玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

残す年賀状

2019-01-12 10:19:04 | 日記

今年の年賀状は三枚来なかった。一枚は分からない。一枚は喪中だったようだ。もう一枚は本人の死去を妻が知らせてきた。このケース、初めてかもしれない。 

暗い気持になった。彼は、ある意味若い頃はライバルだった。彼の方が文章も、絵も上手かった。なんとなく、去年と一昨年の二年分の年賀状を処分したくなった。細かく千切ってごみ籠に捨てていると、どうしても切れないのがあった。 

私の友人には二人の写真家がいる。ひとりはプロ、もう一人はアマだ。他にも、どうも本人にとっての最後の年賀状らしきものもあった。残す年賀状もあっていいのかもしれない。

もどることもある。

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東京は化け物

2019-01-09 20:44:11 | 都市

初詣で例年の通り愛宕神社にいく。

  

その裏側では、東京はまだ発展していた。

 家に帰って、江戸古地図で見たら、昔は愛宕山周辺の寺院の跡かも。でも接道がない開発かな。

 

東京って、すごいなあ。ひょっとして、オリンピック景気か?

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或る官僚の葛藤

2019-01-06 20:49:13 | 近現代史

奥村勝蔵(19031975926)は、死の床につきながら、天皇の思召を聞かないと死ぬに死ねないと言ったそうである。これを、研究者の中では、4回「昭和天皇・マッカーサー会見」の遺漏事件の失態を指している、ということになっている。

奥村の心の葛藤を察して、入江相政侍従長は、昭和天皇に拝謁した。「奥村には全然罪はない。白洲〔次郎〕がすべて悪い…」と仰せられた、と『入江相政日記』(1975910付)にあった。

ここで、突然、白洲次郎が出て来たのである。外務官僚奥村勝蔵の胸には、実際にはどの失態に対して、どんな葛藤があったのか、なにがなんだか解からなくなってしまった。 

そもそも『寺崎日記』では、194749日付で「陛下は吉田白洲のラインに疑念を持たるゝなりと云う」と記されている。これは、第4回の「昭和天皇・マッカーサー会見」の開催日の194756日の前の日付である。 

どちらにせよ、随分と時間が経って、小出しに、しかも、前後の脈絡もなく、突然、気まぐれのように世の中に天皇のお言葉として、あくまでも断片として出てくる。 

なんか不思議で、且つ、或る意味でだらしのない圀家でもある。それは、意地悪く云えば、民主主義を一応標榜している圀であるためであろうか。 

でも、これじゃ国家のまともな「歴史」はつくれない。浅田次郎氏は「歴史と史実は違う。歴史とはその国の人々の共通の記憶、つまり起こった事実の捉え方です」と言う。 

全くつながらない、継ぎ接ぎだらけの断片のお言葉で史実や事実を追うことはできない。この圀にはまともな近現代史が無いのだ。いや、創らせようとしていない、というのが正しいかもしれない。

【参考・引用文献】豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫2008年/「寺崎英成御用掛日記」『昭和天皇独白録』文藝春秋1991年/浅田次郎『日本の「運命」について語ろう』幻冬舎2015

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今年は良い年になってほしい

2019-01-02 19:16:32 | 挨拶

今年は、あとからふりかえって、恐い年にならなければ良いのだが、・・・。

ともあれ、今年は天皇が代わる。カリスマ性のない天皇のときは、この国は自由でやさしい国になるだろう。大正デモクラシーの時のように。

平成天皇は、昭和天皇の時のように、大喪の礼をやらせたくなかったのだろう。そこにこそ、今上天皇の強い意思と国民への気遣いがあると思っている。

謹 賀 新 年

 

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