋人」で、東京の大学を出た後、九州に移ってきたという設定になっている。九州弁と名古屋弁がちりばめられた本書は、九州と名古屋の人間にとっては、特殊な意味を持つ本である。東京から地方までの距離と、地方から東京までの(心理的な)距離の違いといった話がでてきて、思わず「そうそう」と思ってしまう、私が、思い当たる理由もないのに今の今までこの本を読まずに放置してきたのは、「名古屋のことが少し判ってきてから読むと良いよ」ということではなかったのか。気づかなかったが、そもそも題名の「くそたわけ」は名古屋弁ではないか。読む本の内容とタイミングはどうしようもない偶然に左右されるものだが、こうした偶然はたまらなくうれしい。
(「逃亡くそたわけ」絲山秋子、中央公論新社)
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