玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

脈々なり、閨閥の國 (前段)

2021-11-03 19:15:38 | 雑感

自民党の右傾派の方々がアベのように祖父が官僚や大臣として活躍していた戦前の軍部政治が「美しき国」であると明確に感じているとは思わないが、何を夢想しているのかさっぱりわからない。

憲政の常道とか言って、旧憲法下でも二大政党政治が始まったが、それが崩れていく契機となったのは、浜口雄幸と犬養毅の暗殺だった。

その後、軍人系の総理大臣が続いたが、2・26事件でそれも倒されて、軍政内閣を軍部から希望された。

元老の西園寺公望はそれでも現役軍人を選ばなかった。1936年から41年までの間に、近衛文麿は二回も総理に就いている。この頃、西園寺公と近衛が宮中勢力の中心なのだろうか。

振り返れば、1931・9・18の満州事変以降の十五年戦争期は政党政治は凋落し、宮中と軍部の対抗だったような気がしている。宮中は、軍部の絶対的な暴力性の前には臆病で狡いだけの貴族は全く立ち向かうことはできないが、統帥権を持つ天皇を手中にして抵抗していたと思う。

その真っ只中に、近衛公爵と木戸侯爵と原田男爵の三人がいた。みな学習院・京都大学の同窓であり、西園寺公望の傘下にあった。この四人と天皇が戦前のこの國の軍國化に抵抗していたのかもしれない。

原田熊雄は実は若返った西園寺公の役柄をこなしていた。あるいは、西園寺公の身体の一部に成っていた。

1940年11月11日、「紀元二千六百年奉祝会」が挙行された。11月24日、西園寺が他界して、自動的に原田熊雄も政界から消えた。それ以降、この國は第二次世界大戦に坂道を転がるように駆け急いで突入して行く。

(紙幅の為、次回へ)

レトロかな?―松山駅にて―


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